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斯くて雌羊は血に餓えぬ  作者: 空烏 有架(カラクロ/アリカ)
第九章 光は墜ち、闇は芽吹く
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幕間(13) ある『鬼』の物語②

「ユリク、帰ろう」

「嫌だ! なぁおい、アトルを買ったのはどこの誰なんだ!?」

「そんなもん聞くだけ無駄だよ、いいから帰ってくれ。まったくこんな夜中に……」

「頼む、教えてくれ!」


 ユリクは涙声になりながら商人にすがりついて頼んだ。アトルを取り戻すのに、なりふり構ってなどいられない。


 あまりの剣幕にとうとう従兄が宥めるのを諦めたころ、商人も根負けしたように口を開いた。

 けれども続く言葉は、ユリクの聞きたいこととはまるで違った。


「諦めろ。馬はもう生きちゃいない」


 意味が、わからなかった。

 アトルは怪我も病気もなく健康だった。それに馬の寿命は二十年を超すのだ、まだ十五歳の彼は現役の盛りと言っていい。

 問い詰めると、商人はうんざりした調子で答えた――あんたらだって食うんだろ?


 言葉を失ったユリクの代わりに、従兄が叫ぶように言う。


「……ふざけるな! 僕らが食べるのは死んでしまった馬だけで、食べるために殺したりなんか……ッ」

「そうかい。こっちじゃ違うんだよ。

 それにここらじゃ東方種は軍馬にも農耕馬にもならん。小さいからな。だからわざわざあれを選んで買う客は食う目的なんだ」

「ッ……じゃ、あ……」


 商人の無情な言動に、とうとう従兄も黙り込んでしまった。

 理解したのだ。つまり、先に売ってしまった自分の馬も同じ末路を辿ったのだと。


 せめて他のもっと裕福な誰かの元で、餌に困ることなく健やかに暮らしていてほしかった。

 それだけを願って手放した。そうでも思わなければ身を切るような別離の痛みに耐えることなどできなかった。

 なのに、……もう、彼らは太陽の下で野原を駆け回ることはない。


 ユリクと従兄はとぼとぼと帰り、母に事実を打ち明けたあと、夜が明けるまで肩を寄せ合って泣いた。


 この夜ユリクは誓った。


 大切なものはもう二度と、一瞬だって手放さない。

 絶対にこの手を離したりしない。



 ・・・・+



 あとのなくなったユリクたちは必死で仕事を探した。内容を選べる状況ではなく、やりたくないようなひどいものも少なくないが、生きるためには文句を飲み込む。

 母がどう稼いだかわからない金を持ってきても、詳しいことは絶対に聞かなかった。


 そのうち従兄の稼ぎが不自然に減った。問い詰めたところ仕事を前の半分近くまで減らし、空いた時間と稼いだ金の一部を使って読み書きを習っているという。

 ユリクは最初、それに腹を立てた。

 そんな暇があるなら働いて少しでも金を稼いでくれないと、母がまたどこかで息子に言えないような仕事をしてしまう。


 けれど従兄は顔を歪めて、おまえのためなんだ、と言った。


「伯父さん――おまえの親父さんが死んだとき、僕も怪我したろ。その傷がずっと治らなくて、どんどん悪くなってるんだ」

「あ……、でも、それでなんで勉強なんだよ、しかも俺のためって」

「もう少ししたらおまえに教える。字が読めるようになれば、今よりいい仕事をもらえるから」


 そう言う従兄の顔はどこか青白く、それを見るだけで、怪我の具合を訊ねなくてもわかってしまった。

 自分が遠からずいなくなることを彼自身がもう悟っている。その日に向けて備えている。


 従兄は昔から頭が良かった。馬に乗って戦うよりも、罠や戦術を考えるほうが得意な男だった。

 思うように稼げない自分が先に習ってユリクに教えるほうが、かかる費用も無駄な時間も少なくて済む――彼が言いたいのはそういうことだろう。


 ユリクに読み書きを教え終わったあと、役目を終えたとばかりに従兄は死んだ。怪我のせいではなく、自ら命を絶った。

 きっと働けない傷病人が生きていては足枷になると思ったのだ。

 それに家計に負担をかけるまいと、最後まで痛み止めの薬を買わなかった。それが従兄なりの戦いで、彼は戦士として死んだのだ、とユリクは思った。


 そのあと母も死んだ。病気だった。

 どこでもらってきたどんな病なのかは、聞かなかった。



 従兄の言ったとおり、読み書きを覚えると多少ましな仕事を選べるようになった。

 数年もすれば背もぐんと伸び、もう子どもに間違われることもない。


 それでも個人で傭兵をやるのは楽ではない。安定しない実入りに苛立って、ユリクは少しずつ自分が荒んでいくのを感じていた。

 まともな仕事を選ぶ意味などあるだろうか。しょせん余所者、異国からの流れ者には居場所などないのに。


 そう思っていたころ、ある男に出逢った。

 名前はヴィルダンドという。北のほうの出身らしく、色白で背が高く骨太で、筋骨隆々という言葉がふさわしい大男だった。

 片目は戦場で潰したとかで、眼帯もせず生々しい痕を剥き出しにしている。かなりいかつい容貌ながら、見た目に反して陽気で快活だからか、色街に行けばあっという間に女に囲まれるような人気者だった。


 正直に言って、ユリクと彼は真逆だ。印象も悪かった。

 もし出逢った場所が戦場で、互いの立場が敵同士なら、喜んで殺しただろうと思う程度には。


 が――なぜか向こうは、そうではなかった。


「おお、噂どおりヒョロガリのチビだな!」

「……あ?」


 幸か不幸かユリクと彼の出逢いは戦場ではなかった。どちらも傭兵だったが、雇い主は同じ人物、つまり仲間として協力しあわねばならなかった。

 それが出会い頭に上述のような言動をされ、ユリクは遠慮なく彼を睨む。

 もうチビとなじられるほど背は低くないのだが、いかんせんヴィルダンドが規格外に大きかったので、彼には負ける。だからといって許してやる必要はない。


 体格は問題ではない。――自分のほうが強い。絶対に。自信はある。

 そしてそれを、相手も理解していないわけではなさそうだった。噂という言葉を口にした時点でわかる。


「そう睨むなよ。褒めたつもりなんだ。クーニャックの戦場にいただろ? 俺、丘の上からおまえの暴れっぷりを見てたんだよ。いやー気持ちよかったねありゃあ!」

「……いやあそこで丘にいたならそんときゃ敵じゃねえか」

「おう、お陰でしばらく餓えかけたぜ。……待て待て待て、だからって恨んでるとかじゃねえんだ。あんときゃそうでも今は味方だろ。なら今回はもらったも同然だし、ちょっくら報酬の上乗せでも打診すっかな」


 男はからからと快活に笑った。それはもう当初の暴言などどうでも良くなるような満面の笑みだった。

 毒気を抜かれたユリクは、……初めて異国で、友を得た。



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