1594-2 左遷
<1594年 6月>
実隆公記を読破すべく、侍従の三条西実条邸を尋ねる。
実隆公記は、文明六年から天文五年までの室町時代後期の公家社会の出来事を記述した日記だ。
何せ約六十年分もの日記となり、その冊子と巻子の数はすごい量になる。
この年の正月からこのかた、政務の合間を縫って折に触れては三条西実条邸に足繁く通っていた。
何のために実隆公記を読み漁っていたのか。
それは地震に関する記録を探すためである。
豊臣秀次事件の回避の目処が立った今、俺は次のイベントである慶長伏見地震への対策を練っていた。
建造中の伏見城や京洛の多くの大寺院の耐震補強を進めるべく、豊臣政権の関係各所を説得する材料を探していたのだ。
慶長伏見地震は天正大地震から十年後となる再来年後に起きる。
なので俺は、大きな地震があった場合に十年後に必ずまた大きな地震が起こる説を唱えることにした。
別にそれが真実でなくても構わない。
俺の説を補強する客観的事実を強引に作り出すため、京都中の公卿の家を訪ねては日記を所望し、地震の記述を参集していく。
関白の側近という立場を利用した、後付けの理由探しである。
知識は公家の財産である。
政治の主体が武家に移ったこの時代、本朝の文化や伝統の蓄積継承のみが、公家の存在意義と言って良い。
なのでおいそれと安売りはしてくれない。
実隆公記の公開もそうだ。
三条西家の現当主となる実条は、今年二十歳になる青年貴族である。
実隆公記を記した三条西実隆は、彼の高祖父にあたる。
高祖父のプライベートや、三条西家の秘事が赤裸々に記述されている日記だ。
当然ながら、赤の他人に簡単に見せるわけにはいかない秘蔵の品となる。
俺が幸運にもその実隆公記を拝読できたのには、三条西家が足利将軍家とも交流が深い公家だったことも影響する。
三条西実隆は足利義政、足利義尚、足利義稙の三代に歌人として重用され、取次役を務めた幕府評定衆の二階堂一族とも関係が厚かった。
また、この二階堂盛義、曲がりなりにも貴族となる従五位下・左京亮を三十年間勤めてきただけあって、何気に公家受けは良い。
あくまでそれらがベースにあった上での多額の献金が決め手となる。
三条西実条は歌会参加のために不在であった。
彼の祖父の三条西実枝は、古今和歌集の読み方や解釈を相伝された人物である。
三条西実枝は息子の公国がまだ幼かったため、弟子の細川幽斎に息子への古今伝授を託した。
その公国も早くに亡くなっており、代わりに孫の実条が細川幽斎から古今伝授される予定となっている。
今はその時を待って、侍従の勤めを果たしながら歌道の修行に勤しんでいる最中だ。
慣れたもので、当主不在にも関わらず書庫に通される。
「ご案内します」
十代半ばの年若い娘が側について、いつも通り甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
名を阿福という。
ただの侍女ではない。
三条西実条の従姪だ。
この阿福。
父親は明智光秀の家臣の斎藤利三である。
母親は織田信長の配下として名を馳せた美濃三人衆の一人、稲葉一鉄の娘であった。
歴とした武家の姫君と言える。
また稲葉一鉄の妻が三条西家の出であったため、公家の血も引いている貴種でもある。
山崎の合戦に敗れ、父や兄たちが処刑された後は、稲葉家に匿われていたと聞く。
唯一生き残った兄の利宗が豊臣秀吉に許されてからは、祖母の家である三条西家へ行儀見習いに入っていた。
史実で言うところの、後の春日局である。
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<三条西家と稲葉家の関係図>
三条西実隆(内大臣。室町後期随一の歌人。実隆公記を書す。1455-1537)
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└三条西公条(右大臣。一流の文化人。稲葉良通に薬方を相伝。1487-1563)
│
└三条西実枝(内大臣。正親町天皇の側近。細川幽斎に古今伝授を託す。1511-1579)
│
├三条西公国(内大臣。古今伝授される前に病死。1556-1587)
│ │
│ ├★三条西実条(侍従。歌道修行中。後の徳川幕府体制下の武家伝奏。1575-)
│ │
│ └三条公広(三条家十九代当主。叔父の実綱の後継となる。1577-)
│
├三条実綱(大寧寺の変で途絶えた三条本家を継ぐも早逝。贈右大臣。1562-1581)
│
└長女(稲葉良通正室。1530-)
│
├稲葉貞通(一鉄の嫡男。美濃郡上八幡城主。1546-)
│ │
│ └稲葉典通(1566-)
│
├阿安(一鉄の長女。1550?-)
│ │
│ ├斎藤利宗(山崎の敗戦後に出家。後に還俗して加藤清正に五千石で仕える。1567-)
│ │
│ ├★阿福(三条西家で行儀見習い中。後の春日局で三条西実条の猶妹。1579-)
│ │
│斎藤利三(明智家臣。山崎の敗戦後に六条河原で処刑。1534-1582)
│
稲葉良通(西美濃三人衆の一人。一鉄入道。1515-1589)
│
├稲葉重通(一鉄の庶長子。美濃清水城主。1544-)
│ │
│ ├牧村利貞(母方の牧村家を継ぐ。朝鮮出兵で陣没。1564?-1593)
│ │ │
│ │ └おなあ(後の春日局の補佐役。1588-)
│ │
│ ├稲葉通重(1566?-)
│ │
│ └長女(1571?-1592?)
│ │
│ ├稲葉正次(1591-)
│ │
│ ★稲葉正成(林政秀の次男。阿福の嫁ぎ先。1571-)
│
[加納氏(稲葉良通側室。15??-15??)]
