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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第十一章 豊臣の中で (副題: やり過ぎた男)
67/83

1591-2 久武

<1591年 6月>


「随分と早いお帰りだな。確か十年という話だったように記憶しているが」


 我が妻の南御前が茶化してくる。

 俺は今、半年ぶりに須賀川城にいた。

 二度目の奥州下向となる豊臣秀次に随行し、仙台に向かう途上での宿泊である。


 先月の初旬、陸奥守から短期間で段階的に昇進して従三位権中納言となった伊達政宗が、関白である豊臣秀吉に連れられて初の昇殿を果たした。

 両者の思惑通りに北海道の成立を宣言する勅が発せられ、道庁は現在天守閣を造営中の函館城に定められた。

 大いにその面目を施した伊達政宗は、豊臣秀吉より褒美として京屋敷を拝領して上洛を終える。

 伊達政宗は仙台への帰路に着くが、その彼を追って近江宰相である豊臣秀次の二度目の奥州下向が発動する。

 伊達雄勝丸を連れて、先の鎮守府将軍である性山公、亡き伊達輝宗殿の一周忌に参列するための下向であった。


 人質であった雄勝丸には、これまで父親の位牌や墓を拝む機会が一切無かった。

 これを不憫に思った豊臣秀吉が雄勝丸の一時帰国を勧め、さらに喪が明けて後の国元の仙台での元服も差し許した。

 もちろん元服時の烏帽子親は同行の豊臣秀次を予定しており、俺はその随行役を豊臣秀吉から拝命したというわけだ。

 亡き伊達輝宗殿との間の関係性を配慮してくれたのだろうが、二階堂家中がバタバタしており、単純にその対応のための時間をくれたと言える。


「途中の宇都宮では盛隆に会えなんだ。佐竹家への依上保の引き渡しで揉めているらしくての」


「この須賀川も大忙しぞ。麒麟丸の元服式の準備でキリキリ舞よ」


 次男の盛行が岩城家を継いだため、当主の盛隆以外に二階堂家の成人男性はいなくなった。

 つまり、玉突き事故的に麒麟丸の元服が早まってしまう。

 今回の輝宗殿一周忌の法要に麒麟丸を同行させ、豊臣秀次が仙台に滞在している間に元服式を上げる予定である。

 佐竹家に譲り渡す依上保に配していた郎党たちの代替地の手配と併せて、当主の盛隆は大忙しだ。


 そして次男の盛行は盛行で、岩城家に養子に入って四苦八苦中となる。

 今回の養子入りでは、正室の甲斐姫と娘の忍姫も一緒に磐城入りしている。

 そこで問題となるのは、小田原征伐で改易となった成田家の面々だ。

 事前の約定通り二階堂家で受け入れているが、甲斐姫に付いて行きたいと言い出す者が大多数らしい。

 岩城家でどれくらいの侍を新たに雇い入れ可能なのか、調整が難航している模様。


 結果、伊達家主催の輝宗殿一周忌に関する二階堂家としての諸々の差配は、全て俺が担当することになっている。

 先年の暮れに不退転の覚悟を決めて上洛したはずが、なんとも格好のつかない話である。

 まぁ仕方あるまい。


 なお、また京から引っ付いてきた義婿の前田利益は下野に置いてきている。

 今頃は壬生城にて身重の妻の阿蛍とのスキンシップに勤しんでいるはずだ。


 明日の朝には仙台に向けて出立せねばならぬ。

 俺も今日ぐらいは久しぶりに、南御前との一夜をゆるやかに過ごすことと致そう。






 仙台で輝宗殿の一周忌の法要が行われる。

 伊達家や二階堂家の主だった者たちが全員参列。

 日ノ本の五分の一を掌握する奥羽鎮守府将軍家に相応しい、壮麗な法要となる。


 だが、伊達政宗にとっては、喪が明けた次の日からが本番であった。

 己の権力強化のための手を矢継ぎ早に打ってくる。


 まずは末弟の雄勝丸の元服式だ。

 烏帽子親子の豊臣秀次から秀の字が与えられた雄勝丸は、伊達秀雄と名乗るようになる。

 伊達秀雄には伊達家の本貫地である信夫郡と伊達半郡が与えられ、豊臣政権に重要人物を人質に出してますよアピール。

 なお伊達秀雄が人質として不在の間、伊達政宗が代官を派遣するため、実体は伊達本家の直轄領そのままだ。


 次いで我が嫡孫の麒麟丸の元服式となる。

