1595-2 邂逅
<1595年 4月>
俺が臼杵城に入って最初に差配したのは、領内の要所への武将の配置である。
海部郡の石高は太閤検地によると6万石だが、海高を含めると実高は10万石はある。
大友家の改易によって解体された豊後水軍の再編成は急務だ。
また大野郡は太閤蔵入地となるが、戦時において動員される兵は代官である俺の指揮下に入る。
俺が責任を持って守らねばならない土地であった。
それらの問題をスムーズに解決してくれたのが、旧大友系と新雇用の若手武将たちだ。
海部郡の東部の佐賀郷一尺屋には若林統昌を置く。
佐賀関の上浦湊と下浦湊を臼杵水軍の基地とし、豊後水道をよく識る若林統昌にその指揮を任せる。
土佐57万石の長宗我部信親への備えとなる。
海部郡の南部の佐伯の栂牟礼城には佐伯惟定を置く。
二年ぶりに勝手知ったる居城への帰還を果たした佐伯惟定は、意気軒昂だ。
日向延岡5万石の高橋元種と、日向高鍋3万石の秋月種長の兄弟への備えとなる。
大野郡の西端の志賀城に志賀親次を置く。
かつて志賀一族の本拠だった城ゆえ、志賀親次も整備のやり甲斐があろう。
豊後竹田に6万5千石で入封した太田一吉への備えとなる。
大野郡の北端の鶴賀城には岡左内を置く。
日向街道の戸次川の関所に程近い城となり、岡左内の蓄財も進むはずだ。
豊後府内に7万石で入封した福原長堯への備えとなる。
皆、超絶に有能なれど前の家では若さを理由に小禄で、活躍の場も限られていた武将たちである。
その彼らに禄と役職を十全に与え、藩の東西南北の境目を守らせる。
これで領内の治安が良化しないわけがない。
四方に二十代半ばの新進気鋭の若手たちを配置したことで、新たな風が吹いた。
何やら領内に活気が戻って来た感がある。
民忠を上げる下準備がこれで出来上がった。
<1595年 5月>
晩春の風が気持ち良い。
俺は今、臼杵の民たちを率いて工事現場にいた。
臼杵城の目と鼻の先にあり、周囲の干拓地に比べて標高の高い二王座の一角だ。
そこでキリスト教式の起工式を執り行う。
わざわざ長崎から呼び寄せた神父による聖書の朗読。
そして讃美歌。
「では参る。えーい」
鍬入れを行う。
歓声が湧き起こる。
群衆の中には涙を流して平伏する者も多数。
臨席した志賀親次、岡左内、岡重政らのキリシタン武将たちも感動の面持ちだ。
代表して志賀親次が感謝の言葉を述べてくる。
「大殿自ら鍬を取って下さるなど、これに勝る悦びはありませぬ」
遠く塩釜にいる伊達政宗の側室、新造の方こと南蛮女医のジュリエッタの協力を得て、臼杵に施療院を開設する運びとなった。
かつて豊後の府内にあった施設の再興である。
大友宗麟のお膝下であった臼杵の民はほとんどがまだキリシタンだ。
民忠を劇的に上げる為の施策となる。
もちろん神道や仏教勢力にも配慮は必要だ。
懐から巻物を取り出し、群衆たちに見えるように掲げる。
そこには俺手ずから大書した四文字が記載されている。
「政教分離。この四文字を我が臼杵藩の国是とする。この二階堂盛義。皆の宗派に口は出さぬ。その代わり皆も国法は守れ。それだけよ」
伝えたいことを伝え、工事現場を後にする。
かつて豊後で女神と讃えられたジュリエッタの威光を借りることで、俺の新領土の統治は軌道に乗り始めた。
<1595年 6月>
宇都宮から届いた書状を読む。
「れんみつと戸沢盛安殿の祝言、滞りなく挙式が済んだそうだ。めでたい」
側にいた守谷俊重が阿諛追従してくる。
「甲斐姫様のご懐妊と、佐野の珠姫様のご出産に続いての慶事。祝着至極にございますー」
「ああ。吉乃の二人目の子も元気に育っているようだ。東国に今すぐ戻りたくてかなわぬわ」
俺が臼杵に居を移してから数ヶ月の間、長女の吉乃は娘を出産し、次男の盛行の嫁の甲斐姫は三人目を懐妊。
三男の行久の嫁の珠姫は待望の嫡男を上げていた。
二階堂一族はまさに春爛漫で、順調すぎるほど順調だ。
俺の左遷以外は。
