1596 崩楽
<1596年 2月>
妻の南御前が臼杵に来てくれて、いろいろ助かっている。
やはり城の奥に正室がドンと構えてくれていると、重みが違う。
城中の規律もピリリと引き締まっているのが分かる。
奥向きの者たちだけでなく、侍武者たちへの影響も大きい。
臼杵藩の中心である本城の臼杵城の軸が定まったことで、国全体の構造が堅固になった感がある。
南御前の人柄と力量もあろう。
正月になって、その南御前と地震に関して会話を交わす。
「この臼杵に来ていろいろ調べてみれば、十年前の天正十三年に大きな地震が発生していた。佐賀関半島の反対側の大在の海浜が、津波で数里襲われたという。備えが必要だ」
「この豊後で今年また大きな地震が起こると、夫殿は考えているのだな」
俺は大地震の十年再発説をこの臼杵でも積極的に唱えていた。
だいぶ浸透してきたように思う。
「うむ。津波が参るとなれば、城下にいる侍どもの家族をこの城に収容せねばならぬ。怪我人も多く出よう。相手をせねばならなくなる侍女たちを指導してほしい」
「わかった。協力しよう」
南御前に疑念はない。
すんなり信じてくれた。
夫婦の絆を感じる。
四十年も連れ添ってきたのだから、それも当然か。
いやいや、ありがたいことである。
臼杵藩の民政の実務者である岡重政を呼ぶ。
そして、日本初となる防災訓練の実施を宣言する。
「防災訓練、とは如何なるものでしょうや」
俺が大書して壁に張り出した四文字に困惑している岡重政。
「臼杵城下の町屋と侍町の五軒ごとに組を発足させよ。組ごとに避難場所を決め、鐘の音と共に一斉に避難させるのだ」
持ち回りで先導役の当番と副番を務めさせ、組の人数を把握させておく。
避難開始時に点呼をさせ、避難所に着いたら再度点呼して避難出来た人数を報告させる。
難しいことを教え込むのは無理なので、作業は単純化しておくに限る。
防災訓練の要諦を岡重政に伝授する。
「二ヶ月後を目処に、計画を練るように」
敵が城に攻めてきた場合の対応と何も変わらない。
従わぬ者がいれば罰するのみ。
あと、もぬけの殻となった城下に残って盗みを働いた者は死罪な。
ただし、鞭だけでは人は動かない。
飴も必要なのは重々承知だ。
「目付けを置いて組ごとに競わせようではないか。所定の場所にいち早く避難を完了させた組には、町内ごとに報奨金を出す」
本国の南奥下野を治める息子の二階堂盛隆から、不用と断ったのにも関わらず、新領地の経営に役立てて欲しいとそこそこの金銀が送られてきた。
豊臣秀次が生きている今、関ヶ原の戦いの発生確率は低下し、東国での戦支度の状況に目くじらを立てることもなくなった。
わざわざ送り返すのも難だし、ありがたく使わせてもらおう。
「臼杵城下でまず問題点を洗い出した後、津久見や佐伯などの海沿いの集落にも展開せねばなるまい。訓練であれ、一度でも避難させておけば、その経験は必ず役に立とう」
「は、ははぁー。かしこまりました!」
何やら岡重政はやる気に満ち溢れた顔付きだ。
大変結構である。
<1596年 4月>
やはり実際に試してみると、いろいろ問題が出てくるものだ。
初めての避難訓練は散々であった。
報奨金目当で意図と違う形で熱が入ってしまい、お祭り騒ぎになってしまったのが痛恨である。
各避難所に配置した目付けから上がってきた報告に目を通す。
岡重政と改善点を議論していると、小姓が志賀親次の来着を知らせて来る。
志賀親次は意外な人物を臼杵城に案内してきた。
六十歳を超える老神父が目の前に通される。
志賀親次が恭しく紹介。
「こちら、イエズス会の著名なパードレ様にございます」
「ルイス・フロイスにございまする。本日ハ、御目通り叶いまして真にアリガトウございまする」
