底で眠る
十歳上の従兄が死んだ。二十歳の息子を乗せて車で買い物に行く途中に交通事故で亡くなった。二人の葬儀に出席するため、私は父の運転で母と三人で東京を出発した。
従兄の家は茨城県の北部の福島に近い奥久慈にある。母の育った土地。母方の祖父母と母の兄にあたる叔父の家があり、少し離れた親戚も近くに住んでいる。亡くなった従兄はその叔父の息子だ。叔父はすでになく、その妻である従兄の母親は足が悪く電動カートにつかまらなければ歩けなくなっていた。最後に会ったのは叔父が亡くなった十年ほど前だが、その頃から比べたら別人のように老け込んでしまった。私が誰かをわかっているのかどうか、あやしいものだ。
従兄は役場勤めで、スーパーでパートをしている妻と、私の甥にあたる息子と四人で暮らしていた。甥が高校卒業後浪人していたことは知っていたが、予備校にもいかず部屋に引き籠ってネトゲばかりしていたことを今回初めて知った。浪人とはいいながら大学受験をする意思があったのかもわからない。母から聞いた話では、事故が起こる直前、従兄と甥は言い合いとなり、激高した従兄が自分の息子に手をあげる代わりに、Wi-Fiのルーターを破壊した。息子は泣きわめき、どう収めたのか、最終的には従兄が息子を車に乗せて新しいWi-Fiのルーターを買うために家を出た。事故はその途中で起きた。「心中じゃないの?」と尋ねたら、「そうでしょうね」と母は答えた。
小さい頃は、毎年夏休みとなれば母の田舎で数日を過ごした。親の実家のことを田舎と呼ぶが、奥久慈はまさに田舎だ。「ここの山の景色は本当に美しい、日本中探したってこんなに美しい土地はそうはない」父はいつも母の育った土地を褒めた。ここに来ることを母よりも父の方が楽しみにしている感じさえした。子どもの頃はよくわからないかった自然の美しさが、三十歳にもなるとよくわかる。まだ梅雨の気配は遠く、気温が上がっても湿度を感じない。人が死んだことなどまったく意に介さないかのように雲一つなく晴れ渡った青い空と緑の稜線。私は、ふう、と深呼吸をした。でも、美しい景色を見れば何もかも忘れられる、と思うのは普段自然に接していない人間の幻想で、絶景でさえも毎日繰り返されれば退屈に変わってしまうことを教えてくれたのもこの場所だ。私は生まれて初めて暴走族というものを見て、ああ、この景色だけでは彼らの心は満たされないのだ、とささやかながら感じだ。
十歳上の従兄弟の記憶はあまりない。高校生や大学生の男子にとって、年に一度か二度に遊びに来る小学生の従妹なんて、どう接してよいのかわからない存在だったか。存在自体がどうでもよかったのか、どちらかだったのだろう。従兄は二十歳という若さで五歳年上の女性と結婚し父親になった。従兄妹どうしでありながら、私と彼の生き方には接点などどこにもなかった。
従兄の妻は憔悴を隠すことさえしなかったが、隣にいる彼女の義母は何もわかっていないかのように笑顔を浮かべていた。従兄の妻は、この家で義母と暮らし続けるのだろうか? 悲劇に見舞われたこの家から彼女が出て行ってしまったら、誰がこの老人の面倒を見るのだろうか? 答えを知りたい気持ちなどさらさらない疑問を、私は頭の中にぼんやりと浮かべ、そこで思考停止をした。悲しさとか虚しさとか怒りとか同情とか、そういうのは要らない。
仕事の人間関係で眠れない日々が続いた私は、一年ほど前から睡眠薬の服用を常用するようになった。ストレスに苦しめられる毎日は月日の経過とともに和らいだが、完全に解消されて、元の何もなかった状態に戻ることはない。いつも波があって時々激しくなる。それだけじゃない、ストレスは形を変える。寝られなかったらどうしよう? そう考えることは恐怖だ。就寝時間が近づくにつれて私はそのことばかりを考えて不安になり、眼が冴えてし一層眠れなくなる。睡眠薬を一錠多く飲めば寝つきが良くなることはわかっているが、翌日が辛い。平日は毎日往復の電車で爆睡し、土曜日はたいてい昼まで起きられない。横になったらすぐに眠れるとか、朝起きたらすぐに活動できるとか、一日でもいいからそんな体になってみたいと思う。
ここに来ることが決まった時から、ずっと不安だった。
母はもともと泊まるつもりで、父もそれをわかっている。私は「仕事があるから帰る」と言うのが失礼な気がして、気持ちもないのに両親に付き合うつもりでいる。本当は泊まらずに帰りたい。祖父母の家の布団で眠れるのだろうか? そのことばかりを考えていた。父の運転する車の後部座席で、私はほぼずっと死んだように寝ていた。今夜一睡もできないことに備えるかのように。
「香澄さんが、純也に甘すぎたのよ」たまたま二人きりになった時に叔母の一人が私に言った。香澄さんというのは、すっかり年老いてしまった従兄の母親、純也と言うのは今回亡くなった私の甥だ。
「そうなんですか?」私はなぜか少し意外な気がした。
「純也は中学の頃から学校から帰ってくるとずっと部屋でゲームしてたのよ、欲しいって言えば香澄さんが何でも買ってあげてたから」
