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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第十二章 d西海道b
76/83

1595-1 赴任

主人公:二階堂盛義 51歳 従五位下 左京亮


正室:南御前 54歳

├当主:二階堂盛隆 34歳 - 正室:甄の方 35歳

│ ├ 嫡孫:二階堂盛宗 16歳 - 正室:杏姫 16歳

│ ├ 孫娘:星姫 13歳 [- 婚約者:塩谷義保 16歳]

│ └ 孫娘:彩子 7歳 [- 婚約者:那須藤王丸 9歳]

├次男:岩城盛行 25歳 - 正室:甲斐姫 23歳

│ ├ 孫娘:忍子 5歳 [- 婚約者:岩城道丸 5歳]

│ └ 孫:暁丸 3歳

└次女:元姫 21歳 - 婿:伊達成実 27歳

 └ 孫娘:万葉 1歳

愛妾:吉次 45歳

├長女:吉乃 24歳(懐妊中) - 婿:石川五右衛門 30歳

│ └ 孫:五郎市 4歳

├三男:佐野行久 19歳 - 正室:珠姫 19歳(懐妊中)

└四男:栄丸 13歳

実弟:大久保資近 43歳 - 正室:彦姫 43歳

├養女:れんみつ 25歳 [- 婚約者:戸沢盛安 29歳]

│ └ 養孫:道丸 5歳 [- 婚約者: 岩城忍子 5歳]

├姪:だんみつ 20歳 - 婿:九戸政信 22歳

│ └ 姪孫:亀千代 2歳

├姪:こいみつ 14歳 [- 婚約者:相馬利胤 14歳]

└甥:清丸 11歳

養女:阿蛍 34歳 - 婿:前田利益 44歳(遠征中)


