1590-4 三介
<1590年 8月上旬>
小田原から豊臣秀吉の使者が来る。
徳川家中の本多忠勝だ。
言わずと知れた東国無双の勇士である。
これで井伊直政と榊原康政に続き、徳川四天王のうちの三人と面識を得たことになる。
なお、残る一人の酒井忠次は眼病を患って二年前に既に引退している。
「関白殿下が鶴岡八幡を詣でられる。奥羽の諸大夫の皆々様には武具を解き、出迎えの準備をお願い致す」
「承知致した」
奥羽鎮守府軍を代表して応答する。
こちらからも要求を一つ。
「我が方は三日後、亡き鎮守府将軍(輝宗)の四十九日法要をここ鎌倉で執り行う予定でおる。しかし、位牌と遺骨は政宗殿と共に小田原だ。政宗殿に至急鎌倉まで御足労頂くようお伝え下され」
小田原城下は開城だ武装解除だで忙しいはず。
法要を行うならば、既に戦火が収まっているここ鎌倉で行うのが現実的であった。
ただ当主である伊達政宗がいないと、必然的に弟の最上政道が喪主代理となる。
政宗としては看過できない事態なわけで、これも俺の追い出しを画策した政宗への意趣返しの一手である。
「急ぎ小田原に早馬を向かわせましょう」
本多忠勝は呆れた表情を浮かべながらも、こちらの要求に従ってくれた。
<1590年 8月中旬>
四十九日法要の前日、伊達政宗が小田原から苦虫を噛み潰したような顔でやって来る。
よく豊臣秀吉が解放してくれたものだ。
「やり過ぎではないか」
政宗に文句を言われる。
はて、責められているのは鎌倉まで攻め入ったことか、それともこの法要の強行か?
とにかく鎌倉に集結した奥羽勢10万の兵権を政宗に返す。
そこで置き土産となるであろう助言を一つ。
「小田原征伐を終えた関白が、次に何を望まれるかお分かりか?」
「ふん、奥羽には手出しさせぬよう算段は付けておいたわ」
「関白が目指すは大陸。朝鮮を従え、明国を征討する大望を抱いておりましょう」
「何だと?」
あまりに予想外だったのだろう。
政宗は驚きの表情を浮かべている。
「仙台に戻ったら、急ぎ奥羽と蝦夷地の地図を大坂に送るとよろしかろう。蝦夷地の広大さを伝え、その献上を願い出れば、奥羽鎮守府がその大戦さに巻き込まれることは避けられるはず」
俺の献策に従った亡き輝宗殿の指示で、奥羽鎮守府は三年前から総力を上げて東北沿岸の測量に取り掛かっていた。
最近ではアイヌの民の力も借り、北海道の北辺にも調査隊を派遣している。
伊能忠敬には申し訳ないが、その事績の先取りである。
すでに奥羽に普及済みで実績抜群のジャガイモの力を持ってすれば、米作には不適当な蝦夷地であっても入植は進むだろう。
朝鮮出兵に付き合えば、多くの将兵が補給の苦難と風土病に倒れることになる。
局外の立ち位置を早急に確保すべきであった。
輝宗殿の四十九日法要の当日。
納骨の儀は仙台に戻ってからの百日法要の際になる為、営み自体は簡素だ。
ただしサプライズが発生する。
予定を前倒しし、豊臣秀吉が鎌倉に乗り込んできた。
鎌倉に集結している奥羽勢10万に比して、その護衛の兵はわずか3百。
なかなかのギャンブルぶりだ。
ある意味では豊臣秀吉の必殺技でもある。
賤ヶ岳の合戦の折には、敵方の前田利家の府中城に一人乗り込んだとも聞く。
また徳川家康上洛の際、謁見の前日にその宿所を訪ねて直談判に及んでいる。
ただし、今回の場合は相手の我らが勝手知ったる仲でもなし、危険度が高すぎる。
それでも実行に及んだのは、小田原に僅か3百の兵で乗り込んだ伊達政宗への対抗心のせいだろう。
政宗以上の肝の太さを見せつけねばと、天下人の矜持がそうさせたか。
法要を営む名刹に、甲冑を着たまま乗り込んでくる豊臣秀吉。
「これは関白殿下!」
「そのまま、そのまま。儂にも輝宗殿の御霊を慰めさせてくれい」
平伏する政宗とそれに倣う我らを尻目に、霊前によいしょと座って焼香をあげる。
その姿は俺の想像通りの豊臣秀吉であった。
150cm代半ばと小柄だが、活力が漲っている。
そして明らかに付け髭だ。
「信親も面識があろう。焼香せよ」
「ははっ」
付き従う大柄な武将に豊臣秀吉が声を掛ける。
背が高い。
180cm以上ある。
そして色白だ。
「長宗我部信親殿です」
息子の盛隆が耳打ちして教えてくれる。
あれが四国の蝙蝠の息子か。
いつ敵になるかも知れない奥羽の武将たちが集う中、豊臣秀吉と同様に平然と振舞っている。
肝が太く、涼やかだ。
かなり豊臣秀吉の信任が篤いと見える。
焼香を終えた豊臣秀吉がこちらに向き直る。
「ふーむ、そなたが二階堂盛義か」
「はっ」
豊臣秀吉の鋭い眼光が俺を射抜く。
「政宗から聞いたぞ。西国からやって来た“猿”の首を獲ると息巻いておったとな」
ん?