今から三十三年前の永禄六年に、ルイス・フロイスは三十一歳の若さで長崎に上陸。
肥前で日本語を学んでいたところを、同じイエズス会士のルイス・デ・アルメイダに上洛を要請される。
ルイス・デ・アルメイダは、今は伊達政宗の側室となっている南蛮女医ジュリエッタの叔父になる。
永禄七年に時の将軍の足利義輝に謁見し、畿内での布教活動に勤しむ。
続く永禄八年に足利義輝が三好三人衆に弑されると、今度は織田信長に接近した。
永禄十二年の二条御所の建築現場で、人夫を斬り殺す織田信長を間近で見た後に初めて謁見。
天正八年の安土城では、巡察師のヴァリニャーノを連れて地球儀と弥助を献上している。
そして天正十五年に織田信長の後継の豊臣秀吉が伴天連追放令を発布すると、受難を避けて長崎に移る。
それから天正十八年に帰国した天正遣欧使節を伴って聚楽第を訪問する以外は、畿内に近づくことはなかった。
その後マカオに渡っていたが、昨年また長崎に戻ってきたようだ。
己が半生と共に情熱を傾け、自らの足で諸国を巡って探索した日本という土地を忘れられなかったと見ゆる。
総長から日本におけるイエズス会の活動記録を纏めろと要請された彼は、多い日には一日十時間以上書斎に籠るほど執筆活動に没頭。
天正十一年から文禄二年までの十年をかけて、三編構成の日本史を完成させている。
彼の日本の各地で見聞きしてきた文化や風習、人物像、出来事がまとめられた日本史は、戦国時代の日本を知る上で大変貴重な資料だ。
そのルイス・フロイスが臼杵に新しく施療院が建てられた噂を聞きつけ、新領主の俺の人柄を調べるべく、長崎からやって来た。
ルイス・フロイスは長崎から贈り物を持参してきた。
時計とワイングラスとオルゴールだ。
ありがたい。
来月、下野と陸奥で我が孫と姪が結婚式を挙げる。
この豊後の地から二人に送る祝儀の品は何にしようかと迷っていたところだ。
活用させてもらおう。
「左京亮サマは、啓示ヲ受けマシタカ?」
「啓示とな?」
「左京亮サマは、今年大きな地震が起こると触れ回っておられるトカ。そしてソノ為の備え、怠っておりまセヌ。神のお告げ有りマシタカ?」
「ふむ。そうよな。啓示と言えば啓示。今となっては、どちらが現か分からぬがな」
あれは四歳の我が見た、誰かの記憶だったのやも知れぬ。
「神はナンと仰られてイマシタカ?」
ルイス・フロイスは興味津々だ。
だが、赤の他人に気安く説明できるものではない。
適当にお茶を濁しておく。
その代わり、贈り物のお礼に、この左京亮から神父殿に一つ助言と頼み事をしてみる。
「貴方が書き記した三編の日本史、マカオ司教座聖堂に預けられたようだが真かな?」
「ナゼ、ソレヲ知っているのデスカッ?」
ふむ。
ルイス・フロイスはマカオから長崎に戻る際、写本を作ってローマに送るよう指示をした。
しかし、あまりに文章量が多すぎて、ほっとかれてしまうのだ。
「言うたであろう。啓示があったと。貴方の日本史は、このままでは百五十年ほどそのままマカオに留め置かれてしまおう」
「ナント。アリエナイ」
「奥州産の金子を渡そう。それをマカオに送り、すぐに写本を書かせるよう手配してくれぬか。我が下に送ってくれれば、さらに高く買い取ろうぞ」
現代では序文と日本六十六国誌が記載された第一編が失われ、目次部分の写本しか残っていない。
この世界線では、ぜひともその部分も後世に伝えてあげたい。
貴方の書いた日本史には千金以上の価値がある、と告げるとルイス・フロイスは嬉しそうであった。
すぐ手配イタシマス、とのこと。
ルイス・フロイスは俺が掲げた政教分離の四文字にもひどく関心を持っていた。
信教の自由を保護する俺の方針を賛美し、俺の考え方を聞きたがった。
しかし、生憎もう日が暮れそうだ。
