10-07 恐れ
言われたことの意味がまったくわからなかった。
怖がっている? ヴィルが? いったい何を、どうして?
何よりまず、なぜ村長が、何を見てそんなふうに思ったのかがわからない。ヴィルの言動のどこに恐れや危惧の気配があったというのだ。
困惑しているヴィルの鼓膜にさらなる刺激が届く。――扉を、叩く音。
客かね、それならそろそろお暇するよ、と村長が言って立ち上がる。そのまま彼と一緒に玄関まで行って開いたドアの向こうには、黒髪の女が立っていた。
アトレーゼは驚いたように瞬きをして、村長とヴィルの顔を交互に見つめる。
「あ……、村の方が、いらしてたんですか」
「もう帰るところさ。邪魔したね」
「いや」
とにかくアトレーゼを中に入れ、入れ替わりに村長を外に送り出しながら、ヴィルは言う。
「迷惑かけてすまねえな。そのうち、こっちから話しに行く」
「ああ。……よく考えといてくれ」
村長はゆっくり去っていく。
ヴィルとアトレーゼは戸口に並んでそれを見送った。途中で振り返った村長には、その姿はどう映っただろうか。
扉を閉めたとき、アトレーゼは小さな声でヴィルの背に問いかけてきた。
「あの……、どんなお話をされたんですか? たしか、あの方は」
「村長だよ。……おまえにゃ関係ねえよ」
「……すみません」
ほぼ嘘だったが、正直に話す必要性も意味も感じない。そもそもアトレーゼがこの家に滞在する理由は彼女自身の意志ではないのだから。
しかし……アトレーゼが訊いてきたことは少し意外だ。
以前なら知りたそうな顔でじっと見つめてくるだけだったろう。それが鬱陶しくて敵わなかった。
けれど、こうして眼を逸らされると、それはそれで物足りない気がするのはなぜだろう。
深紅の瞳が所在なさげに室内を彷徨っているのを見て、ヴィルは思わず口を開いた。
「あのよ」
そうして、眼が合ってからはっとする。完全に無意識だった。
声をかけたくせに黙っているヴィルを、アトレーゼは不思議そうに見ている。伏し目がちだった瞼を今は開いて、虹彩の丸みがはっきりわかると、なおさらミルティエによく似ていた。
たったそれだけで、ヴィルの胸の内にぽつぽつと色んなものが湧いて出る。
――行ってくる。
――あんたは良い子で待っててね。
「……あの、ヴィル……?」
溢れそうになるそれらを、喉元まで込み上げてきたものを、ヴィルは無理やりに呑み込んだ。
言ってしまえばそれが弱点だからだ。
暗殺者に急所を知られてはいけない。いくらそれなりに腕利きでも、弱味を利用されれば命が危うい。
けれど、もうアトレーゼにミルティエの話をしてしまった。ふたりの顔がそっくりだということも教えてしまった。
今さらながら、自分を殺す手がかりを自ら与えてしまったことに気付く。
「ッ……、……オルジーナの、ことだけどよ……あー……俺も、あの美味えシチューがもう食えないと思うと、残念だ」
「……ええ。私も……そう思います……」
誤魔化すために死んだ女の名前を咄嗟に使った。それでも口にした言葉は偽りない本心でもあった。
ガドレナにしてもそうだ。どちらも容易にヴィルを殺せたにも関わらず、武器を向けるどころか面白い土産を残していった、気の良い女たちだった。
――あなたが彼のことをすっごく好きみたいだから……。
――だいぶ彼に気を許しているようですから。
彼女らの残していった言葉が、楔のようにヴィルとアトレーゼの間に穿たれている。
自分でも関係の変化を感じてはいた。
だが第三者の言葉がなければ気づかなかったか、悟っても無視していたはずだ。
何も変わらないほうが、つまり自分たちが暗殺者と獲物のままでいたほうが、ヴィルには都合がいいから。
なぜなら仮にもし、アトレーゼの気が完全に変わったら。
つまりヴィルを殺すことを諦めるか拒むかしたら、教団がそれを許すかどうかはさておき、彼女はもうこの家には現れないだろう。
それはミルティエたちに繋がる手がかりを失うことを意味する。究極的には、ヴィルが生きる意味すら失くすのだと言っても過言ではない。
平和になったこの世にはもう傭兵の居場所はない。身を固める気のない半端者は、どこにも居つけず放浪することになる。
何の目的もなく大陸じゅうを彷徨う未来――もしかしたら、村長の言うヴィルが恐れているものとは、それだろうか。
「……気分転換に打ち合いするか。それともおまえが掃除したいっつーなら、俺は畑にでも行ってる」
「いえ、お手合わせをお願いします……久しぶりですね」
「そうだな」
最近は切り替え癖にアトレーゼを巻き込めるようになった。
考えるべきことは他にある。それこそ、村長と話していて思ったことについて突き詰めるべきだ。
早くすべての片を付ける。そうしたら、――この女をヴィルの人生から消す。
→




