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斯くて雌羊は血に餓えぬ  作者: 空烏 有架(カラクロ/アリカ)
第一章 脱獄囚と悪魔と聖女
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1-04 警告

 鏡などという気の利いたものは持っていない。身だしなみは村の共有浴場の古鏡で間に合わせている程度の心がけだ。

 つまりヴィルは、斬りつけられた顔の手当てに難儀していた。

 不器用なつもりはないが、手探りで薬を塗るのでは見落としがあっても仕方がない。まして布を巻くのにはさらに手こずる。


 それを見かねたのか、ふいに横から白い手が伸びてきた。


「……貸してください。軟膏も……」

「お、おう」


 言われるままに包帯と薬を手渡しながら、いやおかしいだろこの状況、と思わなくもない。


「あのよ、……おまえ、俺を殺そうとしてるんじゃねえのかよ」

「……悩める者を助けよ、が我が神の教えですので……」


 いや、おまえの存在に困ってんだよ。という言葉がヴィルの喉元まで込み上げたが、せめて手当てが終わるまでは飲み込むことを決めた。


 というかこの体勢、つまりヴィルが椅子に座ってその前にアトレーゼが立っている状態だと、すぐ前に彼女の豊胸が揺れていてあまりにも目に毒というか、むしろ目の保養というか。いやはや。

 ……あまり余計なことは考えるまい、と思ったヴィルは、目前の絶景から距離を置くべく眼を閉じた。


 そうなると意識が顔面に集中する。

 アトレーゼの指先はひんやりしていて、それがひりついた傷口に触れるたびに、妙に背筋がぞくりとした。むろんそこに他意はない。

 ただその冷たさと、しっとりした触感が心地よかった。そしてなんだか懐かしいと感じていた。


 もともとヴィルの顔には別の切り傷があったのだが、それを手当てされたときもこんなふうに冷たい指で触れられたはずだ。

 あれは遠い昔の、たしかあの人はそのとき――。


「……ひとつだけ警告させてください。

 私の身体に、その……安易に触れないほうが、いいと思います……」


 それは、妙に遠回しな言いかただった。アトレーゼ自身、くちびるをもごもごと捏ねながらの発言で、かなり言葉に詰まっているように見える。

 何より奇妙なのは、先ほどまで彼女の全身を覆っていた恥じらいの色がそこにはほとんどないことだった。

 つまり照れや拒絶のような感情は、その言葉には籠っていなかった。


 その意図がわからず、ヴィルは思わず眼を開けてしまう。

 すると思ったよりも近くに女の顔があった。アトレーゼは一度泣いたせいで赤みを増した瞳で、ヴィルの顔にゆっくり包帯を巻きつけていた。


「私は……悪魔の子なんです……。血に(かつ)え、(つるぎ)に呪われた女……ですから、戯れに触れないでください。それであなたにどんな(わざわい)が及ぶか知れませんから……」


 彼女の声は震えていた。とくに最初、悪魔の子、という言葉を口にしたときに、それはもっともひどかった。

 まるで何かに――あたかも自分自身に対して怯えているような。


 そして、たしかにヴィルも初めて彼女が聖女を名乗った際に、そう感じたのを覚えている。悪魔のほうがイメージに合う、と

 巨大な剣を携え長い黒髪を翻し、赤黒い瞳をぎらつかせて立ち上がる女はまさしく怪物だった。


 だが――それがどうした。

 アトレーゼの悲壮な警告を、ヴィルは鼻で笑った。怖れなど微塵も感じなかったからだ。

 なぜなら知っている。


「なーにが悪魔の子だよ。おまえがそうなら俺なんぞ地獄の魔神になっちまう」

「……え……?」

「おまえの歳じゃ戦場に立ったことねえだろ。あっても一、二度だろうし、ファタゴナの近くじゃそう荒れた戦もなかったしな。

 忘れてねえよな? 俺はおまえが生まれる前から傭兵やってたんだよ。数え切れねえほど殺してるし、えげつねぇ罠や兵器の開発を手伝ったこともある。

 それこそ悪名高い北の蹂躙戦争に次いで悲惨だって言われたカイナン南部戦でも前線にいた。たしかにありゃあひどいもんだったぜ」


 本質的には自分もアトレーゼと大差はない。それこそ身体に染み付いた血の臭いなら、己のほうが何倍も生臭いに違いない。

 違いは不死身の肉体を持つか否か、ただそれだけだ。

 ましてやヴィルには神やら天使などという美しい題目もなかった。生きるため、金のため、その日の飯のために都度この手を汚してきたのだから。


 ただしヴィルは自らその道を選んだのであって、選択の余地などなかったであろうアトレーゼの境遇も不憫ではある。


「まあなんだ、世の中ろくでもねぇ輩はごまんと居んだよ。俺ら以外にもな。

 それにおまえはほら、いざとなったら結婚でもすりゃあいい。その歳ならまだ嫁の貰い手は見つかるだろうし」

「……そういう問題では……」


 アトレーゼは何か言おうとしていたが、それきり口を噤んだ。

 ちょうど手当ても終わったため、彼女はそのままくるりとヴィルに背を向けて、落ちていた雑巾のところへ戻る。掃除の続きをするらしい。


 ヴィルも黙った。無言のまま、アトレーゼを眺めながら少し考えていた。 



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