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斯くて雌羊は血に餓えぬ  作者: 空烏 有架(カラクロ/アリカ)
第一章 脱獄囚と悪魔と聖女
20/312

1-12 神の家へ

 短いながら、楽ではない道のりだった。


 まず何より足がまともに動かない。長い牢獄暮らしですっかり弱った身体は、少し歩けば息が上がり、無理に動かせば手足が痺れ、思うように進むことができない。

 何度も倒れそうになるユラムを、そのたびにズィーが温かく励ました。


『少し休んで、それからまた頑張りましょう。諦めないで。

 今のあなたは常人の数十倍の速さで回復するし、そのたび体力も増えていくの。だから根気よく続けるのよ。そうすれば時間が解決するわ』

「また何かおれの身体に(まじな)いをかけたのか? いつの間に……」

『違うわよ。ほら、魔剣を身体に入れたでしょう。あれにそういう効果があるのよ』


 そんなやりとりをしながら、なめくじかミミズが這うような速さで移動を続けた。


 初めは草原や森といった地形だったので、剣の練習をしろとズィーが言って、半ば無理やりに獣を狩らされた。

 ただでさえ衰えた腕で、人間より機敏な獣の相手など不可能に近い。もちろん悪魔の手助けを受けながら、さすがに最初はひどいものだったが、回数を重ねるにつれて次第に動きがよくなっていくのが自分でもわかった。

 やはり身体の感覚を思い出すには実際にやるのが手っ取り早いし、ついでに腹も満たせると思えば悪くはない。


 どうにかこうにか人里に辿り着いた。そこからいくつかの村を渡り歩き、ようやく目指すファタゴナの街に着いたのが、脱獄してからもう七日も経ってからだった。

 ズィーの言葉に嘘はなかったようで、そのころすでにユラムはほとんど疲れを感じなくなっていた。


 街の中心部に、聞かなくてもそれとわかる巨大な建物がある。

 大きな堂と、それを囲むように立つ幾つかの建物、そしてぐるりと周囲に張り巡らされた高い塀。

 堂の正面や門の上部、そのほか至るところに同じ紋様が刻まれている。


 一本の太い縦軸に、薄い横軸が左右で段違いに差し込まれた意匠。

 大陸を統べる最大宗教、ガレアン教の()()()の証――『祭壇十字』である。


 そしてここが聖地ファタゴナである以上、その名は誰に問わずともわかる。


 ガレアン教の宗派のひとつでありながら、この世界で唯一、天から神の御使いを招くことに成功した教会。

 聖天守護教団、その総本山である。


「ここにシテニアがいるんだな」

『そうね。……ところで言わなくてもわかるでしょうけど、私、あなた以外には見えないから。人のいるところではできるだけ話しかけないで』

「わかってる」


 迷わず正面から入る。

 神の家の門は万民に開かれているのだ。祈り懺悔するために訪れる他の民衆に混ざればいい。


 広々とした聖堂の中をゆっくり進んでいく。

 金箔貼りの大きな祭壇十字。その前で何ごとかを真剣に祈っている人々。

 信者に何か語りかけている聖職者――特徴的な帽子を被っているから、それなりの地位にある人物だとわかる。


 彼らを横目に通りすぎ、その奥へ。


 初めてきた場所で間取りなどわからないが、恐らく関係者用の通用口と思われる扉に手をかける。

 ドアノブが問題なく回ることと、誰かが見ていないことを確かめ、ユラムは素早くその内側に入った。


 廊下は薄暗く、そして思っていたよりは広い。

 漆喰の白い壁をろうそくの明かりがちらちらと照らしている中、ユラムはほとんど勘と、そして己の内にある感覚だけで進んだ。


 漠然とした表現が許されるのなら、それは妹との間にある、精神的な繋がりとしか言いようのないものだ。あるいは彼らに共通して流れる神秘の血が為せる奇跡だったかもしれない。

 とにかく言えるのは、ユラムはなんとなく妹がどちらにいるのかを感じることができた。

 近づくほどにその気配は強くなる。


 さすがに途中誰とも出くわさないということはなかった。

 見習いらしい服装の聖職者や、警備を担当する者――役名としては所士というらしい――などに見つかったが、都度あの『黒い剣』で殴り倒してことなきを得る。

 さすがに警備を職務としている人間とやりあうのは容易ではない。まして向こうが複数だった場合など、ユラムひとりでは対処は不可能なので、たびたびズィーに助けられた。


 念のために「殺してないよな?」と毎回のように尋ねたユラムに、悪魔はおっとりと微笑む。


『あなたの望まないことはしないわ。安心して』


 そう言われても、まだユラムはこの悪魔をどこまで信じていいのかわからない。


 わからないが――運命の扉はもう目の前に迫っていた。

 その先に、妹がいる。



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