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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第十二章 d西海道b
83/83

1598-4 布石

<1598年 10月>


 露と落ち露と消えにし我が身かな、浪花の事は夢のまた夢。


 故人にとっては夢や幻だったのかもしれない。

 だが、現世に残された我らにとってみれば純然たる現実だ。

 盛大な夢の後片付けが始まる。


 まずは徳川家康の三男、徳川秀忠が京を出立。

 手勢を率いて江戸に向かった。


『自分の亡き後の向こう三年、徳川家康は伏見にあって政務を執り行うこと』

『江戸の統治は、徳川家康に代わって徳川秀忠が執り行うこと』


 大老職の首座となった徳川家康は、その豊臣秀吉の遺言二点を律儀に履行している。

 ただし、政情不穏な京で凶事が起こり、己と跡取りが共に討たれる危険を避けたとも取れる。

 織田信長と織田信忠の二の舞は御免なのであろう。


 そんな中、我が二階堂屋敷に五奉行筆頭の石田三成が姿を見せる。


 差し向かいで応対。


「ご存知のとおり、太閤殿下は去る八月十八日に身罷られた」


 すでにこちらが状況を把握している態で、石田三成はテキパキと話を進めてくる。


「ついては朝鮮に渡った西国の軍勢を急ぎ帰国させねばなりませぬ。左京亮殿には私と共に名護屋に赴いていただきたい」


 遠征軍の帰還作業を手伝って欲しい、との随分と急な依頼であった。


「この身は謹慎中のはずだが?」


「殿下が御身を伏見に呼ばれた時点で、すでに謹慎は解かれている」


 そうだったのか。

 この一ヶ月、屋敷に篭ってたのが無駄だったと知り、地味にショックを受ける。


「そういう大事はきちんと通達してくれねば困る」


 苦情を云うと石田三成が反論してきた。


 そもそもの最初の処罰は自領の臼杵での謹慎。

 新たに上洛命令が発生した時点で、その臼杵から離れねばならない。

 謹慎も当然解除となるのは自明であり、奉行衆の落ち度にあらず。


「さらに言えば、殿下がご臨終の際、歌舞音曲にうつつを抜かしていた方の言葉とはとても思えませぬな」


 藪蛇だったか。

 二階堂屋敷の阿国一座を招いての連日のどんちゃん騒ぎは、しっかりと石田三成の耳にも入っていたようだ。


「亡き太閤殿下は派手な演出が好きだった御仁。この二階堂盛義流の天下人の看取り方と思って、勘弁してくだされ」


 逆にこちらが言い訳せねばならなくなる。

 実に可愛げの無い漢であった。






 さて。


 石田三成の話によると、すでに五大老五奉行の連名で遠征軍宛の帰国命令は発せられていた。

 使者として徳永寿昌と宮城豊盛の両名が朝鮮に向かっている。

 一ヶ月後には釜山に帰国命令が届き、遠征軍各隊の撤退作業が開始されるだろう。


 石田三成に疑問を呈す。


「名護屋への同行とは、この左京亮に何をさせようと言うのか?」


 すでに我が二階堂家は、唐津と釜山の間の輸送隊として臼杵水軍を拠出済みだ。

 そして帰国用の船の手配の計画立案とその運用については、大仕事ではあろうが奉行衆だけでも手は足りよう。


 すると石田三成が答えてくる。


「小西行長殿の報告によれば、明国の更なる援兵が漢城に入ったとのこと。撤退前に敵が攻勢に出てきた場合、名護屋で助言を頂きたい」


 小西行長の守る順天城は朝鮮における日本軍の勢力圏の西端となり、漢城に一番近い。

 また小西行長はこれまで明や朝鮮との交渉の窓口役を一貫して務めており、部下の内藤如安に至っては北京にまで停戦交渉に赴いている。

 敵国とは言え人脈もそれなりに有り、スパイ活動も当然行っているはずで、その線からの情報であろう。


 情報通りの規模の敵軍の襲来ともなれば、とても支えきれぬと小西行長は判断。

 支軍の加藤嘉明の反対を押し切って順天城放棄を願い出るも、死ぬ間際の豊臣秀吉は無碍なく拒絶。

 逆に加藤嘉明へ加増の朱印状を発行している。


 慶長の役における明・朝鮮連合軍の四路並進策。

 史実通りに発動されそうであった。


 日本の全軍を仕切って明国との大戦の采配を振るえる大将は、徳川家康と前田利家くらいだ。