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阿福の気の利いた補助を受けながら、いつも通りに実隆公記を読み進める。
実隆公記は応仁の乱以降の公家文化を理解するのに有用な一級資料だ。
ついつい当初の目的である地震の情報収集を他所に、阿福とその解釈を巡って語らいながら楽しく刻を過ごしてしまう。
気がついたら日がだいぶ傾いていた。
「阿福殿、今日はここまでにしよう」
「はい。お疲れ様でした」
阿福に冊子を渡すと、優美な手付きで書箱に戻してくれる。
それからシャナリと立ち上がり、書箱を書庫に運んでいく。
一々所作が美しい。
見目も悪くない。
むしろ良い。
まぁ史実では将軍の嫡男の乳母に選ばれる女性だ。
当然オーディションの審査基準には美醜の項目も入っているだろう。
醜女であるはずがなかった。
どことなく雰囲気が若い頃の片倉喜多に似ている。
「次はいついらっしゃいますか」
「明日から奥州よ。孫の婚儀があってな。二月は京洛を離れねばならぬ。しばらくは参じられまい」
「まぁ、それはおめでとうございます」
「うむ」
「奥州、遠うございますね」
少しだけ寂しげな表情を見せる阿福。
思わず娘に接するかのように、元気付けの言葉を掛けてしまう。
「次来る時は、そなたにも奥州の土産を持ってきて進ぜよう」
するとスッと阿福が三つ指付いて頭を下げてくる。
「申し訳ございませんが受け取れませぬ。左京亮様のお相手は本日が最後となりましょう」
「如何した?」
「阿福もこの秋の祝言が決まりました。一月後にはこのお屋敷を離れることになります」
そうか。
確かにもうそんな年頃か。
念の為に尋ねる。
「ほう、どちらに嫁がれるのか」
「太閤殿下にお仕えする稲葉正成殿です。嫁いでいた従姉が亡くなり、後添いとして参ります」
左京亮様との楽しき日々、忘れませぬと阿福は礼を述べてくる。
その目は潤んでいた。
ううむ。
三条西邸に通い出して半年足らず。
未来の春日局にここまで懐かれるとは。
豊臣秀次が生き残れば、まず間違いなく関ヶ原の戦いは起こり得ない。
よしんば豊臣秀次と徳川家康が戦さに及んだとしても、阿福の嫁ぎ先の稲葉正成が仕えることになる小早川秀秋は、豊臣秀次側に付くであろう。
彼女が徳川家の三代将軍の乳母となり、江戸城の大奥で権勢を振るう未来など、すでに潰えていると言っても良い。
阿福は武家の姫君でありながら、書道・歌道・香道等の公家の教養もバッチリ身につけているスーパーレディだ。
この才女が歴史に埋もれてしまうのは忍び難い。
さて、何とか出来ないものだろうか。
<1594年 8月>
仙台の東昌寺で営まれた壮大華麗な葬儀に参列する。
義母の笑窪御前(久保姫)の葬儀だ。
夫である保山公(伊達晴宗)の最期を看取った後、義母は出家して栽松院と名乗っていた。
没日は文禄三年六月九日。
享年七十四歳。
法名は栽松院殿月盛妙秋禅尼大姉。
我が孫の盛宗と、亡き輝宗殿の末娘の杏姫の結婚を見届けた後、笑窪御前は眠るように亡くなった。
笑窪御前にとっては十六歳になる曾孫と十七歳の孫娘の婚儀だ。
伊達家と二階堂家の融和を象徴する婚姻となる。
「ありがとう。これで思い残すこと無く、あの人のところに逝けるわ」
祝言を終えた二人が揃って病床の笑窪御前を見舞った時に、彼女に掛けられた言葉である。
笑窪御前の血脈は広く東日本全域に広がっている。
まさに奥羽の母と言うべき人であった。
義母の笑窪御前の葬儀に遡ること一月前。
仙台の二階堂屋敷で盛大に行われた孫盛宗の婚儀に、俺は関白の名代として参加していた。
正使は俺で、副使は同じく家老の服部一忠だ。
鎮守府大将軍の伊達家と南奥下野百万石の二階堂家の婚儀となり、煌びやかな華燭の典となる。
奥羽一円の諸大名が挙って参加し、笑窪御前の息子や娘たちも数多く参列した。
長男の岩城親隆。
心の病で長く療養中であったが、我が息子盛行が北海道から持ち帰った鎮静効果のある薬湯のお陰で回復。
笑窪御前とは、直山公(伊達稙宗)の葬儀以来の約三十年振りの再会を果たす。
長女の南姫。
我が妻であり、今は須賀川城に戻って孫の二階堂盛宗を後見中である。
最近は足繁く仙台に通い、笑窪御前の看病を続けていた。
次女の鏡清院。
我が婿の伊達成実の実母。
三年前に大病を患うも、彦姫と同じく南蛮医者ジュリエッタの治療を受けて回復。
三女の益穂姫。
小梁川泥播斎の正室。
息子の小梁川宗重らは伊達家重臣として活躍中。
三男の留守政景。
史実と異なり出羽庄内十五万石を領有。
伊達水軍を統括。
四男の石川昭光。
陸奥角田城主。
史実の約二倍となる六万石を領有。
四女の彦姫。
史実と異なり蘆名家には嫁がず、南会津五万石を領する我が弟の大久保資近に嫁ぐ。
娘のれんみつは岩城常隆、だんみつは九戸政信と正室に納まっている。
五男の伊達盛重。
史実と異なり国分氏ではなく蘆名氏を継ぐも、大崎葛西一揆の責を問われて家名を没収。
現在は部屋住みのまま佐竹家との取次役を務めている。
笑窪御前の子供の十一人のうち都合八人が、我が孫の婚儀に合わせて母の見舞いに訪れていた。
なお残る三名だが、次男輝宗殿と六男直宗はすで亡くなっており、五女宝姫は佐竹義宣の生母として水戸を離れられなかった。
関白の名代として婚儀に参加していた俺は、本来であればすぐ京に戻るべき立場であった。
だが義母の容態悪化の報を受け、服部一忠からゆっくりするよう諭される。
その言葉に甘えて仙台滞在の延長を決めた。
先に京に向かった服部一忠を見送った後に義母を看取り、そのまま葬儀へ参列する。
葬儀を終えて京に戻る前に、我が妻の南御前としばし語らう時間を取る。
実母を亡くして悲しみに暮れていた南御前も、だいぶ落ち着いたように見える。
「面には表さなかったが、母は兄(親隆)の気鬱の病をずっと気に掛けていた。最期に二人が語らえて、私も救われたわ」
南御前がつぶやく。
晴宗公が久保姫を強奪した際、一番最初に産まれた男子を養子に出す条件で岩城家と和睦している。
そのため久保姫は、幼い我が子を一人実家に送り込むことになる。
戦国の武家の姫として全部呑み込んで気丈に振る舞ってはいたが、やはり割り切れはしまい。
親隆の心の病も、我が子に過酷な道を押し付けた自分のせい、という思いがあったのであろう。
「盛行の大手柄よ」
「ああ。良き子らを得られて、我らは幸せ者よな」
豊臣秀吉の采配で岩城家に養子入りさせられた次男の盛行は、義父となった岩城親隆の心の病を癒す薬湯を遠征先の北海道で手に入れてみせた。
二重の意味での大層な親孝行ぶりである。
盛行だけではない。
他の子らも、しっかりとそれぞれの役目を果たしてくれている。
長男の二階堂家当主の盛隆は、嫡男盛宗と杏姫の婚儀だけでなく、二階堂家の内と外を固めるべく積極的に婚姻外交を繰り広げている。
すでに己が娘の星姫と塩谷義通の嫡男義保との婚約をまとめ、さらに彩姫を那須資晴の遺児藤王丸に嫁がせるつもりのようだ。
塩谷と那須の両家を完璧に二階堂家傘下に組み入れるための策である。
また盛隆は、鎮守府内での二階堂家の与党を増やすべく、親の代の確執解消を目的に、従姉妹のこいみつを相馬家の嫡男に嫁がそうとしていた。
更に同じく従姉妹で寡婦となったれんみつの再嫁先として、元夫の岩城常隆の三回忌が終わるの待って戸沢家との縁組話も進行中である。
