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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第十章 リセット
63/83

1590-3 薄野

<1590年 7月初旬>


 河越城の早暁。

 いくら待てども一向に伊達政宗からの出陣の下知が降りない。

 不審に思い、伊達政宗の在所の本営に平田長範を遣わす。


 平田長範は元会津四天王の一人の平田舜範の息子で、十八歳の将来有望な若武者だ。

 史実では清野長範の名で上杉景勝に近侍してその取次役を務め、最終的には米沢藩の奉行を任されるまでになっている。

 密かに孫の麒麟丸の元服の折に側近に任じようと考えており、手元に置いて修行させていた。

 しかし、その平田長範は使者としての役目を果たせずに戻ってくる。


「なに?政宗殿に会えなかっただと?」


「はっ。将軍様にお目通りしたければ、大殿自ら足を運ぶようにと追い返されました。面目次第もございません」


 平田長範は若輩ではあったが、俺の出した使者である。

 無礼にも程がある。


「誰がそのようなことを申したのか」


「将軍様のご側近で、佐渡代官の屋代景頼殿にございます」


 粘ったが斬られそうになった為、状況を伝えるのが第一と考えて引き下がったと云う。

 その平田長範の判断を責めるつもりはない。


 屋代景頼。

 伊達政宗直属の闇の仕置き人でもある。


 嘘か真か、史実では伊達家を一時出奔した伊達成実の角田城の接収時に、抵抗した伊達成実の家族や郎党を皆殺しにしたと伝わる。

 伊達成実の出奔は、豊臣秀吉の奥州仕置きで伊達家の所領が激減し、更に朝鮮出兵の為の過酷な負担に苦しんだ末での決断であった。

 その伊達成実の現在の妻は、俺の娘の元姫だ。


 つまり政宗麾下の武将たちの中でも屋代景頼は、俺にとって特に警戒すべき対象であった。

 その性酷薄な屋代景頼が相手となると、誰を本営に送っても埒があかないのは目に見えている。


 時間が惜しい。

 本営に直接向かう。






 現れた屋代景頼が言うには、伊達政宗は既にこの河越城にはおらず、片倉景綱、白石宗実、原田宗時ら側近を連れて小田原に向かったとのこと。


「これを左京亮様に渡すよう、ご主君より仰せつかっておりまする」


 伊達政宗の残した書状を押し付けてくる。


「見せい」


 書状を手に取り、開いて中に目を通す。


 〜・〜・〜・〜・〜

 小田原まで秀吉に会いにいく。

 先日の戦さで降参してきた上杉家中の藤田信吉を取り調べたところ、父上を弑いて伊達と豊臣の間を裂いた下手人が判明した。

 その下手人の樋口兼続なる男の身柄の引き渡しと、蒲生氏郷と新発田重家の首の交換を秀吉に求めるつもりである。

 全軍の指揮は義伯父殿に任せるので、戻るまで河越城を動くな。

 もし自分が殺されたら、弟の政道を立てて秀吉に復讐すべし。

 〜・〜・〜・〜・〜


 くらっと来る。

 

 樋口兼続。

 直江兼続のことである。

 この世界では直江信綱が暗殺されていない為、樋口兼続の直江家継承イベントは発生していない。


 その名の衝撃と共に、数瞬で真実に辿り着く。

 サッと血の気が引いた。


「樋口兼続だと。まことなのか」


 思わずよろめきながらこぼれてしまったその嘆息に、屋代景頼が回答してくる。


「はっ。拙者が藤田信吉を尋問いたしました。大御所様を闇討ちしたのは、越後上田衆の樋口兼続に相違ありませぬ」


 藤田信吉はもともとは上州の将で、北条、武田、滝川、上杉と目まぐるしく主君を変えている男である。

 史実では直江兼続に排斥され、最終的に上杉家から徳川家に寝返り、関ヶ原の戦いの遠因を作ったことで有名であろう。


「藤田信吉が申すには、鉢形にて先代様の北国勢本陣訪問時に越後上田衆に不審な動きがあったとのこと。また新発田重家殿の部隊を狙って戦端を開いたのも、その越後上田衆にござった」


