1590-2 雪恨
<1590年 6月下旬>
駆ける、駆ける、駆ける。
江戸から忍城に向けて駆け戻る。
道中、深谷城に籠城中の九戸政実と、伊達政宗と共に宇都宮を出撃した息子の盛隆から、絶えず伝令が到着する。
更に北条領に仕込んでいた細作たちの上げてくる情報と合わせて、状況が整理されつつあった。
輝宗殿生存の可能性はどんどん小さくなり、心も冷えていく。
九戸政実の書状によれば、鉢形城攻略中の豊臣軍北国勢への合流の際、事件は起こっていた。
着陣早々に遠藤基信ら僅かな供回りを引き連れ、輝宗殿は城攻めの本陣へ挨拶に赴いていたが、その後に何者かの手により骸となって陣へ送り返されてきた。
日暮れ刻だった為、野営の準備に入っていた奥羽鎮守府軍は、先程まで元気だったはずの輝宗殿の亡骸に対面して動転。
混乱して陣が乱れる中、上杉勢の一部の部隊からの攻撃が前触れもなく開始される。
矢面に立たされた新発田勢と和賀・稗貫勢は壊滅的な被害を蒙り、新発田重家と稗貫広忠・重政父子が討ち取られ、和賀義忠は帯同していた嫡男義長と次男秀親を失ってしまう。
輝宗殿の次男の最上政道が指揮を採り、奥羽鎮守府軍はなんとか反撃を試みようとする。
しかし、その頃には前田利長と蒲生氏郷らの軍勢も鉢形城攻めの囲いを解き、上杉勢支援のために動き始めていた。
大将を突如欠いて部隊間の連携を失っていた奥羽鎮守府軍は、諸隊がそれぞれ抗うも成す術無く突き崩され、深谷城に逃げ込むほか無かった。
その撤退戦もまたかなり過酷なものとなり、浜田景隆や佐藤為信らの伊達家の重臣たちの行方がわからなくなっている。
麾下の将士では、岩城常隆が狙撃されて深傷を負い、最上政道の傅役であった山家公俊が討死を遂げていた。
豊臣軍北国勢は鉢形城攻略を後回しにして、そのまま深谷城攻めを継続中である。
降将の大道寺政繁と共に河越城攻略に赴いていた前田利家も、軍を反転させて前田利長らに合流しており、共に激しく深谷城に攻撃を加えている。
彼らの警戒の意識は江戸にいるはずの我が二階堂軍に向けられているようで、北の宇都宮城から政宗が猛烈な勢いで南下中とは思いもよらない模様だ。
いや、もしかしてその大軍の来援を予測しているがゆえの、強引な攻めなのかもしれない。
盛隆の書状によれば、政宗と共に宇都宮を出陣したのが、俺が江戸で軍を反転する半日前。
こちらの軍勢が騎西城に入った頃には、既に政宗ら六万の軍勢は赤岩の渡しに到達していた。
利根川の渡河後に軍勢を二手に分け、深谷城包囲中の豊臣軍北国勢三万に対し、西と南から押し寄せる策を採る、とある。
もうすぐ忍城だ。
今頃すでに深谷城の戦いは決着が付いている頃だろう。
正木丹波ら成田衆の案内で、夜半に深谷城東方17kmの忍城に入城する。
忍城城代の成田長親の挨拶を受ける。
「此度の御主君の不幸、お悔やみ申し上げる。そして深谷での本日のお味方の大勝利、お祝い申し上げまする」
「仔細について、何かわかっていれば聞きたい」
すでに行軍中に政宗勝利の報は受け取っていた。
今後どう動くべきかを定めるべく、状況を正確に把握しておく必要がある。
「されば、奥羽の兵が深谷の北の血洗島に関白の軍を追い詰め、蒲生なんとかという大物を討ち取ったとか討ち取らないとか」
「蒲生!?蒲生氏郷か」
「そう、それ!蒲生氏郷でござる。その蒲生氏郷を齢八十近い伊達家老臣の、えーと、おににわ?」
「鬼庭左月斎」
「そう。その鬼庭の爺様が、殿軍を務める蒲生氏郷と相討ちになり、見事御主君の仇を取ったと聞き及びましたぞ。なんとも血生臭い話ではありませぬか」
深谷まで落武者狩りに赴いていた忍城周辺の領民から、先程仕入れた情報だそうだ。
そうか。
鬼庭左月が逝ったか。