出羽角館十六万石を統治する戸沢盛安は、自分の後継と考えていた弟の光盛を二年前に亡くしている。
息子が一人いるにはいるが、仙北領内での鷹狩りの最中に見そめた百姓源左衛門の娘に産ませた子だ。
身分的に家督を継ぐだけの資格が無い。
早急に後継をもうけるよう臣下から突き上げをくらい、戸沢盛安は子作りが可能で身分の高い女性を娶る必要に迫られていた。
そういう意味では、経産婦のれんみつはもってこいだったと言えよう。
鎮守府幕下で飛び抜けて大勢力の二階堂家と、己の側近の戸沢盛安が接近することになる。
伊達政宗としては正直面白くなかろう。
ただ、れんみつも伊達の血を四分の三引いている姫であり、伊達政宗にとっても従姉妹に当たる。
そして二十五歳のれんみつは、二十九歳の戸沢盛安と釣り合いの取れる年齢だ。
伊達家と戸沢家が血縁を繋ぐにあたって、これ以上の人選は他に無かった。
最終的に盛隆がうまく根回しをし、伊達政宗自身がこの縁組を斡旋する体裁となっていた。
伊達成実に嫁いだ娘の元姫も、もうすぐ臨月を迎える。
俺の目から見ても、腹の中の子は順調に育っているように見えた。
きっと元気な赤子を産んでくれることだろう。
そして一応は俺と南御前の実子扱いとなる三男の佐野行久も、この度手柄を挙げている。
奥州に戻る途上に立ち寄った唐沢山城にて、妻の珠姫懐妊の報告を受けた。
吉野の花見にて豊臣秀吉から下賜された香の前の一件がきっかけだそうだ。
美貌の香の前に見向きもしなかった行久の態度が、珠姫の頑なな心根をやっと解きほぐした。
香の前を嬉々として引き取ってくれた伊達政宗には、大いに感謝である。
なお、余談だが俺と吉次の娘である吉乃も、石川五右衛門のとの間の第二子を着床させることに成功している。
石川五右衛門の覚悟も、これで定まったと見るべきか。
「皆、逞しく生きておる。頼もしい限りだ。我が妻殿もしばらく肩の力を抜いて、ゆっくりしてはどうか」
我が子らの活躍を思い浮かべていると、自然とそんな言葉が俺の口から溢れ出していた。
そう言えば、喜多に叱られていたな。
南御前を京への物見遊山の旅に誘ってみる。
今の俺ならば妻に京洛の名所を案内する時間くらいは作れよう。
「それも良いかもしれんな」
角の取れた口調で南御前が答える。
彼女の心境にも変化が訪れているようだ。
孫の盛宗も晴れて婚儀を挙げ、嫁を迎えて一端の武将として独り立ちしようとしている。
我ら夫妻がこの地に残ってすべき事は、もう何も無いのやも知れぬ。
子離れ、孫離れの季節の到来であった。
<1594年 9月>
喪が明けたら上洛するよう南御前に伝え、仙台を経って京に至る。
仙台を経つ直前、京の伊達屋敷にて愛姫が女児を出産した知らせが、早飛脚で青葉城に届いていた。
なので出産後の愛姫と産まれたばかりの赤子との対面は、夫の伊達政宗よりも俺の方が早く果たすことになる。
折り返しの早飛脚で、伊達政宗から京の愛姫に赤子の名前は通達済みだ。
史実通りの五郎八姫である。
俺にとっては従姪孫にあたる。
早速だが五郎八姫の顔を見るべく伊達屋敷に向かう。
すでに五郎八姫誕生から約一ヶ月経っているが、いまだ伊達屋敷は落ち着かない様子であった。
見れば太閤や関白だけでなく、周辺の武家屋敷の諸大名よりの出産を賀する品が数多く届けられている。
届いた祝いの品々の整理や返礼の用意が、喜多を中心に進められているようだ。
五郎八姫を抱いて現れた愛姫に挨拶する。
「これは田村の紫御前からの祝いの品です」
「まあ、ありがとうございます。お祖母様はお変わりありませんでしたか?」
「栽松院様が亡くなられて、次は私の番ねと笑っておいででしたが、相変わらず矍鑠とされておられましたな」
叔母の紫御前も七十歳を超える高齢となっているが、あの元気の良さではなかなか逝くまい。
早く夫の伊達政宗に娘の顔を見せたいのだろう。
五郎八姫をあやしながら、仙台の様子を聞きたがる愛姫。
「殿とお義母様は、まだ揉めてらっしゃるのかしら」
「はい。保春院(義姫)様はなかなか承知してくれないようで」
新築の指月伏見城の邸宅の完成を待って、太閤である豊臣秀吉の大坂城からの引っ越しが再来月に決まっていた。
その転居祝いを直に奏上するため、伊達政宗の上洛が予定されている。
しかし、伊達家中で由々しき問題が発生しており、上洛自体が遅れそうな情勢である。
その問題とは、関白の豊臣秀次から打診があった織田秀信と駒姫の婚約に関する家中の調整の難航である。
伊達政宗の実母の保春院が反対の立場をあらわにしている為、落着の目処がなかなか着かなかった。
最上家からの人質だった駒姫を、親代わりに幼い頃より養育してきたのが保春院である。
まず間違いなく、保春院と駒姫の実家である奥州斯波家(旧最上家)の意向を受けての駄々であった。
日本の政権の中心である上方は、織田の旧臣たちが牛耳っている。
そのため、中央での織田のネームバリューは凄まじい。
すでに二回ほど上洛している伊達政宗も上方の空気は肌で感じており、織田の名の遺光は熟知している。
しかしながら、地方の由緒ある武家からすれば、織田家なぞここ二、三十年で一気に成り上がって落ちぶれた中部東海の一大名でしかない。
ましてや今の織田家の主流は、武衛斯波家の家臣の更に陪臣の出となる。
分家とは言え斯波一族に連なる保春院は、例え織田信長の嫡孫であったとしても織田秀信を貴種とは看做していなかった。
彼女が織田秀信の叔父にあたる織田信雄の姿を間近に見ていたのも、その理由の一つかもしれない。
織田信雄は四年前に出羽の八郎潟湖畔に流罪に処された後、伊達政宗の好意で仙台城下に移されて放蕩三昧の日々を送っていた。
元から似通って気性の荒い二人だ。
息子の伊達政宗と母親の保春院との仲は、急激に悪化中である。
まぁ伊達政宗の立場からすれば断るなぞ端から無い話だ。
いずれ保春院の説得は諦めて勝手に話を進めることになろう。
どうやら保春院と伊達政宗の母子二人は、どうあっても袂を分つ運命にあるようだ。
<1594年 10月>
石川五右衛門の釜茹でイベントは発生しない。
ホッと安堵する。
その代わりと言ってはなんだが、娘の元姫が無事出産した知らせが仙台から届く。
女の子である。
婿の伊達成実の手紙によると万葉姫と名付けたそうだ。
母子共に健康とのことで実にめでたい。
万事順調な我が二階堂一族と異なるのが豊臣家だった。
ますます斜陽の気配が強くなりつつある。
春先から体調を崩していた朝日姫が、祈祷の甲斐なく亡くなってしまう。
朝日姫は豊臣秀吉の実妹である。
夫の副田吉成との離別のストレスが無かったお陰か、史実より四年寿命が伸びていた。
さすがに豊臣秀吉も実の妹の不幸は大いに嘆き、豊臣秀次に命じて手厚い葬儀を営んだ。
豊臣秀次配下の付家老として、俺も葬儀の準備に駆けずり回った。
ただし、事はそれだけに収まらない。
自身の隠居先である伏見城への転居が迫っていたため、幸先の悪さを感じたのだろう。
豊臣家中の陰気を吹き飛ばすべく、宇治川を伏見城の外堀とし、奈良街道を伏見城下に敷設するための大規模な普請を始めようとしていた。
奉行衆が上げてきた畿内の諸大名への労役の割り振り案を、関白豊臣秀次と共に吟味する場が聚楽第で設けられる。
豊臣秀次配下の家老たちと共にもちろんこの俺、二階堂盛義もその場には参加していた。
むむっ?