 その二人が京を動けぬ以上、近しい技量と格を持つ人物に側で補佐してもらいたいとの石田三成の希望であった。

 随分と買いかぶられたものだ。


「あいわかった」


 少し考えて了承する。


 どうせ今から名護屋に赴いても間に合わない。

 ならば石田三成の要請に応えた、という事実だけでも残しておこう。


 石田三成にはこの貸しを盾に、遠征軍帰国後の論功行賞での便宜を図ってもらう腹づもりであった。

 穏便な臼杵藩主の世代交代と、大手を振っての須賀川への転居に向けての布石である。






 共に名護屋に下る俺も、石田三成の出立の挨拶に付き合わされる。

 伏見城に赴いて五大老と対面を果たす。


 徳川家康。

 その存在感だけでなく、恰幅も随分増していて狸化してる。

 俺が天麩羅と海老フライのレシピを教えた影響と考えられる。


 前田利家。

 威厳は保っているが、顔色は優れず疲れ気味のようだ。

 史実では半年も経たずに豊臣秀吉の後を追っているが、その兆候か。


 毛利輝元。

 何やら石田三成と意味深に視線を交わしている。

 対徳川を意識して、既に五奉行と起請文を交わし済みやも知れない。


 宇喜多秀家。

 五人の中で一番若く、その分だけ肩肘を張っている。

 彼の場合は豊臣秀吉の遺言よりも家中の統制に目を向けるべきなのだが。


 長宗我部信親。

 前田利家以上に大柄で、泰然自若と構えている。

 土佐では砂糖黍の作付け面積を順調に拡大中らしく、内心ホクホクだろう。


 五人揃うと壮観だな。


 後ろに控え、石田三成の出立の口上を見守る。


「それでは行って参りまする。老衆の皆様方に置かれましては、くれぐれも太閤殿下の御遺言に背かれること無きよう」


 バチコーンと大老首座の徳川家康と目と目を合わせ、露骨に牽制に及ぶ石田三成。

 それを前田利家が渋い顔で嗜める。


「治部、わかっとるわ。お前はいつも一言多い」


 ただ徳川家康は気にした様子を見せない。

 そんなことよりも、と石田三成の肩越しに俺に声を掛けてきた。


「左京亮殿。急な役目を引き受けて頂いて感謝いたす。朝鮮からの帰陣が済んだら、蔚山城の戦いの評定をやり直そうと考えておる。名護屋での差配、お頼み申したぞ」


 甘言で俺を釣ろうとしてくる徳川家康。

 当然だが石田三成が反発する。


「お待ちくだされ。唐入りの論功行賞の加増に関しては、秀頼君ご成人まで据え置く決まり。さっそく御遺言に背かれるのか」


 挑むような物言いだ。

 それを当の徳川家康がやんわりと制する。


「何も新たな知行を定めるとは言うておらぬ。沙汰の見直しと申しておる。朝鮮在陣中の加藤清正、黒田長政、浅野幸長、加藤嘉明らから儂の下に嘆願書が届いておってな。誰が見てもおかしな裁定は、改めておかねば豊臣家の御政道が立ち行かぬ。それこそが太閤殿下から後を託された我らの役目であろう」


「蔚山城の戦いの論功行賞は、亡き太閤殿下がお決めになられたもの。それをひっくり返すなどあってはなりませぬ!」


「それはあくまで、軍目付けの正しき報告が太閤殿下のお耳に入っていたのならば、の話よ。ここにおられる宇喜多殿、長宗我部殿も朝鮮の現地にて左京亮殿の活躍を間近に見ておいでだ。そのご両所も腑に落ちぬ扱いと申されておる。のう?」


 徳川家康に話を振られ、宇喜多秀家と長宗我部信親も二人のやり合いに参加せざるを得なくなる。


「治部よ。さすがにあれはおかしいと思うぞ」


「問題のある軍目付けだったと聞き及びますが」


 宇喜多秀家の方は、その若さから筋を通そうと純粋に。

 長宗我部信親の方は、かつて戸次川の戦いで同じく軍監の仙石秀久と衝突した苦い経験があるからか。

 両者とも俺に同情的であった。


 徳川寄りではない大老二人も苦言を呈すほどだ。

 軍目付けの福原長堯と太田一吉は、石田三成の妹婿と元部下である。

 事実を捻じ曲げて己の利を得た彼らの行為は、石田三成にとって実に手痛い失点になってしまったと言えよう。






 それに、と徳川家康は続ける。


「太閤殿下の御遺命に背こうとしているのは、石田治部。そなたの方であろう」


「何を仰られるか。聞き捨てなりませぬ」


「毛利秀元殿の独立と小早川隆景殿の遺領の件よ。何でも吉川広家殿を出雲伯耆から他所に移そうとしているとか。毛利中納言殿ともども、亡き太閤殿下の御指図に逆らうつもりではないのか?」