 二階堂屋敷ではなく、豊臣秀次の立ち会いの下、仙台城で華々しく行われた。

 二階堂家が伊達家の家臣であると内外に強く印象付けるための、伊達政宗の作戦である。

 烏帽子である伊達政宗よりの偏諱を受けて、麒麟丸は二階堂盛宗を名乗る。

 合わせて盛宗の母方の祖父の、今は亡き二階堂晴泰殿が務めていた官途である正五位上・中務大輔を叙任。

 我が須賀川二階堂家による信濃流二階堂宗家継承が、これで朝廷からも正式に認められた。

 傅役の須田秀広、腹心として配された平田長範の補佐を受けながら、盛宗は須賀川城主を務めることになる。

 そして伊達政宗の妹である杏姫との婚儀は、三年後に設定された。


 その後は和賀義忠の隠居と、その三男である和賀忠親の和賀家の家督継承である。

 和賀家は先年の小田原征伐の折りに長男義長と次男秀親が討死。

 その上で忠親が妻於三の実家の稗貫領の相続を豊臣政権に認められていたため、和賀・稗貫の両領の仕置きの一元化を図るための当主交代であった。

 和賀と稗貫の両家は、和賀忠親の下で合体を果たすこととなる。

 和賀忠親の烏帽子親子は亡き輝宗殿であり、諸説あるが稗貫家は伊達家始祖の初代朝宗の四男の系統と伝わる。

 伊達政宗は和賀忠親に対して一門に準ずる対応を約束した。

 何のことはない、体の良い伊達家による和賀稗貫家の吸収合併劇であった。


 また、隠居を決めたばかりの伊達家長老の梁川宗清の嫡男宗直と、重臣白石宗実の一人娘こころの縁組を急遽取りまとめる。

 史実の白石宗実は、九歳になる一人娘に男装させて、家督を継いだばかりの伊達政宗に近侍させている。

 白石宗実ほどの武者が人質を出すとわ!と家中は騒然となり、若年で不安定だった伊達政宗の権力基盤はこの一事をもって一気に固まったと伝わる。

 その娘がこころであり、本来であれば文禄の役の後に梁川宗直と結ばれるはずが、伊達政宗の意向で二年前倒しでの婚儀となっていた。

 白石家はこの婚姻で一門に準ずる家格を得たが、これは続く大掛かりな国替えのための布石を企図したものだった。






 伊達政宗が仙台城の百畳敷の大広間に諸将を集め、先の上洛での官位の周旋内容に加えて新たな国割を発表していく。


「成実には会津から越後に移ってもらう。我が伊達家にとっての最前線よ。不足はなかろう」


「望むところ!」


 従五位下・弾正少弼を叙任した伊達成実が、上越と中越の頸城・苅羽・魚沼・古志・三島の五郡(約36万石)を拝領する。

 下越の新発田治時を筆頭とする揚北衆は、変わらず伊達成実の与力である。

 上杉領受け取りの際の派遣軍の大将を務めたのは伊達成実であり、これは誰もが予想していた転封であった。

 もし上方で政変が起これば、伊達成実率いる越後衆を先鋒に、奥羽鎮守府軍は北陸道を西進していくことになろう。


「会津には梁川宗直と白石宗実を配す。宗直はよくよく宗実を頼るように」


「はいっ、かしこまりました!」「承知仕る」


 米沢を任せていた梁川宗清が老齢を理由に隠居し、その跡を十五歳の梁川宗直が継いだ。

 若年の梁川宗直をサポートする熟練の武将が必要である。

 そこで伊達政宗が白羽の矢を立てたのが白石宗実。

 初陣となる摺上原の戦いに始まって先年の深谷の戦いまで、伊達家の数々の戦さで歴々とした武勲を立てており、その実績は十分だ。

 更に、その白石宗実を先祖伝来の白石城から引き離すことで、己の権威を家中に強くアピール出来る。

 伊達家の中央集権化がますます進み、一石二鳥という判断なのだろう。


「白石城は片倉景綱に与える」


「ありがたき幸せ」


 ここは歴史通りになったか。

 江戸幕府成立後に一国一城令が敷かれる中、片倉氏の居城である白石城だけは例外を認められた。

 ひとえに伊達政宗の片腕としての片倉小十郎のネームバリューの高さによるものだ。

 白石はまさに仙台平野の南の玄関口であり、そこに側近中の側近を配したくなる気持ちは良くわかる。

 なお、片倉景綱は従五位下・備中守を叙任している。


 ここまでは想定どおりだ。


「さて。空いた米沢には、三春の田村一族を移す」


 あまりに予想外な伊達政宗の言動にどよめきが起こる。


 そう来たか!