通常ならば、太閤である豊臣秀吉配下の奉行衆の案をそのまま通すだけの儀礼的な会合である。
しかし我ながら目ざとくも、その案で不都合が生じている部分を見つけてしまう。
「津侍従殿の負担が、他よりも多すぎませぬか」
自分で喋りながら気がつく。
確か織田信包が理不尽な減封を受けたのも、このタイミングだったんじゃないか?と。
津侍従。
伊勢安濃津城主の織田信包の呼称である。
織田信長在命中に織田家で三番目の序列にあった織田信長の弟だ。
自身の娘の姫路殿を羽柴秀吉の側室に上げており、山崎の合戦後も一貫して羽柴秀吉に従い、伊勢十五万石の大名となっていた。
しかしながら史実では伏見城の普請をサボったせいで、豊臣秀吉の伏見城転居に前後してあっさり近江二万石に減転封させられてる。
白江成定が目を細めて書類を確認する。
「確かに津侍従殿に割当たっている人足の数は、他家より多いようですな。奉行衆に問い合わせましょう」
「待たれよ。津侍従殿の忠誠を試すべく、わざとその数にしてあるとは考えられまいか?」
陰謀論を唱えてきたのは徳永寿昌だ。
太閤殿下の信任厚い奉行衆の出してきた案だ。
疑問を唱えること自体が不遜、との立場である。
「では、どうすれば良い?」
主催の豊臣秀次は困惑気味である。
柴田勝家との一連の織田家中での主導権争いの中で、豊臣秀吉は主筋である織田信長の三男の織田信孝を切腹に追い込んだ。
そして織田信長の娘の三ノ丸殿と姪の茶々を己の閨に押し込み、その上で小田原の役の際に次男の織田信雄を改易流罪に処している。
一応嫡孫の織田秀信には岐阜城を充てがってはいるが、今ここで弟の織田信包までもを減封するとなると、地味に影響は大きい。
表立っては誰も文句は言えまいが、将来的に徳川家に主導権が移った際、豊臣秀吉が主筋の織田家にした仕打ちが仇を成すであろう。
あんなに織田家に対して酷い扱いをしてたんだから、今度は豊臣家が虐げられても仕方ないよね、的な空気感が醸成されるのは確実だ。
因果応報、というやつである。
豊臣秀吉亡き後の豊臣秀次の権力を補強するためにも、ここは織田信包を救うべきと決める。
「普通に奉行衆に問い合わせれば宜かろうと存ずる。間違いなら間違いで、奉行衆と津侍従の両方から感謝されましょう。徳永殿の言うとおりならば、それはそれ。そのまま津侍従に事情を伝え、陰で援助を申し出てあげればよろしい。どちらに転んでも津侍従の忠誠は勝ち得ましょう」
豊臣秀次も俺の意見に納得してくれた。
そして石田三成ら奉行衆に問い合わせた結果、ただの誤記でしたというオチになる。
この一件で織田信包は、関白である豊臣秀次に頭が上がらなくなる。
ある意味計算通りであった。
<1594年 12月>
伊達政宗が上洛する。
都合三度目の上洛だ。
上洛初日。
洛中の伊達屋敷に入った伊達政宗は、我が子となる五郎八姫との初顔合わせを遂げた。
初日の夜。
愛姫と久しぶりの一夜を共にする。
上洛二日目。
天守建造中の伏見城を訪ね、豊臣秀吉の転居を寿ぐと共に北海道の宗谷役所建設開始を報告。
二日目の夜。
お気に入りの侍女が伊達屋敷の何処にもいないことに気付いて激怒し、喜多を呼び出して国元での蟄居を命じる。
上洛三日目。
詫びも入れずさっさと国元に去ってしまった喜多への怒りを堪えつつ、聚楽第に豊臣秀次を訪ね、駒姫と織田秀信の婚約受諾を申し出る。
三日目の夜。
伊達屋敷に戻った後、母の保春院が無断で出奔したとの仙台からの知らせを受け取り、目を回す。
なかなかに激動の日々のようである。
こちらはこちらで豊臣秀次の側で政務に勤しんでいる。
今日は聚楽第にて真田兄弟の官位の叙任式が執り行われる予定である。
二人の父である真田昌幸は、昨年より伏見城の普請奉行を見事に務め上げていた。
その功績に報いるための叙任だった。
兄の真田信幸は従五位下伊豆守、弟の真田信繁は従五位下左衛門佐だ。
そこは史実と変わらない。
双方とも面識があるため、式の前に声を掛けようと控えの間に赴いてみた。
上州沼田城主の真田信幸とは、昨年の文禄の役の名護屋での陣以来となる。
「久しいな信幸殿。我が孫盛宗の婚儀に、沼田より手厚い進物を届けてくれたとか。感謝に堪えぬ」
「いえ、我が真田家と二階堂家の友誼を考えれば当然のこと」
真田信幸が律儀に答えてくる。
一方、太閤の豊臣秀吉の側近くに仕える真田信繁とは、伏見城と聚楽第の間の連絡役として顔を合わせる機会が多い。
自然と叩く口も軽くなる。
「信繁よ。関白殿下は今度阿桐殿を有馬温泉に誘うそうだぞ。そなたどうするのだ?」
「え、どうするとは?一体何の話でしょう」
阿桐は真田家臣の高梨外記の娘で、今は豊臣秀次の正室である一ノ台に仕えている。
豊臣秀次は彼女を側室に迎えようと猛烈にアプローチ中だ。
しかし今のところは一ノ台に邪魔されて上手く運べていない。
韜晦する真田信繁を追い詰めてやろうと思ったら邪魔が入る。
奉行の前田玄以が控えの間に突如現れた。
そして告げてくる。
「太閤殿下より、金吾中納言(豊臣秀俊)の小早川家養子入りの件で左京亮殿に相談したき儀ありとのこと。至急、伏見城に上られたし」
はて、何の相談であろうか。
うん、見事に謀られた。
不意打ちだった。
伏見城の豊臣秀吉の邸宅の大広間に通されると、五奉行の揃い踏みである。
浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家。
それと豊臣秀次の付家老の一人、徳永寿昌の姿もあった。
重々しい空気の中、小姓らを引き連れて現れた豊臣秀吉との対決となる。
「よう参った。左京亮。今日はそなたに聞きたいことがあって、わざわざ伏見まで来てもらった」
普段の陽気さは陰をひそめている。
峻厳な為政者の顔を見せてくる豊臣秀吉。
石川五右衛門の一件が露見したか。
だとしたら、なかなかに厳しい局面と言える。
脇差一本で何処まで行けるかな。
「そなたの甥の政宗から讒言があっての。孫七郎(豊臣秀次)は最早そなたの傀儡も同然。このままでは豊臣家が二階堂に乗っ取られるとな」
違った!
