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代行業者

作者: 嘉多野光

 田村正史は日付が変わってから帰宅した。

 玄関には鍵がかかっていた。同棲相手の玲香には今日は会社の飲み会で遅くなると連絡を入れておいたし、きっともう寝たのだろう、と考えながらドアを開けると、暗い玄関に人影が見えた。

「うわっ」思わず田村は声を上げ、後ろにのけぞった。

「おかえり」玲香の声だった。確かに、暗闇に目が慣れると、かすかに相手が玲香だと目でも分かった。

「てっきり、もう寝たのかと」正史は玄関横の廊下の明かりを付けた。「どうしたの? コンビニにでも出掛けるところだった?」

「聞きたいことがあったから、ずっとここで待ってた」玲香の声色はいつになく優しく、暗闇と相まってただならぬ気配を正史は感じた。

「え? LINEしてくれればよかったのに」

 努めて明るい声で正史は返した。そうでないと玲香の闇に呑まれそうだった。

「どうしても直接聞きたくて」

「何を?」

「今日、飲み会じゃなかったでしょう」

「え? 何言ってんの」

 玲香の言う通りだった。正史は、今日会社の飲み会に出て帰りが遅くなったのではなかった。

「飲み会だよ。この前のK社への大型提案が受注したって言っただろ。あれの祝い兼スタートアップ飲みだよ」

「その、大型案件が受注したってのも嘘」

 それも、その通りだった。その提案資料の準備や接待のために、今まで何度か会社に寝泊まりしたり深夜に帰宅したりしたと伝えていたが、それらも全て嘘だった。

「アカネ」

 玲香はある名前を口にした。正史はその名を聞いて、一瞬身体を震わせてしまった。玲香はそれを見逃さなかった。

「やっぱり」玲香はため息を吐いた。

「誰だそれ」

「しらを切るな!」

 玲香が大声を出した。元々大学のサークルの後輩である玲香に命令口調で何かを言われたことはなかった。正史は怯んで、何か言おうと思っていた言葉を飲み込んでしまった。

「江田茜、知ってるね」

 正史は、警察や検察からの尋問というのはこんな感じなのだろうかと思っていた。

「ええと」

「本当のことを言って」

「はい」

「その人と浮気したね」

「はい」言い逃れができなさそうだと思った正史は、事実を認めることにした。

 江田茜は、正史の会社の同僚で、二年後輩だ。とはいえ、正史は四大卒新卒で入社し、江田は院卒で入社したので、年齢は一緒だったこともあり、すぐに打ち解けた。そのうち、先輩と後輩という関係が有耶無耶になって、気付いたらそういう関係になっていた。

 一応、正史も「俺、同棲してる彼女いるから」と一度は江田の元から離れようとした。でも江田が「私は構わない」と言ったものだから、それなら仕方ないと関係を深めてしまったのだ。

 正史は交友関係において来る者拒まずのスタンスを取っており、そのために今までにも何回か問題になったことがあった。大学二年生の春休みから正史は一年生だった玲香と付き合いだしたが、正史が四年生のときにも新人と危うく浮気しそうなところまで関係が発展しかけ、玲香から一度別れ話を切り出されたことがあった。そのときは正史が謝り続けて、何とか存続したのだった。

