第6話 弱虫のてのひら
俺の返事を聞き入れたのか、魔王の右手が静かに動き出した。
動き出したその右手は手のひらを緩やかに握ったまま、糸繰人形のようなぎこちない動作で俺の方へと向けられた。
「いやぁ、まじか……」
その動作は俺が想定していた魔王の行動の中でも最も喜ばしくない動きの一つだった。俺は自分のここぞという時の運の悪さに苦笑を漏らし、すぐさま防御呪文の詠唱に取り掛かった。
「初っ端からそれは勘弁してくれよ」
俺の泣き言を遮るように魔王の手のひらが開かれ、そこから黒い炎が放たれた。
それはおおよそ普通の人間の技量では回避できるような呪文ではなかった。魔王の手から放たれた黒炎は拡散し、分裂し、数百本の剣となって襲い来る。何百回と戦ってきた俺でも、その攻撃を防ぎきる事なんて出来なかった。なので、ここはいくらかの被弾は承知の上で防御に徹する。
「うぐぐっ……!」
全方位から襲い来る黒炎の剣に対し、俺はいくつかの防御魔法を重ねて唱えた。火属性の呪文に対して相性の良い水属性の防御呪文を自分の周りに展開し、自動回復の魔法と状態変化の魔法でなんとかダメージを抑えた。しかし、それでもやはり何発かはしっかりと食らってしまう。
黒炎の剣が減ってきたタイミングで俺は防御態勢を解き、反撃にでた。流転の剣を構え、肩で息をする魔王に向けて駆け出す。
「おおおお!」
魔王の数メートル前から一気に踏み込み、流転の剣を振り下ろした。流転の剣は現在『ヘカトンケイルの大剣』の姿をしている。威力は十分なはずだ。いくら魔王といえど無傷なはずがない――。
――なんて事を心の内で思ってしまうから。
「ほら見たことか、無傷じゃないか」
思わず声に出してしまった。
魔王はその場から一歩も動かずに立ち尽くしていた。俺の剣撃を受け止めたのは彼女の黒炎。それが今度は異形の右腕を形取り、俺の剣をがっしりと掴んでいた。手応えはあったんだけどな。
「なぁ、最後くらい勝たせてくれよ」
俺はその場で思いっきり腰を捻り、魔王のふてぶてしい顔に向けて蹴りを入れようとした。しかし、それも床から突如現れた黒炎の左腕に阻止される。
「いやぁ、おかげで女子の顔を蹴らずに済んだ。良かった良かった。ありがとう、左腕」
右足を振り上げたままの格好で俺は強がってそう言った。だが、黒炎の左腕は愛想も無く俺の右足をむんずと掴むと、壁に向かってひょいと投げ飛ばした。
「風の包」
壁に衝突する直前に風の魔法を使って受け身を取った。相変わらず無茶苦茶で出鱈目な能力だ。
俺は大きく息を吐き、魔王の方へ向き直った。そして、再び剣を構えようとした。しかし、俺の右手は虚しく空を掴む事となる。
「あれ、俺の剣どこにいった」
俺は右手を見て、床を見て、魔王を見た。そして、慌てて口を開く。
「おい、その剣、返してくれ! お気に入りの剣なんだ」
俺の剣は魔王エルンの手に渡っていた。
恐らく今しがたの攻防のどこかで俺の手から離れてしまったのだろう。それを黒炎の右腕か左腕のやつが拾って彼女に渡したに違いない。それにしたって、俺って奴はなんて間抜けなんだ。
「なんか調子が出ないんだよな」
俺は空になった右手を何度か開いたり閉じたりしてみた。体の感覚は悪くない。ステータスにも異常は無さそうだ。だとすると、どうして今日に限ってこんなにも戦いに集中出来ないのだろうか。
「まぁいいか。そんなことより、その剣返してくれよ」
余計な事は考えない事にした。ひとまず流転の剣を取り戻して戦いを始めなければ。時間は限られているし、今日が最終日なのだから。弱音を吐いてる時間なんて俺には無い。
魔王は俺の言葉なんて一切聞こえていない様子で流転の剣を平坦な目で眺めていた。そして、それがただの剣だと分かると、急に興味を失ったように流転の剣を床に投げ捨てた。