 突然矛先を向けられた毛利輝元が身じろぎする。


「それは・・・」


「その件で太閤殿下がお決めになられたのは、この治部に一任頂いたことのみ。御遺命に背いた事実はござらぬ」


 毛利輝元を遮ってピシャリと石田三成が反論する。


 この小早川隆景の遺領問題は中々に複雑だ。

 ある意味、史実の関ヶ原の戦いでの東軍勝利を確定させた遠因である。


 毛利輝元は四十過ぎまで実子がおらず、叔父の穂井田元清の息子秀元を養子とし、毛利家の跡取りに定めていた。

 しかし三年前に側室の周姫が男子を出産し、祖父の毛利元就と同じ幼名、松寿丸の名が与えられる。

 この松寿丸の登場で、毛利秀元は嫡男の座を譲らねばならなくなり、その見返りとしての毛利家からの独立が決まる。

 その領地の捻出と合わせて、小早川隆景と穂井田元清が相次いで亡くなったこともあり、毛利輝元は毛利領内での大幅な国替を生前の豊臣秀吉に願い出た。


 豊臣秀吉は当初、小早川隆景の遺領を毛利宗家に戻し、その代替として毛利秀元に彼の実父穂井田元清の遺領を割譲する案を示していた。

 だが、正式な知行安堵状を用意する前にその病状が悪化。

 黒田官兵衛から毛利家取次役を引き継いだ石田三成に後の手続きを全て任せ、そのまま亡くなってしまった。


 小早川隆景の遺領の備後三原と穂井田元清の遺領の長門周防は、どちらも瀬戸内海に面しており通商の利が望める。

 毛利家中の中央集権化を推し進めたい毛利輝元は、毛利宗家によるそれらの領地の接収を欲していた。

 その上で吉川広家を備中に移し、空いた出雲伯耆に毛利秀元を封じようと目論んで石田三成に接近する。

 徳川家康に対抗する戦力を求めていた石田三成はその提案に応じ、毛利輝元の意向に沿った内容に国割案自体を改めてしまう。

 当然ながら毛利秀元と吉川広家の両者は難色を示し、毛利家中では不穏な空気が流れていた。


 そんなライバルの大老のお家騒動の芽を見逃さないのが、豊臣秀吉亡き後の徳川家康という男だ。

 おそらく石田三成と同じ五奉行で、徳川家康に近い浅野長政あたりからのタレコミがあったものと思われる。


「吉川広家殿の治める出雲伯耆は、勇将と名高い今は亡き吉川元春殿から引き継いだ所領と聞く。確たる理由も無しに取り上げるのは、如何なものか」


 国政を預かる五大老の首座として、西国の端々まで己の目は行き届いていますよとアピールしてくる。

 嫌味無く自分を大きく見せるのが実に上手い。


 しかし、すでにこの時期からピンポイントで吉川広家に食指を伸ばしてくるとは恐れ入る。

 歴史知識チーターの俺以外には、この場の誰も理解できないであろう見事な布石だった。






 毛利輝元は見るからに不機嫌となる。

 自分の家の揉め事に外野から口を挟まれるとなれば、当然気分が良いものではない。

 正論を楯にされたら尚更だ。


「内府殿には関わりなき我が家の内の話なれば、口出しは無用に願いたい」


 もちろん徳川家康も譲らない。


「いや、これは公儀の話よ。石田治部が任されたのは秀頼君への申し次の段のみと考える。申し次ぐ国割の内容自体は、あくまで太閤殿下の御遺志に沿うべきであろう」


 遺言の解釈論にまで及んできた。


 そうなると石田三成も退けなくなる。

 徹底抗戦の気構えにシフトしたのが、後ろから見ていてわかった。


 まずい。

 このままでは関ヶ原の戦いに一直線だ。

 すぐさま火消しに入らねば!