高齢なためルイス・フロイスにも旅の疲れもあろう。
しばらく臼杵に滞在するようなので、また会う機会を約して一旦下がらせる。
「アテブレーベ・オブリガード」
お決まりの言葉を残してルイス・フロイスが辞去していく。
その別れの挨拶の響きは、なかなかに感慨深いものがあった。
<1596年 8月>
慶長伊予地震が起こるはずの文禄五年の閏七月九日まで、あと一ヶ月。
ここ数ヶ月、日本の各地で天変地異が続いている。
信州の浅間山が何度も噴火。
関東での長雨による洪水。
京と大坂と堺一帯での謎の降灰。
不穏な空気が日本中を覆う。
それらの影響もあってか、臼杵の領民も俺の言うことに耳を貸し始めている。
つい先日まで臼杵に滞在していたルイス・フロイスの影響も大きい。
俺の言葉に従うよう城下のキリシタンたちを説いて廻ってくれていた。
臼杵藩の地震対策については、やれるだけのことはやったと思う。
臼杵城の天守台の造成よりも、城中の各屋敷と城楼の耐震補強を優先。
臼杵城の南方の高台と山腹に避難所を建設。
さらに数回の避難訓練を積み、避難ルートや避難規定にも改善を加えている。
夜間の訓練も実施済みだ。
訓練時は事前の周知を徹底し、狼少年にならないように細心の注意は払ってある。
俺の手の届く範囲ではこれで精一杯だろう。
他領については権限が無いので、如何ともし難い。
どこまで効果があるかわからないが、一応は豊後や日向の他の藩にも昨今の不穏な状況を強調し、書面で注意は促しておく。
影響が大きく有りそうな、毛利輝元と長宗我部信親と黒田官兵衛にも地震の恐れは伝えてあった。
あとは京にいる吉次と行栄だ。
息子の盛隆に依頼して金銀を届けさせ、二階堂屋敷の耐震性は強化させてある。
すでに京を離れる時に口を酸っぱくして伝えていたが、草鞋と笛と鍋を枕元に置いて寝るように改めて手紙で指示を出しておく。
その返書が来たので中身を読むと、予想外の内容が記されてあった。
いや、これはある意味では必然なのか?
名古屋山三郎と出雲の阿国が京で祝言を挙げていた。
史実の出雲の阿国は名古屋山三郎役を演じて歌舞伎の始祖となる。
真偽は明らかではないが、二人は夫婦であったと言い伝わる。
吉次の護衛の名古屋山三郎と、吉次の芸事の師匠の出雲の阿国。
二人の間に吉次という接点が出来たとは言え、まさか真実になるとは。
この一事をもって、俺の中で再び何かが吹っ切れた。
これまで地震当日の対応をどうすべきか迷っていたが、確信する。
名古屋山三と阿国の夫婦ネタまで現実になるのであれば、慶長地震の確度は100%だ。
遠い記憶にある日付もそのまま適用されよう。
名実ともに今の臼杵藩の支配者は俺だ。
誰も俺の暴走は止められない。
人の目など気にせず、歴史知識チート全開で当日に臨もう。
<1596年 9月上旬>
文禄五年の閏七月九日の当日。
一日中、曇天であった。
雨でないだけましか。
普段は日が落ちたら皆が就寝する。
この日は違う。
事前に今夜二回目の夜間避難訓練を行う旨を臼杵城下に通達。
臼杵城は篝火を煌々と焚き、すでに準備万端な状況である。
これまでの訓練とは異なり、今回は各避難所に救護兵らと救護物資を配置済みだ。
天守台の造成予定地だった開けた場所に陣幕を張り、本陣に設定。
主だった侍たちを陣幕内に集め、屋敷が倒壊しても被害が出ぬよう、念の為に南御前も側に呼び寄せて訓練開始の刻を待つ。
ルイス・フロイスに貰った時計で、酉戌刻(午後7時)になったのを確認。
「鐘を鳴らせ」
「はっ」
伝令の兵が鐘楼に走ろうとした瞬間、地鳴りが始まる。
ゴゴゴゴゴゴ、グラッ、ドンッ、グラグラッ
「うおおっ!?」「きゃーっ」
本陣詰めの侍と南御前の侍女たちの間で悲鳴が上がる。