政宗の方に目を走らすと、さっと顔を背けられた。
政宗め。
滝川一益への手紙の一件は、どうやら政宗の耳にも入っていたらしい。
焚きつけやがって。
「何か誤解があるようですな。関白殿下の速き事、天竺に伝わる風の猿神ハヌマーンの如しと評したまで。決して他意はございませぬ」
「なんじゃと。は、はぬ?」
斉天大聖と言いたいところだったが、まだ西遊記は成立したばかりだ。
日本に伝来済みの大唐三蔵取経詩話に登場する、玄奘三蔵を助ける猿将と説明。
「ほう。天を駆け、死なず、強く、叡智に長けた神猿とな。言いよるわ。そして日輪が大好物とはのぅ」
まるで儂のようではないか、と思わず自身の猿の呼称を認めてしまいそうになる豊臣秀吉。
ハヌマーンが日輪を果実と間違って食べようとして、雷帝インドラに一度殺された件は黙っておく。
ただ、なんとかはぐらかすことに成功した。
「関白殿下と将軍閣下の御尽力により、輝宗殿の仇は明らかになっております。誤解は完全に解け申した。これからは天朝に対して忠誠を尽くすのみにございます」
深々と平伏してみせる。
これが俺と豊臣秀吉の記念すべきファーストコンタクトとなった。
<1590年 8月下旬>
小田原城に篭っていた北条方の兵たちの武装解除を終え、豊臣軍本隊が鎌倉にやって来る。
下総を攻略していた佐竹義宣も合流。
奥羽勢と合わせて20万以上の軍勢が集結する中、豊臣秀吉の鶴岡八幡宮への参拝が行われた。
源頼朝の像との面会を終えた豊臣秀吉は麾下の諸将を集め、小田原征伐の総まとめとなる東国仕置きを発布する。
史実では奥州合戦の源頼朝の古事に倣い、宇都宮で仕置きを行っているが、下野は完全に我が二階堂家の勢力圏だ。
そして奥羽の諸将はほぼ全員鎌倉に参集されていることから、宇都宮まで出張る労苦は省かれた。
自分はチート知識である程度の想定は出来てはいたが、天下の大名たちにとって東国仕置きは中々にショッキングな内容となる。
石田三成が新たな国分けを告示していく。
「まず北条家の扱いだが、改易の上で当主の北条氏直は高野山に蟄居と定まった。北条氏規の身柄は徳川殿、北条氏邦の身柄は伊達殿の預かりとなる。また北条氏照の正室や成田家の処遇については二階堂殿に一任する」
既に北条氏政、北条氏照、千葉氏重、里見氏忠の四名は小田原開城時に切腹させられている。
また不忠甚だしいとして、松田憲秀、大道寺政繁の両名も切腹済みだ。
「北条家の旧領については、上野の沼田を真田家、下野の小山を二階堂家、下総の古河を結城家、常陸の河内信太を佐竹家に分配。その他の伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総・安房の所領には、徳川殿に入っていただく」
続く石田三成の告示に「おおっ」とざわめきが起こり、諸将の視線が徳川家康に向く。
里見家も潰されている為に若干領土は異なるが、史実と同じく都合240万石近い大領への移封だ。
ただし父祖伝来の三河から引き剥がされることになるわけで、徳川家康の反応に注目が集まってしまうのは当然のこと。
そんな中、豊臣秀吉がニコニコと笑いながら徳川家康に語りかける。
「徳川殿には大分活躍してもらったでの。これくらいのことはさせてもらわないとの」
「ははー」
既に小田原の連れ小便時に打診済みだったのだろう。
一切の不平を漏らすことなく、ありがたがってみせる徳川家康。
役者だった。
「あと養子に貰ってる秀康だがの。そこにおる結城晴朝がどーしてもと言って聞かなくてな。結城家に婿入りさせることにした。結城と言えば鎌倉以来の関東の名族と聞く。どうだ?嬉しかろう」
突然の結城秀康の誕生劇。
これは秀吉流のサプライズだったようだ。
徳川家康も事前には知らされていなかったようで、戸惑っている。
「は、ははー。良縁を取り持って頂き、真に恐れ入りまする」