 だが俺が動く前に、先に大喝が入る。


「やめぬか!!」


 前田利家だ。


「渡海した諸将を無事に戻す算段をつけるのが先であろう。毛利の話は治部が戻ってきてから吟味いたす。よろしいな内府殿」


 さしもの徳川家康もこの時点での前田利家との衝突は避けざるをえない。

 大人しく引き下がってくれた。


 前田利家が続ける。


「それと左京亮。そなたの扱いについては儂も納得しておらぬ。思うところがあれば、この場で申してみよ」


 上手い具合に発言の機会を用意してくれた前田利家。

 その配慮をありがたく受け止め、この場を治める方向に話を持っていく。


「されば軍目付け連中の働きの再評価は賛同しますが、我が臼杵二階堂家に下された太閤殿下の御沙汰については、見直し無用に願います」


 追加査定の名目で文治派の横暴を証明出来れば、徳川家康は慕って来る武断派への言い訳も立とう。

 そして俺に下された沙汰はそのままとすれば、石田三成の望む太閤遺言遵守の体制は継続となる。

 両者の面目を守れる玉虫色の提案を、当事者の俺が主張するのだ。

 これで言い出しっぺの徳川家康も強くは出られまい。


「そのかわり、今回の御役目を無事果たせた暁には、それがしの須賀川への隠居を是非とも認めて頂きたい」


 もちろん、どさくさ紛れに自身の引退を要望しておくことも忘れない。

 早々に布石を使う展開となってしまったな。






 豊臣秀吉の遺言を巡る言い争いは、俺の突然のリタイア宣言でうやむやになる。

 困惑気味の徳川家康が探りを入れてくる。


「故郷に引き篭もりたいと言われるか。どこぞ病でも抱えておられるのかな?」


「いえ。人間五十年。気付けばその区切りはとうに超えており申した。ならば余生を悠々自適に過ごしたいと考えるのは自然なこと」


 もともとが小田原征伐時に奥羽鎮守府の無事を保証する条件で、御伽衆として豊臣秀吉に奉公する責務を負って上洛した身だ。

 その豊臣秀吉はすでに亡く、豊臣秀吉から直に命じられていた朝鮮遠征中の小早川秀秋のサポート役も、謹慎処分の時点で解かれている。

 もうゴールしても誰も文句は言わないだろう。


 伊達政宗以外は、だが。


 あの臍曲がりが俺の奥州帰還を嫌がるのは確実だ。

 ならば、それを黙らせるにはどうすれば良いか。

 ここにいる五大老の同意を得る他に道はあるまい。


「徳川内府殿や加賀大納言様と違い、背負っている荷は軽うございますゆえ」


 俺と同じく五十歳オーバーの両者に向けて、発言を付け足す。

 老いても重い荷を下さない彼らの姿勢に対して単純に凄いなとの尊敬の念もあるし、その年でよくやるよと呆れ気味の揶揄もある。

 己の身軽さをアピールしたい淺ましい優越感と、貴方達なら引退を望むこの気持ちわかるよねとの共感を得たい思いも入り混じっている。

 我ながら中々説明し辛い、複雑な感情を乗せた言葉であった。


 後は故郷に帰り、孫の盛宗らの世代の活躍を見守る日々を過ごしたい。

 その俺の回答を受けて、前田利家が嘆く。


「羨ましい限りよの」


 彼もまた今年四月に嫡男利長に前田家の家督を譲っているが、豊臣秀吉の遺言で大老職に縛られたままだ。

 自分の命がそう長く無いのを悟って、すでに前田家の天下は諦めているのだろう。

 跡に残す利長や利政ら前田家の立場を盤石なものとするため、最期まで豊臣秀頼の後見役を全うする覚悟を決めた顔であった。


 翻って徳川家康はどうか。


 こちらの心底を見定めるつもりか、じっと視線を向けてくる。


 ハイライトの消えた、深淵の如き昏き両の眼だ。

 初めてその本性を覗き見た感がある。

 当然の話ではあるが、どうやら重い荷を背負って誰よりも遠くまで旅を続ける心づもりのようだ。


 やれやれ。

 そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。






 五大老の前を辞した後、石田三成と俺が最後に訪れたのは、豊臣秀頼の御座所である。

 豊臣秀吉が豊臣秀頼の側に配した傅役五人が揃う中、代表して片桐且元が朗らかに告げる。


「秀頼君の御成です」


 頭を下げて待つ。


 数え年六歳の豊臣秀頼が、生母の淀の方こと茶々姫に連れられて登場。

 この二階堂盛義にとって、これが初めての豊臣秀頼との対面となる。


 石田三成に促されて、挨拶の口上を述べる。


「初めて御意を得まする。二階堂左京亮盛義にございます」


「くるしゅうない。おもてをあげよっ」


 頑是ない幼児であった。

 舌っ足らずの応対が可愛らしい。


「まぁ秀頼、よく出来ました」


 茶々姫が微笑む。


 茶々姫も確かもう三十歳になるのか。

 前に遠目で見たことがあったが、変わらず可憐である。

 二人子供を産んでるとは思えぬ透明感だった。


「茶々です。左京亮殿は秀次公の側近だったそうですね」


「はい。付家老を数年ほど」

 

 豊臣秀頼に代わって茶々姫が話を進めてくる。


「何でも鎌倉以来の名家で、東国に大きな領地をお持ちだとか。宇都宮でしたかしら?」


「今は九州の臼杵を治めておりまする。東国の所領は息子たちに譲りました」


「そうですか。宇都宮とはどのようなところなのでしょう?聞かせてください」


 ぐいぐい来るな。

 いや、まぁそれも当然か。


 石川五右衛門は今、宇都宮で風魔衆を率いている。

 茶々姫と石川五右衛門はもう六年も会えていない計算だ。

 豊臣秀吉が亡くなった今、ようやく耐え忍ぶ必要が無くなったとも言える。


 その後も茶々姫の宇都宮についての取り止めない質問が続く。

 石田三成が咳をして片桐且元に何とかしろと合図。

 彼らはなぜ茶々姫が宇都宮に興味津々なのかその理由を知らない。


 片桐且元がおずおずと止めに入る。


「お、お方様、宇都宮の話はそれくらいに。両人はこれから重要な役目を果たすため、正反対の九州に向かうのです」


 茶々姫は残念そうだ。

 仕方ないですね、では最後に私から左京亮殿へのお願いです、と特大の爆弾を落としてくる。


「宇都宮には餃子という美味しい食べ物があると聞きました。宇都宮から私の手元に届けさせるよう、手配なさい」


 これはまた厄介なことになった!