「やはり来たか」
床几から崩れ落ちそうになっていた南御前を抱き止め、思わず呟く。
直下型ではない。
横揺れと縦揺れの間に若干のタイムラグがあった。
震源は伊予であろう。
豊後伊予地震だ。
「何をしている!早く鐘楼へ走れ!」
揺れが収まった瞬間、南御前が俺の腕を振り払い、すっ転んでる伝令兵に向かって獅子吼する。
「は、ははー」
暫くして臼杵城中から鐘の音がけたたましく鳴り始める。
ここからは時間との勝負だ。
一睡もせず夜通しで災害対応にあたる。
南御前が張り切っている。
「城中に逃げてきた者どものことは、私に任せよ!」
「ありがたい。助かるわ」
南御前自らが避難者たちの寝場所の割り当てや怪我の治療を指揮。
侍女たちを率いての大車輪の活躍を見せている。
彼女のお陰で、俺は津波から逃げ遅れた者たちの救護活動の指示に専念出来ていた。
ルイス・フロイスは、イエズス会報にて沖ノ浜の町を7ブラッチョ(約4.2m)の津波が襲ったと記した。
沖ノ浜は臼杵とは佐賀関半島の反対側に在り、津波は豊後水道を経由せねばならない。
この臼杵にも地震から約20分後には津波がやってきたが、沖ノ浜ほどは高くなかった。
それでも臼杵城に近い干拓地はあらかた波に呑まれ、主に侍町が流されてしまっている。
最初の地震の衝撃で崩れた家屋に巻き込まれ、避難出来なかった者たちも津波に巻き込まれていよう。
日没後に起こってしまった為に、逃げ遅れた者たちの数も多いはず。
城下町の再建や、被害者への補償に掛かる金を計算すると、胃が痛くなってくる。
津波の第二波、第三波の引き際を見極め、城下に兵を繰り出していく。
朝になると藩内各地の被害状況の報告も上がってきた。
津久見や佐伯の被害はそれほどでもない。
ただし一尺屋の上浦は酷かった。
俺が事前に若林統昌に命じて船を下浦に移動させておいた為、臼杵水軍に影響がなかったのは不幸中の幸いである。
少し仮眠を取り、昼過ぎに津波の引いた城下の視察に出る。
護衛の兵たちの俺に向ける眼差しがこれまでより篤い気がする。
城下の町屋では、高台や山腹の避難所から降りてきた町民たちが戻り始めていた。
救助や行方不明の知人や家族の探索を開始している。
俺の姿を見つけると、わらわらと大勢の民が周りに集まってくる。
救いを求める民たちの暴動か?と警戒するも、どうやらそうではないらしい。
「ありがたやありがたや」「主よ、この方を遣わしてくださり感謝します」「あーめん」
遠巻きに平伏して皆が俺を拝んでくる。
「如何した?何をしておる。手を止めるでない」
救助や探索に戻るよう促しても改まらない。
「領主様のお陰で我ら命助かりましてございます。ルイス様の言う通り、領主様は神の御使いにございます」
町民の一人が代表して礼を言ってくる。
その顔は安堵に溢れていた。
「すまぬな。まだ“なまず”は収まらぬ。明後日の申刻、此度の揺れよりも更に大きい揺れが起こる。努々油断せぬことじゃ」
「へ?へへー!」
皆にも言い聞かせておく。
「崩れかけた家で過ごすのは危険だ。今日から三日間は避難所に戻って夜を明かせ。よいな!?」
慶長伊予地震は前震に過ぎない。
本震は別府港内で起こる慶長豊後地震だ。
倒壊仕掛けの家だけではない。
地盤が緩んだ領内の山々で、山崩れも起こるであろう。
山腹の避難所の安全性の確認も急務となる。
これからが地獄であった。
<1596年 9月中旬>
妻と家臣団と民衆の協力を得て、なんとか慶長豊後地震も乗り切ることができた。
石田三成の妹婿である福原長堯が治める隣国の府内藩に比べれば、人的被害は微々たるものに収まっている。
ただしインフラ周りは壊滅的ゆえ、ここ数年は内治に専念すべきであろう。
だが、慶長の役がそれを許してはくれまい。
