4-02 黒山羊の使い
……ラム。ユラム。
『ユラム、起きて』
「ちょっとお客さん、大丈夫? あんたの待ち人が来たわよ」
二種類の女の声に揺り起こされて、ユラムははっとして顔を上げた。
眠っていたわけではない。けれど目の前には誰も座ってなどいないし、もちろんユラムの隣には宙に浮かぶ白無垢の悪魔しかいない。
つまり今ユラムが見聞きしていたのは、誰かの、あるいはこの場所の過去の光景だろう。
手にしていたままのジョッキの中で、蜜色の液体がたぷんと揺れる。
そうだった。七年前の村祭りのときも、酒を呑まされた途端に過去視を連発して、村人たちの知りたくもない秘密やら内情を山ほど視る羽目になったのだった。
「どうもおれは酒に弱いらしい……。これは下げてくれ、代わりに水をもらえるか」
「はーい」
「――“白山羊”がこんな若いのを寄越してきたのは初めてだ」
女給が離れるのとは逆に、幻覚の男が座っていたのと同じ場所に滑り込んできた影がある。どこにでもいそうな凡庸な顔立ちの、四十前後の男だった。
過去視で見たのはもっと若くて、どことなく異国風の容貌をしていた気がする。
「あんたが黒山羊か?」
「いや、俺はその使いだ。黒山羊本人が顔を出すことは滅多にねえよ。そっちも白山羊じじいの使いっ走りだろ、同じことさ」
「……なるほど」
たしかに目の前の男はひげを生やしてはいない。山羊を名乗るならせめて長いあごひげが必要だろう、ネルスールのような。
ともかく予定通り落ち合うことができて、ユラムはほっと息を吐いた。
「それで、おれはあんたから何を受け取ればいい」
「急かすなよ。俺はまだ一杯も呑んでねえんだ、ちょいと待ってくれや。それに中身が何かは俺も知らねえし、絶対開けるなって黒山羊のお達しもある」
「……なんていうか、きな臭いな」
「そりゃおまえ、……そっか、黒山羊を知らねえんだな。そのほうがいいよ」
妙にひっかかる言いかたをする。しかし、見知らぬ相手と待ち合わせるのに目印も持たせられなかったくらいだから、この取引があまり表だってはいけないものらしいことはユラムも察してはいた。
そもそも依頼主はスラム近くに住む情報屋なのだから、どんな手合いと繋がりがあってもおかしくはないだろう。
あの老人は人の秘密を売り買いするのが商売なのだ。それにハーニャも言っていたではないか、客はユラムのような訳ありの犯罪者が多いとか。
やがて女給が目の前に新しいジョッキを置いていくと、黒山羊の使いは躊躇いなくそれをぐいとあおった。呑み慣れた男の所作だった。
ユラムはそれを横目に、まだわずかに残った酔いを醒まそうと自分に出された水を飲む。
「……ファタゴナっていやぁ、あのデカい教会、入ったことあるか?」
ふいに男がそう言うのでユラムはぎょっとした。もしかしてこちらが何者なのか知っているのかと思ってしまったのだ。
一度だけだ、と動揺が悟られないように努めて冷静に答えたところ、男はふーんと興味なさげに黒麦パンを摘まむ。
「なんで、そんなことを訊くんだ?」
「何って雑談だろ。いくら酒場ったって男ふたりでむっつり見つめ合ってちゃ怪しまれる。……おまえ、この仕事がどういうもんかよくわかってねえんだな?」
「……そもそもほとんどろくな説明がなかった」
「はっは、さすが白山羊じじい。まーそりゃどうでもいいんだがよ、その歳でこっちの世界に足突っ込んでんだ、おまえさんも何かやらかしたクチだろ。せいぜい『ファタゴナの女』には気をつけるこったな」
「なんだそれ?」
首をかしげるユラムに、男はにやりと笑って言う。
「そういう噂があるんだよ。ファタゴナから来たっつう美女が、傭兵くずれやら罪人なんかのクズ野郎を殺しに来るんだとさ。
まあ金髪だの黒髪だの乳がデカいだのつるっぺただの、話がバラバラで信憑性もへったくれもねえけどな。内輪揉めで殺っちまったのを誤魔化す嘘か、イカれた奴の妄想かもしれん。
だがもしそんな女が実在するんなら、俺ならケツのデカい美人がいいね」
「それがなんでファタゴナから来るんだろう?」
「知るかよ。まああれだろ、なんせ教会が有名だからな。クズどもはいっぺん懺悔しに行けってことかもな」
酒が入っているからか、男は饒舌だった。
内容はくだらない部分が多いが、ユラムはほとんど聞き役に徹していればいいだけなので楽ではある。それにファタゴナについての話なら興味はある。
もっともその妙な噂が仮に事実だったとして、教会絡みのことでなければユラムには関係のないことだが。
ただ、ユラムは思った。
すべてが終わったら――シテニアを救うことができたのなら。ファタゴナでなくてもいいから、自分もどこかの教会で懺悔をするべきだろう。
「俺もそのうち行こうかね。なんでも今はまた聖女さまってのがいて、それがえらく若くてかわいいって話だしな」
「……何だって?」
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