 この世界線では上杉義真の実父である上條義春が上杉家の実権を握っている。

 上條義春はもともと能登の畠山氏の出であり、自分と同じく越後の外から来た者たちで上杉家の中枢を固め、権勢を強化していた。

 藤田信吉もその上條閥に属する一人であり、樋口兼続との関係性が史実とは逆転している。

 それでも互いの相性が悪いのは変わらなかったようで、戦場での樋口兼続の動きを注視していたがゆえの藤田信吉の証言だ。


「上杉義真の前で行われた首実験で、藤田信吉は稗貫広忠殿と和賀義長殿、秀親殿の首を確認しておりました。しかし、新発田重家殿の首は見ていないとのこと」


 屋代景頼が述べるその藤田信吉の証言もまた、新発田重家の首を狙っての樋口兼続の犯行を指し示すものである。

 上杉家中の非主流派となって辛酸を舐めていた樋口兼続は、亡き主君である上杉景勝の墓に新発田重家の首を捧げるべく、輝宗殿を暗殺して友軍の同士討ちを誘発させたのだ。


 越後上田衆は深谷に政宗の援軍が現れると真っ先に戦線を離脱しており、大道寺政繁らの寝返りと共に豊臣軍北国勢の大敗の原因を作っている。

 恐らく上州の厩橋城へは撤退しておらず、新発田重家の首を持ち逃げして本国に戻っているものと推測される。


 七年前、新発田重家に対して武具弾薬も積極的に補給し、上杉景勝を討つよう輝宗殿に献策したのはこの俺だ。

 放生橋の戦いで上杉景勝を討ち取った因果が巡り巡って、輝宗殿暗殺という報いを受ける結果に繋がってしまった。

 山上宗二の一件以上に策士策に溺れるとはこのことで、取り返しのつかない痛恨事である。


 つまり輝宗殿の命を奪ったのは、俺自身であると言っても過言ではなかった。






 総大将である伊達政宗の不在はすぐさま伝わり、河越城に集結している奥羽鎮守府軍に動揺が生じる。

 落ち込んでいる暇はない。

 まずはこの混乱を収めないと話しにならない。


 伊達政宗の弟の最上政道と相談した上で諸将を集め、伊達政宗が残していった書状を読み聞かせる。


「将軍は何を考えておられるのか!」


 激昂するのは伊達政宗の従兄弟兼叔父で、俺の娘婿の伊達成実だ。


「なんたることよ!」


「勝手なことをする」


 その他の一門の政宗の叔父連中、留守政景や石川昭光たちも憤慨している。


 諸将の反応はまちまちだ。

 困惑する者、不平を漏らす者、嘆く者。

 その中でも出羽角館城主の戸沢盛安が視線鋭く問うてくる。


「左京亮様は如何なされるおつもりか」


 この世界線では伊達政宗の親友とも言える男で、北奥羽の外様衆の中では一番の政宗派の武将だ。

 夜叉九郎の異名に恥じず、鉢形での撤退戦の折には、九戸政実や斯波義光、津軽為信らと共に、全軍の崩壊を食い止めるべく僅かな手勢で奮闘したと聞いている。

 俺が最上政道を担ぎ上げ、伊達政宗に仇なす行動を取らないよう牽制してきた。


 諸将の視線が一気に俺に集まる中、口を開く。


「指示に従うしかあるまい。ここで下手に動けば政宗殿の命が危うい。前田利益、これへ!」


「はっ」


 端に控えていた巨漢の義息を近くに呼び寄せ、皆の前で命じる。


