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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第一章 南が来る
7/83

1554 集金

<1554年 05月某日>


 気がつけばもう十歳。

 数え年で言うと十一歳だ。

 そろそろ元服、そして初陣が視野に入ってくる年齢である。


 初陣をなんとか楽にやり過ごしたい。

 一昨年に山中で戦ったグリズリー、もといツキノワグマとの一戦が衝撃過ぎて、若干トラウマ気味だった。

 最近は鍛錬に勤しみながらも、チート知識をいかに戦さに活用出来るか頭を悩ませる日々を送っている。


 武家に戦さは付きものである。

 伊達家の懸田討伐以降、奥羽は小康状態を保っているが関東以西は相変わらず展開が目紛るしい。

 ただ俺の見るところでは、その大凡の原因は現将軍の足利義藤の振る舞いによるものであった。






 先年京でまたぞろ三好長慶と対立し、洛中を大いに騒がせた足利義藤。

 京近辺で暗躍する細川晴元との繋がりを疑われ、三好長慶に旗本衆の人質を要求されたことに腹を立てて挙兵に及んでいた。

 三好長慶の睨んだ通り、足利義藤は戦さが始まると丹波勢を率いる細川晴元と連携。

 東山霊山城に篭って半年粘ったが、結局三好長慶に破れ、また朽木谷に逃れている。

 四年ぶり三回目の足利将軍家の朽木入りだ。


 朽木谷を治める幕府奉公衆の朽木家は、たかだか一万石程度の所領しかない小領主。

 さらに先の当主が近隣の豪族との争いで討死しており、名跡を現在数えで六歳となる朽木竹若丸が継いでいると聞く。

 その状況を顧みずに押し掛け、堂々と居候する足利義藤の面の皮の厚さは如何許りか。

 朽木家中はほんとに大変そう。

 