義甥:伊達政宗 28歳 伊達家17代目当主 正三位 権中納言 鎮守府将軍

<1595年 1月>


 聚楽第にて付家老の職務の引き継ぎ作業を行う。

 その後に関白の豊臣秀次の下へ赴き、離任の口上を述べる。


 豊臣秀次との対面には、俺のことを豊臣秀吉にチクった徳永寿昌も臨席していた。

 相変わらず監視の目を光らせてる。

 徳永寿昌、なんかもうお前ほんと梶原景時ポジションだな。


 上意によって腹心を突然取り上げられてしまった豊臣秀次。

 もちろん不安げである。


「太閤殿下は私のことを信用しておらぬようだ」


 またぞろ持病の喘息がぶり返しそうな顔色をしている。

 安堵させるべく、適当に言葉を紡いでおく。


「この左京亮の後任は前野長康殿だとか。太閤殿下にとっては最古参の家臣となる方。信頼の証にございましょう」


 前野長康は尾張時代から豊臣秀吉に仕える六十代後半の老将だ。

 十年ほど前に亡くなった蜂須賀正勝とともに、墨俣一夜城や金ヶ崎の退き口などで数々の武功を上げてきた。

 豊臣秀次の次男百丸を産んだお辰の方は、彼の養女にあたる。

 豊臣秀次にとって形式上の義父の一人にカウントされる人物になる。


 天正十六年の後陽成天皇の初の聚楽第行幸では、豊臣秀吉から饗応役に抜擢された。

 見事な口上を唱えて行幸の先導を務め上げたと聞くが。

 ただ、それももう七年も昔の話。

 史実の秀次事件では何の歯止めにもなってない。

 今回の後見役就任も、実際のところ名誉職的な扱いなのだろう。

 頼りにはなるまい。


「関白殿下のお側を離れるにあたって、こちらを置き土産として献じさせて頂きます」


 玉露の完成形を、その精製手段が記された虎の巻と共に豊臣秀次へ献上。

 二年前に名護屋で披露した後も、吉次にお茶職人を手配してもらって研究を進めさせていた成果となる。

 日々の喫茶を欠かさず、間違っても後陽成天皇の御典医である曲直瀬玄朔を呼びつけるような事のないよう釘を刺し、聚楽第を辞去する。


 二階堂屋敷に戻ったら、まずは国元の南御前らへの書状を記さねばならない。

 また豊後に赴任するにあたって、新領地を統治する為に家臣団を拡充する必要もあった。

 方々の伝手を使ってのリクルーティング作業が待っている。

 さらにそれらの合間を縫って、四男の栄丸の元服式の準備も進めねばならぬ。


 大忙しである。






 国元への手紙をしたためる。


 妻の南御前には、京を案内できないことをまず詫びた。

 あと義母の栽松院(久保姫)の一周忌にも参列出来ないことも詫びておく。

 唐入りが再開すれば五年は奥州に戻れなくなる。

 自分のことはもう死んだものとして考えてほしいと書き連ねた。


 長男の二階堂盛隆には、俺が側を離れた為に豊臣秀次が失脚してしまった場合の歴史の展望を伝えておく。

 豊臣秀吉亡き後、豊臣家の舵取りをする者は誰も居なくなり、史実に準じて次の天下人の座を巡る主導権争いが勃発するのは確実だ。

 そうなると、関東の徳川家康が豊臣家の諸将を己の傘下に参じさせようと、源頼朝を真似て奥州征伐を企みる可能性が高くなる。

 奥州の玄関口である白河の関を領する二階堂家として、備えを努々怠ることのないよう戒めておく。


 長女の吉乃には、もうすぐ第二子の臨月となる為、まずは無事の出産を祈願する旨を書き送る。

 そして豊臣秀吉に先んじて入手し、今まで自分の手元に隠し持っていた『千鳥の香炉』を合わせて送り付ける。

 釜茹イベントを回避できた今、もはや不要の長物となったので、記念に夫の石川五右衛門に渡しておくように書き添えておいた。

 その上で、東国に異変これあれば五右衛門をすぐに西海に走らせるよう依頼しておく。


 次男の岩城盛行には、伊達家の新造の方(ジュリエッタ)への繋ぎを依頼する。

 彼女はかつて豊後の臼杵の施療院を開いており、女神として奉られていた。

 その威光を領民の慰撫の為に借り受けたかった。

 あと彼女の伝手で長崎・平戸から南蛮医師を派遣してもらう算段も付けておきたい。


 次女の元姫には、体を労りつつ孫の万葉を元気な子に育てることを期待する旨を書き記す。

 そして元姫の夫である伊達成実の治める越後は、一朝事あれば上杉遺民たちの一揆が起こりやすい土地である。

 直江信綱とその嫡男清綱の父子を重用して予め対策を講じておくよう、婿への言伝を頼む。

