10-14 シテニアの望み
陽が沈んで夕闇が降ってきても、完全な夜に沈むわけではない。教団ではあちこちに松明が灯され、夜番の所士がそこかしこに配備されて、つねに眼を光らせている。
シテニアはふうっと息を吐いて、それから傍らの悪魔に言った。
「……わたしを見張ってなくていいよ。もう死のうなんて思ってないから」
『まあ、見張りだなんて』
「でもそうでしょう? ……今夜はワーレルについててあげて。あなたが彼をほんとに大事に想ってることは、よくわかったから」
彼が未だに昏睡から醒めないのもシュライが傍にいないせいなのだと、今のシテニアには理解できる。
この数日で悪魔と宿主の関係について充分教わった。契約により彼らの魂は繋がっていて、両者の物理的な距離が開くほど、悪魔から宿主に与えられる加護が弱くなることも。
だからシュライがシテニアにつきっきりでは、ワーレルの回復に時間がかかる。
「彼が目覚めたら、伝えて。……今はあなたたちのことを許せない。だけど、いつかは向き合って話ができるかもしれない……」
『……わかりました。おやすみなさい』
シュライは頷いて、その身を銀色の藁に変えた。
細かな切れ端は空中をしばらく漂ったあと、ひとつまたひとつと消えてゆき、最後の一片だけがシテニアの布団の上に落ちて残った。シテニアはそれを摘まもうとしたけれど、実体がないから触れられない。
そのまましばらく耳を澄ませた。周囲に人の気配はない。
ワーレルが寝かされている場所はここから少し離れている。
悪魔が戻ってくるようすがないのを確かめたあと、シテニアはそろりと寝台を抜け出した。
裸足で踏む床石はひやりと冷たい。近くに靴があったので急いで履き、そのまま病室を出て廊下へと向かう。
当然ながら今は儀礼医にも夜番があって、すぐに見つかって呼び止められた。
「天侍さま? こんな夜中にどうされました、まだお休みになられていないと……」
「身体はもう大丈夫です。……それより、天使さまがわたしをお呼びになる声が聞こえるんです。行かなくては」
「そ、それは……で、ですが、しかし、せめて護衛を、軍処女を呼ばないと」
「わかりました。ここで待っていますから、呼んできていただけますか?」
幸い、宿直の儀礼医はこうした不慮の事態――とくに天侍聖女がらみの対応に不慣れな者だった。
ユラムの襲撃後に結界の修復などでいつも以上に人手不足になったため、支部に勤めていた者を何人か本部に呼び寄せたのだが、恐らくそのうちのひとりだ。
彼はシテニアの言葉を吟味することなく、慌てて療護室を出て行った。
(ごめんなさい。他に思いつかなくて)
シテニアは内心で小さく謝ってから、少しも待つことなく廊下に出る。
すべて嘘だ。天使が呼ぶ声など聞こえていないし、護衛を待つつもりもない。
どれも儀礼医にその場を離れさせるための方便だ。
ひとりきりで薄暗い廊下を進む。ちらちらと松明の火が揺れる。
衣装が暗い色でよかった。治療中は生成りの楽な服を着ていたが、いつでも聖務に戻れるように天侍聖女の衣を取ってきてほしいと世話係の修道女に頼み、夕方のうちに着替えていた。
それも、また方便だった。暗がりを歩くのにこのほうが目立たないと思ったから。
所士たちの眼を盗んで階段を上がり、控室を通って天使の間に向かう。
二階奥は禁足域であるがゆえに周辺の警備は少ない。とくに今は外部の侵入者に対する守りを堅くしているため、門や外壁、建物の出入り口のほうに集中している。
かくして久びさの謁見となった天の御使いは、やはり語るまでもなくシテニアの考えなど見透かしているようだった。
「お願いがございます」
冷たい床に跪いて、天侍聖女は乞う。
天使は高いところから彼女を見下ろして、またあの、しゃらんという音がした。
『……前にも言ったが、私は何もできない』
「いいえ、動くのはわたしです。ただお力添えを願いたいのです。それならご使命に反することはない……違いますか?」
『理屈を捻じ曲げてはならぬ、と言いたいところだが、……興味深くはある』
初めてだった。この存在がそんな感情的な気配を言葉に滲ませたのは。
それだけシテニアの覚悟のほどが彼に伝わっているのか、あるいは、長らくこの部屋に滞在させられていることに御使い自身が飽いているのかもしれない。
しゃらり、と、それが揺れる。天使の興奮を示すように、静かに。
『おまえの望みはなんだ』
「兄のユラムを、悪魔の支配から解放することです。そのために……天使さまのお力をお貸しください」
かつて天の御使いは言った。自分は地上を眺めることが使命だと。
ならば見ていればよい。
身に余る力を与えられた人間が何を為し、どんな末路を辿るのか。
それを示せるのは天侍聖女――未来を視る者であるシテニアだけなのだから。
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