「おはようございます」
誤算だった。
なぜ自分がその可能性を一切考慮に入れなかったのか、その能天気さに我ながらあきれてしまう。これでも僕はそれなりに慎重に行動する方だ。そうやって自分にある種のダメージを与えるリスクを回避してきたはずだった。
でも、彼女はそこにいた。
彼女の性格上、僕は「彼女は絶対にこの場に現れないもの」だと思い込んでいた。思い込んでた?いや、それ以上に僕のこの予想は当然のこと、世の中の摂理・真理のようなものに等しいと考えていた。太陽は西から出て東に沈む、空は青い、海も青い、三角形の内角の和は180度である、といったように。
でも、彼女は目と鼻の先にいた。僕はそれに初め気がつかなかった。いや、気づくべきではなかったのだろう。世の中には知った方がいいことと同じだけ、知らない方がいいこともあるのだ。
僕はつい昨年引退した弦楽器サークルの後輩のライブを観に来ていた。演奏が始まる前の中休みの時に、前方からサークルの後輩の1人が寄ってきた。「お久しぶりです♪」と言う後輩の方向に目をやる。そして、その2つ隣の席に彼女の姿を発見してしまった。
後輩が僕に声をかけていることに気付き、後ろを振り返り、彼女も僕を発見する。
「おはようございます」
彼女はその一言だけを放って再び前を向いた。
もっと詳しく言うなら彼女は後ろすら向いていなかった。彼女は顔を90度ほど傾け、そこから45度ほど僕の方に目を向けただけだ。だから僕の姿は彼女には映っていない。多分、いや、きっと。
「おはようございます」。
その言葉は本当に単まる儀礼的なものにすぎなかった。その言葉が本来果たすべき役割をただ純粋に遂行しただけのもの。そこにはもちろん、何の感情の振れ幅もない。抑揚の欠いた、冷たく平坦な言葉だった。「お」に始まり「す」に終わる。ドラマチックな展開は存在しない。
「おはようございます」、彼女の言葉が僕の思考にこだまする。「おはようございます」
「おはようございます」。そう言って顔を前に戻していく彼女。その過程で見えた彼女の横顔はきれいだった。彼女の少し高めの鼻が、彼女の横顔を美しくする。
「おはようございます」。この一言がどれだけ僕に激しい痛みを与えたか彼女は絶対に気づいていないだろう。それは何かの鋭利な刃物のように、僕の心をグサッと突き刺した。だが、鋭利な刃物の中に「おはようございます」というものは存在しない。『被害者にはナイフのようなものに切り付けられた痕があり』だとか『包丁で刺され死亡しました』なんて言葉はニュースでよく聞く。『「おはようございます」で刺殺されたもよう』なんて聞いたことがない。
「おはようございます」、僕の思考にこだまする。
胸の鼓動は激しくなっていく。動悸は止まらない。彼女のきれいな横顔が頭から離れない。
「おはようございます」「オハヨウゴザイマス」「ohayougozaimasu」・・・
耐えきれなくなって外に飛び出した僕は、マイルドセブンアクアメンソールをひたすら吸い続けた。箱の中に16本もあったマイルドセブンアクアメンソールは全部無くなった。コーヒーも3本飲んだ。やれやれ、いつから僕はこんなにタバコを吸うようになったんだろうか。
僕は幾分か平静さを取り戻しつつあった。そして、彼女を避けてそのまま家に帰ることにした。
でも、無駄だった。再び動悸が始まり、彼女の横顔がフラッシュバックした。「おはようございます」が僕の思考でこだまする。
もう駄目だ・・・
僕は人のいなさそうなところを見つけて腰を下した。
一体、いつから会話出来なくなってしまったんだろう。彼女の笑顔、機嫌の悪い顔、無表情、無邪気な顔、過去に交わした会話、楽しい内容、辛い内容も全て記憶に呼び戻し、再構築する。
僕は彼女の名前をつぶやいた。そして、
「君が好きだ・・・」
報われない思い。行き場のない言葉。土砂降りの雨の夜のことだった。