そちらか。
最悪は免れた。
ならば、どう言い逃れするかだ。
顔を上げて弁明を開始しようとするも、ちょっと待てと豊臣秀吉に押し留められる。
「三成」
「はっ。これなるは二階堂左京亮が行った関白殿下への進言の一覧になります」
石田三成が懐に刺さった二枚の書状の片方を取り出す。
そして、その書状にリストアップされている事項を一つ一つ読み上げていく。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
一、関白子女、伊達家輿入れのこと。
二、諸大名への貸付の名義変更。
三、天瑞院(大政所)危篤の速報。
四、辻斬り禁止の法令発布。
五、正親町上皇諒闇中の鷹狩り諌止。
六、関白唐入り出馬のこと。
七、漢城と晋州城の取り替えの儀。
八、名護屋での明勅使謁見の設え全般。
九、名護屋での茶会、関白主催の推奨。
十、お拾様と八百姫の婚約願い出。
十一、方広寺の大仏の銅造。
十二、奥羽諸金山の引渡し延長。
十三、岐阜中納言と駒姫縁組のこと。
十四、津田信任の刑罰の上申について。
十五、毛利家誓紙交わし先の変更。
十六、津侍従の伏見労役見直し。
十七、曲直瀬玄朔の往診の諫止。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
ここ三年に渡る合わせて十七条になる俺の進言が、石田三成によって全て詳らかにされた。
自分の行った行為ながら、改めてまとめて列挙されると何とも凄い。
豊臣秀次の切腹に絡む大小のフラグ全てを綺麗に叩き折っている。
呆れるほどの念入りな網羅っぷりであった。
豊臣秀次を監査する役目を担っていた徳永寿昌が断言する。
「全ての進言、ここにいる二階堂左京亮によるものに相違ございませぬ」
伊達政宗の讒訴と、石田三成の調査と、徳永寿昌の証言がこれで揃った。
豊臣秀吉が問いかけてくる。
「これは真か?左京亮」
間違い、ではないな。
十三条目は若干違うが、未必の故意的な面はある。
駒姫の関白側室としての輿入れは、何としても防ぐ覚悟だった。
十七条目はつい先日の話で、帝の典医を気軽に呼ぼうとしたので慌てて阻止。
こっ酷く苦言を呈している。
ここで反論しても無駄であろう。
事実は事実として、大人しく認めておく。
すると豊臣秀吉は一つ息を吐いて、寂しげにつぶやいた。
「ここ数年で孫七郎も随分と逞しくなったものだと感心しておったが。全てそなたの指南に従っただけとはな」
豊臣秀次への期待が高まれば高まった分だけ、その失望の落差も深いようだ。
豊臣秀吉が続ける。
「もともとそなたを孫七郎の付家老に据えたのは、小一郎(豊臣秀長)の遺言に従ってのことよ。しかし、あまりに目に余る!」
一転して眼を光らせて睨みつけてくる豊臣秀吉。
「政宗の言うとおり、孫七郎を操って儂の関心を買い、国政を壟断して豊臣の世を転覆するつもりであったのか!?」
天下人の威圧が襲い来る。
「さて、性山公(伊達輝宗)の存命時ならば、それも面白かったでしょうな」
努めて淡々と応えてやる。
「されど、そのような大望は小田原の役にて捨て申した。もはや太閤殿下の威光により天下は太平。この身の保身を賭けて、豊臣家の行く末がより良きものとなるよう、全力を尽くして関白殿下にお仕えしたのみ。全ての功は、我が進言を受け入れられた関白殿下の度量の広さに帰結いたします」
弁明に語った言葉は、ある意味では俺の本心でもある。
しかし、そんな俺を豊臣秀吉は断罪する。
「洒落臭い物言いよ。それで孫七郎が関白に相応しき男に育ったのであれば文句も出ぬが、そうではあるまい。そなたは孫七郎を甘やかしただけよ」
もうすでに豊臣秀吉の中で結論は出ており、反論など無駄なようだ。
俺の進言は豊臣政権全体の利にしかならなかったはずだ。
付家老の職責を真っ当に果たしただけなのに、罰せられるのは理不尽に過ぎる。
だが、その理不尽さを押し通せるのが天下人と言えよう。
「三成、沙汰を言い渡せ」
豊臣秀吉からの命令を受けた石田三成が、黙礼して懐に刺さってるもう一通の書状を取り出した。
取り出した書状の中身を開き、俺への処分を淡々と読み上げる石田三成。
「二階堂左京亮に申し渡す。関白殿下付きの家老の職を解く。また合わせて近江二万石も召し上げる」
ふー。
改易か。
それも付家老として貰っていた分だけ。
ならば御の字だ。
それならそれで良い。
京を案内すると約束した南御前には謝罪が必要になるが、須賀川に引き篭もろうぞ。
だが、そうは問屋が下さなかった。
ほっとしたのも束の間、石田三成が書状の続きを読み上げる。
「新たに豊後臼杵六万石に封じる。合わせて豊後大野郡七万石の蔵入地の代官を命じる」
な、何だと?
この身はすでに息子の盛隆に家督を譲って隠居の身。
人質として京に滞在し、御伽衆の名目で捨て扶持を貰っていたのを、強引に豊臣秀次の付家老に任ぜられてしまった経緯がある。
それが今度は豊後だって!?