香澄さんの夫、つまり私の母の兄であり亡くなった従兄の父親である私の叔父は、きっと私を実の娘のように思ってくれていたのだろう。私が家に行くと満面の笑顔で出迎えてくれた。私は優しい叔父のことが好きだったが、香澄さんには歓迎されている感じをまったく受けなかった。笑っている顔を見た記憶がないし、子供心にも、この人は何が楽しくて生きていたのだろう? と感じたことを覚えている。別人のように老け込んだとは言え、その部分だけは昔とつながっている。だから、何が楽しくて生きているのかわからないと私に感じさせた昔と今という二つの時間の間に、孫を甘やかせていた時間があったことを、私は意外だと感じていたのだ。いま納得がいった。一か所繋がれば、線は次々と繋がる。息子と孫を一度に失い、自分の体も不自由なこの老人に対して、同情や憐みのような気持ちがまったくわかなかった理由も。私はこの人こそが諸悪の根源ではないかと直感していたのだろう。ただ、それが怒りに変わるほどは、従兄や甥に対して感情を持っていなかった。従兄には自分の人生を終わらせるという選択肢があったが、その母親にはその選択しさえもない。
生きているというより、海の底で眠っているように見える
香澄さん、いつからあんな体なんですか?…、私はその質問を口に出す前にひっこめた。この叔母だってここに住んでいるわけではないのだ。知っているとは思えないし、そう思ったら、それを訊いて私はどうしようと思っていたのだろう? と考えてしまった。
少子高齢化のおかげで、このような機会とは言え親戚が集まると、私は三十歳になっても子ども扱いされる。
「疲れてるでしょう、ちょっと寝てくれば」祖父母の家に戻ると、みんなが口をそろえて私に向かって言う。
「大丈夫です」と私はとりあえず遠慮の言葉を口にしたが、もう一押ししてもらえるのを期待した。親戚はありがたいものだ。こういう面倒くさい私の期待にちゃんと応えてくれる。
私は喪服を脱いで下着姿になって田舎の家の匂いのする布団の中に潜り込んだ。夜は眠れず、車の中で爆睡したというのに、夕方のまだ明るいうちだとお酒も睡眠薬もないまますうと眠りに落ちた。
私は車のシートに座っていた。でも、今度は後部座席ではなく助手席、それも右側。車は左ハンドルのオープンカー、車体の色は鮮やかなオレンジ、一目でエルメスとわかるスカーフを頭に巻いた女性がハンドルを握っている。
この顔は…若い頃の香澄さんだ。
両側に整然と建物の並ぶ、まっすぐで賑やかで広い通りをオレンジの車は進む。前には門のようなものが見える。あれは凱旋門…? その瞬間、目の前の景色がガクッとしたに下がり、すぐに元に戻った。古い遊園地で周囲に景色が映し出されるアトラクションに乗っているように。
「ここはどこ?」私は口にした。
「ここ? …私の夢の中よ」若い頃の香澄さんは、ハンドルを握ったまま私の顔を見てニコッと笑った。
「え?」
「私は自由自在に夢を見れるの、どこでも眠れるし眠ればすぐに夢が見れる、前に見た夢の続きを見ることもできるし、この夢が嫌だと思ったら一度目覚めて別の夢に帰ることもできるわ」
「そんなことできるんですか?」
「いくらでも、…私はこれが特殊能力だなんて知らなかったわ、誰にでも普通にできることだと思っていた」
「聞いたことありません、そんなことできる人」
「そうみたいね、だから…、私は起きてる時間なんてどうでもいいのよ、何一つ楽しいことなんて起こらなくてお全然かまわない、寝てる時間が最高に楽しい…、でもね、残念ながら起きて活動しないと体が疲れなくて眠れないの、だから私にとって起きてるっていうのは生命維持のために必要な行為、それだけのことよ、お上品とは言えない例えだけど排泄みたいなものかしらね、排泄って楽しい? 楽しいわけないわよね、排泄を楽しもうなんて人はいないでしょうね、その時間は何事もなく過ぎてくれればいい、楽しいことは全部夢の中、…このまま地中海までずっとドライブよ、何日かかるかしら?」
「何日?」
「この夢、一晩で終わらせたらもったいないじゃないでしょう?」
「楽しそうですね」
「当り前じゃない、楽しいわよ、私はあなたがとてもかわいそうだと思うわ」
「そうしてですか?」
「だって、睡眠薬のまないと眠れないとか、ベッドに入るのが怖いとか…、人生にそれほどの不幸はないと思うわ、だからこうしてドライブにお誘いしたのよ、あなたはかわいそう、世界一かわいそうな人だわ」
「そんな…」
「リアルである必要なんてないわ、バーチャルが楽しければいいのよ、というよりもバーチャルの方が楽しいのよ、絶対に、…私は私の眠りを妨げようとする人は許さないわ、だから、ゲームをする時間を邪魔する人間は絶対に許さないって気持ち、すごくよくわかるわ」
「そろそろ起きたら」母の声が聞こえる。私は目を覚ました。
「ああ…、お母さん?」
「どうしたの? 寝ぼけてるの?」
「香澄さんは?」
「え、いないわよ」
「私、いま夢見てる?」
「いまは見てないでしょう、疲れてるならもう少し寝ていいわよ、夢の続きでも見てれば?」
「お母さん、夢の続きってどうやって見るの?」
「知らないわよ、そんなこと、見たことないわ、夢の続きなんて」
「お母さんってかわいそうな人かも…」
「かわいそうなのは家族を亡くした香澄さんでしょう? お葬式に来て何を言ってるのよ?」
そうか、私は夢の途中で起こされて半分ねぼけている。夢でみたことなんてその時は鮮明に覚えていても、すぐに忘れる。忘れたら最後、もう二度と思い出すことはない。