 畿内や朽木谷もそうだが、西国も足利義藤の采配に振り回される。

 中国地方では山口の大内家が強大な勢力を誇っていたが、三年前の内紛の動揺が長引いて求心力が低下。

 結果としてライバル関係にあった出雲の尼子家が相対的に隆盛し、版図を大きく拡大しつつあった。

 その尼子の勢いを加速させたのが、かく言う将軍の足利義藤である。


 一昨年の暮れ、当時京に戻っていた足利義藤が、尼子家に対して山陰山陽八ヶ国の守護と幕府相伴衆、さらには従五位下修理大夫までも大盤振る舞いしてしまったのだ。

 将軍としての存在感を見せつけようとして、はしゃぎ過ぎたのだろう。

 晴れて将軍家のお墨付きを貰えた尼子家は、もうイケイケどんどんの大フィーバー状態。

 嬉々として中国地方を席巻する。


 勢いに乗る尼子晴久の攻勢に手が回らない陶晴賢に対して、大内方の国衆たちの反発の声は当然の如く強まった。

 そんな中、同じ大内家中で陶氏とは応仁の乱の頃から犬猿の仲であった、石見の名族の吉見氏が昨年末に昂然と叛旗を翻す。

 三本松城に立て篭もった吉見正頼は、陶晴賢率いる二万の討伐軍相手に一歩も引かぬ戦い振りを見せているらしい。

 今頃は安芸の毛利元就も去就を定め、陶晴賢への敵対行動を取り始めているのではないだろうか。

 このまま行くと、西国で再び大きな勢力図の塗り替えが発生するだろう。






 こうして遠く奥州の地から俯瞰すると、足利義藤という将軍は乱を起こす行動ばかり取っているように思える。

 畿内の実質的な支配者の三好長慶がキレるのもわからんでもないよ。

 まぁまだ十九歳の若年将軍の足利義藤からしてみれば、彼には彼で言いたいことは山ほどあるんだろうけども。


 その足利義藤。

 将軍家腹心で信濃流二階堂宗家の二階堂晴泰から先日届いた手紙によると、朽木谷で改名したようだ。

 先月から足利義輝と名乗っているとか。

 そして二階堂晴泰の文には、父行秀の幕府への長年の協力に対して礼を述べるために、この秋にでも晴泰自ら朽木谷から須賀川まで足を運びたい旨が書き連ねられていた。

 なんでもその他に折り入って直接お願いしたい儀があるんだとか。


 来なくて良いのに。

 お願いの内容も大体の予想が付く。

 こっちにまでちょっかい掛けてくるなと言いたい。


 そんなことをつらつら考えながら、射場で今日もチート知識の軍事転用作業に従事する。

 最近俺は複合弓の開発に熱心に取り組んでいた。






 チートな飛び道具と言えばまず最初に上がるのは鉄砲だ。

 この片田舎の須賀川にも、鉄砲という戦さ道具が上方で流行りだしたらしい、という噂がようやく伝播してきている。

 いずれ奥州でも火縄銃が普及していくだろう。

 しかし如何せん高価だ。

 習熟にもある程度の時間がかかる。

 兵を手っ取り早く強くするには、現有武具の強化が一番有効だろう。


 まだ奥羽では四方竹弓が一般的だ。

 戦国時代末期には姿を見せていたと言われる弓胎弓。

 これをいち早く導入すれば他家へのアドバンテージになる。


 朧げな記憶を頼りに、四方竹弓の中心部分を竹のパーツに入れ替えることを基本線にいろいろなバージョンを試作。

 須賀川城の弓師に命じて、素材の竹を焦がして強度としなりを上げたりと、試行錯誤を重ねる。

 そして家中の弓の名手の保土原行藤こと左近に試射を頼んでいた。


 キリキリキリ、ビンッ

 スパンッ


「ふー、竜王丸殿。やはりこの四番の弓が一番良さそうです。あとはどれくらいこの弓勢を保てるかですかね」


 左近も新しい弓の弓勢の強さに魅せられたらしく、積極的に協力してくれている。

 最初の頃は弾くだけで分解しそうになったりと苦難の連続であったが、最近はようやく形になってきた。


「うむ。では四番を集中的に苛めてみるとしよう。耐久試験に回せ!」


 源次郎に命じて、控えていた武者たちに左近が試した四番と同型の弓胎弓を配る。


「はじめ!」


「「「はっ!!!」」」


 スパスパスパパパパーン


 源次郎の号令で武者たちが速射を開始。

 それぞれの従者が、いちにぃさーんと撃った回数をカウントアップしていく。


 耐久性のチェックも重要だが、弓は木や竹で出来ているため気候の影響も大きい。

 年間通しての評価と都度の改良を続けていく必要がある。

 四方竹弓に比べて部材が多いため、メンテナンスにかかる時間も大きくなる。

 保守性を上げる工夫も必要だ。


 ものになるには何年掛かるか。

 

