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斯くて雌羊は血に餓えぬ  作者: 空烏 有架(カラクロ/アリカ)
第七章 彼女は微笑み、悪夢は幕を閉じる
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7-15 白煙の翼に祈る

 ガドレナの腕は、指だけでなく手首から肩にいたるまでぼろぼろだった。

 あたり一面、まだ鮮やかさを残した暗赤色にまみれている。おびただしい血は手や衣服のみならず、寝台を伝って床にまで流れ落ちていた。

 頰にははっきりと涙の痕がいく筋も残り、薄く開いたままの桜色の両眼は、凍りついたように天井を見つめている。


「ッ……ぁ、あ」


 チェトリーはその場に崩れ落ちて、悲鳴を上げた。あるいは親友の遺体に縋りつこうとしたのかもしれない。

 調理場にいたオルジーナとピューシャが、異常に気づいて駆けつけた。




 ・・・・・*




 これまで軍処女が死んだという話は聞いたことがない。ゆえに葬儀の慣例がない。

 けれどスティアから涙ながらの訃報を受け取ったアトレーゼは、迷わず教団に帰った。


 しかし聖所座からの指示は、早急に遺体を荼毘に臥すことであった。

 それを伝えに来た所士は衛生上の問題だと説明したが、本来なら火葬の前には必ず葬送の儀礼を行うしきたりだ。せめて略式で済ませてあとから告別礼をするのならまだしも、そういう話でもなさそうだった。


 どこか釈然としないが、今は誰も反発する気力などない。

 ただチェトリーだけは、幼い子どものように泣きじゃくりながら親友の遺体に縋りついて、感情的にそれを拒んだ。


「嫌……嫌よ……! ガドレナ、どうして……なんでこんな……どうしてよぉ……!」

「諦めて離れるんだ。だいたい葬儀をするったって、おまえたちは葬礼の言葉も読めないだろうに」

「うるせぇッ、そっちが離れろ!」


 無理やりチェトリーをガドレナから引き離そうとした所士に、真っ先に割り込んだのはケンネッタだった。

 彼女の勢いに所士が怯んだのを見て、他の軍処女たちも少しずつ声を上げる。


 ガドレナを弔いたい。このまま焼いて終わりでは辛すぎる。

 所士らの言うとおり儀礼のことはわからないから、できれば誰か聖職者に依頼させてほしい。

 もちろん略式で構わないし、場所も儀礼場でなくていい……。


 そして――戸惑う所士らが口を開くよりも先に、ふいに聞きなれぬ声が降ってきた(・・・・・)


「葬送詞なら私が読もう」


 全員がはっとして、それからすぐさまその場に膝を衝く。

 両腕は胸の前に。視線もやや下へ。膝礼と称されるこの礼法を儀礼以外で向けられる人間は、少なくともこの敷地内にはひとりしかいない。


 教団におけるすべての聖職者の長、大聖座クィベット卿は、片手を胸に添えて応えた。


「聖下、なぜこのようなところへ……」

「むろん弔いのためだとも。ガドレナのために祈らせてはくれんかね」

「は、しかし……その……」

「わかっている。きみたちは聖務に尽くしてくれているだけだろう。ホホロー卿には私の指示だと伝えなさい」

「承知いたしました」


 所士の隊長は一礼し、ひとりを伝令に出すと、残り全員で葬儀の支度を始めた。

 軍処女たちはそのようすをしばし呆然と眺めてしまっていた。いつもなら真っ先に動いて指示を出すチェトリーが、今は悲しみで心が壊れてしまったようなありさまだったせいだ。


 アトレーゼは途中ではっとした。この状況では、ガドレナの次に古株の自分がチェトリーの代わりにならねばならない。

 とはいえ今まで代理を務めた経験などなく、とりあえず所士に手伝うことはないか尋ねるので精一杯だった。

 ……それにアトレーゼだって、平常心とはほど遠い。


 ガドレナの遺体はどこも傷だらけで、視界に入れるのがなおさら辛かった。

 幸い顔はきれいだったので、首から下を布で覆った。香油を染み込ませているので少し甘いような独特の香りがする。

 献花を用意する時間もないため、代わりに端切れを裂いてたくさんリボンを作り、遺体の上に散らした。これはオルジーナの発案だった。


「――清らかなる魂の我が友よ。汝はこれより畢生(ひっせい)のうちに負うる重荷のすべて、この地上に下ろしていきたもう……」


 葬送の言葉が、軍処女の宿舎の前に粛々と響く。


 すべてが滞りなく進んだ。

 いちばん最後に参列した全員で一本の松明を手渡しで運ぶ。受け取るさい、死者が天国に向かうよう祈るのだ。

 松明を持つチェトリーの手はひどく震えていて、アトレーゼはまず両手でそれを包んでやらねばならなかった。


 最後尾だったので、受け取った松明はクィベット卿に渡す。

 そのとき、老いた聖人はかすかにこちらの背後を見つめたような気がしたのだが、一瞬のことだったので確証はない。


 大聖座は松明をガドレナの胸元に置いた。

 すぐに布へ火が移り、みるみるうちに炎が広がって彼女の全身を包む。黄金色の光が躍り、香油の薫りを含んだ煙がもうもうと昇っていくのを、軍処女たちはすすり泣きながら見守った。


 薄青の空に広がる白煙が、まるで天使の翼に見える。

 きっとガドレナにはよく似合うだろう。


 炎が燃え尽きるまで見守りながら、アトレーゼはそう思った。



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