「悪いな、今日はどうしてもこの剣で戦いたかったんだ」
床に投げ捨てられた流転の剣を喜んで取りに行こうとした時、床から巨大な黒い手が現れた。そう、愛想の無い黒炎の左腕だ。そいつはすぐさま固い握り拳を作ると、流転の剣に向けて振り下ろした。
――カラン。甲高い音と共に流転の剣の柄だけが俺の足元に転がってきた。俺はその柄を拾い上げ、長いため息を吐いた。
「ヘカトンケイルの大剣は大当たりだったんだけどなぁ」
黒炎の左腕はその後も何回も何回も流転の剣の残骸に拳を振り下ろした。
俺はその様子をただただ黙って眺めていた。彼女が無駄な事に魔力を使ってくれるというのなら、こちらとしても『ヘカトンケイルの大剣』の形を取った『流転の剣』を、不本意ながらも差し出してやろう。そう思っていた。
「気が済んだか? なんだか今日はやけに機嫌が悪そうだな」
黒炎の左腕が消え去った後、魔王に訊ねてみた。最初の黒炎の剣にしても、今の流転の剣に対する執拗な攻撃にしても、普段はあまり見ない行動パターンが多い気がした。
もちろん魔王はうんともすんとも答えなかった。俺との距離を測りながら、次の攻撃に備えて魔力を貯めているようだ。
その時、俺の手の中で眠っていた流転の剣の残骸が小さく光り始めた。この戦いの命運を掛けたガチャが今まさに始まろうとしていたのだ。
「頼むぞ、せめてBランク以上。じゃないと手も足も出ないんだよ……」
俺は輝きを増す光の塊に祈るように呟いた。
『流転の剣』には特別な能力が備わっていた。それは剣が死んだ時に発動する能力だった。『剣が死ぬ』なんて妙な言い方だが、そう表現する方がこの剣にはぴったりだと俺は思った。つまり、刃が折れたり砕けてしまったり、あるいは溶けてしまったりと、剣としての生涯を終えた時に発動する能力だった。そして、その能力とは、生まれ変わる能力――転生する能力だった。
昨今の転生ブームはついに無機物にまで広まり、この世界でも猛威を振るい始めていたのだ。『転生モノは間違いない』いや本当に、俺もつくづくそう思っている。
ただ、転生モノの物語よろしく必ずしも最強の武器に転生する訳ではなかった。転生先は大量生産されるGランクのロングソードであったり、伝説の武器と称される聖剣であったり、名もランクも分からぬ妖刀だったりするのだ。剣ガチャと言っても差し支えないだろう。
そんな事を考えている間にも手の中の光は輝きを増していた。そして、その光は次第に形を変え、質感を持ち始めた。
「頼む。まじで頼むぞ。Bランク以上! 間違ってSランクが来てもいいからな」
手のひらに転生した剣の重みや形が伝わってきた。幸いな事に今度の転生先は比較的扱いやすいロングソードの形をしているようだ。あとはランクが高ければ尚良いのだが。
「うーん。まぁ、悪くはないか」
光が収束すると、そこから青く美しい刀身が姿を現した。剣ガチャの結果は、最低限のBランク『蒼穹の剣』だった。
俺はその場で何度かこの空色の剣を振ってみた。初めて使ったが扱い自体は難しいものではなさそうだった。癖もないし、なにより軽い。この剣自体に身体能力向上の魔法が付与されているのかもしれない。身体がやけに軽く感じた。
「よし、それじゃ二回戦を始めるか」
俺は軽くなった身体の感覚を確認する為にその場で何度か飛び跳ねてみた。すると、自分の身体の思わぬ所に違和感が見つかった。
「あれ?」
なぜだか手に力が入らなかった。蒼穹の剣をしっかりと握っているはずなのに、その蒼穹の剣がするりと床に落ちた。
カランと乾いた音を響かせて床に落ちた蒼穹の剣を俺はすぐさま拾い上げる。そして、自分の手のひらをまじまじと眺めた。すると、そこにはプルプルと震える小さな手のひらがあった。