「厩橋城まで一走り頼む。そなたの叔父に停戦を申し込んでくれ。先の同士討ちの裁定を、我らの主君が関白に直接訴えに参ったゆえと伝えてな」


「はて。それで良いのですかな?今が義父上が天下に名乗りを挙げる絶好機と見受けられますが」


 不敵に笑いながら問うてくる前田利益。

 伊達家の武将連中に囲まれているのも何のその。

 相変わらずの不便者である。


「良いのだ。ここで政宗殿が討たれれば、亡き輝宗殿は悲しもう。それに好機は既に逸した」


 せっかく扇動が上手くいき、秀吉討つべしで全軍が昂じていたのに、総大将本人に冷水を浴びせられてしまった。

 士気の下がったこの状況では、十万の大軍を引き連れて一気に甲府を駆け抜けるのは難しい。

 それもまた失踪という手段を選んだ伊達政宗の狙いなのであろう。


 それでも伊達政宗の指示を無視するなら、それなりの大義名分が必要となる。

 まずは伊達政宗の弟の最上政道を新たな神輿とせねばならないが、現時点では甚だ役者不足と言わざるを得ない。

 最上政道には、同じ軍中にあったにも関わらず、父の輝宗殿の暗殺を防ぐことが出来なかった責がある。

 また、本人に直接確認したが、そもそも兄に取って代わろうという野心が薄かった。


 伊達政宗がこれから理不尽にも小田原で討たれてしまったら話は別だが、そうはなるまい。

 なぜならこの俺、二階堂盛義という東国最強の知将が、十万もの軍勢を率いてここ河越城に居座っているのだから。


 豊臣秀吉は俺という人間を知らない。

 知っているとしても人伝ての噂話程度。

 その噂も、滝川一益や輝宗殿のせいでかなりの誇張が入っている。


 聞けば巷での俺の勇名は、須賀川の麒麟児から始まり、岩瀬の陥陣営、仙道筋の餓狼と続いて、今ではなんと『東国の今元就』だ。

 一郡の小領主から始まり、僅か三十年で奥州十郡と下野一国まで勢力を拡大した己の事績が、そう呼ばせているらしい。

 謀聖の毛利元就の再来とは、我が事ながら恐れ入る。


 伊達政宗は腹心の片倉景綱の献策に従い、天下に対して筋を通す道を選んだ。

 その上で毛利元就に比する俺という虚像を利用し、豊臣秀吉にはったりをかまそうとしていた。

 もし要求を呑まずに自分を殺せば、あの二階堂盛義が黙っていないぞ、と。


 見事な(はかりごと)だ。

 出し抜かれた怒りよりも、感嘆しかない。

 かくなる上は輝宗殿が望んでいるであろう通り、伊達政宗を活かすのみだ。


「しからば、ごめん」


 俺が納得しているのを察し、前田利益は一礼した後、本営から立ち去っていく。

 彼の巨馬の足なら一日もあれば厩橋城に着くはず。


「各々方もよろしいな。ここはこの二階堂盛義に従って頂く。軽挙妄動は慎んで頂こう」


 諸将に対し、威圧を掛ける。






 恐らくこれが、輝宗殿と共に創り上げた奥羽鎮守府における、俺の最後の仕事となろう。


 正直なところ、輝宗殿暗殺の下手人が樋口兼続であると理解した瞬間、豊臣秀吉の首に対する渇望はどこかに消え去っていた。

 伊達政宗の方策に従って奥羽鎮守府の安寧を保てるのなら、それはそれで良いではないか。