 出来ればあと五年の内に岩瀬衆の弓は全て弓胎弓に置き換えたい。

 そのための開発費は何としても確保したかったが・・・。


 うーん、足利将軍家ってほんと邪魔だなぁ。





<1554年 09月某日>


 集金と書いて“タカリ”と読む。


 この年の晩春から初夏の頃に掛けて、一つの噂が実しやかに東国全域に伝播していた。

 春先に駿河の臨済宗の寺院である善徳寺に武田、北条、今川の当主が密かに集まり、会盟を結んだという噂である。

 主導したのは臨済宗の僧侶で、今川家の軍師でもある太原雪斎。

 世に言う甲相駿三国同盟である。


 東国の三巨頭とも言える武田晴信、北条氏康、今川義元の三名。

 この同盟が本当であれば、当該の三大名以外の諸大名への影響は計り知れず、東日本の勢力図は激変するだろう。

 当然須賀川でもこの噂の真偽は重要視され、先の評定により情報収集に力を入れることが決せられていたのだが・・・。


「先月末に北条氏康の娘が今川義元の嫡男、今川氏真の下へ嫁いだのは確かなようにございます」


 緊急で開かれた評定にて、四天王の須田秀行が父上に報告を上げる。


「会盟の噂は真であったか」


「これで北条家は後背を気にすることなく上州勢や安房の里見と対峙出来るようになりましたな。当初の噂も関東の諸家を揺さぶる為に北条自身が流したものかと」


 左近の父、保土原兵部が補足。


「ううむ。野州は相変わらず混乱しているようじゃ。北条が上州を抑えれば、野州の輩たちも一気に北条に靡こう」


 上杉憲政が越後に逃げてから、北条氏康は上野の上杉方の勢力を着々と駆逐しつつあった。

 隣国の下野は相変わらず宇都宮家の統制力が低下したままで、小勢力が乱立している状態。

 今の北条家の勢いを鑑みれば、白河の関より南全てが一気に北条家の勢力圏になる恐れも出てきた。

 新たなる脅威の出現に父上は頭を悩ませてる様子。


「も、も、も、申し上げます!」


 その時、小姓が動転した様子で評定の間に転がり込んでくる。


「なんじゃ!?評定中だぞ!」


「はっ・・・」


「よい。何の知らせぞ」


 保土原兵部の叱責を抑え、父上が報告を促す。


「今しがた国境より知らせが入り、幕府の使者の先触れが岩瀬に到来したとのこと。御使者の氏名は二階堂晴泰殿とのことにございます!」


「なんと!?」「真か?」「晴泰殿とは、宗家のか?」


 どよめく重臣たち。

 あー、そんな手紙を前貰ってたよね。

 ホントに来ちゃったか。


「あいわかった。粗相のないよう一行を須賀川城まで案内するよう連絡せよ。竜王丸!」


 おっと。


「どうせそこにいるのじゃろう。門前で晴泰殿をお迎えせねばならん。父の共をせい」


 サッと引戸を開いて一礼。


「はい、父上」


 例の如くこっそり評定を聞いていたのだが、バレバレだったようだ。






 父上に言上して歓待の準備をいろいろ整えてから大手門に移動。

 しばらく待っていると、郎党十数名を引き連れて二階堂晴泰一向が到着する。


「将軍様の使者として参りました。行秀殿、お初にお目にかかる。晴泰でございます」


 歳の頃は二十代半ばくらいか。

 手紙の文字から涼やかな都人を想像していたが、ちょっと予想と違った。

 中背だが線が細く、女性的な雰囲気のナヨっとした男だった。

 公家っぽい。


「二階堂行秀にござる。こちらは我が息子の竜王丸。長旅ご苦労様でございましたな」


「ほんに奥州は遠おうございますな。しかし須賀川の城下の賑わいと、行秀殿のお顔をこの目にして疲れも吹き飛びました」


 やつれた顔に笑みを浮かべて挨拶してくる晴泰。

 そして興味深げに須賀川城の方へ視線を向ける。

 城の規模を見て、分家の勢力の実情が如何程か測っているようだ。


「まずは旅の埃を落として下され。風呂を用意しております。供の方々もささっ」


 父上が二階堂晴泰一向を城内に案内する。


 この時代の風呂は蒸し風呂が一般的である。

