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斯くて雌羊は血に餓えぬ  作者: 空烏 有架(カラクロ/アリカ)
第一章 脱獄囚と悪魔と聖女
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1-10 運命の日

 ある日ふたりのつましい我が家を、聖職者たちが訪ねてきて、妹を教会に招きたいと言った。

 もちろんただの参拝者としてではない。組織に加わり、そこで聖女として民の救いにならないかというのである。

 初め、妹はその申し出に難色を示し、逆に兄は賛同した。


 宗教施設なら警備もしっかりしているし、そもそも悪人も近寄り難いだろう。

 それに農民の生活は決して楽なものではない。他の村人に助けてもらえるから子どもふたりでもなんとかなっているだけで、いつまでも彼らに頼っているわけにもいかない。


 教会のほうがはるかに安全で暖かく、なおかつ食べものにも困らないのだ。

 文句などあるはずもなかった。しいていえば、招かれたのはあくまで妹だけだったが、それは大した問題ではない。


「おれも街に出て仕事を探すよ。一緒には暮らせなくても、たまには会えるさ」

「……うん、わかった。お兄ちゃんがそう言うなら」


 妹が悩みながらも頷いたのは、自分のために兄がどれほど人生を犠牲にしてきたか知っているからだろう。


 恋人はおろか、友人もろくに作らず、妹の周囲ばかりに気を配っていた。

 妹を危険から守るために農民でありながら身体を鍛え、武器を握った。実際に賊とやりあって傷つくこともあった。

 あのころのユラムは、シテニアのために生きていた。


 もろもろの手続きを済ませ、正式にシテニアが入信した日、ユラムも同席した。

 場所はそのあたりでいちばん大きな教会で、地区を統括している高位の聖職者──たしか聖地座(ルストム)とかいう職名の、中年の男──とは、その日初めて会った。


 そいつを一目見て、ユラムは己の判断が間違っていたと悟った。


 だから止めに入った。

 シテニアとそいつの間に割り込んで、それまで出したことのないほど大きな声を上げたのだ。


「この話はなしだ! おれたちは村に戻る!」


 もちろんユラムはその場で取り押さえられた。

 何ごとかと当惑する聖地座に、側近を務める他の聖職者たちがユラムのことを伝える。


 あれはシテニアの兄です。先日までは乗り気だったけれど、どうやら急に気が変わったようですね、と。


「……悪いがね、少年。きみの妹御を引き受けるための手続きはすべて済ませてしまった。今日になって破談というわけにはいかないのだ」

「そんなもの体のいい口実じゃないか! あんた何を企んでるんだ!?」

「穏やかでない表現だね……どうもきみは私に不信感があるらしい。一体何が気に入らないのかね」

「……見えるんだよ」


 ユラムの言葉に、落ち着いているように見えた聖地座が一瞬たじろいだのを感じた。

 他の者は気づいていないようだが、恐らくこの男だけは、ユラムが言わんとしていることをすでに理解していたのだ。


 彼はなんとかユラムを黙らせようとしたかったらしいが、向こうがその方法を思いついて実行するよりも先に、ユラムは言った。


「おれにも見える。シテニアと違って、天使じゃない。

 この眼に──あんたの首に手を回してニヤニヤ笑ってる、悪魔の姿が見えてるんだよ!」


 その後、どうなったかはわからない。

 ただ間違いなく言えるのは、聖地座が悪魔と契約を結んでいた堕落した者であったこと、その事実を隠すためにユラムを牢獄に閉じ込めたことだ。

 そして今日まで解放されなかったのだから、彼は上手いこと他の人間を言いくるめてユラムを狂人にでも仕立て上げたのだろう。


 悪魔と契約することはどの宗派でも禁じられている。


 戦争が繰り返されて国家がまともに機能しなくなった地域も多い中で、教会や宗教組織がその代わりを担う場面も少なくない。場所によっては法律を定めているところもある。

 その聖なる法によれば、悪魔との契約はいかなる理由があろうとも死罪に相当する大悪である。


 まして神に仕える聖職者となれば、もし事実無根の噂であっても相当な痛手だろう。

 聖地座の場合は疑いようのない事実ではあるが、人と契約を結んだ悪魔はその姿を隠すので、ユラムのような特別な力を持つ者でなければ見えない。

 ほかに客観的な証拠を用意することもできなければ、あとはユラムの口さえ塞げばどうとでもなる。


 ユラムはつまり、彼の保身のために闇に葬られたのだ。



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