1-09 見えざるものを視る血筋
なぜ自分の名を知っている、と問いかけて、青年──ユラムは口を噤んだ。
この女が悪魔であることに疑いはない。それなら名前を言い当てられることに不思議はないし、それより下手に言葉を交わして相手の妖術に取り込まれることのほうを危惧すべきだと思ったのだ。
青年は、この手のことには他の人間よりも敏感だった。
詳しいと言っても過言ではないのだが、自分ではあまりそう思いたくない。
そんなユラムの心境を知ってか知らずか、悪魔は笑顔のまま続ける。
『私はあなたを助けに来たのよ。だからそんなに警戒しないでちょうだい』
「……何が目的だ?」
『あら、悪魔が人に迫ることって限られてるわよ。あなたも知ってるでしょうけど。
簡潔に言うと、私と契約しましょ。あなたの望みをなんでも叶えてあげるから、代わりにあなたの魂をちょうだい』
「そうくると思った。……でも、おれは悪魔の力なんか求めてない。他を当たれ」
『ほんとうにいいの?』
悪魔がずいと寄ってくる。
もうすでに壁に触れるほどまで後退していたユラムに逃げ場はない。
蜜色の瞳に覗き込まれて眼を逸らせなくなった青年の頬に触れながら、悪魔は愛を囁くような優しい声で言った。
『あなたの妹……今ごろどうしてるかしらね……?』
ユラムは息を呑む。
そして、悪魔を睨もうとして、目頭が熱を持ったことに気付いた。
妹。
その言葉を聞くだけで脳裏に浮かぶ懐かしい顔。
忘れるはずがない。忘れられるはずがない。たったひとりの家族だった。
まだ幼いころに両親を失ってから、まだ少年だったユラムが一生守ると墓前に誓った――それなのに、結局奪われてしまった大切な妹。
恐らく兄が牢獄に入れられたことも知らないままだろう。
そしてユラムもまた、妹が今どこでどうしているのか、何ひとつ知らされてはいなかった。
「シテニア……」
『そう、その子よ。あなたのかわいいシテニアちゃんがどこにいるか知ってるわ。しかもあまりいい状況ではなさそうなのよね……助けるなら早くしないと、あなた一生後悔するわよ』
「けど、シテニアを連れて行ったのは教会だ……そんなところに危険があるのか……?」
『どこにだってあるわよ。人の悪意なんて、この世の何よりも普遍的だもの。神にもどうにもできやしない』
悪魔の、その性根には似つかわしくない純白の翼が広がって、ユラムを包む。
奇妙な温もりに、頭がぼうっとしていく。
もはや逃げられなかった。
人の弱味につけこむというやり口を知ってはいたが、わかっていても、妹のことに言及されてはもうユラムに冷静な判断などできようもない。
それに恐らく、口をきいた時点で失敗だったのだろう。
悪魔の言葉が呪詛となってユラムを蝕み、心の奥にある扉をどろどろに溶かして、その中に閉ざされていた魂にまで及んでいたに違いない。
なぜなら身体は燃えるように熱いのに、心臓だけが氷のように冷たいのだ。
『ねえユラム……今度こそ、ちゃんと妹を守らなくちゃ……そうでしょう……?』
「う……ああ……」
『ふふ。いい子ね。それじゃあ、契約の証に私の名前を教えるわ……』
そして悪魔は何ごとかを口にしたが、ユラムはもう意識を保っていられなかった。
気絶している間に夢を見た。
昔、まだユラムが地上で日差しを浴びていたころの、懐かしい夢を。
隣には妹がいて、兄にぴったりくっついていた。
もともと内気な性格だったこともあるが、何よりユラムがそうするよう彼女を躾けていたので、シテニアは決して兄の傍を離れなかった。
なんとなれば、この世は彼女を狙う悪意に満ちている。
妹はふつうではなかった。
生まれつきの才能で、未来のことを言い当てたり、人の失くした物を見つけたりすることができた。
何より素晴らしかったのは、彼女は天使を視る力を持っていたことだ。
彼女の能力はすぐに周囲に広まり、さまざまな眼差しと言葉を浴びることになった。
尊敬や羨望、憧れ、感謝といったものもあれば、妬みややっかみ、疑い、はたまた悪事に利用しようと企む邪な輩が近づいてくることもある。
娘をそういう手合いから守ろうとした結果、両親は命を落とした。
彼らから死に際に妹のことを託された兄は、それからずっと彼女のために生きてきた。
小さな農村でふたり暮らしをしていたが、シテニアの力に恩恵を受けた村人からの施しや手助けを得られたので、なんとか生活が成り立っていた。
問題は、妹の評判が街まで届いてしまったことだった。
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