「慶事続きな我が二階堂家に比べて、豊臣家はパッとしませんねー」
手元にある京から届いた書状に目を落として、守谷俊重がため息を吐く。
先月の四月十六日、大和中納言こと豊臣秀保が十七歳の若さで亡くなっていた。
豊臣秀次の弟だ。
疱瘡による急死であった。
「関白の豊臣秀次公の主催で盛大な葬儀が行われるそうですよー」
豊臣秀次の好意により、豊臣秀保には客将であった佐伯惟定を譲ってもらった経緯がある。
その佐伯惟定を弔問の使者に送ると決める。
面識のあった豊臣秀保の病死自体は悲しい話ではあったが、希望も見えて来た。
史実では豊臣秀保の葬儀は秘されてしまっている。
太閤の豊臣秀吉の意向であった。
豊臣秀保の死を悼まないその態度は、それから数ヶ月後の豊臣秀次事件への前振りと見られた。
しかし、今回葬儀は盛大に行われる。
豊臣秀吉と豊臣秀次の間のパワーバランスが拮抗している証左だ。
豊臣秀次の生存の目も出て来たと言えよう。
<1595年 7月>
九州が密かに響めいている。
薩摩・大隈・南日向を領する島津家中の権力基盤に強烈な変化が生じた結果であった。
豊臣秀吉に九州征伐でその出過ぎた杭を叩かれるまで、西海道の覇権を握っていたのは島津家である。
九州中の諸大名がその動静に注視するのは当然のことなのかもしれない。
朝鮮から帰国した島津義弘が上洛し、豊臣秀吉に虎肉を献上した。
そして唐入りにて戦病死した長男久保の代わりに、次男忠恒を次期島津家当主として認めてもらおうと豊臣秀吉に働きかけた。
島津忠恒は久保の妻であった島津義久の三女、亀寿と昨年結婚しており、島津家中でも次期当主となるのは既定路線であった。
しかし、どうやらその時、何故か島津義弘本人が島津家十七代当主として認められてしまったようなのだ。
合わせて昨年からの太閤検地が終わり、島津領約57万石が確定する。
これもまた問題となる。
その内訳が島津家の面々にとっては衝撃だった。
島津義久が10万石。
島津義弘が10万石。
伊集院忠棟が8万石。
太閤蔵入地が1万石
石田三成が6千石
細川幽斎が3千石。
寺社領が3千石。
家臣分が26万6千石。
石田三成と細川幽斎に知行が割り振られているのは、彼らが検地の実務を担当したから。
そこはまだ良い。
現当主の島津義久の知行が弟の島津義弘と同格に設定された。
そしてその知行地が大隈や日向に割り振られてしまった結果、島津義久は島津家の本城であった内城を退去しなければならなくなる。
つまり強引に隠居させられてしまったわけだ。
さらに豊臣政権とベッタリな伊集院忠棟が、重臣の北郷氏を押し退けて都之城8万石を朱印付きで受領した。
伊集院忠棟は九州征伐の折の降伏論者の首魁であった。
豊臣家との交渉役を努めたことで憎まれ役を担ってしまっており、さらに今回の一件で島津家中のヘイトをまた集めてしまっている。
そのため島津領には今、不穏な空気が流れていた。
政務を執っていると、岡重政が石田三成の書状を持ってくる。
「義父からの大殿への依頼になります」
岡重政の妻は石田三成の次女の小石だ。
書状に目を通す。
「なになに?もし島津が二つに割れたら島津義弘と伊集院忠棟を支援すべく出兵すべし、だと?」
一瞥して書状を放り投げる。
「実にくだらない。そんなことより新しき町割の話だ」
絵図面を岡重政の前に広げる。
前に岡重政が持って来たものである。
「これでは町屋が山から遠すぎる。城に近い川や海沿いには、侍町を集中させるのだ」
「は、はぁ」
修正すべき箇所に朱入れをしていく。
「よいか。なまずが起こったらまず城の鐘を鳴らす。鐘の音を聞いた侍町の者たちは、家族を連れて城に逃げ込むのだ。しかし町民たちはどうなる。山に逃げるしかないではないか。ならば町屋は山に近ければ近いほど良い」
岡重政にはこの世界初となるハザードマップの作成も命じてある。
等高線の概念は伝えてあった。
島津家の内紛だと?