チラリと結城晴朝を見ると、その顔はこちらに対して申し訳無さげである。
これまで結城家の後ろ盾は我が二階堂家が務めており、今回の小田原戦役でも奥羽勢に従軍している。
どうやらドヤ顔している黒田官兵衛が裏で暗躍したと見える。
勝手に水面下で豊臣政権と裏取引された格好になった伊達政宗は憮然としていた。
とにかくこれで結城古河15万石も徳川領になった。
都合250万石以上の大領である。
徳川家の家運が一気に開いたと言っても過言では無いだろう。
「さて、次は信親よの。三成、続けよ」
「はっ。長宗我部信親殿の此度の戦働き、真にお見事。その戦功に報いる為、肥後の所領と代官職に代えて伊予半国を与えるものとする」
長宗我部信親は伊豆の下田城を奇襲で攻め落として小田原に迫り、箱根の北条軍を撤退させる大功を立てている。
その後も北条家の里見水軍を蹴散らし、小田原城の海上封鎖を成功させていた。
豊臣秀次や織田信雄のフォローに忙しかった徳川家康に次ぐ活躍となり、それなりの褒美が用意される。
長宗我部家からすれば代官職が無くなる分10万石程度の減封となるが、飛び地の経営の苦労が無くなるのが非常に大きい。
さらには瀬戸内海の水運の利を得られる為、表高以上に大幅な収入の増加が見込まれた。
そして、かつて四国統一を悲願としていた長宗我部家にとって、半分とは言え伊予の返還は特に大きな意味を持つ。
父の元親が手放さざるを得なかった領土を息子の信親が取り戻したとなれば、信親の家中での威勢は元親のそれを完全に凌駕するであろう。
信親に恩をかけたい秀吉の考えが透けて見える。
ただ三年に渡って苦労して肥後もっこすを手懐けてきた長宗我部信親にしてみれば、せっかく領国化した新領地を取り上げられる形にはなる。
また大国の肥後は、上国の伊予に比べて開墾で石高を上積み出来る余地が膨大にあった。
その点を当の信親はどう捉えるか。
「ありがたき幸せ。我が父の元親も喜びましょう。良い親孝行が出来ました」
ただただ素直に感激してみせる長宗我部信親。
あれは本当に素なのであろうか。
いかん。
律義者と称される徳川家康の狸っぷりを見せつけられたせいで、疑い深くなってしまっているな。
フラットな目線を心がけないと。
これで四国のうち、土佐・阿波と伊予の西半分が長宗我部家の所領となる。
大坂からほど近い場所に約60万石の大大名の誕生だ。
秀吉の信任っぷりを見ると、同じく大坂に近い備前の宇喜多秀家と並び、将来的に大老職が与えられる可能性が非常に高い。
その動向には注意が必要だろう。
尚、長宗我部家から取り上げられた肥後の領地は、秀吉子飼いの加藤清正と小西行長に折半される。
これまたドヤ顔している黒田官兵衛の献策を豊臣秀吉が聞き入れた結果である。
来るべき唐入りへの布石なのは明らかであった。
家運が開いた家があれば、逆に凋落を余儀なくされる家もある。
まずは輝宗殿暗殺の犯人とも言える上杉家だ。
当人である主君の上杉義真不在の中で、石田三成が上杉家への沙汰を告示。
「上杉家は改易。上杉義真は前田家預かりとする。越後の上杉領については、約定どおり伊達殿が受け取られよ」
「関白殿下のご厚情に感謝いたしまする」
伊達政宗が見掛けだけは従順に応じてみせる。
室町幕府で関東管領を脈々と受け継いできた上杉家も、これで呆気なく取り潰しだ。
上杉謙信が没してから十二年。
今川家や武田家と同じく、偉大な当主が去った後に往々にしてやってくる荒波を、遂ぞ乗り越えることは叶わなかった。
栄枯盛衰である。
伊達家による上越と中越の受け取りは、一旦奥羽に全軍を返し、仙台で輝宗殿の百日法要を盛大に営んでからの実行となろう。
なお越後加増に加え、参集している奥羽鎮守府に属する諸将の全員が伊達政宗の口利きで所領安堵となった。