 田村家は伊達政宗の正室である愛姫の実家である。

 しかし、愛姫輿入れの経緯を含めて、田村家は二階堂家に近すぎた。

 また領地的にも、三春はぐるりと二階堂方の所領に囲まれている。

 もし二階堂家と伊達家が手切れともなれば、その瞬間に伊達政宗は妻の実家を人質に取られる形勢となる。

 そこで伊達政宗は国替えを利用して、田村家と二階堂家を切り離しに来たのだ。


 田村郡は坂上田村麻呂の時代から八百年近く田村家が守ってきた領土だ。

 しかし、田村郡から置賜郡への転封ともなれば、石高はおおよそ二倍に跳ね上がる。

 田村一族からの文句は出まい。


 田村家名代の田村宗顕も納得しているようだ。


「我が田村家は伊達家直参の家来衆も同然。これは先代の伯父上が亡くなられた際、関白殿下もお認めになられたこと。どのようなお下知にも従いましょう」


 いや田村宗顕、伊達家ラブ過ぎるだろ。

 あっさり先祖伝来の土地を手放してしまった。

 田村宗顕はまだ十八歳。

 これが若さか。


「うむ。よう言うた!」


 伊達政宗は満足げだ。

 伊達政宗の上洛中、側室の猫御前の懐妊が発覚している。

 それに続く実家の田村家の完全家臣化で、正室の愛姫の立場は更に弱くなる。

 伊達政宗の亭主関白ぶりはますます酷くなろうな。


「さて次はその三春だが。越後接収に功の有った岩城盛行に使わす。嫌とは言わさん」


 唐突過ぎるだろ。


 越後への遠征時、まだ盛行は二階堂姓であり、兄の盛隆の命を受けて二階堂家の軍兵を率いていた。

 なので、その恩賞と言うならば盛隆に渡すのが筋なのだが、伊達政宗はあえてそれを外してくる。

 この恩賞で、岩城家はあくまで鎮守府将軍の伊達家の配下の家であると、内外に示そうというのだ。

 受ければ盛行は二階堂家と伊達家に両属する形となる。

 恩賞を与えることで、伊達政宗は逆に二階堂家の勢力を削ぎにきた。


 チラッとこちらに視線を向けてくる盛行。


 頷いてやる。

 もらえる物は病気と違反切符とマイナスの相続財産以外はもらっておけ。


 なお、田村郡が岩城領となる代わりに、伊達郡南部と行方郡山中郷が取り上げられてしまう。

 かつて楢葉郡と標葉郡の飛地問題解消のために、伊達家から貰い受けていた所領である。

 伊達政宗はその伊達郡南部を弟の伊達秀雄に分配、行方郡山中郷を相馬義胤に返却。

 結果、岩城盛行は都合6万8千石程度の加増となった。


 もともとの所領の楢葉・標葉の二郡と、岩城家継承で得た磐城三郡に今回加増の田村郡を合わせ、石高総計で約24万石の大名となる。

 史実の江戸時代の石高ランキングで言えば、江戸300藩のうちのトップ20に食い込む大きさだ。

 広くなった領土を統治するための士族連中の手配が大至急必要となるが、そこは甲斐姫を慕う成田家の郎党で充足出来よう。






 伊達政宗は、輝宗殿の一周忌が終わるまで凍結していた小田原征伐の論功行賞を、ここで併せて一気に片付けてしまう。


 鉢形郊外の撤退戦で殿軍を務め、伊達家の遠征軍の崩壊を防いだ戸沢盛安には、その功に報いて従五位下・下総守と出羽平鹿郡が与えられる。

 これで戸沢家は、山北・由利・平鹿の三郡(約14万7千石)を治める大身となる。

 伊達政宗の盟友に相応しい待遇であった。


 同じく殿軍を務めた斯波義光は、輝宗殿の時代から課されていた出羽出禁が解除された。

 従五位下・民部少輔叙任と共に出羽村山郡の新庄(約4万石)へ転封となり、甥にあたる隣郡の最上政道の寄騎大名扱いになる。

 この措置は、伊達政宗の母である最上御前の意向が強く働いたものと容易に推測出来る。