起こるのはもっと先の話だ。
そんな事より今は地震対策が先であった。
<1595年 10月>
若林統昌が臼杵水軍の練兵状況の報告のついでに、獲れたての魚たちを駕籠一杯に持って登城して来た。
「りゅうきゅうが食べたいな」
新鮮な魚を目の前にして思わず呟く。
りゅうきゅうは、豊後水道で採れた新鮮な魚の切り身を、醤油・酒・味醂・胡麻・生姜を混ぜたタレと和えた大分の郷土料理だ。
困惑する若林統昌。
「それは利久和えのことですか」
利久和えは今は亡き千利休が考案した胡麻和え料理で、上方では大流行している。
若林統昌は大和国柳生庄で一年ほど修行していたというから、当然ながら口にしたこともあるのだろう。
一緒に若林統昌の報告を聞いていた守谷俊重が、ぽんっと手を叩く。
「あっ、琉球と言えば、土佐の久武親直殿より連絡がありましたよ。甘蔗が手に入ったので、試しに育ててみるそうですー」
「なにっ、まことか!?」
唐入りの混乱に乗じて、琉球経由で入手したようだ。
盛隆に命じて大枚を投じた甲斐があったわ。
砂糖が無尽蔵に使えるようになれば、あれもこれも調理できるようになる。
夢が広がるぞ。
いかん。
話が逸れた。
まずはりゅうきゅうだ。
いや違う。
水軍の練兵状況の確認が先だ。
浮ついた気分になっていることは否定できない。
文禄四年も九月に入るのに、上方から秀次事件の話は聞こえてこない。
流れてくる噂は関白の一ノ姫の奥羽輿入れと、鎮守府将軍の従姉妹の岐阜輿入れの話のみ。
お美屋の輿入れ、駒姫の輿入れのイベントは滞りなく賑々しく実施されたようだ。
安堵する。
どうやらこの世界は秀次事件未発生ルートに分岐したらしい。
あとは慶長の大地震と唐入りを何とか出来れば、須賀川に帰れる。
先は見えて来た。
若林統昌の報告を聞き終えた後、手ずから台所に魚たちを運び、りゅうきゅうの調理を開始する。
鱗と内臓を取って丁寧に三枚に下ろしていると、台所の戸が突如ガラリと開けられる。
「義父殿!ここに居られたか。ただいま戻りましたぞ!」
うわっ。
びっくりしたっ。
虎の毛皮を纏った大男が台所に入って来る。
前田利益であった。
やはり生きていたか。
その顔を見るのも三年ぶりだ。
「朝鮮から帰ってみれば、義父殿が豊後に飛ばされておるなど、仰天しましたぞ」
臼杵で振り出しに戻っている俺の有様を見てカラカラと笑う前田利益。
ああ笑え笑え。
笑えばいいさ。
立花軍に陣借りしていた前田利益は、亀浦城の普請を終えた立花宗茂に同道して日本に戻ってきた。
柳川に戻る立花宗茂と唐津で別れ、京に上る途中に立ち寄った博多の妓楼で俺の左遷を知って方向転換。
日田と竹田を経由して臼杵までやって来たとのこと。
志賀親次とは朝鮮で面識を得ていたようで、志賀城は素通り出来た模様。
りゅうきゅうを摘みながら酒を傾け、前田利益の朝鮮での武辺のほどを聞き出す。
朝鮮に渡って初めて参戦したのが龍仁の戦いで、その後は半年ほど朝鮮半島を周遊。
冬になってから小西軍に紛れ込み、第三次平壌城の戦いでの地獄の撤退戦を経験。
漢城まで戻ってからは立花宗茂の陣に加わり、碧蹄館の戦いで明兵に突貫。
以後、立花軍と行動を共にしていたそうだ。
無謀すぎて一々俺を唸らせてくる。
「で、その娘っ子は誰だ?」
相変わらずの前田利益であったが、虎の毛皮の他にもう一つ出立時と違っていた点があった。
ここまで見て見ぬ振りをしていたが、10歳くらいの切長な瞳の童女がずっと前田利益に引っ付いてる。
「朝鮮で拾った月華です。何でも古い名家の娘だそうですが、親族が皆亡くなったようで連れて参った」
日本の侵攻軍に便乗した、現地の野盗集団の仕業であった。
それもまた豊臣秀吉の唐入りで引き起こされた悲劇の一つであろう。
忍びなくて引き取ったとのことだが、人攫いの所業となんら変わりはない。
「如何にするのだ?」
「阿蛍らの顔を見たいのですが、流石に壬生は遠ござる。この城で預かってもらえませんかね」
「そうさの。城下の施療院で伴天連供に孤児らの面倒も見させておる。同い年の子らも多い。そこならその娘も安心して暮らせよう」