この措置は、負傷して河越城に留まったままの岩城常隆も含まれる。
また当主の重家を樋口兼続に討たれた新発田家の家督は、伊達政宗の義弟となる新発田治時の相続が認められた。
同じく当主の稗貫広忠と嫡男重政が討死してしまった稗貫領については、広忠の娘の於三が嫁いでいた和賀忠親の所領とされ、和賀家に吸収合併となる。
人質として幼少期を仙台で過ごした和賀忠親は虎哉和尚の薫陶厚く、先年に元服した後は伊達政宗の近習を努めていた。
既に伊達家の一家臣と言っても過言ではなく、全て伊達家の機嫌を取るための豊臣政権の大盤振る舞いであった。
次いでは輝宗殿暗殺のとばっちりを食らい、当主の氏郷を失った蒲生家の番である。
「蒲生鶴千代はまだ八歳と幼年の為、越中三郡は取り上げて近江一万石に国替えとする。元服の後に然るべき姫との縁組と領国を与えるものとする」
石田三成のこの告示に反論する者は一人もいない。
まだ蒲生鶴千代(後の蒲生秀行)は徳川家康の娘の振姫と婚約しておらず、徳川家は蒲生家の後ろ盾になっていない。
強いて言えば豊臣家の親族扱いとなり、つまり蒲生家の行く末は秀吉の裁量次第でどうとでもなる状態であった。
「尚、蒲生家の旧領の差配については前田家に任せるものとする」
前田利家はここ鎌倉には来ておらず、上州の占領を継続中だ。
豊臣政権は、事件当日に河越城にいた前田利家に輝宗殿暗殺の責任無しと断じている。
深谷での大敗についても大道寺政繁の裏切りのせいとされ、上州攻略と上杉義真拘束の功を強調したが故の加増であった。
これで前田家は史実通りに100万石近い所領を得ることとなった。
秀吉は息子の鶴松を守る盾となるよう、同輩の前田利家を意地でも引き立てるつもりのようである。
前田利家の豊臣政権の大老職は就任は堅いだろう。
そして最後は豊臣秀吉にとっての旧主家、織田信雄の番となる。
石田三成が書状を読み上げる。
「織田信雄様には尾張から徳川殿の旧領である三河・遠江・駿河にお移り頂く。ざっと見積って十万石ほどの加増となりましょう」
「な、なにぃ。そのような話、俺は聞いていないぞ」
狼狽する織田信雄は今年三十三歳。
未だにどこか青年っぽさが抜けてない。
満座の中で拒絶する織田信雄。
空気が読めてない。
「尾張は我が織田家の父祖の地。転封などあり得ぬ。そのような微々たる加増は無用に願おうっ」
その無思慮な発言は、豊臣秀吉を怒らせるのに十分であった。
「ふむ。要らぬと申すか。ならば改易よ」
「へっ?」
先程までの朗らかな態度から一変、豊臣秀吉はとてつもなく冷徹な顔を見せていた。
怖いわ。
「三成、此度の小田原攻めでの内府が犯した失態を、ことごとく数え上げよ」
石田三成が頷いて断罪を始める。
「はっ。まず一つ目は韮山城攻めの不首尾となりましょう。四万五千の兵を預けられながら一ヶ月以上も攻め倦ね、殿下の威信を貶めかねない事態となりました」
「そ、それは近江中納言たちが攻めていた箱根の山城も同じだろ」
「籠っていた敵兵の数が違いまする。箱根の敵勢は約三万五千。韮山城は四千足らず。彼我の戦力差の開きは明らか」
反論は即座に石田三成に叩き落とされる。
「二つ目は小田原攻めへの合流の遅延。韮山城攻めは放棄するようにとの殿下の命令を、殊更無視なされましたな」
「それは徳川殿の家臣の江川某が開城交渉を進めていたからよ。もう少しで交渉がまとまりそうだったのだぞ」
「殿下の命令に服さぬ理由には成り申さぬ」
またもや石田三成にバシリと言い負かされる織田信雄。
「三つ目は北条方の夜襲への拙い対応。徳川殿の御家中の救援が無ければ、内府様ご自身の首も危のうございました」
「そ、それは長宗我部の副官が持ってきた酒が回っていたからよ。あの酒が無ければ、絶対に独力で撃退できてたって!」
「・・・」
あまりにも情けない反論に、流石の石田三成も呆れている。