 また、徳川家康による伊達成実個人への調略と、佐渡代官の屋代景頼の査察への注意も喚起しておく。


 三男の佐野行久には、もうすぐ出産を向かえる妻の珠姫を労わるようきつく申し伝えておく。

 そして佐野の惣宗寺あたりに新城を築き、唐沢山城から居城を変更するように助言も添える。

 唐沢山城はその標高の高さで江戸を監視できる為、徳川家の警戒を招く所以の措置であった。

 さらに遊び心で、練った小麦を孟宗竹で伸ばして平打ち麺にして鶏がらスープで食す、佐野ラーメンの原型も提案する。


 孫の二階堂盛宗には、須賀川を中心とした仙道筋の未来を託すべく、安積疏水構想を伝えておく。

 南岸を領する猪苗代湖から水を引ければ、安積原野は日本一の穀倉地帯に変貌を遂げるはずであった。

 北上水系の整備を終えた北楯利長が、現在猪苗代湖の北西岸で戸ノ口堰の開発を進めている。

 戸ノ口堰の取水量のコントロールが、安積疏水の成功の肝となろう。


 都合八通。

 思いの丈を存分に込めて文を書き連ね、筆を置く。

 これで思い残すことは何も無い。


 ちょうど良いタイミングで名古屋山三郎が声を掛けてくる。


「大殿、準備が整いましてございます」


「うむ、すぐに参る」


 次は採用面接だ。






 リクルーティング活動は難航していた。


 豊後臼杵に赴任するにあたって、豊臣秀吉からの紹介で二名の客将の雇用が決まっている。


 一人は田原紹忍。

 五十代半ばの武将で、かつて豊後で一番の勢力を誇った田原の庶家の出となる。

 妹が大友宗麟の正室となった縁で、大友家の加判衆として活躍。

 大友家にとって大きな転機となった耳川の戦いでは、大友軍の総指揮を取ったほど重用されていた。


 大友軍の大敗で終わった耳川の戦いは、実のところ大友軍の士気が最低な状況で行われた戦さとなる。

 大友家中のキリシタン勢力の意向によって、神社仏閣を破却しながらの日向侵攻となった為だ。

 それゆえ、その大敗だけを取って無能と謗られるのは、キリシタンを唾棄している田原紹忍からすれば辛いものがあろう。

 そこは良い。


 問題は、関ヶ原の戦いの折に彼が取った行動だ。

 史実では豊後竹田を領した中川秀成の寄騎となっていた彼は、九州に上陸した大友義統に呼応する。

 その時、中川家の旗を盗み出して大友義統の陣に加わった為、後に中川秀成は徳川家康の誤解を解く為に大変苦労することになる。


 この世界線では中川秀成が豊後にいない。

 俺が関白の豊臣秀次の補佐をした影響で、朝鮮での鷹狩り中に討ち取られた中川秀政に対する処罰が重かった。

 弟の中川秀成は家督の相続は許されたものの、未だ播磨三木に小領を有したままとなっている。

 結果、中川家の代わりに我が二階堂家の寄騎となった形である。


 もう一人は宗像鎮続。

 筑前国の古族の宗像氏の一族の出で、こちらまた大友家中で可判衆に列した武将だ。

 特に取り立てての活躍の記録は無いが、関ヶ原では田原紹忍と行動を共にしている。


 信用に値しない二人である。

 重用など出来るはずもなかった。

 しかし、目ぼしい武将は唐入りでほぼ他家に雇用されてしまっている。


 そんな俺を救ってくれたのが、志賀親次である。






 二階堂屋敷の広間にて待つ。


 志賀親次に案内され、彼と同年代の四名の武将たちが俺の前に現れる。

 平伏する彼らを左から順に紹介してくれる志賀親次。


「大友家中で我が同輩であった佐伯惟定と若林統昌。元蒲生家臣の岡定俊殿。その弟の岡重政殿にございます」


 全員が二十代後半の働き盛り。

 ギラギラしており、強そうだ。


 佐伯惟定は、豊後佐伯氏の第十四代当主で、豊後海部郡の栂牟礼城主だった男である。

 島津家の豊後侵攻に対して志賀親次を連携してゲリラ戦法を展開。

 堅田合戦で大勝するなど島津家久の軍を大いに苦しめ、豊臣秀吉から激賞されている。

 大友家の改易後は豊臣秀保の客将となっていたが、父祖の地である佐伯が同輩の志賀親次の仕える俺の所領となると知り、仕官の口を求めて来た。

 なお、関白である豊臣秀次の内意を受けて、豊臣秀保の許可は得ているとのこと。


 若林統昌は、大友家が改易されるまで、同じく海部郡の佐賀郷一尺屋を治めていた領主である。

 志賀親次とは大友宗麟の下で共に元服し、それから変わらず友誼を通じているという。