今回の南征に無理にでも付いて来ようとしたのを止めたのは輝宗殿だ。
不平を言いながらも宇都宮城に残った鬼庭左月が、輝宗殿の死を知ってどれほどの衝撃を受けたかは想像に難くない。
老骨に鞭打って政宗に同行し、名将の誉れ高い蒲生氏郷を道連れにして輝宗殿の後を追ったとは、彼らしい死に様だ。
あのダミ声をもう聴けないのは寂しいが、本望であろう。
「奥羽勢の奇襲もさりながら、戦さの勝敗の決め手は、豊臣方に降参していた我らの同輩の返り忠のようでしてな。戦さの途中で今度は奥羽方に転んだらしく。いやはや、あさましあさまし」
政宗は一手を率いて東から深谷城に迫り、盛隆に率いさせたもう一手をぐるりと迂回させて南から戦場に突入させる。
数に倍する新手に突如挟み込まれた豊臣軍北国勢は、もちろん動揺したのだろう。
深谷城の西に陣取っていた大道寺政繁らの北条家の降将たちは、戦況の不利を見てとると今度は奥羽鎮守府軍にあっさりと寝返った。
結果、西への逃げ道を塞がれた豊臣軍北国勢は、北の血洗島へと逃れる他に道は無くなる。
血洗島まで後退した豊臣軍北国勢は、蒲生氏郷が殿軍を務め、追撃する奥羽鎮守府軍に出血を強いて意地を見せる。
豪を煮やした政宗は、復讐に燃える鬼庭左月斎に采配を預けて蒲生氏郷の陣を強引に破る。
蒲生氏郷の排除に成功した奥羽鎮守府軍は、本庄城に向けて撤退する前田利家や上杉義真らの軍勢に対し、多大な被害を与えるのに成功していた。
上杉家の藤田信吉など、逃亡を諦めてその場で投降して来た敵軍の将士も多い。
「しかし、我ら成田家も正しく言えば関白殿下に降った身。奥羽の方々が関白と戦うとなれば、ややこしい話となり申した。いっそ降伏は無かったことにして頂けませぬかのぅ」
「控えぬか長親!」
何やら成田長親が、戦うなら豊臣家と伊達家の間で勝手にやってて欲しい、我らは放っておいて欲しいと言い出し、正木丹波に叱られている。
放っておく。
流石に節操が無いとは思うが、北条家の御由緒六家の一つ、大道寺政繁がこちらに転んだとなれば打てる手もだいぶ増える。
彼の息子の大道寺直繁が守る河越城は、我が奥羽勢の手中に収まったも同然だ。
小田原城包囲中の豊臣秀吉を討つ為の橋頭堡になろう。
あとは朝廷に逆らうことになる味方の士気を如何に維持するか、だ。
やはり、あの手しかあるまい。
「長親殿よ。書院を借りるぞ」
紙と墨をあらん限り用意させる。
今夜は夜通しの作業になりそうだ。
早暁に忍城を出立し、深谷城に到着する。
深谷城の周りには八万の友軍が野営しており、昨日の激闘の疲れを癒やしている。
戦さに勝利しているのに浮かれた様子は無い。
重い雰囲気だ。
「大殿、お急ぎください」
着陣と同時に息子の盛隆の陣より使番がやってくる。
政宗の手配により、輝宗殿の遺体が荼毘に付されようとしていた。
慌ただしく深谷城下の寺に案内される。
厳しい警護の中、政宗をはじめとする奥羽鎮守府に属する主だった者たちが狭い寺院内に集まっていた。
憔悴した様子の遠藤基信の姿もある。
「無様に生き長らえて、醜態を晒しておりまする」
輝宗殿と共に豊臣軍北国勢の本陣を訪れた遠藤基信は、補給等の諸々の打ち合わせの為、輝宗殿が自陣に帰った後も本陣に留まっていた。
そのまま突如奥羽勢謀叛の騒ぎとなってその場で拘束され、捕虜となってしまう。
続く深谷城の戦いにて、政宗らの援軍到着の混乱に乗じて敵本陣を脱出。
運良く落武者狩りに遭遇せず、味方に保護されていた。
輝宗殿暗殺を知ったのも昨夜だったらしく、その表情には未だに輝宗殿を守りきれなかった悔恨の念が浮かんでいる。
共に輝宗殿を支えてきた盟友の鬼庭左月の散り様を聞けば、尚更であろう。
いろいろと掛けたい言葉はあれど、今は慎む。