 同じく殿軍を務めた九戸政実には、従五位下・左近将監と共に斯波義光の旧領のうち岩手郡が与えられる。

 これで九戸政実の領土は二戸・三戸・九戸・北・下閉伊・鹿角・岩手の七郡(約5万5千石)に広がった。

 かつての盟友の南部晴政が生きていた時代の南部家に比する勢力となり、九戸政実も鼻高々だ。


 同じく殿軍を務めた津軽為信は、従五位下・右京亮叙任だ。

 さらにかねてより申し入れのあった嫡子信建と松前慶広の長女との婚姻を許可。

 津軽三郡(約4万5千石)の統治に加えて、完成間近の函館城の城代の役目を任ずる事で、加増の代わりとした。


 武功を上げた者たちだけでなく、当主や嫡男を失った家にもそれなりの手当が用意される。


 伊達政宗の義弟である新発田治時は、伊達成実の旧領の一部の東蒲原郡を受け取る。

 一族の加地氏や五十公野氏の所領も合わせると、新発田領は下越の蒲原郡の過半(約11万石)を占める大領となる。

 亡き父の新発田重家が名乗っていた因幡守も、従五位下として正式に叙任した。


 戦さで長兄を失った和賀忠親には、従五位下・主馬首と共に斯波義光の旧領南半分の紫波郡が与えられる。

 妻の実家である稗貫家の所領と併せて、和賀忠親は和賀・稗貫・江刺・紫波・上閉伊の五郡(約7万5千石)を継承することとなった。


 また伊達政宗は、縁戚となる一門・一族にも官位をばら撒いていく。

 庄内(約15万石)の留守政景には従五位下・上野介を。

 角田(約6万石)の石川昭光には従五位下・佐衛門太夫を。

 亘理(約6万石)の亘理重宗には従五位下・兵庫頭を。

 行方(約3.5万石)の相馬義胤には従五位下・大膳亮を。


 これらの麾下の大名たちへのバランスの取れた恩賞充行により、奥羽における伊達政宗の支配力は格段の高まりを見せる。


 そして我が二階堂家について言えば、所領としていた信夫郡の一部と、南会津の只見地方の入れ替えを打診され、これを受け入れている。

 ざっと8千石程度の加増となるが、当主の盛隆からすると、弟の盛行の独立と佐竹家への依上保返還で割りを食ってしまった感があろう。

 しかし、それでも奥州の仙道五郡と南会津、さらに下野まるまる一国を領有する二階堂家は、総石高で言うと約77万石の大大名である。

 兄弟合わせれば100万石を超える。

 ついに7桁の大台突破であった。


 この時点で我が二階堂家は、豊臣政権下の加賀前田家に比する勢力となったと言えよう。






<1591年 7月初旬>


 仙台での役目を終えた豊臣秀次に随行し、京に向けて出立。

 戻りの道中、再び須賀川に立ち寄り、先に須賀川に戻っていた孫の麒麟丸改め盛宗と改めて顔を合わせる。


「お祖父様、京への道中の無事をお祈りいたします」


 須賀川城主として凛々しく挨拶を述べてくる盛宗の姿に、目尻が下がってしまう。

 ちなみに盛宗はまだ数えで十三歳となるが、超絶美男子に育つことは確定済みである。

 父の盛隆と母の甄姫の双方の美貌を100%受け継いでいた。

 可愛くて仕方がない。


 そんな俺とは好対照に、同席の妻の南御前が愚痴を漏らしてくる。


「小梁川の泥播斎殿と同じ名とはな」


 泥播斎とは、先の小梁川家の当主である小梁川盛宗のことだ。

 元亀の変の折に、中野宗時に与した疑いで隠居し、今は泥播斎と名乗っている。

 ちなみに泥播斎の曽祖父の小梁川氏初代の名も小梁川盛宗である。

 伊達家十一代持宗の三男にあたる。


 せっかくの初孫の元服なのだからもっと良い名を選ぶべきであった、というのが南御前の意見だ。


「政宗め。二階堂家は小梁川家と同類。所詮は伊達家の眷属と喧伝したいのであろう。その性根が気に食わぬ」

 