それはさて置く。
そうなると気になるのは、慶長豊後地震の約8時間後の深夜に畿内で起こった、慶長伏見地震の方の被害状況だ。
この臼杵でも、その揺れは体感している。
京の吉次と行栄が心配だが、今は祈るしか出来ない。
臼杵領内の復興に注力するほかなかった。
報告で上がってきた臼杵城内の破損箇所を見て回っている最中、守谷俊重が駆けてくる。
「大殿ー、吉次様よりの手紙ですー」
「なにっ!?早うよこせ!」
京からの早飛脚が到達した。
守谷俊重から手紙を奪い取り、大急ぎで開封。
貪るように読み込む。
文頭にまずは行栄ともども無事とあり、安堵する。
だが、手紙に書かれた続く報告に瞠目させられる。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
太閤は天守が崩れ落ちた伏見城を離れ、木幡山に避難しました。
しかし、関白とその子らの消息は不明です。
倒壊して火の海となった聚楽第で、今も必死の捜索が続いています。
聚楽第の周囲の屋敷にも火が回ったせいで、数多くの関白の家臣たちが亡くなりました。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
慶長伏見地震の翌日に書かれた手紙だ。
よもや助かるまい。
「豊臣家の命運はこれで尽きた」
地震は読み切れても、こんな結末は知らない。
手紙を下ろし、思わず独りごちる。
天はどうあっても豊臣秀次の生きる道を許さなかったようだ。
<1596年 10月>
京の吉次や親交のある大名たちとの書状のやり取りで、慶長伏見地震による被害の詳細が判明し出す。
建築中の天守閣が崩壊した伏見城では、人足や城勤めの中間と侍女たちを中心に、六百名近くもの死者が出ていた。
一方、炎上した聚楽第では、主人の豊臣秀次をはじめ、その眷族や家臣と近しかった大名たちにも甚大な被害が出ている。
聚楽第で亡骸が見つかった豊臣秀次の眷族は、長男の仙千代丸、四男の土丸、側妾五人の計七名。
行方不明の眷族は、三女の隆姫、五女の菊姫、次男の百丸、三男の十丸、側妾二人の計六名。
豊臣秀次と運命を共にした側近と従者たちは、前野景定、木村高成、山本主殿助、山田三十郎、不破万作 、虎岩玄隆、雀部重政の計七名。
周辺の屋敷の倒壊に巻き込まれた者たちは、渡瀬繁詮、一柳可遊、木下吉隆、羽田正親、明石則実、本多正氏、瀬田正忠の計七名。
ただし、聚楽第の災害に関しては二次的なものも大きい。
主に甥の豊臣秀次の死を知って慟哭した豊臣秀吉の暴走によるものだ。
豊臣秀次を助けられなかった責を問われ、謹慎中に殉死を選択した者が、前野長康、白江成定、熊谷直澄、木村重茲、服部一忠の計五名。
当日の警備担当で、失火の責を問われて改易させられた者が、淡輪重政、荒木元清、吉田好寛、八田友治、伊丹正親、多羅尾光太の計六名。
豊臣秀次と関係が深く、豊臣秀吉に迫られて出家を選択した者が、三好吉房、大島親崇、伊丹正親、日比野下野守、山口少雲、丸毛不心斎の計六名。
辛くも助かるも、豊臣秀吉の命令で強引に落飾させられた豊臣秀次の眷属が、長女の槿姫と、側妾二十三人の計二十四名。
今の日本に老いた豊臣秀吉を止められる者などいない。
尚、眷族たちの扱いについては一部だけ例外もある。
正室の若政所は、実子である豊臣秀次の次女梅姫と共に池田家に返されたとある。
また側室の一ノ台は、奥州に嫁いだ娘のお美屋のもとを湯治の旅の名目で訪ねており、難を逃れている。
豊臣秀次との間に儲けた三女隆姫の生存が絶望的と知って嘆き悲しみ、仙台で落飾して京に戻ることを拒んでいた。
聚楽第の被害の大きさに比して、助かった豊臣秀次の側妾の数が多いのには理由があった。
