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妻女山に帯陣した後も、宇佐美は考えた。
上杉方が八幡原に布陣した場合、やって来た武田本隊は、その前を素通りすることはできなくなる。もし海津城に向かおうものなら、千曲川の渡河に際して側面を衝かれることは必至だ。したがって上杉の正面に布陣せざるを得ない。そして八幡原で対峙すれば、まず間違いなく両軍の正面衝突になるだろう。
北信濃の一部を残して甲・信のほぼ全域を手中にした武田の動員能力は、越後のそれを上回っているはずだ。数で劣っていようとも、越後の兵は強く、決して負けることはない。とはいえ相当の被害は覚悟しなければならない。この戦で背後を固めたのち、本格的に関東経営に力を入れていこうとする謙信にとって、兵の損害を最小限に抑えてこの戦いを終えたいに違いないのだ。
だからといって、なぜ妻女山なのか。みずから退路を断つような位置に布陣することで、背水の陣を取ろうというのか。そのような、一種の賭けのような作戦は、謙信らしからぬことであった。いつも、謙信の思惑通りに敵味方が動くような戦い方で勝利を収めてきたが、この妻女山にどのような意味があるのか。
そこで再考させられたのが、武田の拠点である海津城とは目と鼻の先にある、この妻女山の戦略的位置であった。たしかに海津城によって退路を喉首で抑えられているものの、裏返してみれば、この妻女山からは、眼下の海津城の動きがまる見えであった。そしてまた、同時に八幡原を見下ろすことができる。やがてやって来る武田の本隊も含め、敵の動きを把握することができ、かつ、この戦いに際して出現した武田の新しい戦略拠点の意義を大きく損なわせるのが、この妻女山なのであった。つまり、謙信は、武田の動きをよく見定め、機会を捉えて雌雄を決しようとしているに違いない。
布陣してみればそう気づくものの、危険性をはらむこの妻女山の戦略性に着目するのは、達観と言わざるを得なかった。宇佐美はそう思い至って、あらためて謙信の戦略眼を思い知った。
数日後、信州方面へ放っていた隠密によって、武田勢が深志に集結しているという報告がもたらされた。しかしその後、武田勢はなかなか深志から動かなかった。
帯陣四日目に軍議が開かれた。
「最初に動いた方が負けだ。皆の者、動くなよ」
開口一番、謙信が言った。軍議といっても、おおかたは、天才的な作戦能力を持つ謙信からの下知である。
「このまま武田は甲斐に引き返すのではないでしょうか」
「必ず来る。万一引き返すならば、海津城をいただくまでだ」
「武田が動かないのには、何か企みがあるのでは」
「ふん。なんの企みがあろうか。我らが妻女山に布陣したことは、信玄にとっても驚きだったに違いない。おそらく作戦を立て直しているのであろう。やつらも考えているのだ」
「武田はいつ来ましょうか」
「知らぬ。だが、来る。我らが動くのを待っているのだ。それこそやつらの思うつぼである。皆の者、決して動くなよ」
軍議はそれで終わった。
上杉軍が妻女山に布陣した八日後の八月二十四日だった。
「武田勢の姿が見えます!」
謙信の元へ、物見が走り込んできた。
「やっと来たか」
謙信が、言うなり、持っていた盃を放り出して、立ち上がった。本陣に詰めていた諸将も、一斉に立ち上がる。
謙信は、西の街道を見通せる場所に立った。街道の左手、深志方面から、武田勢がやって来るのが見える。
「海津城に向かうようですな」
「いや、そう見せかけて、八幡原に布陣するでしょう」
柿崎景家の言葉に対して、色部勝長が別の見方を口にした。諸将は口々に意見を述べたが、大方、色部に賛同だった。謙信は無言のまま、じっと眼下を見つめている。
妻女山の右下方には海津城がある。この妻女山から越後に退く場合、川と山に挟まれた狭い平地を進んで海津城を抜く以外には、正面の千曲川を渡るほか道はない。つまり武田勢は、上杉の退路を断つ形で八幡原に布陣するだろうというのだ。それは、当初上杉軍にとって常道と思われた布陣を、逆に武田が取るという見方だった。
武田軍の長い群列が、尽きることなく進んでくる。
「武田軍の軍勢、総勢二万と思われます!」
別の物見が駆け込んできてそう告げた。海津城にもいくらかの兵がいるであろうから、上杉軍一万三千のおよそ倍である。諸将は、その群列の向かう先を見つめている。