春に起工して先頃完成した施療院には、孤児院も附属していた。
すでに臼杵領内の孤児を集めて運営を開始している。
年長の者には施療院の手伝いをさせると共に、薬草学や医術を教え込み、生きる術を覚えさせるのだ。
「月華といったか。その娘がこのままこの国で暮らすにしても、いずれ故郷に帰るとしても。大人になるまでに手に職を付けておいて損はなかろう」
それは願ってもない話と前田利益が不安げな月華を説得。
月華の身は孤児院に預けられることが決まる。
「利益。そなたは暫く壬生で体を休めて参れ。いずれその力が必要になろう。時が来れば呼び寄せる」
「やはり、また戦さになりますかな」
ギラリと前田利益の眼が光る。
びくりと月華の細い体が震える。
豊臣秀吉が明国に突き付けた八箇条を誦じる。
一箇条重ねる都度、前田利益は酢を飲んだような顔になっていく。
「明国が応じると思うか?」
「いや全く」
実際に朝鮮に渡って明兵と戦った前田利益なら肌感覚でわかるだろう。
明という国、いや中華思想の傲慢さが。
次は相手がこちらのやり口を十分に理解している状態での戦さとなる。
より厳しい戦いになるのは確実であった。
<1595年 12月>
帰郷の途に着いた前田利益を月華と共に見送ってから約二ヶ月。
臼杵で初めての冬を迎える。
海沿いゆえ雪は降らないが風は冷たい。
臼杵城の本丸の端に立ち、寒風に吹かれながら東の空を見上げる。
俺がこの臼杵に籠っている間、秀次事件は未発生ながらも、時代自体は確実に動いていた。
豊臣秀吉は豊臣秀保の菩提を弔う為に高野山に上っていた藤堂高虎を復帰させ、讃岐半国の6万石に封じている。
讃岐のもう半分は加藤嘉明が既に領しており、これは長宗我部信親が本来彼らが折半するはずだった西伊予を得ていた影響であろう。
そして史実で讃岐を治めていた生駒親正は、つい先日に小早川家の家督を継いだ小早川秀俊改めて秀秋の筆頭家老に就任している。
また豊臣秀吉は側室の淀の方の妹の江姫を徳川家康の三男秀忠に娶せた。
江姫にとってはこれが三回目の結婚となり、秀忠は六歳年上の正室を抱えることになる。
気苦労が耐えまい。
伊達家では伊達政宗が昨年に引き続き四回目の上洛を果たす。
五歳になった息子の兵五郎を同道させ、豊臣秀吉と豊臣秀次にお披露目している。
最上政道の妻の亘理御前の不幸もあり、仙台を出た保春院(義姫)はそのまま山形城に逗留中だ。
我が二階堂家では盛行の妻の甲斐姫が第三子を出産した。
元気な男の子だという。
臼杵は臼杵でやらねばならぬ事が山積みで、それなりの充実感はある。
しかし、ふとした瞬間に急激に時代に取り残されてる感が襲ってくる。
わずか一年前まで、この国の政治の中枢でバリバリ働いていたのだ。
仕方ないと言えばそうなのだろう。
「ああ、左遷されるって、こういう気持ちになるんだな」
現代社会において物語や映画の中では良く描かれてはいるが、実際に体験出来る人は稀だろう。
今回己で味わって見てよくわかった。
これは、なかなかに来るものがある。
史実で佐和山に蟄居させられた石田三成も、同じもどかしさを味わったはず。
時代に取り残されまいと乾坤一擲の勝負に打って出た彼の思いが、今の俺には痛いほどよく分かった。
「大殿!大変ですー」
俺が耽っていた物思いを遮ったのは守谷俊重であった。
大慌てて駆けてくる。
「如何した?」
「いいからっ、とにかく大手門までおいで下さい。大変なんですよー」
要領を得ない。
わけがわからぬまま大手門まで連れ出される。
すると、杏葉紋の旗を掲げた隊列が臼杵城に向かってやって来るではないか。
岡左内が率いる二階堂家の兵らに先導されている。
杏葉紋は大友家の家紋だ。
大友家が改易された今、その家紋を使っているのは、大友宗麟から同じ家紋を使うのを許された同紋衆の立花家のみ。
岡左内には鶴賀城の守備を申し付けてある。
勝手に持ち場を離れて他家の軍を領内に引き入れるなど、いったい何をやってるんだ?