側妾らの証言によれば、豊臣秀次は火に巻かれた聚楽第から側妾たちを逃すために奮闘。
側妾たちをあらかた逃した後、己の子らを救うために自ら深入りし、逃げ時を誤って崩壊に巻き込まれたようなのだ。
三年近く豊臣秀次に仕えていたが、側で見る限り、特に女子には優しい男であった。
そして次期天下人としての重圧を常に感じており、尚武の気風を養うべく日頃から剣術や弓術、馬術の修練に余念がなかった。
一介の武人としてはそれなりの力量を備えていた為、なまじ身体が動くものだから無理をしてしまったのだろう。
上手く補佐しないと、肝心の一手をいつも間違える御仁であった。
お拾の後見役として期待されていた、その豊臣秀次は失われた。
新たな政治体制の構築に迫られた豊臣秀吉は、ここ一ヶ月で矢継ぎ早に法令を発布している。
豊臣家に起こった不幸を抹消するかのように、焼け落ちた聚楽第の徹底的な破却を行う。
在京の徳川家康らをはじめとする大名たちに、連署起請文の提出を要求。
俺を含めた在国大名にも、同じように起請文を出すように通達が届いている。
俗に言う、大坂城中壁書となる五箇条の御掟と九箇条の御掟追加を発布し、許可なき大名間の婚姻や誓紙の取り交わしを禁じた。
子飼いの石田三成や福島正則らに豊臣秀次の遺領を分配した。
そして徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、長宗我部信親による五大老制を発足させた。
俺も止まるわけにはいかない。
普段着を喪服に近い黒色のものに変えて、臼杵藩領の経営を続ける。
岡重政が報告に来る。
「大殿、若林殿より知らせがありました。サンフェリペ号が入港とのこと」
「ああ、これで大筒と弾薬が手に入るな」
臼杵赴任時に太閤の豊臣秀吉から南蛮貿易の許可は取り付けてあった。
そして奥州屋の元締めだった吉次の伝手で、日本に帰国中の納屋助左衛門を紹介してもらい、ルソンのマニラに西洋武器を発注。
慶長の役に備えての策であったが、豊臣秀次が亡くなったとなると、また違う意味を持ってくる。
慶長の役のその先を意識しないわけにはいかない。
尚、納屋助左衛門からの書状で、臼杵に寄港する予定のスペインのガレオン船の名前を知った時には驚いた。
史実でのサンフェリペ号は、マニラを出港して直接メキシコを目指す途中の東シナ海で難破し、土佐に漂着している。
しかし、臼杵に寄港することが決まり、俺の助言もあって出港の日程を早めたために嵐を回避。
無事に臼杵へと到来出来たようだ。
晩年の豊臣秀吉の悪行の一つに数えられる、二十六聖人の殉教は未発生となる。
キリシタンを出来るだけ救おうと頑張った石田三成の苦悩も、これで消滅だ。
<1596年 12月>
文禄五年の十月二十七日。
時代は慶長へと遷移した。
天変地異による甚大な被害と、時の関白の被災を嫌っての改元だ。
この改元に先立って、五奉行の一人である石田三成から彼の娘婿の岡重政を通じて連絡があった。
来年の朝鮮出兵に向けての準備を急ぐように、との内々の通告である。
改元に先立つこと約一ヶ月前。
明の万暦帝の正式な使者である冊封使の楊方亨と沈惟敬の二人が来日。
豊臣秀吉を日本国王として認める国書と、冠服と金印を送り付けてきた。
豊臣秀吉が明に突き付けた八箇条のうち、認められたのは八条目の一部だけ。
国書で許可されていたのは、樺太と何処にあるかも分からぬ高山国の領有のみだ。
琉球の扱いも含め、他の七箇条は完全に無視である。
それどころか朝鮮からの完全撤退を要求されていた。
贈られた冠服を着て、冊封使の謁見を楽しむ姿勢を見せていた豊臣秀吉は、当然だが大激怒。
国書を切り裂き、冠と金印を投げ付けて冊封使たちを追い返す。
そして大規模な再派兵計画の立案を石田三成らに命じている。