 大友家の水軍衆の中核を成していた武将であり、大友家中で随一の強弓の担い手とのこと。

 大友家を辞した後は、柳生の庄に赴いて剣の修行に打ち込んでいたそうな。

 僅か一年で柳生新陰流の免許皆伝に至ったというから、何とも頼もしい剛の者であった。


 岡定俊は、岡左内の呼称の方が有名であろう。

 史実では初め蒲生氏郷に仕えて戦功を重ね、次いで上杉家に仕えて松川合戦では伊達政宗に苦杯を味合わせている。

 蓄財が上手で、金銭を敷き詰めた床の上で裸になって寝るのが趣味の、現代の札束風呂の走りとなった変人だ。

 その一方で、必要な時には蓄財を無償で貸し与え、その証文も焼き捨ててみせるなど、金の使い所を分かっている男でもあった。

 史実と異なり、豊臣秀吉が蒲生秀行を大領の主に取り立てていない為、弟と共に浪人中の身である。


 岡重政は、蒲生家の家老として徳川家康の三女の振姫と鋭く対立した人物だ。

 慶長会津地震で神社仏閣の復興の優先を指示した振姫に対し、民衆の救済が先として頑として譲らず、徳川家康に切腹を命じられている。

 実際のところ徳川家康は岡重政の肩を持ちたかったようで、振姫も浅野家へ再嫁させられている。

 彼の妻が石田三成の娘だったことも影響したか。

 兄と同じくキリシタンであり、同じくキリシタンの志賀親次と京で知り合って交流を深め、二階堂家の士官募集に応じてきた。


「採用!禄はそれぞれ三千石とする」


 即断即決。

 禄の高さは俺の期待の表れだ。

 田原紹忍と宗像鎮続は三千石と二千石なので、家中での席時も彼らと同格だ。


 地の利に明るい武将と、水の利に明るい武将と、商人属性の武将と、政治極振りの武将。

 必要だった分野の人材が一挙に揃った。


 これで領国経営は何とかなろう。






 最後は栄丸の元服式だ。


 栄丸も数え年で十四歳となり、頃合いと言えば頃合いであろう。

 烏帽子親は、栄丸が伏見城に出仕した後に師事することになる真田信繁にお願いしてある。


 真田信繁は「私のような若輩者には畏れ多いことでございます」と恐縮するが何をか言わんや。

 いずれは栄丸にとって大変な誉れとなることであろうよ。


 無事に元服を終え、名乗りを二階堂行栄と変えた息子と向き合う。


「栄丸、いやさ行栄。ひとつ昔語りをしよう」


 かつて奥州を出でて京の鞍馬山に入り、修験道に勤しんでいた一人の男がいた。

 剣と詩に特に秀でていたがために時の将軍に召し出され、殿中で側近くに仕えることになる。

 やがて故郷に錦を飾って奥州の大将の腹心となったその男は、城に囚われの主君を川を渡って単身救い出すなど、魔法の如き活躍を見せる。

 何の者の名は小梁川宗朝。

 我が祖父、行栄にとっては曽祖父となる伊達稙宗の覇道に、生涯掛けて尽くし続けた天狗である。


 小梁川宗朝の事蹟を語り、行栄が恋焦がれる修験道と武士の道は決して相反するものではないと伝える。

 修練を積んで小梁川宗朝の如き武将になって欲しいと告げると、行栄も納得してくれたようだ。


「父上のご期待に添えるよう、日々精進を重ねまする」


 息子の元服式を見守っていた吉次にも声を掛ける。


「吉次。行栄の母として、そなたにも窮屈な生活を強いられることになる。すまぬな」


 依然として正室の南御前は、頑として側室としての受け入れを拒んでいる。

 それはそれで俺も納得しているのだが、行栄が我が子として伏見に出仕するのに伴い、吉次は豊臣秀吉に俺の側妾として認定されてしまった。

 大名の妻子を京に住まわせるのが豊臣政権の法度ゆえ、吉次もそれに準ずる扱いとなる。


 近江の所領は取り上げられてしまったが、京の二階堂屋敷はそのままとされ、吉次の在所となる。

 今までのような女商人としての活動は大幅に制限されよう。


「お殿様に夢を叶えてもらい、京や堺だけでなく博多までこの目で見ることが出来たのですもの。少々の不自由、何てことありません」


 それに新しい趣味も見つけましたから、と微笑む吉次。


 商売の世界での成功に満足した吉次は、今度は歌舞音曲に興味を持ったようだ。

 最近の奥州屋は諸国の情勢の収集業務の外注化を図り、数多の旅芸人たちの座をスポンサードしていた。

 出雲の阿国の一座もその一つで、阿国手ずから踊りを教わる機会があったらしい。

 奥州屋の経営は甥に任せ、しばらくは二階堂屋敷にて歌と舞の世界に没頭してみるとのこと。