 しかし須賀川の城内に整備された風呂は一味違う。

 俺の発案により、檜を使った桶風呂が用意されている。


 当初は俺自身が風呂に浸かりたいとい欲望を抑えきれず、父上や重臣たちを丸め込んで作らせたものである。

 風呂を沸かすためには半端ない労力が必要となるが、小なりとは言え領主の息子に生まれた特権を行使しての所業であった。

 しかしこれが好評過ぎた。


 今では父が使用許可を出した家臣のみが風呂に入れるようになっており、二階堂家中の統制力強化に役立っている。

 須賀川を訪れた他家の使者たちにこの二階堂式の風呂を馳走することも多く、奥羽近郊では密かに噂になっているそうだ。

 都にもまだこの座って湯にゆっくり浸かるタイプの風呂はまだ無いはず。

 もう一つの念願であった石鹸の開発はまだ遅々として進んでいなかったが、二階堂晴泰も十分に驚くだろう。






 大広間で行われた幕府の使者を迎える儀式。

 流石に元服前の俺にはその場に居合わせることは叶わなかった。


 使者の二階堂晴泰とどのようなやり取りが行われたかについては、その後の歓待の宴の準備の間に父上から聞かされる。


「喜べ竜王丸。ありがたくも将軍様より名を頂いたぞ。今日よりわしは二階堂輝行じゃ」


 クソつまらなそうに己の改名を告げてくる父上。

 やはりその要件であったか。


「して、寄進の額は如何程に?」


「我が父のときよりも大分値上げしおった。しわいのぉ」


 我が祖父の二階堂行直も先の将軍である足利義晴から偏諱を受け、晴の字を得て二階堂晴行に改名している。


 足利義輝の輝の字、そこまで高いか。

 京を追われて朽木谷に逃げ込んでいる状況下で、資金繰りに苦しんでいるのが見て取れる。

 うーん、いろいろ試している殖産を早く軌道に乗せねば、こちらもやってられんな。

 椎茸の栽培あたりが上手く行けば良いのだが。


 尚、祖父の偏諱のときの使者は、今いる晴泰の父の直泰が務めたらしい。

 既に亡くなられて久しいと聞く。


「それで晴泰殿はどれくらい須賀川に滞在なされるのでしょう」


「それがの。明日には出立するそうじゃ。米沢に向かうと言う。我らはついでのようだ」


 二階堂晴泰は俺が初めて出会う都人である。

 しばらく滞在するなら都の話をいろいろ聞いてみたいところだったが、そうもいかないらしい。






 歓迎の宴が始まる。


 父の横に座り、話に耳を傾ける。

 長旅の汚れが風呂でスッキリ、からの一仕事終えての緊張感からの解放、からの美味い酒とツマミ。

 酒も回り、二階堂晴泰は大分上機嫌になっている。


「あら楽しや。まるで親しき家族の屋敷を訪ねたときのような心地でございますな」


「はははっ。我が家と思うて寛いでくだされ。さぁもう一献」


「いや、ありがたい。これまで幾通も文を交わしておりました故、初めて会ったような気がしませぬな。いつの日かこのように酒を酌み交わしたい、と強く思うておりましたのよ」


 父上に注がれるまま、グイグイ酒が進む。


「私が幼き頃、今は亡き父の直泰もこの須賀川まで下向し、都に戻ってから奥州の話をいろいろしてくれたのです。その時の話を思い出し、旅の間ずっと憂鬱だったのですが・・・」


 人に聞いたり文で読んだりした話とは大違いですね、と和かにぶっちゃけてくる。


「道中の東国の光景は鄙び過ぎて滅入ることばかり。しかしこの須賀川は違いました!」


 ニコニコとナチュラルに都人目線での“田舎にしては良いところ探し”の結果を語り出す。


「白河に比べて人が多く、商人の姿も目立ちます。そしてこの須賀川城。建屋の規模は慎ましいですが、手入れが隅々まで行き届いている様子。清潔で好感が持てまするぞ」


 俺の進言により、汚れは陰の気を呼ぶとして、疫病予防のために清掃は徹底しているからなぁ。

 

「さらに珍奇な風呂にこの澄み渡る酒、まろやかな(チーズ)。都でも中々に味わえますまい。このような所領を我が信濃流二階堂家の同族が治めているなど、宗家としても鼻が高こうございます」

 