先行して駆けて来た岡左内が下馬して平伏。
報告してくる。
「あれなるは柳川の立花家の小野和泉守殿の手勢。大殿に届けたいものがあるとのことゆえ、この臼杵城まで案内仕った」
小野和泉守とはかの有名な立花四天王の一人、小野鎮幸のことか?
届けたいもの?
立花宗茂が俺に?
何のことやら全く分からん。
混乱する俺を他所に、立花家の手勢も大手門まで到着。
引き締まった体躯の壮年の男が槍を片手に進み出て参り、口上を述べた。
「二階堂左京亮様でしょうや。拙者、小野和泉守鎮幸と申す。我が主人宗茂が京にて前田利益殿よりお預かりしたこちら、確かにお届けしましたぞ」
小野鎮幸の合図で、立花軍の隊列の中ほどから乗物が担がれて運ばれてくる。
乗物を俺の前でそっと下ろす立花兵たち。
ガラリと乗物の引戸が開く。
「なっ!?」
「ようやく着いたか。寒くてかなわんな。夫殿、火鉢を所望する」
よいしょ、と乗物から降りてきたのは我が妻の南御前。
完全な不意打ちであった。
二ヶ月前に臼杵を発った前田利益は、京の二階堂屋敷に到着して驚愕する。
須賀川にいるはずの南御前が何故かそこにいたからだ。
彼女を送り届ける為に臼杵に取って返そうとするも、南御前自身がそれを拒否。
早く壬生に戻って妻の阿蛍にその顔を見せよ!と逆に前田利益を叱りつけた。
窮した前田利益は、朝鮮にて知遇を得ていた立花宗茂が上洛していることを知り、立花屋敷の門扉を叩いた。
そして豊臣秀吉と豊臣秀次への拝謁を終え、柳川に帰郷しようとしていた立花宗茂に、南御前の臼杵までの護衛を頼み込んだ。
朝鮮での立花陣中での前田利益の戦功を鑑み、立花宗茂はこれを快諾。
立花家の軍船に同乗させて大阪を発ち、門司で隊列を分け、中津・別府経由で小野鎮幸に彼女を送らせたのである
立花宗茂と小野鎮幸の配慮には感謝しかない。
まずは小野鎮幸の労に報いるべく臼杵城で饗そうとしたが、キッパリと固辞される。
小野鎮幸は南御前を送り届けた後、柳川に向けてさっさと出立してしまった。
小野鎮幸の分も含め、後で御礼の品を柳川まで届けねばならぬ。
だが今はそれは置く。
「なぜ知らせてくれなかったのだっ?」
南御前を問い詰める。
聞けば栽松院(久保姫)の一周忌を営んだ後、南御前は伊達政宗の上洛隊に紛れ込み、須賀川から京都まで移動していた。
盛隆も盛宗も承知しており、京の二階堂屋敷の吉次でさえ口止めされていた。
「阿呆。豊臣秀吉に知られれば、人質として拘束されるに決まっておるからではないか」
パシリと言い返される。
確かに。
南御前は、豊後臼杵6万石のこの二階堂盛義の妻なだけではない。
須賀川宇都宮77万石余の二階堂盛隆と、磐城田村24万石の岩城盛行の実母でもある。
そして鎮守府将軍の伊達政宗の伯母でもあった。
まさに二階堂家の要石のような存在だ。
「で、これはなんだ?」
紙を一枚押し付けられる。
ん?