 甘んじて受け入れよう、という気分になってしまった。


 身を引いて伊達政宗に道を譲る。

 輝宗殿を死地に赴かせてしまった原因である俺の、今の状況で取り得る唯一の償いの仕方であろう。






<1590年 7月中旬>


 伊達政宗が白装束と正反対の黒装束で豊臣秀吉のもとに向かってから半月。

 ついに小田原からの書状が河越城に届く。


 俺を含めた諸将の前で、屋代景頼が書状を読み上げて内容を開示する。


 〜・〜・〜・〜・〜

 亡き父上の遺骨を奉じて小田原に赴いたところ、今回の一件について関白殿下より正式な謝罪を頂いた。

 藤田信吉の証言を元に越後に人を送ったが、樋口兼続は上杉景勝の墓前に新発田重家の首を捧げ、割腹して果てていたことが明らかになっている。

 父上の暗殺が上杉家中の(はかりごと)であったのは、これで明々白々となった。

 上杉家の取り潰しと、権中納言の継承と、此度の参戦時に結んでいる約定の順守を関白殿下に申し入れたが、全て了承されている。

 ただし、北条征伐後に二階堂盛義が上洛して関白殿下の側近くに仕えることが条件となっており、これについては政宗から既に謹んで応諾してある。

 速やかに武蔵の各地に兵を派遣して、北条方の城を降すように。

 〜・〜・〜・〜・〜


 どよめきが起こる。


 天下人の豊臣秀吉が詫びを入れてきた事実に溜飲を下げる者。

 豊臣家の大軍との戦さが回避されて安堵している者。

 振り上げた拳の下ろし先が無くなって困惑している者。

 十人十色の反応だ。


 ただ、それとは別に俺の去就についても注目が集まる。

 伊達政宗に嵌められた格好になっているのだから当然であろう。


 豊臣秀吉との折衝に望むにあたって、伊達政宗は俺の身柄も交渉材料の一つとしたようだ。

 蒲生氏郷を討ってしまった以上、確かにそれぐらいの土産は必要となる。


 豊臣秀吉は二階堂盛義という得体の知れない危険人物を手元に置き、己が駒に出来る。

 伊達政宗は二階堂盛義を追放し、輝宗殿亡き後の奥羽の絶対的権力を手に入れられる。

 両者にとってウィンウィンな取り引きであろう。


 伊達政宗は、俺を出しにして豊臣秀吉を脅すだけでなく、更には豊臣秀吉を使って俺を東国から追い出す算段を立てていたのだ。


 思わず笑ってしまう。

 やはり伊達政宗の独眼には、俺の存在が豊臣秀吉に並ぶ脅威に見えているのだろう。

 まんま、かつて己の刀で討ち取った中野宗時のポジションである。


 先代の頃の実力者を排除するのに相当苦労するのが、伊達家歴代の宿痾と言える。

 ただ伊達政宗は、逆にこの難局を利用して俺の排除という難題を鮮やかに解決してみせた。

 それも一切伊達家の力を削ぐこと無くだ。

 これで奥羽の地に伊達政宗の独裁体制が樹立される。

 実に見事な手並みである。


「義父殿、何を感心しておられるのか。これはあまりの仕打ちではありませぬか!」


 実子の盛隆や盛行よりも、娘婿の伊達成実の方が怒り心頭だ。

 伊達成実を落ち着かせる為に、何ほどのことも無いように振る舞ってみせる。