 護衛として名古屋山三郎を留守居役に据え、吉次の側に残すと決める。


 一曲所望してみるも「まだまだ未熟なので、お目汚しになります」とキッパリと断られてしまった。


 残念だが、楽しみは次に上洛する日まで取って置くことにする。


 果たして吉次のパフォーマンスをこの目で見れるのは、いったいいつの日になるのやら。






<1595年 2月>


 明けて正月、臼杵に向けて出立する。


 臼杵までの道中、倉敷で一泊。

 夜半に配下の守谷俊重が注進にくる。


「大殿!なんか凄くヤバそうな奴が仕官したいと押し掛けて来たんですけど、どうしましょ」


 押し掛け仕官なんて、俺に報告するまでもなく追い返すのが普通だ。

 ただし、わざわざ守谷俊重が俺のところまで話を持ってくる時点で、只者ではないのだろう。

 会ってみる。


「拙者、六左衛門と申す」


「お前、絶対に水野勝成だろ」


 確かにヤバい。

 虎の如き男だ。


 怪物登場である。






 水野勝成。

 歳の頃は三十前後。

 前田利益並みにガタイが良い。


 豊臣秀吉の直臣である三河刈谷城主の水野忠重の長男となる。

 水野忠重は徳川家康の生母の於大の方の実弟だ。

 つまり水野勝成は徳川家康の従兄弟になる。


 だが父である水野忠重からは、勘当の上に奉公構えまで出されている状況にあった。


 この水野勝成。

 とにかく戦さに強いのだが、些細なことで揉め、よく人を殺す。


 水野家を出た後も仕官する先々で問題を起こし、その都度バックれて禄を投げ捨て逃亡。

 方々に迷惑を掛け、豊臣秀吉、黒田長政、小西行長らにも出禁にされている。

 俺の記憶が確かならば、この時期の水野勝成は備中鶴首城の三村親成の食客になっていたはず。


「おおかた茶坊主でも斬って、三村家中にも居られなくなったのであろう」


「ぬぬぅ、なぜそれを知っておられるのか」


 ここに現れた理由を言い当ててみせると、さしもの水野勝成も動揺を隠せない。


 重ねて言い含める。


「仕官の件は断らせてもらう。倫魁不羈なそなたを使いこなせるのは徳川大納言殿くらいであろう。この左京亮では無理だな」


 奉公構えは関係ない。

 彼の隔絶した武力は魅力的だが、これから新領地を慰撫しないといけないのに、そこで簡単に人を殺されてはたまったものではない。

 リスク管理の問題であった。


「り、りんかい、ふき?」


「余りに凄すぎて、誰にも縛りつけることはできない、という意味よ」


「おおっ、まさしく!」


 嬉しそうにするなよ。


 しかし、ただ追い返すだけでは芸がなかろう。

 雇いは出来ぬが、道は示すことは出来る。


「太閤の余命もあと四年。それまではこの備中に止まられよ。三村親成殿に詫びを入れ、再び世話になっておけ。そこで新たな出会いもあろう」


 史実の水野勝成は、三村親成が用意した世話役の於登久と結ばれて、嫡男の勝俊を備中の地で得る。

 そして豊臣秀吉の死後に徳川家康の下に駆けつけ、父の水野忠重と和解する機会を持つ。

 やがて水野家の家督を継いだ彼は、放浪時の遍歴を活かし、有能な為政者としての意外な一面を見せることになる。


 まさに『治世の能臣、乱世の豪雄』であった。


 まぁ、算盤かぶき大名の前田利家の二番煎じ、とも言えるかな。

 ちょっと前田利家よりも過激ではあるが。






<1595年 3月>


 初めて臼杵城下に入る。


「きゃー、親次さまーっ」


 隊列の先頭で黄色い声が響く。

 若くて見栄えの良い志賀親次に先陣を任せたところ、見物の民たちに大歓迎されている。


 志賀親次は田原氏、詫摩氏と並ぶ大友三名族の一つ、志賀氏の嫡流となり抜群の血統だ。

 島津家との豊薩合戦では、臼杵西方の岡城を舞台に十九歳の若さで抜群の武功を重ねている。

 そして大友義総に逆らって棄教を拒否し続け、豊後のキリシタンにとっての希望の光であり続けた。

 人気がない訳がない。


 そんな志賀親次でも、改易前の大友家では僅か千石の扶持しか貰えてなかった。

 それが今回その十倍の一万石での返り咲きである。

 豊後の民が彼に期待するのも理解出来る。


 翻って、俺は歓迎されてない。

 群衆の前を通っても、畏怖の視線を向けられるだけだ。

 中には憎しみの目を向けてくる者もいる。


 まず二年前に大友義統に直接改易を告げたのが俺、という点。