甥の豊臣秀次を失って気落ちしていた己を奮い立たせる為の出兵と言えよう。
文禄の役では関白の付家老としてその豊臣秀次を隠れ蓑に使い、東国の兵の朝鮮渡海を阻止出来た。
しかし、今度は逃れられそうも無い。
二度の地震で傷ついた豊後の兵を率いて、朝鮮に渡らねばならないだろう。
厳しい戦いになる。
小田原の役以来の実戦が近づいていた。
<年表>
1596年 二階堂盛義 52歳
01月
▽柳川の立花宗茂(29歳)、京より帰国。検地の結果、九万石から十三万石に加増。
★京で立花宗茂(29歳)の正室の誾千代(27歳)、第四子を懐妊。
◎磐城で成田氏長(54歳)が病死。
02月
◎臼杵の二階堂盛隆、豊臣秀吉よりも先に五人組制度を領内に発布してしまう。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、淀川の堤防工事を実施。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、朝鮮で小西行長(38歳)と対立中の加藤清正(34歳)を帰国させ、謹慎に処す。
03月
■上洛中の伊達政宗(29歳)、兵五郎(5歳)を連れて仙台に帰国。
★京の豊臣秀次(28歳)の側室の一ノ台(34歳)、湯治のために奥州に下向。
□明の冊封正使の李宗城、日本側の講和条件を初めて知らされ、命の危険を感じて逃亡。
04月
◎臼杵の二階堂盛隆、日本初の大規模な防災訓練を実施。
□長崎滞在中のルイス・フロイス(64歳)、臼杵に来訪。二階堂盛義と面談。
▼仙北の戸沢盛安(30歳)の正室のれんみつ(26歳)が男子を出産。申千代と名付ける。
05月
▲浅間山大噴火。
◎宇都宮の二階堂盛隆、娘の星姫(14歳)を塩谷義保(17歳)に嫁す。
◎宇都宮の二階堂盛隆、姪のこいみつ(15歳)を相馬利胤(15歳)に嫁す。
□明の外交官の沈惟敬、冊封正使の李宗城の逃亡を受けて副使の楊方亨を正使に偽装。
06月
★在京の前田利家(57歳)、豊臣秀吉(59歳)の推挙で従二位・権大納言叙任。
■仙台の伊達政宗(29歳)、伊達輝宗の七回忌を営む。
★後陽成天皇(25歳)に第三皇子が誕生。三宮と名付けられる。後の後水尾天皇。
★在京の徳川家康(53歳)、豊臣秀吉(59歳)の推挙で正二位・内大臣叙任。
▲関東で洪水。
07月
▲京・大坂・堺一帯に謎の降灰。
■仙台の伊達政宗(29歳)、久保姫の三回忌を営む。
◇京で名古屋山三郎(20歳)と出雲の阿国(20歳)が婚儀。
□臼杵滞在中のルイス・フロイス(64歳)、長崎に戻る。
08月
▲浅間山中噴火
★京の豊臣秀次(28歳)の四女の八百姫(4歳)、夭折。
★京の豊臣秀次(28歳)、五女の菊姫(1歳)をお拾(3歳)に娶せることを豊臣秀吉(59歳)に約束。
★京で立花宗茂(29歳)の正室の誾千代(27歳)、難産の末に四男を出産。
▲浅間山噴火。
■仙台の伊達政宗(29歳)、ガレオン船三番艦を竣工。塩釜函館、函館佐渡間の定期航路の運用開始。
09月
▲浅間山噴火。
▲慶長伊予地震発生。豊後伊予周防の各地で津波被害発生。
◎臼杵の二階堂盛義、予言者として豊後の民から神ごとく崇め奉られる。
▲慶長豊後地震。
▲慶長伏見地震。伏見城の天守閣が崩落。聚楽第が倒壊及び失火により焼失。建造中の京の大仏は被害軽微。
★京で豊臣秀次(28歳)が死去。息子たちと共に聚楽第倒壊に巻き込まれる。殉死者多数。
★大坂で謹慎中の加藤清正(34歳)、伏見に一番に駆けつけて救助活動に勤しむ。豊臣秀吉(59歳)より謹慎を解かれる。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、豊臣秀次の娘や側妾たちに全員尼になるよう強制。