「婿殿よ。政宗殿は保山公のご遺言を果たされただけよ。尊ぶべきかな」


 保山公とは、先々代の伊達家当主の伊達晴宗のことである。

 俺にとっては義父兼伯父、政宗にとっては祖父にあたる。


「今から十二年前、保山公は今際の際に、政宗殿に対してそれがしを超えるよう言い含められた。今がその時であろう。喜びこそあれ、怒りなどない」


 歴史知識チートの俺を完璧に封じ込んだのだ。

 そして俺には思いつかなかったやり方で、豊臣秀吉を納得させてみせた。

 天下を望むに足るだけの才が、伊達政宗に備わってきたと言える。


 伊達政宗を讃えてみせると、屋代景頼だけでなく後藤信康、湯目景康、山岡重長らの政宗側近の若手武将連中が、露骨にホッとした表情を浮かべている。

 大方、俺が逆らった場合は捕縛もしくは殺害するよう、陰で伊達政宗からの指示があったのであろう。


 伊達政宗ほど我儘な主君もそうはいない。

 これから伊達政宗に振り回されることになる彼らには同情は禁じ得ない。

 頑張れよ、へこたれるな、と心の中でエールを送っておく。






 何はともあれ、伊達政宗は賭けに勝った。

 一人勝ちと言っても過言では無いだろう。

 ならば、その勝利を豊臣秀吉にひっくり返されないうちに、さっさとこの戦さを終わらせてしまおう。


 この半月の間、俺もただ河越城でのうのうと過ごしていたわけではない。

 仕込みは終えてある。

 軍議に移行したその場で、将たちに矢継ぎ早に指示を出していく。


 兵を二手に、厳密には三手に分ける。


 まずは北条一門の北条氏邦が三千の兵で籠る鉢形城だ。


「最上政道殿、伊達成実殿、留守政景殿には羽州の諸将と揚北衆を率いて鉢形城に向かって頂く。フランキ砲を三門持って行かれるが良い。城に撃ち掛けた後、北条氏邦に『伊達は豊臣に再び臣従した。もはや争うだけ無駄ゆえ、豊臣に降るように』と告げられよ。その上で北条氏邦直筆の小田原城への降伏勧告の書状を用意すべし」


 次いで同じく北条一門の北条氏照の持ち城の八王子城である。

 こちらは北条氏照が小田原城に入っている為、家臣の横地吉信らがおよそ一千の兵で守っている。


「伊達家の本軍および奥州関東の諸将は、我が二階堂家の手勢とともに八王子城に向かう。構えて敵味方関わらず命を粗末にせぬように。こちらはフランキ砲を五門持っていく」


 伊達政宗が奥羽各家の主力を束ねて宇都宮城に入ったおり、高山右近に命じて仙台から大砲十門を持ち込んでいた。

 だが、輝宗殿暗殺を受けて深谷に駆け付けた際は、速戦を重視して行軍に同道させていない。

 伊達政宗と豊臣秀吉の交渉を待つ間に、宇都宮城に置きっ放しであったそれらの大砲を河越城に運び込んでおいたのである。


 最後は我ら奥羽鎮守府軍の策源地となっているこの河越城となる。

 留守居役として、息子の盛行を成田衆と共に配しておく。

 また先の鉢形撤退戦で被弾した岩城常隆も居残り組だ。


「盛行にはこの河越城の留守を申し付ける。フランキ砲を二門預ける。常隆殿はこの河越城でしっかりと傷の養生をなされよ。もうすぐ産まれる赤子の顔を見るまでは死ねませぬぞ」