それも豊後海部郡の六万石に加増転封。
加えて臨郡の大野郡七万石の太閤蔵入地の代官である。
実質十三万石の大名だ。
俺の困惑する様子を面白がり、ニヤリと笑う豊臣秀吉。
「大友の旧臣を雇ったと聞いたぞ。豊後の地を治めるのにちょうど良かろう。政宗はお主を排除すべきと言うて来たが、あやつの思う通りに動くのは業腹よな。それに明国がどう出てくるかわからぬ今、その方の才幹は惜しい。場合によっては再び大規模な出征に及ばねばならん。総大将は小早川を継ぐ辰之助(豊臣秀俊)よ。豊後の諸将を束ね、これを補佐せよ」
豊後。
昨年大友義統が改易となった後、大規模な太閤検地が行われている。
史実ではその後、約半分が豊臣家の蔵入れ地に設定された。
そして残り半分は、主に文知派の吏僚たちに分け与えられていたはず。
つまり石田三成の親族や、官僚畑の同輩たちの所領である。
天下人たる豊臣秀吉の鶴の一声で、今回そこに俺が割り込む形になってしまった。
だから石田三成としても面白く無いのだろう。
俺に沙汰を言い渡した時も、ひどくつまらなそうな顔をしていた。
余計な軋轢である。
そして豊臣秀吉は人質も要求してくる。
「女商人の吉次とやらに産ませた息子が一人、京におるそうだな」
ギクリ。
「そやつは京に置いていけ。秀でた若者であれば、いずれお拾の近習に取り立てよう。豊後の所領もそやつに相続させてやる。それで文句はなかろう」
文句、大有りだよ。
奥州の片隅から始まり、関東を経て、京に至り、さらには西海まで流されるのか。
我ながら何と流転の激しい人生よ。
そして、すまぬ栄丸。
そなたの夢は叶えてやれそうも無い。
栄丸の夢は修験者として大成することだ。
成人したら京の聖護院に入ると意気込んでいる。
栄丸を自分の後継の商人に育て上げたかった母親の吉次も、本人の熱意に負けて早々に匙を投げていた。
奥州屋は白河の吉次の実家を切り盛りしている吉次の甥が継ぐことになろう。
しかし、その栄丸にも武士の道を歩ませねばならないのだ。
修験道を好んだ武士といえば、室町幕府の半将軍こと細川政元がいるが。
果たして両立は可能なのであろうか。
石田三成より転封の辞令を受け取り、更に人質の件も了承する。
その間、俺の灰色の脳みそは光速でフル回転していた。
如何に所領が増えようが、中央から遠ざけられることに変わりはない。
形式としては栄転だが、実質左遷である。
そして豊後は故郷の須賀川から遠過ぎる。
迷惑この上ない。
九州征伐での吉川元春や、唐入りでの小早川隆景。
彼らのように老齢ながらも戦地に駆り出され、ボロボロになるまで使い倒される未来が見える。
このまま唯々諾々と従うのも癪である。
それにどうせ慶長の役が始まってしまえば、豊臣秀吉と直接対面出来るのもこれが最期となろう。
そう考えたら自然と腹が決まった。
歴史上の偉人である豊臣秀吉に対して伝えたかった思いを、全てこの場で言い放っておくべし。
「さしたる活躍も無しにこれほどの加増頂くのは心痛し。このご恩に報いるため、ここで豊臣家の御為となる天・地・人の三つの進言をさせて頂きたい」
御礼の言上と共に、豊臣秀吉の気を引くための発言をする。
「天地人とな?面白い。言うてみよ」
ありがたいことに、食い付いてきてくれた。
天地人の一つ目、人。
つまり人事についてまずは進言する。
俺が関白である豊臣秀次の側を離れた為、史実では来年に起こる秀次事件の発生確率が大幅に跳ね上がった。
付家老を外された今、もし秀次事件が起こっても俺が連座する心配はない。
ただその代わり、今度は関ヶ原の戦いが起こる公算が高くなる。
徳川家康に天下を取られてしまうと、待っているのは外様大名たちが次々と取り潰されていく粛清の世である。
江戸に近い大領を持つ我が二階堂家などは、真っ先に江戸幕府から狙われよう。
なので東西の勢力均衡を狙って、念の為に今から打てる布石を可能な限り打っておく。
「まずは人。件の金吾中納言(豊臣秀俊)の小早川家養子入りの際の付家老の人選について、申し上げたき儀これ有り。既に山口宗永殿、平岡頼勝殿、松野重元殿、稲葉正成殿の四名が内定していると聞き及びます。その内の一人の松野重元殿は豊家への忠義の心厚く、普段の素行にも問題ありませぬが、他の三名については再考すべきと存ずる」
突然の具体的でピンポイントな提言に、五奉行を含め皆困惑している。
その隙を突いて、矢継ぎ早に理由を述べていく。
「四人の中で一番年嵩なのは山口宗永殿。彼が筆頭家老として政務全般の面倒を見ることになりましょう。されど彼の者は根っからの武人。先年の豊後検地での働き振りを見るに、あまりにも物事を杓子定規に進め過ぎるきらいがありまする。唐入りの兵站の整備の為ならばと、きっと博多の商人どもの守護不入の特権を取り上げるでしょう。不平を持った豪商らは太閤殿下の周囲に金をばら撒き、小早川家を筑前から立ち退かせようと画策するはず。そうなれば唐入りへの悪しき影響は避けられませぬ」
史実での小早川秀秋は、総大将として慶長の役で朝鮮に渡海するもやがて日本に呼び戻され、越前北ノ庄十五万石へと大幅に減転封されてしまう。
それに山口宗永とは相性が最悪だったようで、転封時に山口宗永は独立して加賀大聖寺城主となっている。
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康の差配で筑前名島三十六万石に戻されるが、その時の恩が転じて関ヶ原の戦いでの裏切りに繋がる。
ならばいっそ最初から山口宗永を排除し、博多の豪商三傑の島井宗室、神屋宗湛、大賀宗九らとの対立を封じておけば、その原因も消えよう。
山口宗永の代わりには、小早川隆景の直臣の鵜飼元辰を毛利家からそのまま借り受ける案を提示しておく。
「平岡頼勝殿の妻女は確か黒田官兵衛殿の姪。立ち位置が隣国の豊前黒田家に近すぎましょう。有事の際に彼が小早川家の采配を採るようなことあらば、小早川家は黒田家に乗っ取られかねませぬ。そして稲葉正成殿の方も良い意味で妻女が問題です。つい先日婚儀を上げた継室の阿福殿は、まだ十六歳ながらも公家の素養にも通じた素晴らしき才媛。彼女を正成殿と一緒に畿内から遠ざけてしまうのは余りにも勿体無い。三、四年待って子育てを経験させた後にお拾様の側に仕えさせれば、必ずや良き保母となりましょう」