ギロリとこちらを睨んでくる政宗に対し、まずは頭を下げる。
「駆け付けるのが遅れ、真に申し訳ござらん」
「ふん、江戸まで攻め込んでいたと聞いておる。詫びなどいらぬわ」
政宗が宇都宮城を発した折は、憤怒の表情で隻眼を光らせ怒髪天を突く勢いであったと聞くが、目下の敵を駆逐した今、若干の冷静さを取り戻しているようだ。
弁明よりも先に、早く輝宗殿との対面を済ますよう促される。
目礼をしつつ、輝宗殿の遺体の前に進む。
鎧を脱がされて棺に納められた輝宗殿の身体は、意外なほどに小柄だ。
輝宗殿の存在感を増大させていた、漲る強烈な覇気が消え失せたせいだろう。
死顔を拝む。
初めて会った時に強く印象に残った、輝くばかりの笑顔はそこにもう無い。
好きだったギラギラとした眼光も、もう二度と向けられることは無い。
合掌して別れを告げる。
「後の事は全て、この左京亮のお任せあれ」
二十七年前の月下の誓いの酒の美味さから、つい数週間前に詣でた樅ノ木の感触まで、輝宗殿と共に過ごした日々が鮮明に思い返される。
しかし、己の心の動きは驚くほど平坦だ。
この感情の揺らぎの無さは、前にも経験した覚えがある。
確か父を失った栗ノ須の変事でもこうだった。
あの時と同じく、また引き金を引くとしよう。
輝宗殿と共に、一連の戦さで亡くなった将たちが荼毘に付されていく。
咽び泣く声がそこここで響く中、その光景を見届ける。
しばらくして、全ての将が政宗の帷幕に呼ばれた。
皆が着座した後、首座に着いた政宗が口を開く。
「父上を弑され、豊臣方の軍勢を討ち払い、関白とは手切れとなった。刻が惜しい。速やかに次の一手を打たねばならん。そこで今後我らはどう動くべきか、皆の存念を聞きたい」
いつも政宗の側にあった輝宗殿の姿は無い。
大きな後ろ盾を失ってしまった政宗であったが、その態度は堂々としたものであった。
まずは伊達成実が口火を切る。
「知れたこと!憎き前田や上杉の奴腹はいまだ本庄城にある。まずはこれを討つべし!」
本庄城はここ深谷城から西に10km程度の距離にあり、目と鼻の先だ。
昨日の戦さで父の鬼庭左月斎を失った鬼庭綱元も、伊達成実に同調する。
「上州の各城を攻撃中の豊臣方の集結はまだの様子。本庄城を討つなら今に御座ろう」
多くの将が二人に賛同の声を上げる。
輝宗殿の軍勢には、豊臣秀吉に謁見すべく、各家の重要なポジションの者たちが普段よりも少ない兵を率いて、数多く従軍していた。
それ故に騙し討ちによる被害は、実数以上に深刻であった。
大切な者たちを失い、復讐に燃える諸将の戦意はことのほか高い。
しかし、政宗の腹心の片倉景綱は、二人とは違う見解を提示してくる。
「相手は帝の代理人の関白。まずは大御所様を騙し討ちにした豊臣家の非道な振る舞いを、詳らかに全国の諸大名に通達すべきと心得まする」
輝宗殿が誰にどのように殺害されたのか、どのような経緯で戦さになってしまったかを調べ上げ、豊臣方の非を鳴らす。
豊臣軍の北国勢を討つのは戦さの名目を整えてからでも遅くないと、伊達成実を始めとした血気に逸る将たちに訴える。
冷静な片倉景綱だけあって、京に人質に出している伊達雄勝丸の助命も考慮に入れての提言であった。
「左京亮様は如何思し召される?」
政宗に代わって片倉景綱が尋ねてくる。
座がさっと静まり返り、皆の視線が俺に集中する。
俺の中で答えはもう出ていた。
「一気呵成に小田原へ乗り込み、豊臣秀吉と雌雄を決すべし」
断言する。
それしか我ら奥羽鎮守府が生き残る道は無い。
騒めく諸将に構わず、言葉を繋げる。
「前田利長や上杉義真は豊臣秀吉の手足に過ぎぬ。ならば真の仇は秀吉であろう。枝葉は捨ておいて幹を切り倒すべし」
伊達成実が反発する。