★伏見の真田信繁(26歳)、豊臣秀次の三女隆姫(8歳)を連れて逃げ込んできた阿桐(24歳)を保護し、側室扱いにして保護する。
★京で徳川家の御用商人の茶屋四郎次郎(51歳)が死去。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、聚楽第の破却を指示。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、在京の徳川家康(53歳)らに連署起請文を要求。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、大坂城中壁書を発布。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、石田三成(36歳)を近江佐和山二十万石に封じる。また京都奉行に任じる。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、福島正則(35歳)を尾張清洲二十四万石に封じる。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、五大老制を敷く。上杉の代わりに長曾我部信親(31歳)を選出。
10月
◎臼杵の二階堂盛義、豊臣秀次の喪に服して黒色の衣服を着用。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、豊臣秀次の葬儀を秘す。
■湯治中の一ノ台(34歳)、京に帰らず仙台で落飾。
▲畿内で洪水と暴風雨。
□スペインのサンフェリペ号が臼杵に入港。二十六聖人殉教を回避。
◎臼杵の二階堂盛義、南蛮商人から大砲と武器弾薬を買い込む。
11月
□スペインのサンフェリペ号が松島に入港。
■仙台の伊達政宗(29歳)、マニラ・ガレオンの寄港を許可。伊達家とスペインの定期的な交易の開始。
■仙台の伊達政宗(29歳)、再び兵五郎(5歳)を連れて上洛。
□明国の冊封使を名乗って楊方亨と沈惟敬が来日。石田三成(36歳)が饗応役を務める。
★伏見の豊臣秀吉(59歳)、明国の無礼な国書に激怒。休戦協定の破棄と再出兵の準備を決定。
▽中津の黒田孝高(50歳)、明国との交渉決裂の責任を取って剃髪。黒田如水を名乗る。
★伏見で徳川家康(53歳)の側室の久の方、家康四女を松姫を出産。
12月
★慶長に改元。
▼仙台で和賀忠親(20歳)の正室於三(23歳)が忠親の次男を出産。
◆京で徳川四天王の酒井忠次(69歳)が死去。最期のエビ掬いを披露して大往生。
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▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽以北
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
□海外
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 114万6千石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 白川郡 会津郡 31万2千石
・奥州 田村郡 標葉郡 楢葉郡 菊多郡 磐前郡 磐城郡 24万石
・野州 河内郡 芳賀郡 都賀郡 那須郡 塩谷郡 安蘇郡 足利郡 梁田郡 46万4千石
・豊後 海部郡 大野郡 13万石
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