 わざわざ宇都宮から出前を呼べとは。


 その裏の意味はもちろん、愛しい石川五右衛門を上方に呼び戻せだ。


「・・・善処いたしましょう」


 前向きな回答をせざるを得ないが、吉乃が許すとはとても思えん。

 石川五右衛門と吉乃の夫妻からは現在第三子懐妊中と聞いている。

 余計に難しいだろう。


 尚、石田三成の出立の挨拶への茶々姫の返答は、至極簡素であった。


「太閤殿下の御遺命を果たすべく、行って参りまする」


「三成、頼みました」


 そして片桐且元を通して餞別の品が渡される。


 同じ近江閥とは言え、茶々姫にとって豊臣秀吉に忠節を誓う石田三成は煙たい存在なのだろう。

 有り体に言えばおざなりな対応だ。


 史実の関ヶ原の戦いで石田三成が豊臣秀頼を担ぎ出せなかった理由。

 それを垣間見させられていた。






<1598年 11月>


 名護屋に向かう道中、石田三成の指示で広島城に立ち寄る。


 ただの宿泊かと思いきや、石田三成には目的があった。

 小早川隆景の遺領問題を巡っての、広島城で留守居役を勤める毛利秀元との調整である。

 尚、もう一人の当事者である吉川広家は、家老の福原広俊と共に名護屋城で在番中だ。


 偶然その夜遅く、名護屋に先入りしている奉行の増田長盛からの早馬が広島城に到着。

 朝鮮現地での明・朝鮮連合軍の四路並進策の発動を告げる、石田三成への緊急の書状である。

 代わりに受け取ったのは良いものの、肝心の石田三成の姿が寝所に見えない。


 広島城内を探し回ったところ、毛利秀元後見の安国寺恵瓊の説得にあたっている石田三成を発見。

 制止を振り切って強引にその場に乗り込み、良い機会なのでその了見違いを正しておく。


「治部殿よ。頼る相手を自ら弱らせて、いったい如何なさるつもりか」


「突然何を申される」


 たじろいでる石田三成を尻目に、床の間に置かれている矢籠から矢を三本拝借。


「毛利家の強みは、この矢で表すことが出来よう」


 三本の矢を握って突き出すと、安国寺恵瓊が反応する。


「元就公の三矢の教えでございますな」


 うむ、と頷いて矢籠から更に追加で二本の矢を取り出す。


「されど時代は移ろい、毛利家の矢は今五本に増えようとしておる。輝元殿、広家殿、秀包殿、秀秋殿、秀元殿の五人よ」


 安芸広島100万石の毛利輝元。

 出雲伯耆隠岐14万石の吉川広家。

 筑後久留米13万石の毛利秀包。

 筑前名島31万石の小早川秀秋。

 そして宙に浮いた備後三原6万石の故小早川隆景隠居領と、これから独立する毛利秀元。


 矢を並べる。

 その他、ここにいる安国寺恵瓊を含む周辺の毛利家与党の勢力を合わせれば、ざっと180万石ほどまでその影響範囲は広がる。


「五本の矢が一つの的に向かって放たれた時、毛利家は無類の強さを発揮しよう」


 脇差を抜き、その内の一本の矢の中程に刃を当て、その矢柄を削る。


「しかるに今の治部殿の為されようはこれよ。本命の矢以外を細らせ、まともに飛ばぬように仕向けておる。これでは敵に利するのみぞ」


 何が言いたいかは伝わったようだ。

 されど、と石田三成は反発してくる。


「毛利中納言殿は毛利宗家への力の集中を望んでおいでだ。徳川内府に対抗するためには致し方あるまい」


 広島城の築城や輝元出頭人の設置など、中央集権化を早急に進めたい毛利輝元の気持ちはよく分かる。

 だが時期が悪かった。

 徳川家康の寿命が尽きるまで待てよと打明けて助言したいところである。


「まずはこの五本の矢を束ねることに心を尽くされよ。さすれば徳川内府殿も容易には西国に手が出せなくなる。毛利家が安泰であれば、それは秀頼君の将来に繋がる」


 石田三成は徳川と毛利が手を組み、豊臣秀頼を軽んじる動きに出てくるのを心配しているようだがそれはない。

 豊臣秀頼は言うなれば錦の御旗だ。

 大諸侯が牽制し合う状況を作り出すだけで、豊臣秀頼の安全は保障される。

 誰も第二の明智光秀には成りたくはないのだ。


 そして伏見にて徳川家康の瞳の奥を覗き込んで、よくわかった。

 今は前田利家が重石となって封じているが、いずれ徳川家康と毛利一族の対決は避けられまい。

 別段石田三成が今の時点で毛利輝元に恩を売らなくても、自ずと両者の連合は成立する。


 説得すべき相手は毛利秀元と吉川広家ではなく、毛利輝元だと力説。

 居合わせている安国寺恵瓊の助力も得て、石田三成を納得させることに成功した。






 ようやく名護屋に到着する。

 到着と同時に、増田長盛が朝鮮から届けられた現地の最新情報を報告してくる。

 四路を並進してきた明・朝鮮連合軍との戦さの大勢は、すでに定まっていた。


 東の蔚山城に東路軍3万人。

 中央の泗川城に中路軍3万人。

 西の順天城に西路軍3万人と水軍2万人。


 押し寄せてきた敵兵の数は、合して11万人を超える。


「順天と蔚山はいまだ戦さが続いているが、泗川にて島津義弘殿、単軍にて敵勢3万を撃破。大勝利を得たとのこと!」


 石田三成が称賛の声を上げる。


「泗川城の守りは8千程と聞いている。さすがは島津、と言ったところか」


 籠城ではなく城外に打って出て、必殺の釣り野伏せを発動させての完全勝利である。

 これで史実同様、鬼島津の武名は遠く明まで鳴り響こう。