 大部分の民衆が、自分が拝領する為に豊臣秀吉に告げ口して大友家を改易に追い込んだ、と捉えられてるらしい。

 東国では二階堂氏の名前は鳴り響いているが、西国では誰ソレ?の扱いだ。

 高次の政治的な話は下々の者にはわからんから、それも仕方あるまい。


 あと、この豊後の地では『二階堂』という名前自体が不吉だった。

 二階堂の名を聞いた時に豊後の民がまず思い浮かべるのが、未だに語り継がれる『二階崩れの変』のようである。

 今から四十年以上前に、当時の大友家当主の義鑑と側室とその子三人が、嫡男の大友義鎮(宗麟)の放った刺客に斬殺された政変である。

 事件は府内の大友館の二階で起こったので、二階崩れの変。

 戦国の世でも屈指の、凄惨で残酷な家督継承劇である。


 前途多難そうだ。






 臼杵城の一ノ丸から城下を眺める。

 天守台は存在しない。


「やはり海が近いな。そして日差しが濃い」


 臼杵城は大友宗麟が手ずから整備した大友家の本城である。


 二階崩れの変で豊後を掌握した大友宗麟は、己の権力を更に絶対的なものにすることを目論み、本拠地の移転に打って出る。

 それまで豊後の中心だった府内は余計なしがらみが多すぎた。

 それを嫌っての遷都である。


 大友宗麟は臼杵湾に浮かぶ丹生島を城郭化し、周囲を干拓して湊と城下町を形成。

 三面を海に囲まれた難攻不落の城を完成させた。

 武力、経済、宗教の全てを己一人が支配する臼杵城に本拠を移すことで、大友宗麟は戦国大名としての大友家を確立したと言えよう。

 臼杵遷都で家中の統帥力を増した大友宗麟は九州探題まで上り詰め、大内遺領を巡っての毛利家との争いに突入していくことになる。

 しかし今、その臼杵の城下町は復興の最中にあった。


 一時は豊州・筑州・肥州と日向半国・伊予半国までその勢力圏を広げた大友家であったが、今山の戦いと耳川の戦いでの敗戦により凋落。

 龍造寺家と島津家の台頭を許してしまい、斜陽の時を迎える。

 最終的に龍造寺家を下した島津家が九州統一を掲げて豊後に侵攻して来るのだが、大友宗麟はその島津軍を本拠であるこの臼杵城で迎え撃った。

 国崩しと呼ばれるフランキ砲のお陰で辛くも島津軍を追い払うも、臼杵の城下町は甚大な被害は被ってしまう。

 その丹生島城の戦いからすでに九年経っているが、旧大友家の諸将たちに聞くと、最盛期の面影にはまだまだ遠いとの話である。


 まあ、それはいい。

 問題は海の近さだ。


 元々が島だった場所だけに、周りはほぼ海。

 大友宗麟が手を付けるまでは、唯一西側だけ干潮時に干潟が現れていたような場所である。

 干拓して陸地を強引に作っただけあって、城下町の標高は低い。

 津波が来たらひとたまりもあるまい。


 俺の記憶が正しければ、慶長地震の三連発は文禄五年の閏月に起こった。

 来年の閏月の七月だ。


 確か慶長伏見地震が閏七月十三日の子刻(深夜0時)。

 その前日に慶長豊後地震。

 さらにその三日前に慶長伊予地震が起こっている。

 それぞれ申刻(午後4時)と、酉戌刻(午後7時)だったと記憶していた。

 諸説あったが、まずはその薄ぼんやりとした記憶を頼って対策を練るしかない。


 慶長伊予地震では、府内の沖ノ浜で二千人が流されたとの記録も残っていたはず。

 府内は臼杵から見ると佐賀関半島の反対側になるが、よもや影響が無いなんてことはあるまい。

 ましてや慶長豊後地震の震源地は別府湾口直下と推測されているのだ。


 新領主の威信を示すために、なんて理由で臼杵城の天守閣の造成計画なんてのも部下たちから上がって来てはいたが。

 速攻で却下だ。


 その代わり、岡重政には地震と津波に強い町作り計画を命じておいた。


 ここ一年半。

 少なくとも唐入りが再開するまでの間は、とにかく地震対策に奔走する日々を送らねばなるまい。






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― 新着の感想 ―
[一言] 送った手紙の情報量が凄すぎて笑う。後世に二階堂氏を調べた人はこいつのやばさにドン引きするだろうな。
[良い点] このまま日本全国の知名度高めつつ、 世界史にも武勇を轟かせてほしい。 具体的には慶長の役のやべぇ奴筆頭に。
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