前編
「ヨウちゃん、遅ーい!」
待ち合わせの場所へ現れた洋介に、瀬菜はいきなり文句をつけた。
眉間にしわを寄せているものの、わざとらしく口を尖らせた姿は、むしろコミカルで可愛らしい。彼女は本気で怒っているわけではない、と洋介は判断した。
「ごめん、ごめん。今日も仕事が長引いて……」
「まあ、そうよね。ヨウちゃんがそういう職種ってこと、私もわかって付き合ってるんだし……」
あっさり矛を収めた彼女は、コロッと表情を変える。微笑みを浮かべながら、少し顔を横向きにした。
「見て! どう思う、これ?」
耳元に人差し指を当てている。その仕草がなければ洋介は気づかなかったが、今夜の瀬菜は、新しいイヤリングをつけていた。
丸と輪っかを組み合わせた形だ。洋介のセンスでは良さがわからないけれど、おそらく女性目線では違うのだろう。そう思って、適当に褒めておく。
「おお、いい感じだね。可愛いよ」
「でしょう?」
満足そうにニンマリする瀬菜。
「これ、土星を模したイヤリングなの! ほら、私、惑星占いだと土星だからね!」
言われなければ『土星』とはわからないレベルだ。そんな不恰好なアクセサリーを身につけて、何が楽しいのだろうか。
洋介は占い好きの彼女に対して、心の中で呆れてしまうのだった。
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「嬉しいわ! ヨウちゃんと夜のドライブ・デート!」
洋介が運転する車の中で、瀬菜は、本当に幸せそうな態度を見せていた。
「しかも、パワースポットに連れてってくれるなんてね!」
「まあ、たまには俺も、瀬菜の趣味に合わせないとな」
ハンドルを握りながら、苦笑いする洋介。
今夜の目的地は、ここから30分ほど走った山の中。あらかじめ洋介が調べておいた、一部のマニアの間では有名な場所だった。
「この世界には、大自然の気みたいなものが充満する場所があるのよね。それがパワースポット! そういう場所の空気や水には人間を癒す力があったり、そもそも行くだけで地球が語りかけてくるのを感じたり……」
ウキウキと語り続ける彼女を横目で見ながら、洋介は思った。
現地に着いたら瀬菜は驚くだろうか、と。
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「何これ……」
到着した途端、それまでの様子が嘘のように、瀬菜の顔が一気に曇る。
彼女の目前に建っているのは、灰色のビルだった。
もともとは、山奥に作られたホテル、あるいは別荘だったのだろうか。しかし、もはや当時の面影は全く見られず、ボロボロに半壊していた。どの窓を見てもガラスが割れ落ちているし、入り口の扉も当然なくなっている。
「廃墟マニアの間では、有名な場所らしい。通称『パワースポットの廃ビル』だってさ」
「廃墟探検じゃないの! ヨウちゃんのバカ!」
言葉だけでなく、洋介をポカポカ殴りつける瀬菜。
しかし女の細腕なので、たいして痛くはない。この程度は、むしろ洋介にしてみれば、恋人同士のスキンシップだった。
「雰囲気あるだろ? 昔はペンションとして使われてた、って話だけど、泊まり客に不幸が頻発して、すぐに潰れて……。当時の亡くなった人たちが地縛霊になってるから、今でも事件が起きるって話だぜ?」
「また肝試し! そういうの私が嫌いって、ヨウちゃん、知ってるでしょ?」
「いいじゃん。『パワースポットの廃ビル』なんだから……」
「名前だけじゃないの! みなぎってるのは大地の気じゃなくて、地縛霊ばかりでしょ!」
瀬菜は文句を言いながらも、洋介に続いて建物へ入っていく。こんな廃墟の前で一人取り残される方が、かえって怖いからだ。
ただし、不満を行動に示す意味で、彼の背中をポカポカ殴るのは続けていた。
「まったく……。ヨウちゃんは、こういうオカルトみたいな話が、本当に好きなんだから……」
呆れ混じりの呟きに対して、洋介が振り返る。
「おいおい。瀬菜の好きな占いとかパワースポットとか、そういうのもオカルトだろ?」
「違うわよ! 占星術は歴とした学問に基づいてるもの! パワースポットだって同じ! 理屈じゃ説明できなくても、オカルトとは違うの! オカルトだけどオカルトじゃないのよ!」
いったいどっちなんだ、と思いながら洋介は笑顔を浮かべた。何を言われようと、こうして恋人と二人で心霊スポットを探検するのは、とても楽しい時間なのだから。
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内部は瓦礫が散乱して、足の踏み場もないに違いない。
この廃ビルを目にした時、そう瀬菜は感じたものだが、いざ入ってみると、案外、人が通れる程度には片付けられていた。廊下もそうだし、各部屋も一応は見て回れるようになっている。
「ここって、今でも管理してる人がいるの?」
「いや、そんなやつおらんやろ」
エセ関西弁を混ぜたのは、彼の冗談なのだろうか。瀬菜には笑えなかったのだけれど。
「きっと、前に来た人が中に入りたくて邪魔なものどけて、次の人も同じように……。その繰り返しで、見学順路みたいなものが出来上がるんじゃないかな?」
「ふーん。ヨウちゃんみたいな人、たくさんいるのね」
「言ったろ、ここはマニアの間では有名な場所だ、って」
既に瀬菜は、ポカポカ殴りをやめていた。腕が疲れるだけで、意味ないからだ。
逆に今は、洋介に頼る感じだった。彼の腕に両手を回して、ギュッとしがみついている。
その状態のまま、しばらく二人は歩き続けたのだが……。