「しかし義父上。今すぐ小田原に向けて進むとなれば、前田勢に後背を突かれましょうぞ」
昨日の戦さの経過を聞く限り、本庄城まで退いた豊臣北国勢の兵力は討死や裏切りによって二万を大きく割っている。
本庄城では我ら奥羽勢十万の攻勢を防ぎきれないのは明らかだ。
前田利家らはすでに本庄城を捨て、上州に逃げ込んでいよう。
「深谷での豊臣軍敗北の報を流布すれば、士気が回復する北条方の城も多かろう。鉢形城の北条氏邦も健在だ。前田や上杉の相手は北条家に任せておくが上策よ」
ここで豊臣軍北国勢にかまけている間に豊臣家と北条家の和睦が進んでしまう方が怖い、と成実を諭す。
北条家が伊豆・相模・武蔵あたりの所領安堵で手を打ち、今の時点で両家に和議されてしまうのが一番厄介な展開と言えた。
その場合は開戦当初の豊臣秀吉の脅しどおり、上方と関東の合わせて二十八万以上の軍勢が敵となってしまう。
それだけは避けねばならなかった。
昨日の成田長親ではないが、豊臣家に弓引いた奥羽勢十万が小田原城に近づいたとなれば、北条氏政らは漁夫の利を狙いたくなるだろう。
奥羽勢と豊臣勢が勝手に潰し合い、北条勢は高見の見物というわけだ。
それが可能かもしれないと思わせるだけで、和睦交渉は頓挫する。
次いで片倉景綱の案も否定する。
「すでに我らは蒲生氏郷を討ち取っている。秀吉は決して許すまい。いくら真実を訴えようと、豊臣家の武将たちは皆、秀吉の怒りをもっともなものと受け止めよう」
これには史実での政宗の好敵手、もしくは眼の上のたんこぶだった蒲生氏郷の立ち位置が関係する。
蒲生氏郷の妻は織田信長の娘で、つまり豊臣秀吉の側室の淀殿の従姉妹にあたる。
さらに彼の妹と養女が豊臣秀吉の側室となっており、まさに豊臣ファミリーの一員であった。
もはや輝宗殿暗殺事件の真相などよりも、蒲生氏郷が討たれたという事実の方がよほど重い。
我らがいくら非道を訴えて譲歩を求めても、無視されるだけだ。
伊達雄勝丸の身柄に関しても、豊臣家の血族の誰かを戦場で捕らえ、捕虜交換で取り戻す方がよほど現実的であろう。
「必要なのは我らの覚悟。ゆえに細かな真実など不要。この四文字を天下にばら撒くだけでよい」
懐から一枚の紙を取り出して、諸将に見えるように掲げる。
朝方まで忍城の書院で書き散らしていたうちの一枚だ。
『報 仇 雪 恨』
仇に報いて恨みを雪ぐ。
魏の武帝曹操が若き頃、父の仇の陶謙が治める徐州に攻め入った時に掲げた旗に記された文字である。
単純だが誰もが否定しえない戦さの理由を、端的かつ余すところなく表現しきっている。
錦の御旗に対抗出来るのは、人であれば誰もが持っている親を想う心、孝心を揺さぶるこの言葉しかなかった。
「魏武に倣い、この四文字を掲げて相州に攻め込めば、天下は自ずと伊達家に転がり込もう。それこそが輝宗殿への何よりの供養となるはず」
「「「おお、おおおっ」」」
俺の掲げた四文字が、諸将の抱いていた想いと合致したようだ。
どさくさに紛れた天下取りの宣言も効き、皆が高揚した表情で身体を震わせて賛同の声を挙げている。
それらを背景に、政宗に向かって願い出る。
「全軍の采配をこの左京亮にお預け頂きたい。必ずや秀吉の首を上げてみせましょうぞ」
俺にとっての弔い合戦はここからだ。
<1590年 7月初旬>
輝宗殿の初七日の葬儀を簡素に終えた後、総勢十万の軍勢で深谷を出立し、河越城に押し掛ける。
城代の大道寺直繁は、父の政繁の指示で僅かな間に二回も主家以外の相手に城を開くはめになり、憤懣やるかたない様子であった。
そこは耐えてもらおう。
河越城入城後、細作たちの持ち寄った情報をまとめた守谷俊重からの報告を聞いて、すぐさま軍議に入る。