だが武田勢は、八幡原へ通じる北東方向の街道を途中から逸れて、そのまま真北に向かい始めた。
「…どこへ向かうつもりだ」
本庄繁長が、小さく呟く。諸将も同じ思いだったに違いない。誰も口を開くものはいなかった。ただひとり謙信だけが、にやりと笑って小さく言った。
「そうきたか」
そして謙信は、武田勢の行先を見届けもせず、くるりと陣小屋の方へ戻っていった。馬廻衆の鬼小島弥太郎が慌てて後を追う。
「弥太郎。酒だ」
「は」
弥太郎が酒を下げて謙信のもとへ行くと、謙信は絵図をじっと見つめていた。弥太郎から受け取った盃を無言で飲み干すと、そのまま盃が差し出される。弥太郎はそこにまた酒を注いだ。三度それが繰り返されてから、謙信が言った。
「弥太郎、分かるか」
「いえ、それがしには、さっぱり」
謙信はそれに答えず、じっと絵図を見つめたまま、盃を傾けている。謙信の眼は生き生きと輝き、自分が声をかけた弥太郎の姿すら目に入っていないようだ。こうしている時の謙信の脳裏には、常人ではおよそ考えもつかないような光景が描き出されているのだ。
弥太郎には、こんな時の謙信がひどく尊い存在に思えた。弥太郎へ投げられた、質問にすらなっていないような言葉も、頭の回転が早すぎるからに他ならない。きっと謙信は、武田がなぜそのような動きを取ったのか分かるか、と問うたのだろう。武田軍の行先を見届けなかった弥太郎には、答えようのない質問だ。だが謙信には、見ずとも武田の動きが読めていて、しかも弥太郎に質問をした瞬間には、また別のことを考えているはずだ。そんな謙信の思考を妨げてはならない。弥太郎はそう思った。
やがて謙信がおもむろに口を開いた。
「弥太郎よ…。戦には、時が肝要だ。時を制する者が勝つ。覚えておけ」
「は…」
弥太郎の返事を待たず、そこへ盃が差し出される。きっと謙信は、ひとつの方針に達したのであろう。しかし弥太郎は反問することなく、酒を注ぎながら、謙信の言葉の意味を考えていた。
その頃、取り残された重臣たちは、あっけに取られて謙信の後ろ姿を見送ったが、すぐに我に返り、武田勢の動きを見守っていた。やがて武田の旗指物が、とある山の山中に見え隠れしたかと思うと、みるみるうちにその山に充満していった。
「茶臼山…」
武田勢は、川中島の西方にある茶臼山に布陣したのだ。
「八幡原ではなく、茶臼山とは。いかなるわけであろうか」
「臆したのであろう。武田は、我らと戦う気がないのではないか」
「しかしあのような場所に陣取られていては、我らも動けぬ」
「…宇佐美殿。いかに見られる」
「…」
宇佐美は考えた。茶臼山は、千曲川を挟んで妻女山と対峙する位置にあり、しかも善光寺方面へ通じる街道を眼下に抑える位置にある。上杉軍は、完全に退路を断たれたのだ。それだけでなく、茶臼山に攻めかかろうとすれば海津城が、そして逆に海津城に攻めかかろうとすれば茶臼山が、それぞれ攻め手の背後を衝くような位置関係にあり、言い方を変えると、茶臼山は海津城とともに、妻女山を包囲する布陣であった。つまり上杉軍は、完全に進退が極まったことになる。
宇佐美がみずからの考えを話すと、諸将が色をなした。
すぐさま、陣屋の謙信のもとに、諸将が集まった。
「殿!」
柿崎が声を上げようとしたが、謙信が手を上げて、それを制した。
「柿崎。善光寺の景綱に、荷駄の警戒を怠らぬよう、伝令を出せ。皆の者、よいか、決して動くな。」
「は…。直江殿に、でありますか」
機先を制せられた柿崎は、狐につままれたような顔をしている。直江景綱は、善光寺に残してきた部隊を預かっている。そして善光寺から、ここ妻女山への補給を担う小荷駄隊は、直江の指揮下に入っている。
「殿。武田勢は茶臼山に布陣しましたぞ」
「ふん。分かっている」
「あのような場所に陣取られては、我らは袋の鼠。急ぎ、この…」
「ま、待たれよ。本庄殿」
宇佐美が、柿崎に代わって発言し出した本庄を制した。
「殿は、小荷駄隊を囮にして、出てきた武田勢を衝くお考えであろう」
「…。なるほど」
「待て、宇佐美よ。あのような布陣を考える信玄だ。みすみす囮にかかるような馬鹿ではあるまい。念には念を入れよということだ。武田はあの大軍だ。やつらもそう長陣はできまい。これは先に動いた方が負けだ。時を待つのだ」
諸将の中にはまだ複雑な表情をした者がいたが、これで解散となった。