平岡頼勝と稲葉正成の両名は、黒田長政の調略を受けて主君の小早川秀秋を東軍に転ばせた張本人たちゆえ、彼らも遠ざけておきたい。
また阿福を早いうちに豊臣秀頼の側に送り込めれば、大阪城中での茶々の乳母である大蔵卿局の専横を食い止められるやもしれない。
平岡頼勝と稲葉正成の代わりには、親が西軍に付いた生駒親正と一正父子あたりを推薦しておく。
この世界線では四国征伐が発生していない影響で、生駒親正はまだ播磨三万石に甘んじている。
種は仕込めた。
山口宗永を外す提言については、唐入りの兵糧輸送を担当している長束正家が動揺を見せている。
平岡頼勝を外す提言については、黒田官兵衛を警戒する石田三成の目が光った。
稲葉正成を外す提言については、豊臣秀吉本人が阿福に強い興味を抱いた様だ。
どのような芽が出るかは、豊後の地に赴いてから見守ろうではないか。
天地人の二つ目、地。
地震対策の進言だ。
せっかく三条西邸に足繁く通って調べたのだから、活用せねば勿体無い。
「次に地について。この国の歴史を紐解けば、大きな地震から約十年から二十年の間に必ずまた大きな地震が起きております。今から八十年ほど前の三条西実隆卿の日記によれば、永正七年に摂津河内で大きな地震がありました。その十年後に紀伊京都で再び大地震が起きているのです。天正十三年の大地震からもうすぐ十年。この伏見城だけではありませぬ。東寺や天龍寺、二尊院、大覚寺、方広寺などの大仏閣も、備えが無ければ危のうございます。畿内における“なまず”への備えは是非もなく進めるべきでありましょう」
九州に下る上で、息子の栄丸を京に残していかねばならない。
また吉次も同じくだ。
二人の安全の確保は必須である。
もちろん慶長伏見地震の直前の段階で、二人を安地に退避させておくべく手は尽くすつもりだ。
事前に豊臣家の事業として地震対策を推し進めておけば、二人が助かるのが必然であったとは周囲もまさか思うまい。
天地人の三つ目、天。
天下人に天下人の有り様を語る。
俺が豊臣秀次に仕えて三年になる。
頼りない関白ではあったが、彼も彼なりに頑張ってはいた。
情も少しは湧く。
主君と言えば主君。
最後のご奉公として、彼が生き残る道を少しでも広げておくべく危険な橋を渡ろう。
「残るは天。太閤殿下は鶴岡八幡宮にて源頼朝公の木像に天下友達と語りかけられたとか。なれば友人の源頼朝公の生き様を他山の石にされては如何か。曽我兄弟の敵討の際、源頼朝公は弟である蒲冠者(源範頼)に難癖を付けて謀叛の咎で流罪に処し、遂には死に追いやってしまわれた。そのため彼が急死したおり、跡を継いだ二代将軍頼家を親身になって補佐すべき源氏の実力者が誰もおりませなんだ。結果として坂東の一豪族であった北条氏の専横を許し、源頼朝公の血筋はたった二代で断たれ申した。先人と同じ轍を踏んではなりませぬ」
ここまで言えば、豊臣秀吉も俺が何を言わんとしているかは察する。
「・・・儂が孫七郎を排除するとでも言うのか」
ギロリと睨まれる。
これまでとは段違いの迫力だ。
豊臣秀吉に本当に伝えたかったのは、この天の進言であった。
地と人はそのための撒き餌に過ぎない。
腹の奥の丹田に力を込め、踏んだ虎の尾を踏み千切る勢いで続ける。
「南蛮の国の格言に『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』との言葉があるとか。鉄血と謳われたある宰相が遺したそうな。何と見識の高い言葉でしょうや。頼朝公亡き後、坂東を束ねた執権の北条義時は西へと大軍を送り、時の上皇と帝さえも京から追い払っておりまする。そして今、関東を統べるは徳川家康殿。その徳川殿の愛読書は、北条氏の事績を書き記した吾妻鏡だとか。奇妙な符号にございますな」
「黙れっ。儂と家康との仲をも裂こうとするとは。左京亮、その物言い許しがたし!」
「何も徳川殿の野心を訴えたいわけではござらん!徳川殿が決起しやすい状況にしてしまうことこそ悪手と申し上げておるのです。太閤殿下、太閤殿下はあと何年生きるおつもりかっ」
「な、なんじゃと」
「太閤殿下亡き後は、関白殿下がお拾様成人までその成長を見守り、諸国を睥睨する。さすれば徳川殿と言わず全国の諸大名はことごとく豊臣家の威に服し、世の太平は守られましょう。豊臣家が栄え続ける道は、これしかございませぬ!!」
乾坤一擲。
裂帛の気合いを込めて叫んだその言葉は、一代の英傑の心に確かに響いたようだ。
結果、俺は許された。
そして郎党を引き連れて京を離れ、西に向かうこととなる。
向かう先は豊後国海部郡臼杵城。
かつて大友宗麟が本拠とした城である。
須賀川から直線距離で約900km離れた遠く九州の地が、今、新たな俺の戦場となった。
〜 第十一章完 〜
<年表>
1594年 二階堂盛義 50歳
01月
☆加賀で前田利家(56歳)の側室の千代の方(24歳)、利家三男の猿千代を出産。後の前田利常。
◎仙台で伊達成実正室の元姫(20歳)の懐妊発覚。
★京で長宗我部信親正室の石谷夫人の懐妊発覚。
★京の豊臣秀次(26歳)、大政所の一回忌を盛大に執り行う。
★大坂の豊臣秀吉(57歳)、京に赴いて大政所の一回忌に参加。
◆江戸の徳川家康(51歳)、徳川秀忠(15歳)の付家老に大久保忠隣(41歳)を配す。
◎京の二階堂盛義、山科で洛外千人斬り事件に居合わせて津田信任を捕縛。津田信任切腹。
02月
◎京の二階堂盛義、三条西邸を訪れて三条西実条(19歳)と交渉。実隆公記の読み込み開始。
★京の豊臣秀吉(57歳)、正月に伊達屋敷に赴いて伊達政宗(27歳)の歓待を受ける。
□朝鮮出兵中の小西行長(39歳)、関白降表を偽造。
◎磐城の岩城盛行(24歳)、先代の岩城常隆の三回忌を実施。
◎京の二階堂盛義、近江で一万石加増。 志賀親次(26歳)を雇用。
03月
◆江戸の徳川家康(51歳)、上洛。
□朝鮮出兵中の越前東郷槇山城主の長谷川秀一(44歳)が陣没。無嗣断絶。加賀越前若狭で大規模な国替発生。
□朝鮮出兵中の小西行長(39歳)と加藤清正(32歳)、明との和睦交渉の進め方を巡って対立。
◎京の二階堂盛義、黒田孝高(48歳)と共に広島に出向く。
▷広島にて小早川隆景(61歳)、黒田孝高(48歳)に豊臣秀俊(12歳)の養子貰い受けを申請。
