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戦機いづくにか  作者: たかのりつと
3/7

 その後、川中島では、両軍の小荷駄隊や物見を巡っての小競り合いが生じたほかは、上杉も武田も、それぞれの陣で沈黙を守った。

 謙信は、陣中に小さな堂を作らせ、崇拝する毘沙門天を祀っていたが、一日の大部分は、その堂に籠って読経していた。

 武田が茶臼山に布陣して四日目、鬼小島弥太郎は、謙信に呼ばれた。

「動きはどうだ」

「は。今のところ、目立った動きはありませぬ」

「そろそろ限界だろう。よく見ておけ」

 謙信はそう言って、立ち上がろうとした。弥太郎は、さすがに確認を求めた。

「殿。武田が、そろそろ動くということでありますか」

「分からぬか」

「は…拙者には、まるで…」

「よいか、茶臼山の武田勢には十分な兵糧がないはずだ。あれほどの大軍。甲斐からここまでの道のり。善光寺のすぐ後方に越後を控えている我らとは違うのだ」

 謙信は、言い終わらぬうちに出て行った。

 残された弥太郎は、謙信の言葉を反芻した。補給路の長い武田方が、戦線が膠着するのを嫌っているという見方は納得できた。だが、その時期さえも予言するのは難しいのではないか。謙信にはそこまで分かっているのだろうか。そしてその先に、何を見ているのか。

 その翌日、諸将が控えている陣小屋に、報告がもたらされた。

「武田勢が移動しています!」

「なに!」

 その報告を聞くなり、幾人かの将が、実際にみずからの眼で武田の動きを見ようと、飛び出して行った。

 宇佐美は残った。膠着状態を嫌っての移動に相違なかった。だとすれば、武田勢は海津城に入城するために移動しているのであろう。いよいよ本格的な持久戦である。目と鼻の先に陣を据えた両軍が睨み合う構図だ。この構図は、過去三度行われた川中島の会戦で、何度も繰り返された構図である。これまでは本格的な戦いに発展せずに終わってきたが、今度はそうもいくまい。

「武田勢、海津城に入城するもよう!」

 別の物見から報告があった。謙信の元にも、同じ報告がもたらされているはずだ。


 間もなく軍議が開かれた。今度の場合も、謙信がまず口を開いた。

「最初に動いた方が負けだ。皆の者、動くな」

 謙信は、これまでの軍議と全く同じ内容を発しただけだった。そして、何か質問はあれば言えと言わんばかりに、諸将を見まわした。

 諸将は沈黙していた。徹頭徹尾、謙信の方針は一貫している。長陣の場合、忍耐が必要なことも承知している。これまで、幾度も、そのような戦を経験してきた上杉軍である。しかし今回の場合、みずから退路を断つ妻女山に布陣している上杉軍の方が不利なのではないか。

 重臣の五十公野いじみの治長がその疑問を口にした。

「殿。我ら、ここ妻女山にて敵を待ち構える場合、山上に陣取る優位は疑いございませぬが、もし武田が動かぬ場合、我らは進退極まるのではないでしょうか」

「そうだ。だから動くなと言っている」

「とはいえ、武田が動かなければ我らは退くしかなくなります」

「先に退いた方が負けだ。これは我らと武田の我慢比べである」

 再び沈黙が場を覆った。両軍が相手の動きを待っている場合、最初に動く側には必ず綻びが生じる。そこを衝くことができるか、綻びを隠して動ききることができるかが、勝敗を決するのだ。しかし。

 拭いきれない不安があったが、凛として座す謙信を前に、それ以上の発言は出ず、軍議は解散となった。


 妻女山に布陣してからすでに十日以上を経過している。武田軍が海津城に入城して以来、謙信は、みずから高台に立って、海津城を眺め下ろすことが多くなった。八幡原はおろか、深志方面など全域に対して物見の数が増やされた。

 九月に入って、さらに五日が経過したが、両軍に動きはなかった。長陣による士気の低下が懸念されたが、行軍中に口を開いてはならないという軍法は帯陣中も例外ではなく、各武将は兵の掌握に腐心したし、越後の兵はそのような環境下でもよく耐えていた。

 その夜、弥太郎は謙信に呼ばれた。

「弥太郎。今夜の月は見事であると思わんか」

「は…。たしかに…」

 弥太郎は戸惑いながら、答えた。謙信は愛用の琵琶を抱え、手には盃を持っていた。謙信には芸術の才があるのか、琵琶の腕がたしかで、陣中にもこうして琵琶を持って来ている。先ほどから琵琶の音が聞こえていたので、兵たちも、月を見ながらその音色に耳を傾けていたのだ。しかし、月の話をするために呼ばれたとは思えない。弥太郎は次の言葉を待った。

「月夜は冷えるな」

「はい。ここのところ、朝方はだいぶ寒くなったように感じます」

 謙信の眼が光った。

「弥太郎」

「は…」

「それよ…。明日、土地の者から、この辺りの天の動きを聞いてまいれ」

「は!」

 弥太郎は下がった。謙信はすでに弥太郎のことなど忘れたように、また琵琶を奏で出していた。


 翌夕、その日に得た情報を報告するため、弥太郎は謙信の元へ参じた。陣小屋には、謙信の姿はなかった。

「殿はいずこにおられる」

 弥太郎は、そこにいた謙信の小姓に聞いた。この小姓は、たしか直江景綱の子で、兼続という名だったかと思った。

「はい。先刻から、毘沙門堂に籠っておられます」

「なに…。どのくらい籠っておられる」

「はあ…もう、一刻ほどかと…」

「そうか」

 弥太郎は毘沙門堂に行き、そこに控えた。すでに数名の者が、そこに控えている。

 この仮設の毘沙門堂での勤行は、すでに謙信の日課となっているが、信仰心の厚い謙信は、一度参籠すると、何時間も読経していることがある。その間、よほどのことでない限り、謙信の勤行を妨げてはならないとされている。

 半刻ほど待ったが、依然として、堂の中からは、鬼気迫るような謙信の読経の声が聞こえている。今日はよほど根を詰めているようだ。

 それからなお半刻ほどして、ようやく読経が止んだ。しかし謙信はすぐには出てこない。

 なお待って、堂の扉が開いた。謙信の顔は紅潮し、全身から湯気が立っている。その眼は爛々と輝いていた。

「…物見の衆か。申せ」

 謙信は直立したまま目を閉じ、物見の報告に耳を向けている。控えていた者たちが、次々と報告を済ませ、また足早に出て行った。

 あとに、弥太郎が残った。

「殿。弥太郎にございます」

 謙信の目が開くのを見て、弥太郎が続ける。

「土地の者によりますれば、毎年この時期は朝と昼の寒暖差が大きくなり、昼暖かく、よく晴れた日の翌朝方には、濃い霧が生じる日があるとのことです」

「…」

 謙信の反応がないのを訝しんで、弥太郎は顔を上げた。謙信は目を見開き、山の端に落ち入ろうとする夕陽を見つめている。

 きっと、何かを見ているのだ。

 弥太郎は跪いたまま、深く一礼をして、謙信の元から下がった。

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