伊達政宗の御前で、諸将に対して豊臣秀吉打倒の策を説明する予定であった。
ただ、まずは先に些事を片付けておく。
「佐竹義宣が本佐倉城を落としたそうだ。横腹を突かれると困るゆえ、豊臣方には『佐竹義宣に奥羽勢への同心の動き有り』と、佐竹方には『豊臣秀吉が佐竹勢の裏切りを疑っている』と流言するよう手配した。これで佐竹は動けまい」
奥羽勢が豊臣家の敵に回った為、関東を巡る戦いの勝者は読みにくくなっている。
それでも豊臣秀吉に一点掛けの佐竹家は、秀吉を勝たせるために働こうとするだろうが、当主の佐竹義宣は政宗の従兄弟にあたる。
流言に焦った佐竹家が豊臣家にアプローチを重ねる都度、豊臣秀吉は余計に佐竹家への疑いの目を強め、佐竹家を戦局の盤外に留めおこうとするはず。
佐竹の件はこれでお終いだ。
次が本筋である。
豊臣秀吉を討つプランのプレゼンに入る。
大きな地図を用意し、扇子の先で進軍経路を刺し示しながら皆への説明を開始する。
「河越城を出撃した後、我が軍は報仇雪恨の四文字を掲げ、そのまま分倍河原まで突き進む」
ここまでは、分倍河原の戦いに勝利して鎌倉攻めを成功させた新田義貞に、自軍を準えての行軍であった。
「このまま南下して小田原で決戦に及ぶと見せかけ、一部の囮部隊を残して分倍河原で行き先を変える。西に向かい八王子を通って甲州に入る」
なんと!という声が諸将の間から上がる。
構わずそのまま説明を続ける。
「富士山の横を行軍して南下し、三枚橋城を攻め落として豊臣軍の補給線を断つ。その後、西から箱根に攻め上がって豊臣本軍の背後に出る」
天下人の豊臣秀吉と徳川家康を倒すとなれば、これくらいの無茶はやってみせねばなるまいよ。
あまりに壮大な進軍構想に皆が二の句を告げない中、外様衆の斯波義光が呆れた顔で発言してきた。
「甲州を突っ切るとなれば、道案内出来る者が必要ですぞ」
「心配ない。曽根昌世をこれへ」
予想して事前に待機させておいた部下を呼び寄せる。
四十代前半の渋い男が姿を現す。
「曽根昌世、参上仕った」
この春に我が二階堂家で新たに雇い入れた武将である。
皆に紹介する。
「この昌世は、かの武田信玄公が己の眼と称したほどの物見に長けた武者よ。甲斐において、これほどの道案内役は他におるまい」
武田家滅亡後は徳川家康に仕えて興国寺城代を任されていたが、五カ国検地の折に徳川家康と揉めて出奔。
特に徳川家康からは奉公構えは出ていなかったので、吉次に命じて探し出し、スカウトに成功していた。
ただ単にフリーで有能な武将を雇用しただけなのだが、よもやこの大事な局面でその知見が役に立つなど、俺自身も想像はしていなかった。
平素より広く人材を集めておくに如かずだ。
「ご不満かな?斯波殿」
「いや、大変結構な人選にござる。この義光、感服仕った」
ならば良し。
ここで、これまで黙って軍議を見守っていた伊達政宗が口を開く。
「よし、決まりだな。明朝、河越城を出撃する。義伯父殿の策に乗って豊臣秀吉を討つ!」
「「「おぅ!!」」」
伊達政宗の宣言に諸将は奮い立つ。
しかし、その宣言は果たされることはなかった。
翌朝、一向に姿を見せない政宗を探すも、河越城の内外の何処にも見つからない。
政宗は供回りの三百の兵と、輝宗殿の遺骨と、蒲生氏郷の首桶と、上杉家降将の藤田信吉と共に、河越城から忽然と姿を消していた。
残っていたのは、花押の鶺鴒の眼に針の穴の空いた政宗直筆の書状が一通。
その書状の最初の一言目にはこう書かれていた。
ちょっと豊臣秀吉に会ってくる、と。
伊達政宗は俺を含めて味方全員を謀り、その生涯で一番大きな賭けに出ようとしていた。
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