 日程に余裕があれば、同族の治めるこの須賀川を隅々まで堪能したかったのですが、と残念がる二階堂晴泰。


「これから伊達晴宗殿にお会いになられるとか。差し支えなければどのようなご用件で米沢まで?」


 父上が探りを入れる。


「伊達左京大夫殿の嫡男が来年元服を予定しておりましてね。義輝様の偏諱を賜りたいとの申し出が先方から有り、その件で米沢に向かうのです」


 同族ゆえお知らせしたのですよ、と晴泰が他言無用を念押ししてくる。

 ほう、彦太郎殿は来年元服か。


「おお、そうですか。これなる我が息子竜王丸は、伊達の世継ぎと同い年なのです。では、そろそろうちも元服を考えねばなりませんな」


「ほう、それはそれは」


 父上の再度の紹介に、興味深そうな目でこちらを見てくる晴泰。

 次の金づるを愛でるような視線、というのは言い過ぎだろうか。


「竜王丸にございます。よろしくお引き立てのほどお願い申し上げまする」


「聞けば伊達左京大夫殿の娘御を娶るとか。竜王丸殿もそれなりの格式が必要で有りましょう。わかりました。この晴泰に万事任せられよ」


 おいおい、なんか勝手に話を進めようとしてるぞ。


「え、えーと都のお話を聞きとうござったが、お役目であれば仕方ございません。上方に戻る折りの御逗留時に楽しみは取って置きまする」


 慌てて話を逸らそうとすると、思いもよらぬ返答が。


「若子よ。申し訳ないのですが、帰りは須賀川へは立ち寄らぬのですよ」


 晴泰の話では、米沢を訪ねた後、大崎に向かい、山形を経由して庄内に向かうのだそうな。

 庄内で船に乗り、船で越後、越前、若狭と移動して朽木谷の足利義輝の下に戻るとのこと。

 なんでわざわざ大崎?


 ははーん。

 さては足利義輝。

 西国の二番煎じをこの奥州でやろうとしているな。

 山陰山陽八ヶ国の守護に任じた尼子からの大量の寄進に味を占めたか。


 古株の大内と新興の尼子。

 その構図は奥州だと大崎と伊達に当てはまる。

 西国に比べると大分規模は小さいけど。


「この度の下向、大崎義直殿から奥州探題職を取り上げる下準備が真の目的でありましたか」


 ズバンッと内角低めに直球勝負してみた。


「ぶほっ、ゲフンゲフン」


 目を白黒させて口に含んだ澄み酒を吹き出す晴泰。

 うわ、汚なっ。


「これ、竜王丸。控えよ」


「はっ」


 父上に窘められて大人しく引き下がる。

 ただ、図星だったようだ。


 奥州探題職ねぇ。

 足利幕府の権威がここまで凋落した今、あまり重宝するようなものでは無いと思うけど。

 伊達家が得られる箔付の効果に比して、実利的にはマイナスな方が多いのではないだろうか。


 力の差が大きいので、大崎家も表立っての反発は控えるだろうけども。

 確実に伊達家への敵意を募らせ、同族の最上氏と密かに手を結んで反撃の機に備えようとするだろう。

 そんな展開は誰にだって簡単に予測出来る。


 将軍家が集金す(タカ)れば集金す(タカ)るほど、世に争いの種が蒔かれていく構図。

 頭が痛くなる。






<1554年 09月某翌日>


 二日酔いの状態で馬に揺られながら、二階堂晴泰がゆっくりと須賀川城から旅立って行く。

 その二階堂晴泰率いる幕府の使者の一行を、父上とともに城門の上から見送る。


 昨日の酒の席で俺に図星を突かれてしまった二階堂晴泰。

 醜態を誤魔化すためか、あれから陽気に振舞って酒を飲み続け、すぐに轟沈してしまった。

 長旅の疲れもあったのだろう。


 晴泰が言うとおり、都や朽木谷は遠い。

 再び顔を合わせる機会はいつの日になるのだろうか。


 これから足利将軍家に様々な苦難が降り掛かることを俺は知っている。

 今の将軍の足利義輝の振る舞いを見ると自業自得な感が強いが、二階堂晴泰本人には感謝の念も多々あり、悪くは言えない。

 それほど裏表のあるような人物には見えず、将軍の実直な手駒の一つと言う印象だった。

 天文の大乱の折に、父輝行の願いを聞き入れてくれて、遠く上方で一働きしてくれたのは彼だ。

 そして、わざわざ遠方の須賀川まで筆まめに上方の情勢を伝えてくれる晴泰は、我が二階堂家にとってかけがえの無い存在である。

 