■山形で最上政道(26歳)の正室亘理御前(21歳)が出産。綾姫と名付ける。
04月
□朝鮮の李舜臣(49歳)、水軍を率いて巨済島を攻撃。
◎吉野の花見に参加した佐野行久(18歳)、碁を打って豊臣秀吉(57歳)から香の前(17歳)を賜わる。
◎上洛中の佐野行久(18歳)、香の前(17歳)を二階堂盛隆(33歳)に献上。
◎上洛中の二階堂盛隆(33歳)、香の前(17歳)を伊達政宗(27歳)に献上。
■上洛中の伊達政宗(27歳)、香の前(17歳)を側室に入れて仙台に連れ帰る。
◎京の二階堂盛義、喜多(56歳)の苦情を受け入れる。
05月
◎京の二階堂盛義、身重の愛姫(26歳)のご機嫌伺いに行く。
□朝鮮出兵中の加藤清正(32歳)、朝鮮義僧兵の惟政(51歳)と交渉を開始。
★大阪の豊臣秀吉(57歳)、能に出演。
★京の豊臣秀次(26歳)、後陽成天皇(23歳)の勅勘を蒙った近衛信尹(29歳)を薩摩に流刑。
★京の豊臣秀次(26歳)、前田利家(56歳)を従三位権中納言に叙任。
★京の豊臣秀次(26歳)、真田昌幸(47歳)を従五位下安房守に叙任。
06月
★上洛中の徳川家康(51歳)、黒田長政(26歳)の紹介で柳生宗矩(23歳)を雇用。
◇宇都宮の吉乃(23歳)、石川五右衛門(29歳)の第二子を懐妊。
◎京の二階堂盛義、三条西邸を訪れて実隆公記を精読。行儀見習い中の阿福(15歳)の婚約を寿ぐ。
◎京の二階堂盛義、関白の名代として仙台に下向。
☆鶴賀の大谷吉継(35歳)、眼病を患い草津に湯治に赴く。
07月
◎下野で佐野行久の正室珠姫(18歳)が懐妊。
☆加賀の前田利家(56歳)、権中納言を辞任。
★京の豊臣秀次(26歳)、宇喜多秀家(22歳)を従三位権中納言に叙任。
▽琉球の尚寧王(30歳)、豊臣秀吉(57歳)の朝鮮出兵命令を拒否。
◎二階堂盛義、関白の名代として孫の盛宗(15歳)と杏姫(16歳)の結婚式に参列。
■仙台の伊達政宗(27歳)、戸沢盛安(28歳)と二階堂盛義の養女れんみつ(24歳)の婚約を斡旋。
★仙台で笑窪御前(73歳)が死去。
08月
■京で伊達政宗の正室の愛姫(26歳)出産。五郎八姫誕生。
◎二階堂盛義、仙台滞在を延長。笑窪御前の葬儀に参列。
▽薩摩の島津忠恒(18歳)、島津義久(61歳)の命令で亡き兄の島津久保の妻の亀寿(23歳)と結婚。正式に島津家の後継者となる。夫婦仲は最悪。
□朝鮮出兵中の加藤清正(32歳)、朝鮮義僧兵の惟政(51歳)と再交渉。
★大坂の豊臣秀吉(57歳)、朝鮮で軍功を上げた加藤嘉明(31歳)を淡路一万六千石から讃岐六万石に加増転封。
□ルソンの納屋助左衛門(29歳)が日本に帰国。
09月
◎二階堂盛義、帰洛。
★備前の宇喜多秀家(22歳)、権中納言を辞任。
★土佐の長宗我部信親(29歳)、従三位権中納言叙任。
☆金沢の前田利家(56歳)、領内で一向宗を解禁。
□ルソンの納屋助左衛門(29歳)、大阪で豊臣秀吉(57歳)に拝謁。呂宋壺を献上。
◎仙台で伊達成実正室の元姫(20歳)が出産。万葉姫誕生。
★京で長宗我部信親正室の石谷夫人が出産。嫡男千雄丸誕生。
▲台風で関東地方に被害発生。上洛中の徳川家康(51歳)、領内の治水工事を指示。
10月
★京で朝日姫(51歳)が病死。東福寺に埋葬。
★大阪の豊臣秀吉(57歳)、宇治川の流路変更と伏見城下の拡張を指示。
◎二階堂盛義、 織田信包(51歳)の改易を阻止。
◆小田原で徳川家臣の大久保忠世(62歳)が病死。大久保忠隣(41歳)が小田原城を継承。
★大阪の豊臣秀吉(57歳)配下の稲葉正成(23歳)、斉藤利三の娘の阿福(15歳)を娶る。
■仙台の伊達政宗(27歳)、自前のガレオン船の一番艦を竣工。支倉常長(23歳)に石巻函館間での試験航海を命じる。
11月
★大阪の豊臣秀吉(57歳)、殿舎が完成した伏見城に居を移す。伏見城下でのバテレンの活動を許容。ミサ開催。
□朝鮮出兵中の島津義弘(59歳)と福島正則(33歳)、巨済島北で李舜臣(49歳)の水軍を撃退。
■仙台の伊達政宗(27歳)、女真族の情勢に関する報告を受け、上洛の途に着く。
■仙台の最上御前(46歳)、最上政道(26歳)の正室亘理御前(21歳)の看病と称して勝手に山形に転居。
◎二階堂盛義、豊臣秀次(26歳)の曲直瀬玄朔(45歳)への往診要請を諫止。天脈拝診怠業事件を未然に防ぐ。
12月
★上洛した伊達政宗(27歳)、伏見の豊臣秀吉(57歳)に挨拶。伏見城転居を寿ぐ。宗谷役所建設開始を報告。
★上洛中の伊達政宗(27歳)、駒姫(14歳)と織田秀信(14歳)の婚約受諾を豊臣秀次(26歳)に報告。
★上洛中の伊達政宗(27歳)、お気に入りの侍女がおらず激怒。喜多(56歳)に蟄居を命じる。
★京の豊臣秀次(26歳)、真田兄弟に官位を授ける。真田信幸(28歳)、従五位下伊豆守叙任。真田信繁(24歳)、従五位下左衛門佐叙任。
◎二階堂盛義、伏見の豊臣秀吉(57歳)に呼び出されて詰問を受ける。豊後臼杵六万石への転封を命じられる。事実上の左遷。
□朝鮮出兵中の小西行長(39歳)、咸安で金応瑞(30歳)と会談。
★丹波の豊臣秀俊(12歳)、小早川隆景(61歳)の養子となる。小早川秀俊を名乗る。
-------------
▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽以北
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
□海外
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 114万6千石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 白川郡 会津郡 31万2千石
・奥州 田村郡 標葉郡 楢葉郡 菊多郡 磐前郡 磐城郡 24万石
・野州 河内郡 芳賀郡 都賀郡 那須郡 塩谷郡 安蘇郡 足利郡 梁田郡 46万4千石
・近江 蒲生郡 1万石 + 1万石 一 2万石 (NEW!)
・豊後 海部郡 大野郡 13万石 (NEW!)
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