北条氏直降伏の三日前、史実でも北条方の太田氏房が包囲軍に夜襲を仕掛け、蒲生氏郷と激しく槍を合わせている。
この世界線では蒲生氏郷が既に討死していたので、代わりに織田信雄の軍が夜襲のターゲットになったようだ。
その晩は折悪く、小田原城を海上封鎖中の長宗我部家の水軍より、補給の一環として多くの酒樽が織田軍に届けられていた。
主将の織田信雄も含め、主だった織田の武将は皆酩酊状態になっており、そこに決死の覚悟で北条勢が城を出て奇襲してきたものだからさぁ大変。
聞くところによれば、酔い潰れてほぼ人事不詳であった織田信雄は、まさかの事態に右往左往するばかり。
徳川家の赤備えの井伊直政が駆けつけなければ、信雄本人の首が槍玉に上げられてしまってもおかしくはなかったと云う。
その夜襲の成功で小田原城の士気は回復。
直後に我ら奥羽勢が大兵をもって鎌倉を占領していなければ、今頃まだ小田原城は開城していなかったかもしれない。
三介殿のなさる事よ、とは良く言ったものだ。
豊臣秀吉が口を開く。
「これほどの失態にも関わらず、転封で済ませようとしたのは単に信長公の血筋を慮ってのこと。これを断るとなればもはや是非もなかろう。改易の上、流罪を申し渡す。もうその顔は見とうない。引っ立てい」
「ちょっ、待ってくれ」
織田信雄がオロオロと周りの知り合いの武将たちに助けを求めようとするも、皆が無視だ。
連座して豊臣秀吉の怒りの矛先が己に向けられるのを、全員が避けようとしている。
この中で一番に豊臣秀吉を説得出来そうな徳川家康も、困ったような顔を見せつつも我関せずな態度を崩さなかった。
かつて小牧長久手の戦いで織田信雄に梯子を外された経験がある以上、当然と言えば当然だ。
いや、三介殿よ。
だからと言って、こっちを見られても困るって。
我ら奥羽勢に織田家を助ける義理なんてどこにも無い。
むしろこの件に関しては、余計なしがらみの無い我ら奥羽勢の方が、豊臣秀吉の決断を支持しやすい立場にある。
案の定、早速政宗が良い機会とばかりに豊臣秀吉に媚びを売る。
「関白殿下、もし宜しければ織田殿の身柄、我が伊達家で引き取りましょうぞ。遠く出羽の国にでも流せば、本人も反省もいたしましょう」
結果、織田信雄はその子息ともども流罪となり、伊達領内の八郎潟の湖畔に送られることとなった。
部下からも引き離されて孤立無援となり、伊達家の兵に連行されていく織田信雄を、我らはただただ見送るのみである。
豊臣政権の下、政界の表舞台から織田家は完全に退場させられてしまった。
ある意味、小田原征伐のクライマックスとも言える光景である。
旧織田系の大名たちは、織田信雄の突然の改易流罪に驚き、改めて豊臣秀吉の権力の強大さを思い知っている。
一方で奥羽の諸将は、中央の権力争いを初めて間近で目の当たりにし、新しい時代の風を肌で感じて慄然としている。
しかし俺は違う。
己の戦闘モードの視界の中に揃う、豊臣秀吉をはじめとする数多のネームド武将たちの姿に、ワクワクが止まらないのだ。
こんなに興奮したのは、春日山城で上杉謙信にはじめて会った時以来だろう。
豊臣秀次、宇喜多秀家、黒田官兵衛らの豊臣家首脳陣。
石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家ら豊臣家五奉行衆。
加藤清正、福島正則、加藤嘉明、片桐且元、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則ら賤ヶ岳の七本槍。
大谷吉継、小西行長、山内一豊、松浦秀任、仙石秀久ら豊臣家馬廻衆。
生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏ら豊臣家三中老。
