2-16 狂宴の血溜まり
茨と花とが、見る間にぐしゃぐしゃと枯れて縮んでいく。人に寄生することで増大していた力はもう顕現することができなくなって、操られていた所士たちもその場に放り出された。
ティオルベヒムは小さく顔を歪めはしたが、しかし肩を竦めただけで、意外にも何か喚いたりはしなかった。
むしろ哀れましい声を上げたのはウルヴォアのほうだ。彼は悲鳴じみたものを喉から零して、慄くように一歩下がった。
「あ……あ……死、死にたくない……私はまだ……やらねばならないことが……」
『一応訂正しとこっか? 契約が切れた段階ではまだ死なないよ。ボクがあんたの魂をもらう権利をなくしたってだけだから。
でもま、こいつらはそれで納得しないだろーけどね……』
血の海から、それは立ち上がる。
ずたずたに裂かれた衣類のすべてを深紅に染めて、もはや亡霊と呼んだほうが似つかわしい姿になった青年は、妹と同じ煉瓦色の髪からも赤いものを滴らせた。それが一滴二滴落ちたところで、もう足許の色は変わらない。
本来なら死んでいるほどの重傷ながら、その身体はまだ動く。それどころか常人をはるかに超える速度ですでに肉体の修復が始まっている。
乱れた前髪の間から、黄金に濁った瞳が覗く。
そこに昏い灯火が躍っているのをウルヴォアは見とめ、止せばいいのに心の中で、それに名前を付けてしまった。
復讐。
無実の罪で彼を投獄し、妹と、六年間の太陽を奪ったことへの、憤怒の炎。
「ゆ……許してくれ、どうしようもなかったんだ……私だって望んで悪魔と結んだわけじゃない、そうしなければ故郷を救えなかった! ひどい凶作だったんだ……!」
「……」
「それに私は、おまえが思うほど落ちぶれちゃいない……悪魔に頭を垂れはしたが、私の神は第一の御柱だ。その神のために尽くしてきた。
シテニアのことにしたって、あれは大聖座の指示であって……、それに彼女が教団に来てから、どれほどの人が救われたか」
ゆらり、陽炎のように不安定な動きでユラムがにじり寄る。
もうウルヴォアを守る者はいない。魂との繋がりを絶たれた悪魔は、まだ立ち去ってはおらず、どこか寂しげな表情で古い下僕を見下ろしていた。
「まだ死ぬわけにはいかないんだ……世界には救いを得られぬ人が大勢いる。私にはやらなければならないことが山ほどある……。
だからといって、ティティの口車に乗っておまえを投獄してしまったのは、たしかに過ちだった。そのことは謝ろう。それに、おまえが悪魔と通じたことも誰にも言わない。だからその剣を納めてくれ、頼むユラ――」
言葉は最後まで発されることはなかった。その先は、闇よりなお暗い刃によって吸い込まれた。
黒々とした刃はまっすぐに男の胸から背中までを貫いて、その光景はまるで、かつてユラムの父が迎えた最期を再演しているようだった。
「おれの」
ぐぶ、とウルヴォアの口から黒濁した血が溢れ出て、彼の纏っていた聖なる衣をおぞましい色に染めていく。
「知ったことじゃあない」
ユラムの口端に酷薄な笑みが浮かぶ。瞳は濁りきって、そこにかつての優しいくちなし色はない。
剣を刺したまま、その手の中で形を変える。刃はウルヴォアの体内でその先端を五叉に割き、その一本一本で男の血肉を抉って、突き抜けた先の背中からそれらを吐いた。
もうウルヴォアは断末魔を上げない。幸か不幸か、苦痛を味わう暇もないまま、すでに絶命したあとだった。
だがユラムは構わず聖人の遺体を蹂躙した。つい先ほど彼自身が悪魔の操り人形に受けたのとほとんど同じ仕打ちを、物言わぬ亡骸に行った。
口は堅く結ばれて言葉もないままに淡々と、まるでそうするよう何かに定められたように、――それこそ誰かに操られているように、一心不乱に迷いなく。
『……そのくらいになさい』
途中でズィーが軽く窘めたが、それすら耳に届かないようだった。本の悪魔は小さく溜息を吐いて肩を竦める。
それからしばらくして、急にユラムの手が止まった。
青年は呆然として足許を見下ろした。そこにはもう血を吸いすぎて一片たりとも白いところの残らぬ聖衣の残骸と、それに包まれるようにして、わずかに人の形を留めた肉塊が転がるばかりだった。
黒色の剣がお役御免とばかりに吸い込まれた、自分自身の血まみれの手のひらを見つめて、ユラムはようやく口を開く。
「おれ、……何を、やってた……?」
記憶がなかった。いや、ぼんやりと憶えてはいる――それ自体がすでに異常なことだった。
未だかつて、ユラムにとって記憶というものに曖昧さは存在しなかった。
一度見たものは絶対に忘れず、そしてその色形が時とともに薄れたり歪むこともなく、眼にした瞬間と変わらぬ鮮明さで脳裏に残り続けるのだから。
だが、目の前のこれを自分の所業だとはどうしても思えない。
たしかに手に感触はある。その光景を見てもいる。
だがまるで、凶行に走る誰かの内から夢うつつにそれを眺めていたようだった。意識と自覚との間に越えがたい乖離があったのだ。
もう瞳から濁りは消えていた。
むしろそこから、透明な光がはらはらと流れ落ちた。もう自分でどういう感情なのかもわからないまま、ユラムは自らの涙が掌の上の紅に落ちるのを眺めているしかできなかった。
いくらそれが滴っても、血の色は少しも薄まらない。それだけがその眼に映る確かな事実。
『あー……なんか察したわ、そういう感じなんだ。ふーん』
場にそぐわないほど軽薄な声でそう呟いたティティが、ふいにユラムの眼前に躍り出る。
その頬に浮かんだ涙を細い茨で掬って、獣はにたりと笑う。嘲笑うというよりは、何か憐れむような気配をくちびるに載せて。
『この借りはいつか返しにくるよ。それまでせいぜい苦しんで、なんとか正気を保ってられるといーねぇ。……ひゃはははははッ』
ユラムの頭上に色鮮やかな花びらを、まるで祝福のように撒き散らして、悪魔の姿は闇の中に溶けていった。
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