 中路軍が撃破されたと知れば、各々で城攻め中の西路軍と東路軍にも動揺が走っているはず。

 今頃は撤退する両軍に対し、城方と釜山からの援兵のよる盛大に追い討ちが繰り広げられていてもおかしくない。

 朝鮮と名護屋間の伝達速度を鑑みれば、戦いは最早決着しているやも知れん。


 泗川城の敵勢が壊滅したとなれば、亀浦城の二階堂軍は蔚山城側の救援に向かっているものと思われる。

 蔚山城は加藤清正が率いる1万人の兵が守備中だ。

 補佐の前田利益らの指導で、息子の行栄が無事に初陣を果たせていることを祈ろう。






<1598年 12月>


 明・朝鮮連合軍が仕掛けてきた四路並進策は、島津兵の人外の武勇によって失敗に終わる。

 これで遠征軍の帰国の見通しが立った。

 名護屋城にて帰還兵を迎え入れるための準備に奔走していると、朝のミーティングで石田三成が告げてくる。


「朗報にござる。小西行長殿が明の将軍と交渉し、無血での順天城からの撤収が可能になりもうした」


 増田長盛が嬉しげに膝を叩く。


「それは重畳。これで撤退のための船の手配の計画も上手く回りましょう」


 どこまで行っても文官肌な奉行二人である。

 呆れて口を挟む。


「もしやこれで敵の追撃が無くなった、とでも思われているなら早計に過ぎようぞ」


 石田三成が問うてくる。


「どういうことでござろうか。明軍が約定を破って攻めてくる、と仰せか?」


「それも有るだろうが、まず小西殿が交渉した相手は明の将軍であって、朝鮮の水軍の将とは何も約束しておらぬ」


 故郷を焼かれた朝鮮の将兵たちにしてみれば、黙って日ノ本の兵を見送るなど耐え難い話。

 所詮は他国の明の将軍の恩着せがましい上から目線の命令など、彼らからすれば知ったことではないはず。

 復讐の機会を狙っているに決まっている。


 順天城の周囲の絵地図を用意させる。


「敵は光陽湾に水軍を進出させ、順天城を海から囲んで小西殿の脱出を阻むはず。それから援軍を送っても遅すぎる」


 さらに順天城の東側の南海島の地図を取り出す。


「日本が援軍を出したと察すれば、敵はこの南海島の北、海域の狭い露梁津に船を移動させ、待ち伏せを仕掛けてくるは必定」


 わざと先鋒が素通りさせられ、船団が伸び切った状態で北と南から挟撃されたら、さしもの日本軍も苦戦は免れない。


「仕掛けるなら朝鮮水軍が単独で順天城を包囲している時点が一番効果的よ。後背から襲いかかれば、船列を立て直す間もない敵に大打撃を与えることが出来る」


 地図の上に駒石を置き、わかりやすいように論じる。


 石田三成の許可を得て、使者を釜山に向けて発たせる。

 使者が向こうに着く頃には、泗川城の島津義弘や安骨浦城と加徳城の立花兄弟らの軍勢が巨済島に集結しているはず。

 ギリギリのタイミングであった。






 俺の策が見事に功を制し、史実の露梁海戦は回避される。


 順天城から出発した小西行長の船団に気を取られた隙に、背後からの島津家の水軍の奇襲を喰らった光陽湾封鎖中の朝鮮水軍。

 矢弾の集中砲火に晒され、最初の一撃で朝鮮水軍統制使の李舜臣が戦死。

 指揮系統を失った朝鮮水軍は散り散りとなり、島津義弘や立花宗茂らによって各個撃破されて崩壊の一途を辿る。


 追っ付け駆けつけてきた明の水軍も日本軍の勢いを止められず、先陣を務めた水軍副総兵の鄧子龍が討死。

 さらに一度は順天城に引き返していた小西行長の軍船が再度突出を開始したため、明の水軍はその横腹を突かれる格好となる。

 小西兵に囲まれて脱出不能となった明の水軍総兵の陳璘が降伏を選択し、光陽湾海戦は日本の完全勝利で終結する。


 この海戦に参加した日本水軍の兵数は、小西勢を除けば1万人を超える。

 しかし、戦死者の数は50人にも満たず、討死した高級将官の名前は一つも無かった。

 翻って明と朝鮮の水軍は参戦した船の半数を失い、人的被害も絶大だ。

 鄧子龍や李舜臣らの将軍佐官クラスの人材が多く戦死を遂げ、主将である陳璘までもが捕虜になっている。

 文禄の役と慶長の役を通じ、碧蹄館の戦いや泗川の戦いに比する大勝利として、この光陽湾海戦も日本の戦史にその名を刻まれることになろう。


 唐津まで赴き、続々と帰還してくる日本軍の船団を見守る。

 もうすぐ我が二階堂家の軍勢も戻って来るはずだが気は抜けん。


 冬の海は荒れる。

 そして風と水が冷たくて凍える。

 帰還兵の体力も相当疲弊していることであろう。


 石田三成は帰国した将官を労るための宴席の用意をしていると聞くが、まったくわかってない。

 悪酔いした加藤清正に絡まれるオチが見えている。


 それに比べ、我が二階堂陣屋の湯屋の棟々の準備は万全だ。

 人足を大いに雇ってこの一ヶ月で整備した急造りな施設となるが、薪も水も湯女たちも全て揃えてある。

 将だけではなく兵たちもまたその疲れをしっかりと癒し、残る臼杵までの帰路に備えてもらわねばならぬ。


 臼杵に帰るまでが遠征です。






〜 第十二章完 〜






<年表>

1598年 二階堂盛義 54歳


01月

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、鳴梁海戦の軍功を認めて藤堂高虎(42歳)を讃岐半国8万石に加増。