これは。
京を発つ前に俺が南御前宛に書いた書状だ。
「自分のことはもう死んだものとして考えてほしい、だと?」
キツく睨まれる。
「前に言ったな。私より先に逝くのは許さない、と」
先に死なぬよう、わざわざ見張りに来てやったわ、と宣う南御前。
あ、愛が重い。
<年表>
1595年 二階堂盛義 51歳
01月
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、二階堂盛義を豊後臼杵六万石に封じる。合わせて太閤蔵入地の豊後大野七万石の代官に任じる。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、福原長堯(44歳)を豊後府内七万石に封じる。合わせて太閤蔵入地の豊後杵築六万石の代官に任じる。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、太田一吉(29歳)を豊後竹田六万五千石に封じる。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、毛利高政(36歳)を豊後日田二万石に封じる。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、垣見一直(28歳)を豊後富来二万石に封じる。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、熊谷直盛(22歳)を豊後安岐一万五千石に封じる。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、木村清久(32歳)を豊後国東一万四千石に封じる。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、早川長政(27歳)を豊後国見一万三千石に封じる。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、竹中重利(33歳)を豊後高田一万三千石に封じる。
□北京に赴いた内藤如安(45歳)、万暦帝(32歳)の許可を得て入城。
□北京に赴いた内藤如安(45歳)、講和の三ヶ条(渡海軍全面撤退、朝貢要求禁止、今後侵略を行わない)を誓約。
□北京に赴いた内藤如安(45歳)、兵部尚書の石星から朝鮮占領の理由など二十ヶ条の審問を受ける。
◇京の吉次(45歳)、出雲の阿国(19歳)の一座をスポンサードし、唄と踊りを習う。
◎二階堂盛義の四男の栄丸(13歳)が元服。二階堂行栄と名乗る。烏帽子親は真田信繁(25歳)。
◎二階堂盛義、田原紹忍(54歳)と宗像鎮続(48歳)を客将として預かる。
◎二階堂盛義、志賀親次(27歳)の元同僚の佐伯惟定(26歳)と若林統昌(27歳)を雇用。
◎二階堂盛義、岡定俊(28歳)と岡重政(27歳)のキリシタン兄弟を雇用。
02月
◎二階堂盛義、豊後臼杵に向けて出立。名古屋山三郎(19歳)を京留守居役に任じる。
◇宇都宮で吉乃(24歳)が石川五右衛門(30歳)の娘を出産。阿泪と名付ける。
★江戸の徳川家康、豊臣秀吉(58歳)の肝煎りで督姫(30歳)を池田輝政(30歳)に再嫁。
□明の万暦帝(32歳)、豊臣秀吉(58歳)の日本国王冊封を決定し、冊封使に李宗城と楊方亨を任命。
★京の豊臣秀次(27歳)、毛利輝元(42歳)を従三位権中納言に叙任。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、加藤貞泰(25歳)を甲斐から美濃黒野四万石へ移封。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、浅野長政(49歳)を甲斐十五万石余に移封。
03月
◎二階堂盛義、豊後臼杵に着任。慶長伊予地震と慶長豊後地震への対策開始。
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、石田三成(35歳)による佐竹領と島津領の検地結果を承認。
★近江で蒲生秀行(12歳)が元服。徳川家康(52歳)の次女振姫(15歳)と婚約。信濃佐久五万石に封じられる。
◎佐野の佐野行久(19歳)の正室の珠姫(19歳)が嫡男未房丸出産。
◎仙台で岩城盛行(25歳)の正室の甲斐姫(23歳)が第三子懐妊。
◆江戸の徳川家康(52歳)の側室のお梶(17歳)、松平正綱(19歳)に降嫁するも出戻り。
04月
◎臼杵の二階堂盛義、若林統昌(27歳)に命じて大友水軍再建開始。
★朝鮮から帰国の島津義弘(60歳)、上洛。豊臣秀吉(58歳)に虎肉を献上。島津家十七代当主として認められる。