 分家の須賀川二階堂家としてだけでなく、竜王丸一個人としても、彼の旅の無事を祈ろうと思う。


 ただ、次に持ってくる字は“輝”じゃなくて“義”の方だろうな。

 足利将軍家の通字になるので、余計に高そう。

 今のうちにまたお金を貯めて置かないと。






<年表>

1554年 二階堂竜王丸 10歳


01月

☆尾張中村の木下藤吉郎(17歳)、織田信長(20歳)に仕えて草履取りとなり、秀吉を名乗る。


02月

▷備前の浦上宗景(28歳)、天神山城で挙兵。兄の浦上政宗(29歳)と袂を別つ。


03月

▷周防の陶晴賢(34歳)、2万の大軍で石見の吉見正頼(41歳)を攻める。毛利元就(57歳)参陣せず。


04月

★京で近衛晴嗣(18歳)が関白叙任。

★朽木谷の足利義藤(18歳)、名を足利義輝に改める。

☆駿河の今川義元(35歳)の軍師、太原雪斎(58歳)の尽力によって善徳寺の会盟が成立。甲相駿三国同盟成る。


05月

▷安芸の毛利元就(57歳)、陶晴賢(34歳)と決別して安芸から大内方の勢力を一掃。防芸引分。


06月

☆尾張で織田信長(20歳)の側室吉乃(26歳)が懐妊。


07月

▷安芸の毛利元就(57歳)、陶晴賢(34歳)が派遣した宮川房長(58歳)率いる討伐軍7千を折敷畑の戦いで撃破。


08月

☆相模の北条氏康(39歳)、甲相駿三国同盟に従い、娘の春姫(17歳)を駿府の今川氏真(16歳)に嫁がす。


09月

◎足利義輝(18歳)側近の信濃流二階堂家当主の二階堂晴泰(24歳)、朽木谷から須賀川まで集金(タカリ)に来る。

◎須賀川の二階堂行秀(47歳)、晴泰経由で足利義輝(18歳)を支援。義輝から偏諱を受け、二階堂輝行を名乗る。


10月

▷周防の陶晴賢(34歳)、安芸の毛利元就(57歳)に抗するため石見の吉見正頼(41歳)と和睦。山口に帰陣。

◆甲斐の武田晴信(33歳)、越後の長尾景虎(24歳)配下の北条高広(37歳)を調略。高広、中越の北条城で謀反。

◆常陸の佐竹義昭(23歳)、南郷の羽黒館を攻略。


11月

▽薩摩の島津貴久(40歳)、岩剣城を攻めて大隅国人衆を破る。貴久の息子の義辰改め義久(21歳)、義弘(19歳)、歳久(17歳)がそれぞれ初陣を果たす。

◆相模の北条氏康(39歳)、下総の古河城を攻略して足利晴氏(46歳)を幽閉。足利義氏(13歳)を元服させて古河公方とし、北条家の傀儡とする。


12月

▷出雲の尼子晴久(40歳)、家中の一大勢力の新宮党を誅滅。尼子国久(62歳)、誠久(44歳)父子討死。誠久の五男孫四郎(1歳)、京に逃れて出家。

▽豊後の大友義鎮(24歳)、和睦を騙って叔父の菊池義武(49歳)を府内に呼び寄せ、肥後からの道中で謀殺。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[南奥 1554年末]>

- 伊達晴宗・岩城重隆

- 田村隆顕・相馬盛胤・畠山義国


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 5万1千石

・奥州 岩瀬郡 5万1千石

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[一言] 技術チートに弓胎弓を持ってくるところに吃驚です。
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