□明の経略の邢玠率いる四万の遠征軍が漢城に入城。

□明の万暦帝(35歳)、沈惟敬を北京で公開処刑。

◎蔚山城普請中の二階堂盛義、軍目付けの太田一吉(32歳)の指示に従わず、氷塊造りに注力。

□蔚山城に楊鎬将軍率いる明・朝鮮連合軍五万七千人が襲来。第一次蔚山戦役開始。

◎蔚山城の二階堂盛義、明の先発隊を撃破して内城に撤収。三ノ丸に籠って明・朝鮮連合軍に出血を強いる。


02月

□西生浦城の加藤清正(36歳)、三万の兵で籠城中の蔚山新城を救援。明・朝鮮連合軍を撃破。

◎蔚山城の二階堂盛義、撤退する明・朝鮮連合軍への追撃を見送る。軍目付けの太田一吉(32歳)と衝突。

▼比内の浅利頼平(44歳)が病死。息子の浅利広治が家督継承。

☆美濃で稲葉正成の正室の阿福(19歳)が正成長男を出産。

▽柳川で立花宗茂の側室の八千子(30歳)が宗茂五男を出産。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、第一次蔚山戦役の勝報を受けて慶長四年の朝鮮出兵を計画。在番衆と帰国組を編成。


03月

□釜山の小早川秀秋(17歳)が諸将を集めて評定を開く。順天・梁山・蔚山の三城からの撤退を議論。

◎釜山の二階堂盛義、梁山城破却の注進状に署名。朝鮮在陣の諸将に豊臣秀吉(61歳)の余命を仄めかす。

□朝鮮在陣の長宗我部信親(33歳)、豊臣秀吉(61歳)の帰国命令に従って朝鮮から撤収。

□明の万暦帝(35歳)、蔚山での戦勝の奏上を受ける。国威が彰かになったとして楊鎬を称揚。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、梁山城破却しての戦線縮小を承認。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、呂宋壺がただの便器だったと知って激怒。納屋助左衛門(33歳)の資産の差し押さえを命じる。

□ルソンの納屋助左衛門(33歳)、邸宅と家財を大安寺に寄進して日本を脱出。


04月

□蔚山新城の加藤清正(36歳)、蔚山新城の再普請を完了。毛利秀元(19歳)と浅野幸長(22歳)が帰国。

□梁山の黒田長政(30歳)、梁山城を破却して亀浦城まで撤収。

◎仙台で岩城盛行(28歳)の正室の甲斐姫(26歳)が第四子懐妊。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、第一次蔚山戦役の軍功を査定。報奨を決裁。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、加藤清正(36歳)を肥後半国25万石に加増。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、浅野幸長(22歳)を甲斐府中20万石に加増。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、黒田長政(30歳)を豊前中津18万石に加増。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、福原長堯(47歳)を豊後府内13万石に加増。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、二階堂盛義へ二階堂行栄(16歳)との交代での臼杵謹慎を命じる。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、醍醐の花見を開催。女官千三百人を集める。梯子からの落下を秘す。


05月

◇宇都宮で石川五右衛門の妻の吉乃(27歳)が懐妊。

◎釜山の二階堂盛義、五ヶ条の咎で謹慎処分を受ける。大野7万石の代官職も太田一吉(32歳)に交代。

▲浅間山で噴火。参拝客多数死亡。

★土佐の長宗我部信親(33歳)、嫡男の千雄丸(4歳)を連れて上洛。

★上洛中の長宗我部千雄丸(4歳)、豊臣秀吉(61歳)の猶子となり元服。長宗我部秀親を名乗る。

★在京の毛利輝元(45歳)、権中納言辞任。

★在京の前田利長(36歳)、豊臣秀吉(61歳)の推挙で従三位・権中納言叙任。


06月

□明の万暦帝(35歳)に投獄されていた石星、獄中で病死。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)の病状が悪化。胃痛に襲われる。

◎謹慎を命じられた二階堂盛義、武断派に慕われてて困惑。息子の二階堂行栄(16歳)に軍を引き継いで朝鮮を離脱。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、遺言書を用意して諸大名に誓紙血判を求める。

□順天の小西行長(43歳)、明の大軍接近を知って順天城放棄を主張。加藤嘉明(35歳)と対立して豊臣秀吉に判断を仰ぐ。


07月

★伏見の豊臣秀吉(61歳)の病状がさらに悪化。赤痢に襲われる。

□明の万暦帝(35歳)、蔚山の戦勝が虚報と知って楊鎬を解任。

◎二階堂盛義、臼杵に帰還。謹慎開始。

■仙台で伊達政宗の側妾の香の前(21歳)が出産。政宗四女の津多姫誕生。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、順天城放棄案を却下。加藤嘉明(35歳)を讃岐半国9万石に加増。