 正史は後ろポケットからスマートフォンを取り出した。

「江田茜に連絡するの?」睨みをきかせながら玲香が尋ねた。

「いや、ちょっと」

「よくこんなときに電話なんかできるねえ」

「本当にごめん、ちょっと待って」

 江田茜から、数ヶ月前に万が一のときのためにと紹介してもらった連絡先に、祈るような思いで正史は電話を掛けた。

「あの、今からお願いできますか。ええ、大丈夫です。住所は、A区B町四丁目七番地。よろしくお願いします」

「何? 出前でも頼んだの?」

「まあ、そんなところ」

 玲香からの問い詰めを何とか回避し続けること十五分後、真夜中にも拘らずインターホンが鳴った。

「来た」安堵の溜息を吐きながら正史は玄関のドアを開けた。黒い無地のスーツを着て髪を七三に分けた男性が立っていた。

「どうも、シュラフスタッフの川島です。正史様でしょうか」

「ええ、早速よろしくお願いします」正史は家を出ようとした。

「はあ? 修羅場代行?」

 玲香が夜中にも拘わらずドアを開け放った状態でさらに大きな声を上げ、正史の腕を強く掴もうとした。しかし、その手を代行業者が制した。

「木元玲香様ですね。はじめまして、私修羅場代行業をしております、シュラフ株式会社、カスタマーサポートの川島と申します」川島と名乗った男性は慣れた様子で玲香に名刺を差し出した。「田村正史様からの依頼で参りました。以後、一切のご質問、ご意見は私が承ります。さあ、正史様、早く」

「よろしくお願いします」玲香の声を背中に受け止めながら、正史は部屋を後にした。

「何よアンタ、」

 玲香は、これからひとしきりこの修羅場代行業者とやらに話を聞いてやろうと思っていたが、田村がいなくなったことを確認すると、川島はいきなり土下座した。額を地面にこすりつけていた。

「この度は誠に申し訳ありませんでしたあ! 田村様の代わりに私川島が、心からお詫び申し上げます!!」

「え? ちょっと、顔を上げてください」あまりの光景に、さすがに冷静さを取り戻した玲香は、とっさにかがんで川島の肩を叩いた。「夜中ですし、こんなところで大声出されて土下座されても困ります」

「重ね重ね申し訳ありません!」川島の声量は、小さくなるどころかむしろ増していた。

「いやいや川島さん、でしたっけ? やめてください本当に」

「いえ、玲香様に許していただけるまで私、てこでもここから動く気はございません! どうか、どうか!」

 このような押し問答を、二人は五分ほど繰り返した。川島は、正史の浮気の理由や経緯を聞いても全く答えないが、ただ謝り続けた。土下座の最上級などと言って、アパートの廊下にうつ伏せに寝っ転がられたときには、玲香は勘弁してくれと狼狽した。これでは、浮気された側として泣きたくても泣けなかった。

「分かった、分かりましたから、今日のところはお引き取りいただけますか」

「では、田村様をお許しいただけるということですね」

「それはまた別ですが」

「ではお許しいただけるまで、私謝り続けます!」川島は、しつこいセールスマンの如くドアに足を引っかけて、玲香がドアを閉めようとするのを妨害した。

「ああもう」玲香は川島を強く玄関の外に押し出して「許します、許します! だから帰ってください!」と言って、川島を閉め出した。ドア越しに「ありがとうございます!」と聞こえた。深夜一時半になろうとしていた。


 川島を追い出した玲香は「修羅場 代行」で検索した。すると、いくつかそれらしい業者がヒットした。「あなたの修羅場の対応を代わりに引き受けます」などというキャッチコピーが並ぶ。退職代行業者という存在をニュースで知ったときも、そんなこともアウトソーシングする時代なのかと驚いたものだったが、修羅場までわざわざ請け負う会社が出現したのか。世も末だな、と玲香は思った。

 次に「修羅場 代行 口コミ」で検索すると、アフェリエイトブログと思われる記事がヒットした。その記事の内容の真偽のほどは定かではないが、一つ明確に分かったことがあった。

 修羅場代行サービスは、業者も対応するスタッフも、法律の専門家ではないことが一般的であり、弁護士のように代理人として交渉することはできない。よって、修羅場代行サービスのやることは一つ、依頼人に成り代わり相手に謝り倒し、相手を呆れさせ、泣き寝入りさせること。相手から「もういい、分かった」などというワードを引き出すのが業者の仕事である。