「しかし、宗盛と名付けるわけにもいくまいよ」


 平家の総帥で、最期は武門の誇りも捨てて源頼朝に命乞いしたと伝わる平宗盛の名は、流石にまずかろう。

 ただ出来れば、二階堂家始祖の二階堂行政から伝わる通字の行を使って欲しかったという想いは残る。


 だが、そんな俺たちの考えを改めさせてくれたのは、盛宗自身であった。


「父上にお祖父様と同じ盛の字をお願いしたのは僕になります。それに僕は信濃流二階堂の宗主になる身。だから盛宗で何も問題はありません」


 何と聡い孫なのか。

 我が二階堂家の今後百年の隆盛は、これで定まったな!







<1591年 7月下旬>


 阿蛍の出産が近いので前田利益は野州に残し、京に戻る。

 ちょうど吉乃が臨月だったが、なんとか出産に間に合った。


 吉乃は母の吉次に奥州屋の番頭の地位を取り上げられ、南近江の二階堂家の所領に押し込められている。

 俺が陸奥石川郡から呼び寄せた二階堂家の代官、石川五右衛門の妻という体であった。

 石川五右衛門が二階堂家に仕官すると決した時、強引に祝言を上げさせていた。


「漢に二言はないさ」


「うふっ。任せて!私が石川家をおっきくしてみせるから」


 不承不承な石川五右衛門とは正反対に、吉乃はむしろ積極的だった。

 商売の道から引退させられたにも関わらず、全く堪えた様子は見せない。

 石川五右衛門と結婚の方がよほど嬉しかったらしい。


 吉次も俺も頭が痛い。


「全くもう!これじゃ全然あの子に対しての罰になりません!」


「仕方あるまい。京都所司代の前田玄以の配下が動いている。逃げ切るにはこの道しかない」


 柴田忍軍の残党たちの忠誠を勝ち取るためにも、この婚儀はマストであった。


 とにかく吉乃は無事に男子を出産。

 石川五右衛門によって五郎市と名付けられた。


 俺にとっては四人目の孫となる。

 釜茹でなんかには絶対させないからな!