★伏見にて徳川家康(52歳)の側室のお亀の方(22歳)、家康の八男の仙千代を産む。
◆北信で真田信幸(29歳)の側室の音姫(29歳)懐妊。
■仙台の伊達政宗(28歳)、京より帰国。
05月
◎宇都宮の二階堂盛隆(34歳)、伊達政宗(28歳)の仲介で義妹のれんみつ(25歳)を戸沢盛安(29歳)に再嫁。
◎臼杵の二階堂盛義、南蛮女医ジュリエッタ(30歳)の伝手で臼杵城下に施療院を再開設。
★伏見の豊臣秀吉(58歳)、吉川広家(34歳)の献上した朝鮮の豹を観覧。
★大和の豊臣秀保(16歳)が病死。大和豊臣家断絶。藤堂高虎(39歳)、高野山に上る。
□マカオのルイス・フロイス(63歳)、長崎に再来日。
06月
▲浅間山でマグマ噴火。
★京の豊臣秀次(27歳)、豊臣秀保の葬儀を営む。
▽薩摩の島津義弘(60歳)、京より帰国して帖佐館を普請。
▽薩摩の島津義久(62歳)、事実上の強制隠居。内城を退去して富隈城を普請。
▽薩摩の伊集院忠棟(54歳)、都之城に入り八万石を領する。
07月
★伏見の豊臣秀吉(58歳) 、増田長盛(50歳)を大和郡山二十万石に封じる。
★京の豊臣秀次(27歳)、能の詞の注釈をまとめた謡抄を編纂。
▲畿内で大雨。洪水被害発生。
■山形で最上政道(27歳)の正室の亘理御前(22歳)が死去。
★結城の結城秀康(21歳)の側室の涼姫、摂津で嫡男の仙千代を出産。後の松平忠直。
■仙台の伊達政宗(28歳)、久保姫の一周忌を営む。
★京で豊臣秀次(27歳)の側室の小督局、五女の菊姫を出産。
08月
★京の豊臣秀次(27歳)、養女お美屋(13歳)を伊達秀雄(15歳)に輿入れさせる。
■仙台の伊達政宗(28歳)、従姉妹の駒姫(15歳)を織田秀信(15歳)に輿入れさせる。
■仙台の伊達政宗(28歳)、ガレオン船の二番艦を竣工。試験航海の範囲を石巻-函館-佐渡間に拡大。
★伏見の豊臣秀吉(58歳)、藤堂高虎(39歳)を復帰させて讃岐六万石に封じる。
09月
▶︎︎土佐の長宗我部信親(30歳)、甘蔗の一種である竹糖の試験栽培を開始。
■仙台の伊達政宗(28歳)、兵五郎(4歳)を連れて上洛開始。仙台を発つ。
◎須賀川の南御前(54歳)、伊達政宗の隊列に紛れて上洛開始。須賀川を発つ。
▼仙北の戸沢盛安(29歳)の正室のれんみつ(25歳)が懐妊。
10月
▽柳河の立花宗茂(28歳)、朝鮮から帰国。所領の検地を開始。
◎前田利益(44歳)、朝鮮から帰国。月華(10歳)を臼杵城下の施療院に預け、下野に向けて旅立つ。
★伏見の豊臣秀吉(58歳)、江戸の徳川秀忠(16歳)に江姫(22歳)を娶せる。江姫、再々嫁。
11月
◎仙台で岩城盛行(25歳)の正室の甲斐姫(23歳)が次男雷王丸出産。
■仙台の伊達政宗(28歳)、上洛。兵五郎(4歳)を連れて伏見で豊臣秀吉(58歳)に拝謁。
◎須賀川の南御前(54歳)、上洛。二階堂屋敷に身を隠す。
▽柳河の立花宗茂(28歳)、上洛。伏見で豊臣秀吉(58歳)に拝謁。矢島重成の娘の八千子(27歳)を側室に斡旋される。
◎京に立ち寄った前田利益(44歳)、誾千代(26歳)に挨拶。南御前(54歳)の護衛を立花宗茂(28歳)に託す。
▷広島の毛利輝元(42歳)の側室の周姫(23歳)、長門の小野村で嫡男の松寿丸を出産。後の毛利秀就。
12月
□明の冊封使の李宗城と楊方亨、漢城をへて釜山に到着。
★北信で真田信幸(29歳)の側室の音姫(29歳)が長男信吉を産む。
▽筑前の小早川隆景(62歳)、三原に隠居。家督を継いだ小早川秀俊(13歳)、秀秋に改名。
▽上洛中の立花宗茂(28歳)、側室の八千子(27歳)を連れて京を出立。
■南御前(54歳)、立花家臣の小野鎮幸(49歳)の護衛で臼杵来着。
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▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽以北
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
□海外
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 114万6千石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 白川郡 会津郡 31万2千石
・奥州 田村郡 標葉郡 楢葉郡 菊多郡 磐前郡 磐城郡 24万石
・野州 河内郡 芳賀郡 都賀郡 那須郡 塩谷郡 安蘇郡 足利郡 梁田郡 46万4千石
・豊後 海部郡 大野郡 13万石
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