 無論、修羅場代行スタッフはかなり精神的に疲労が溜まる。だから、基本的には業者とスタッフは雇用主と従業員ではなく、案件ごとに契約したフリーランスだったり、短期・単発アルバイトで一時的に雇った者である。報酬は飲食業といった一般のアルバイトより何倍も時給が高く、最近は水商売や風俗業を辞めて修羅場代行スタッフに転職した女性も少しずつ増えているらしいとのことだった。

 明け方になって、のこのこと正史は帰宅してきた。玲香は眠ったフリをしていた。もう一回問い詰めてやっても良かったが、また修羅場代行に頼まれても嫌だし、何より心身共に疲れていたので、放っておいた。


 結局、玲香はそれから半年後に正史と結婚した。そのさらに一年後には第一子長女を出産し、慣れない子育てにノイローゼ気味になりながらも幸せを感じていた。

 新たな問題が発覚したのは、娘が産まれてから四ヶ月後だった。

 夜中の授乳のため、玲香は万年寝不足のようになった重い身体を起こした。すると、隣で夜中の授乳など他人事のというように静かに眠る正史の枕元で、光っているものがあった。正史のスマートフォンだった。玲香は、何気なくその画面を覗いた。


 内田 あやか

 先週は、遊園地ありがとうございました。とても楽しかったです。今度は温泉に行きたいな。


 玲香は震えの止まらない手で正史のスマホを手に取り、正史の顔に思い切り投げつけた。

「いっっ」声にならない叫びを上げて、正史は飛び起きた。

「何だよ!」

「通知」

「え?」正史はまだ少し寝ぼけているようだった。

「スマホの通知見ろっつってんだよ!」

 何だよもう、を繰り返しながら、正史はスマホを操作し、五秒後には口を閉ざした。

「お前、結局あやかとヤッてんじゃねえかよ!」

 玲香は普段口にしないような荒い言葉遣いになっていた。頭のどこかで自分自身に驚いていた。正史もただ事ではないと察したのか、顔中に汗を掻き出した。二人の大声に目を覚ましたのか、娘の杏が泣き出した。

 仕方ないので、玲香は娘をあやしながら授乳の準備を進めていると、正史が視界の隅で電話を掛けているのが見えた。どうせまた代行だろう。それなら、こっちだって手がある。

 娘を抱いたまま、玲香は寝室を出て行った。

 約二十分後、インターホンが鳴った。

「はい」正史が対応した。玄関には黒い無地のスーツを着た男性と女性が一人ずつ立っていた。

「あれ、一人プランで頼んだはずなのですが」

「頼んだのは私だよ」

 正史の背後で冷たい声がした。杏を抱いた玲香が立っていた。

「え?」

「そっちが修羅場代行でまた逃れようってんなら、こっちだって同じ手を使うまでよ。修羅場代行業者同士の謝り合い。どっちが先に折れるだろうね」玲香はこの地獄を楽しむかのように笑っていた。

 正史は「ひ、ひい」と声を上げて、つっかけを履こうとした。しかし、焦って左右反対になったり、指が出たり、もたついた。その隙に、玲香が正史の首根っこを右手で捻りあげた。

「正史」

「はあ」

「この誓約書にサインしろ。そしたら今回は見逃してやる」


 誓約書

 本日、私田村正史は、妻の玲香という存在がいるにも拘わらず、不倫をしたことをここに認めます。ついては、今度不倫が発覚した場合には、無条件に以下を承諾します。

 1. 離婚

 2. 親権

 3. 慰謝料、子ども一人につき三千万円(養育費は別途毎月請求)


「さ、三千万なんて」

「そんだけ人たぶらかしてんだから、少しはその才覚で優秀な営業成績残せば、大したことないでしょう? 田村さん?」一瞬玲香は優しく話しかけた後、「これでもまだ一回チャンス与えてやろうってんだから、有難く思え」と書類を正史の顔面にこすりつけた。

「ご、ごめんなさい」

 修羅場代行スタッフは二人の一部始終を見届けた後、しずしずとその場を後にした。

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