<1591年 8月下旬>


 京にて真田信繁と大谷吉継の養女小屋殿の祝言の席にお呼ばれする。

 真田信繁は21歳で、小屋は12歳だ。

 二人の間に子供が産まれるのは、暫く待たねばならないだろう。


 小田原征伐時に遠目で見た程度で、大谷吉継ときちんと会話するのはこれが初になる。

 豊臣秀吉が百万の兵の采配を任せたいと宣った豊臣政権下の逸材だ。

 よく物語では業病を患っている描写が多いが、少なくとも現時点ではそんな事は無かった。


 東国の戦さ談義で盛り上がり、四方山話に花が咲く。

 その大谷吉継の口からちょっと気になる話が溢れてくる。


「土佐宰相の一人娘と、黒田長政殿の弟が婚約したと聞き及ぶ。官兵衛殿も抜け目ないことじゃ」


 土佐宰相とは長宗我部信親のこと。

 豊臣秀吉が最近特に可愛がっている四国の青年大名だ。

 官兵衛はもちろん黒田考高だ。

 豊臣秀吉の覇業を助けた名軍師である。


 どうもこの大谷吉継。

 豊臣政権の元勲たちが必要以上に力を持つのを、危険視しているようである。

 千利休へ切腹命令を届けたのも大谷吉継と伝え聞く。


 史実の長宗我部信親の娘の万姫は、信親の一番下の弟の盛親と結婚するはず。

 それが朝鮮出兵時に忍び込んだ船が難破して海に消えた黒田熊之助のもとに嫁ぐとは。

 どういう事だろうか。


 京の長宗我部屋敷は、我が二階堂屋敷のすぐ近くにある。

 南国の土佐に所領を持つ長宗我部家には、兼ねてから持ちかけたい儲け話があった。

 良い機会なので、祝いの品を届ける名目で長宗我部屋敷の乗り込んでみるとしよう。






 須賀川より取り寄せた蜂蜜の壺を持参し、長宗我部信親にお祝いの言葉を述べる。


「これはご丁寧に。ありがたく頂戴いたします」


 長宗我部信親は礼儀正しく応じてきた。

 合わせて、今は新造の方として伊達政宗の側室に収まってしまった南蛮女医ジュリエッタの紹介の件についても、改めて感謝の意を伝えておく。


「三年前、奥州に南蛮の医師を呼ぼうとしたところ、わざわざ骨を折って頂いたとか。倅の盛隆から聞いております。お礼が遅れて申し訳ござらぬ」


「なんのなんの。頭をお上げ下され」


 長宗我部信親とは鎌倉で一度顔を合わせている。


 背の高さは六尺を超え、色白で柔和な顔立ちだ。

 話によれば、三間(5.4m)を跳躍しながら抜刀して敵を斬り倒す絶技を習得しているらしい。

 言葉少なく、礼儀正しい挙措を見せてはいるが、暦とした武人である。


 史実の長宗我部信親は豊臣秀吉の九州征伐において戸次川で戦死している。

 それが何の因果か生きて俺の前にいる。

 まぁ、本当ならば俺も既に寿命は尽きていて、この世にはいないはず。

 そういう意味では、これは死人と死人の対面であった。


 四方山話を重ねながら、黒田家と縁組する狙いを聞き出そうと試みる。


「関白殿下が四国征討を唱えられた折、官兵衛殿が仲介の労をとってくれました。その時からの黒田家とのご縁を大切にしたいゆえ」


 小田原征伐後の長宗我部家の肥後領の伊予半国振替も、黒田官兵衛の豊臣秀吉への進言によるもの。

 今回の万姫の輿入れはそのお礼の意味合い、と強調してくる長宗我部信親。

 もちろん額面どおりには受け取ることは出来ない。


 黒田家の所領は豊前中津17万石だ。

 これまでの豊臣秀吉の出世街道における黒田官兵衛の功績に比すると、あまりに小領である。

 一説には豊臣秀吉が官兵衛の知略の冴を恐れたからと伝わるが、大谷吉継をはじめとする若手奉行衆の思惑も強く働いているのは、想像に難くない。

 奉行衆に対抗するため、黒田官兵衛は豊臣秀吉お気に入りの長宗我部信親を取り込んで、豊臣政権下での己の存在感を維持しようとしているのか。


 まあ良い。

 今回は文字通り挨拶レベルの接触である。

 黒田官兵衛と長宗我部信親の連合。

 奥羽鎮守府と二階堂家と同じく、史実には存在しない新たな勢力が斜陽の豊臣政権の中でどのような役割を果たしていくのか。

 これから徐々に探りを入れ、彼らの目指す先を読み解いていくとしよう。


 本題に入る。


「土佐宰相殿に一つお願いしたい儀があり申す」


「何でしょう」


「かつて土佐の一条家は貿易船を仕立て、朝鮮や琉球と私的に交易を行っていたとか」


「・・・」


「仮に土佐にまだその伝手が残っているのであれば、是非にも琉球を経由して明にまで人をやり、甘蔗の栽培方法と製糖技術を入手して頂きたい。そのための金は我が二階堂家が工面いたしますぞ」


「甘蔗、ですか」


「砂糖の素になる作物にござる。関白殿下の御威光により天下は静謐。嗜好品が持て囃される世がすぐに訪れましょう。砂糖の需要も必ず高まるはず」


「なぜ、そのような話を我が長宗我部家に?」


「甘蔗は暖かい風土でしか育たぬ作物と伝え聞くゆえ」


 甘味を求めるのは人の常。

 サトウキビを導入して砂糖を自領の特産品に出来れば、巨万の富が集まるは必定。

 長宗我部信親に砂糖生産の利を訴える。


「南国の土佐にて是非にも砂糖を作って頂きたい。さすれば奥州の金をもって幾らでも買い取りましょうぞ」


 史実では1623年に琉球王国の儀間真常が明から精糖技術を導入している。

 それを30年ほど前倒ししたい。

 今から長宗我部家のスポンサーになっておけば、いずれ二階堂家は格安で砂糖が入手できるようになり、東国で新たな利益を産めるようになるだろう。

 個人的にも、宇治の抹茶や寒天を使ったスィーツを生み出す上で、大量の砂糖を喉から手が出るくらいに欲していた。

 伊達政宗が推進している南蛮貿易でカカオ豆やコーヒー豆を手に入れられれば、さらに夢は膨らむ。


「軽々には答えられぬお話にございますな」


 長宗我部家中でよくよく吟味してから回答する、とのこと。

 あまりにも唐突な申し入れなのはこちらも自覚している。


 当然であろう。






 辞去しようとしたところで、長宗我部信親が一人の家臣を紹介してくる。


「後日、ここに控える久武親直に返事を持たせて、左京亮殿のお屋敷に届けさせましょう」


 同席の長宗我部家臣の一人が頭を下げてきた。

 席次的に長宗我部信親の側近であろう。


 ん?