 岩城常隆の妻である姪のれんみつ姫は、昨年の暮れに懐妊が明らかになっていた。

 つい先日、仙台で元気な姫和子を産んだ盛行の妻の甲斐姫に遅れること二ヶ月弱。

 来月出産予定である。


 岩城家に嫁いで四年。

 本国で留守居役を務めてくれている弟の大久保資近にとっては、待望の初孫であった。


 しかし、史実の岩城常隆は息子の顔を見ることなく、小田原征伐の最中に箱根の陣没してしまっている。

 それだけは何とか回避したい。

 岩城常隆の容態が悪化しないよう、盛行には手厚い介護を言い含めておく。


 各将の配置と進軍経路を指示し終えた後、号令を掛ける。


「鉢形城と八王子城を落とせば小田原城が降参するは必定。皆それぞれ思うところはあろうが、ここは関白に我らの力を見せつける時ぞ。出陣!」


「「「おう!!!」」」


 やる事が決まってしまえば後は早い。

 皆が迷いを捨てて、それぞれの仕事に取り掛かる。


 その中で、ポツリと床几に腰掛けたまま精彩を欠いている人物が一人いた。


 遠藤基信であった。






 遠藤基信との付き合いは長い。

 輝宗殿以上の長さだ。


 初めて会ったのは、確か母上の葬儀だったな。

 御堂の闇の中で拗ねてた俺に、扉を開いて光を当ててくれたのが遠藤基信だ。


 もうすぐ六十歳となる遠藤基信であったが、輝宗殿の死によって気力が失われ、一気に老け込んでいる。

 今は在陣中ゆえに避けているのだろうが、彼が殉死を考えているのは明らかであった。


 だからこそ、彼にしか出来ないことがある。

 既に死を覚悟している死人にしか頼めない仕事であった。


「基信殿、そなたに八王子城への使者を頼みたい。他の城の状況を伝えて不利を説いてくれ。北条氏照殿の細君を含め、城中の婦女子の身柄は全て我が二階堂家で無事に引き取る旨を、城将たちに約束してきて欲しいのだ。ついでにそのまま城に残り、開城に立ち会ってくれると大変助かる」


「なんと」


 しばし呆然とした後、さすがは遠藤基信だけあって全てを察する。


 輝宗殿の側近であった遠藤基信は、北条家の外交担当である北条氏照とは、長年に渡って親しく書状を交わしていた。

 北条方に出す人質役としては、これ以上のネームバリューは無いだろう。


「盛義殿は相変わらずですな。使えるものは使えるうちに何でも使おうとなさる」


「頼む。豊臣秀吉は小田原城を城兵の心を攻める為、いずれ八王子城の撫で斬りを我らに命じて来よう。そうなる前に蹴りをつけたいのだ」


 小田原城の北条氏直らに見せつける為の、八王子城の城兵の大量の首の用意。

 応じれば奥羽鎮守府軍の悪行として記録され、我らの、延いては伊達政宗の名声に傷がついてしまう。

 それは避けたい。


「よろしい。これが拙者の最期の御奉公になりましょう。お役目を用意して頂き、まことにありがとう存ずる」


 莞爾として笑う遠藤基信。


 なに、これで俺もお役御免だ。

 共に最後まで駆け抜けようではないか。






<1590年 7月下旬>


 八王子城の攻略は一日で終わった。

 城兵と周辺農民たち合わせて三千人が籠城していたが、一戦も交えずに開城となる。


 六万五千人の軍勢で押し掛け、まずは鬨の声を上げて威嚇。

 その上で使者として遠藤基信を城中に送り込み、開城交渉に当たらせた。

 八王子城の絡手口の情報と引き換えに先陣を求めてきた大道寺政繁については、現実を突き付けて黙らせる。


「大道寺殿は動かぬ方がよかろう。手柄を立てたいのは分かるが、前田利家殿はそなたを決してを許さぬ。これから旧主の北条家相手の奮闘したところで、印象が更に悪くなるだけよ。息子たちは我が二階堂家で面倒を見るゆえ、後の事は心配するな」


 遠藤基信に撫で斬りを仄めかさせたのと、山間に響くフランキ砲の試射の轟音が効いたようだ。

 程なくして城は開き、北条氏照の妻である比左や婦女子たちの身柄は、我が二階堂家の預かりとなる。

 豊臣秀吉から引き渡しの指示が来ても対応を引き延ばせるよう、さっさと河越城に後送しておいた。

 さらに遠藤基信に命じて、降将の横地吉信を説得役に使って奥多摩の檜原城も降参させる。


 既に前日に鉢形城降伏の報は受け取っていた為、これで武州から北条方の勢力は一掃されたことになる。


 こちらの動きの速さは、小田原城攻め中の豊臣秀吉の予想を超えていたようだ。

 伊達政宗からの次の指示はまだ届かないことをいいことに、さっさと相模に向けて兵を動かす。


 次の(まと)を相州の玉縄城に絞る。






<1590年 8月初旬>


 城主の北条氏勝が不在の玉縄城を一日で開城に追い込み、そのまま鎌倉に入る。

 鉢形城攻略を終えた伊達成実たちの軍も、追っ付け鎌倉で合流する手筈となっている。


 諸将を引き連れて鶴岡八幡宮を詣でる。


 二十九年前、今は亡き上杉謙信が十万の軍勢を率い、ここ鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行っている。