08月

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、前田利家(58歳)の屋敷にて諸大名への形見分けを実施。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、徳川秀忠の娘の千姫(1歳)と豊臣秀頼(5歳)の婚約を指示。

■仙台の伊達政宗(31歳)、急遽上洛。豊臣秀吉(61歳)から徳川家康(55歳)の監視を要請される。

■在京の伊達政宗(31歳)、豊臣秀吉(61歳)の推挙で従二位・大納言叙任。独自の遠洋航海可能なガレオン船建造と、慶長遣欧使節派遣の許可を得る。

◎謹慎中の二階堂盛義、豊臣秀吉(61歳)の上洛命令に従って臼杵を出立。

▲九州で大雨。水害多発。


09月

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、毛利家後継の差し替えを承認。小早川隆景の遺領問題を石田三成(38歳)に託す。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、生存が確認された故豊臣秀次の遺児菊姫(3歳)と伊達秀宗(7歳)の婚約を指示。

◎上洛した二階堂盛義、豊臣秀吉(61歳)に抹茶ミルクを献ず。謹慎処分を忘れられてて草。

★伏見の豊臣秀吉(61歳)、自筆の遺言状をしたためる。

★伏見で豊臣秀吉(61歳)が薨去。

◎在京の二階堂盛義、出雲阿国(22歳)の踊りに見惚れる。

★伏見の五大老五奉行、豊臣秀吉の死を隠蔽。方広寺で千僧供養を開催。

★伏見の五大老五奉行、朝鮮に徳永寿昌(49歳)と宮城豊盛(43歳)を派遣。全軍撤退を伝達。


10月

★伏見の徳川家康(55歳)、嫡男の徳川秀忠(19歳)を江戸に下向させる。

◎二階堂盛義、五大老と豊臣秀頼(5歳)と面会。淀の方(29歳)より難題を吹っ掛けられる。

◎二階堂盛義、石田三成(38歳)に付き従って名護屋に移動。道中の広島城で新五矢の教えを開陳。

□第二次蔚山戦役で加藤清正(36歳)が明・朝鮮の東路軍三万人を撃退。

□泗川の戦いで島津義弘(63歳)が明・朝鮮の中路軍三万人を撃退。

□順天城の戦いで小西行長(43歳)が明・朝鮮の西路軍三万人及び水軍二万人を撃退。

◎亀浦城の二階堂行栄(16歳)が初陣。立花宗茂(31歳)と共に蔚山城を救援。


11月

▽名護屋に到着の石田三成(38歳)、増田長盛(53歳)と遠征軍の帰還受け入れの準備を開始。

◎名護屋に到着の二階堂盛義、二階堂家の陣地の改造を開始。

□順天城の小西行長(43歳)が明軍と交渉。無血撤退の約定を取り付ける。

★京で後陽成天皇(27歳)が弟の八条宮智仁親王(19歳)への譲位の意向を示す。徳川家康(55歳)が譲位無用と奏上。

◎仙台で岩城盛行(28歳)の正室の甲斐姫(26歳)が三男箒丸を出産。

◎塩谷で塩谷義通(51歳)が病死。嫡男の塩谷義保(19歳)が家督を継ぐ。

◎佐野の佐野行久(22歳)の正室珠姫(22歳)が懐妊。


12月

◎二階堂盛義、名護屋から順天城への援軍派遣の指令を発する。

★伏見の徳川家康(55歳)、ルソンとの交易を模索。

□日本軍、朝鮮からの撤収開始。李舜臣(53歳)、順天城を海上から包囲。

□光陽湾海戦で日本軍大勝。島津義弘(63歳)、鄧子龍(67歳)と李舜臣(53歳)らを討ち取る。小西行長(43歳)、陳璘(55歳)を捕らえる。

□日本軍、朝鮮からの撤収完了。慶長の役終了。

◎二階堂盛義、帰国した二階堂勢と合流。臼杵に帰還。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽以北

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州

□海外


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 107万6千石

・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 白川郡 会津郡 31万2千石

・奥州 田村郡 標葉郡 楢葉郡 菊多郡 磐前郡 磐城郡 24万石

・野州 河内郡 芳賀郡 都賀郡 那須郡 塩谷郡 安蘇郡 足利郡 梁田郡 46万4千石

・豊後 海部郡 13万石 − 7万石 (NEW!)

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― 新着の感想 ―
[一言] 今元就… 奥さんが今巴だし今義仲でいいんじゃ
[一言] もう既に対徳川で暗躍する黒幕扱いされてない? 三成諫めて毛利家強化策を授けたり、長曾我部に砂糖植えさせて国力増強させたり、朝鮮出兵を総指揮して西側諸大名支援して被害を低減させたり、所領の安堵…
[一言] 隠居したい(勲功を重ねないとは言ってない)。 最適解は西の黒田如水と東の二階堂盛義を大阪に詰めさせて家康をけん制させることだと気づけ三成
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