池田輝政、森忠政、滝川雄利、丹羽長重、金森長近、前野長康、細川藤孝、筒井定次、中川秀政、京極高次、九鬼嘉隆、古田重然ら旧織田系。
安国寺恵瓊、長宗我部信親、大友義統、立花統虎ら西国系。
それら綺羅星の如き将星たちの中でも、特に大物中の大物が徳川家康だ。
本多正信、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らお馴染みの徳川名臣軍団を従えている。
今日この日から俺の相手はコイツら全員だ。
その自覚がトリガーとなる。
輝宗殿の死の原因に直面して以降、ずっと俺の心を縛り付けていた諦念の鎖は、いつの間にか千切れて吹っ飛んでいた。
有り体に言って、バチンと音を立てて“やる気スイッチ”がONに入っていたのである。
徳川家康は確か二階堂盛義より一つ歳上のはず。
同学年と言っても良い。
桶狭間直後の1560年の時点で、俺と徳川家康の所領の大きさはほぼ同レベルだった。
それが三十年経った今では、石高的に三倍以上の差を付けられてしまっている。
流石は正真正銘の天下人だけあり、能力値や人脈の差は歴然で、嫉妬も何も無い。
それよりもこれから俺が担うミッションは、そんな徳川家康の関心を如何にして買うかになる。
やはり天婦羅か?
観察するに、かつては引き締まっていたであろう徳川家康の四肢は、中年太りの傾向が出始めている。
健啖家なのだろう。
晩年の徳川家康は、南蛮渡来の料理技法である天婦羅に出会い、とくに鯛を好んで食したと伝わる。
しかし、ただ史実に倣って天婦羅を先取りするだけではつまらない。
ここはよりインパクトを求めたい。
そうだ!
ポルトガルやスペインとの取引が始まったことで、奥羽の諸藩はパンの生地種を既に入手済みであった。
そこで奥羽鎮守府軍では、試験的に兵糧の一部にパンの導入を始めている。
ならばここはフライなんかどうだろうか。
白身魚だけでなく鯵、烏賊、牡蠣なんかもフライにすると美味い。
ただフライと言えば、最も日本人に人気があるのは海老フライだ。
車海老はもちろん美味いが、あの徳川家康をもてなすのだ。
どうせなら超豪華に伊勢海老のフライとかを喰らわせてみたい。
そして海老フライを食わせるなら、タルタルソースも欠かせなかろう。
新鮮な卵が大量にいる。
徳川家康はこれからすぐに江戸に入府し、少なくとも年内は新しい国づくりに専念するはず。
本格的に接触が可能となるのは、徳川家康が京に上れるようになる来年以降。
つまり俺が上洛してからだ。
まだ猶予は十分にあるが、生活基盤を京に移す上で、生きた伊勢海老と朝採の卵を入手可能な環境の構築が急務となる。
特に卵が大変そう。
須賀川に転生して以降、プリンやらカステラやらの普及に務めた結果、奥羽の民から卵への忌避感を取り除くことに何とか成功している。
しかし、今は亡き織田信長の意向で近江を中心とした一部の農村で養鶏が始まっていると聞くが、上方ではまだまだ卵は希少な食材だろう。
広い人脈を持つ吉次の力が必要となる。
商隊を組織させ、一緒に京に連れていくべきであった。
もちろん大坂で大店を営む娘の吉乃の協力も不可欠となる。
今から手紙を出しておくとしよう。
最悪、卵が無くても小麦粉と水と酒さえあればフライ料理は可能だ。
試しに作ってみようか。
ここは鎌倉。
海が近い。
海老はすぐに手に入る。
そしてパンは我が二階堂家の糧食のものを使えば良い。
かつて織田信長は、俺が送ったレシピを存分に活用し、好んでプリンとクレープを食べていたと伝え聞く。
今、その息子である織田信雄が所領を一切失い、縁もゆかりも無い遠く出羽へと旅立つことになった。
最後に三介殿に俺の作った試作の海老フライを食べてもらうのはどうだろう。
きっと良い慰めになるはずだ。
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