 久武親直だって!?


「もしや久武親直殿とは、久武親信殿の弟御の?」


 予想外の名前を聞き、思わず尋ねてしまった。


「はい。亡き久武親信は、我が兄になるがです」


 それが何か?と応えてくる久武親直。


 久武親信は長宗我部元親の片腕だった男だ。

 四国統一を目指す長宗我部元親を支え、長宗我部軍の伊予軍代を務めていた勇将である。

 その久武親信が伊予平定戦で討死したのが12年前。

 遠く奥州の片田舎の二階堂家が、土佐でかつて活躍した兄の久武親信の名前を把握しているのが、不思議だったのだろう。

 久武親直が胡乱げな表情を向けてくる。


 久武親信は主人の長宗我部元親に対し、自分が死んだ後は腹黒い弟に家督を継がせないように、と言い残したと伝わる。

 史実においては、その久武親信の遺言どおり、久武親直の繰り返した讒言が結果として長宗我部家を滅亡に導いた。

 ザ・佞臣である。


 その久武親直が、この世界線では長宗我部信親の腹心のポジションに収まっているだと?


 適当に言葉を濁しつつ、帰り際に門前まで見送りに来た長宗我部信親と久武親直の主従の顔を交互に伺う。


 泰然自若さを崩さない長宗我部信親と、猜疑心に満ちた目つきの久武親直。

 表向きはひどく対照的なのだが、二人揃った立ち姿は妙に収まりが良い。


 強い主従の絆をそこに感じてしまった。





 調べてみれば、この久武親直。

 長宗我部家の肥後統治において、主君である長宗我部信親の手足となり、肥後国人衆の鎮撫を見事に成し遂げている。

 かねがね史実に反して肥後国人一揆が発生していないのが不思議だったのだが、その理由が明らかになる。

 新領主の長宗我部信親に反感を抱く者たちの中から、反乱の火種になりそうなキーマンだけを、久武親直が的確に排除していたのだ。

 久武親直は、言わば肥後国人一揆の発生を未然に防いだ豊臣政権の大功労者であった。


 毒と薬は紙一重。


 長宗我部信親。

 礼儀正しい好青年のように見えて、毒薬を使いこなす才も備えているのならば。

 実は相当に腹黒い、中身は一端の戦国大名である可能性がかなり高くなってきた。

 少なくとも、久武親直という劇薬を使いこなせなかった父の長宗我部元親や弟の長宗我部盛親よりも、その器量は格段に上と見るべきだ。


 もしかすると黒田家との縁組も、黒田官兵衛ではなく長宗我部信親の主導なのかもしれない。

 豊臣秀吉の覚えめでたく、大坂に近い四国に約60万石の大領を持ち、更に知恵者の黒田官兵衛を取り込みつつある。

 このまま行くと、消滅した上杉家に代わって豊臣政権の大老職に就くのはまず間違いない。

 油断のならない相手であろう。


 今回、サトウキビの導入と将来的な二階堂家と長宗我部家の通商関係の構築を打診してみたわけだが、早計だったやもしれん。

 しかし、サトウキビが生産可能な領地を持つ南国の大名たちの中で、他に取引を持ち掛けるに適当な相手がいなかったのも事実だ。


 頼もしい商取引相手が出来たと見るべきか、難敵が現れたと見るべきか。


 だが、日本国内で砂糖の生産体制を今のうちから作っておかないと、日本の産出する金銀は際限なく海外に流出してしまう。

 史実においては、砂糖の輸入に大量の金銀を使いすぎて、十七世紀後半には日本国内の金銀が枯渇してしまっている。

 それはつまり、将来的に奥羽の金山銀山が全て乾涸びてしまう事を意味する。

 我が二階堂家の、今後百年の隆盛の先に隠れている死活問題であった。


 甘蔗栽培と精糖技術の導入は、例え長宗我部家が肥え太る結果になるのが目に見えていても、リスクを負って推進すべき策となる。


 早急に久武親直のカウンターになる人材を、本国から呼び寄せる必要があろう。

 タフな交渉になりそうだ。


 




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