 上杉謙信とは三度しか顔を合わせていないが、感慨深いものがあった。

 豊臣秀吉もまた、小田原城を開城させた後にこの鶴岡八幡宮を詣でて、源頼朝の木造相手に天下友達と嘯くはずだ。

 あらかじめ掃き清めておくように宮司に命じておく。


 その後、盛隆と共に鶴岡八幡宮近くの永福寺跡を訪ねる。


 奥州合戦を終えた源頼朝は、この地に中尊寺大長寿院を模した二階建ての御堂、永福寺を建立した。

 鶴岡八幡宮、勝長寿院と並び、鎌倉の三大寺社の一つに数えられたが、今から約二百年前に廃絶している。

 今はただの(ススキ)がぼうぼうの野っ原となっているが、我が二階堂氏の家名の元となった土地であった。


 人払いをする。

 二階堂氏の始まりの地であるこの二階堂郷こそ、息子である盛隆に後事を託す場に相応しいと思えた。


「家督は遠の昔に譲っているのに、よくここまで父の我儘を許してくれた。感謝に耐えぬ」


「何を仰せられますか父上。父上でなければ、下野一統は決して成しえませなんだ」


 そう言ってくれると助かる。


「輝宗殿が亡くなられた今、俺の居場所はもう奥羽には無い。無理に居残ろうとすれば、二階堂家全体が政宗に敵視されよう」


「ゆえに、あえて策に乗って東国から離れられると?」


「うむ。俺が秀吉の側に侍れば、逆に政宗は二階堂家に手出しし辛くなろうよ」


 まぁ、それも十年足らずしか保たない話で。

 もちろん理由はそれだけではない。


「地方で汲々と戦う時代は終わった。これからは日ノ本を股にかけ、徒党を組んで多数派になった者が勝者となる。豊臣の世で生き残るには、頼れる仲間の大名を増やすことこそが大事となろう」


 伊達家にばかり目を向けていたら、時代の波に乗り遅れてしまいかねない。

 常にアンテナを高く張って、誰が味方となって誰が敵となるかを見極めていく必要がある。

 しかしその機会の多くは、この国の政治の中心である上方でしか手に入らないのだ。


 ならば行くしかあるまい。

 上方へ。


 俺のこの目で見定めた大名たちと親睦を深めて友誼を築くことは、二階堂家の、ひいては伊達家の利益にもなるはず。

 特にこの関東に移封される予定の徳川家康との良好な関係の構築は、喫緊の課題であろう。


「わかりました。国元の須賀川と下野はこの盛隆にお任せあれ」


「うむ。何事も如才なくこなす盛行はそなたの助けとなろう。行久はまだ幼い。目を掛けておいてくれると助かる」


 それから盛隆とは随分と長い時間を使って問答を重ねた。

 盛隆と二人、親子水入らずでこのような忌憚のない会話が出来たのは、これが初めてだったかもしれない。

 青々とした(すすき)野原に、いつの間にか夕焼けの光が射し初めていた。


 盛隆と共に見たこの光景を、俺はいつまでも忘れはしないだろう。






 盛隆と共に本営に戻ると、間をおかず早馬が到着する。


 最上政道や伊達成実らの軍勢が、玉縄城あたりまで到来した知らせかと思ったら違った。

 北条家の当主である北条氏直が小田原城を出て、豊臣勢の陣所に降伏を申し入れたとの知らせであった。


 開戦からちょうど四ヶ月。

 豊臣秀吉が包囲を始めて僅か五十日ばかり。

 小田原城の開城が決まる。

 後北条五代の終焉だ。


 今川、武田、北条、上杉。

 東国に覇を唱えた大勢力は皆、これで全て消え去ることとなった。


 鎌倉は寺院が多い。

 どこからか鐘の音が聞こえる。


 それはまるで祇園精舎の鐘の声のようであった。






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