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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第十章 リセット
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1590-1 報仇

〜 第十章 リセット 〜


主人公:二階堂盛義 46歳 従五位下 左京亮


正室:南御前 49歳

├当主:二階堂盛隆 29歳 - 正室:甄の方 30歳

│ ├ 嫡孫:麒麟丸 11歳

│ ├ 孫娘:星子 8歳

│ └ 孫娘:彩子 2歳

├次男:二階堂盛行 20歳 - 正室:甲斐姫 18歳(懐妊中)

└次女:元姫 16歳 - 婿:伊達成実 22歳

愛妾:吉次 40歳

├長女:吉乃 19歳

├三男:佐野行久 14歳 - 正室:珠姫 14歳

└四男:栄丸 8歳

実弟:大久保資近 38歳 - 正室:彦姫 38歳

├養女:れんみつ 20歳(懐妊中) - 婿:岩城常隆 24歳

├姪:だんみつ 15歳

├姪:こいみつ 9歳

└甥:清丸 6歳

養女:阿蛍 29歳 - 婿:前田利益 39歳


義甥:伊達政宗 23歳 伊達家17代目当主 正四位上 陸奥守 鎮守府将軍

<1590年 3月下旬>


 梅の花が盛りの季節だ。


 九戸政実の嫡男政信と我が姪のだんみつ姫の祝言が、仙台の九戸屋敷にて執り行われる。


 うららかな春の陽気の中、粛々と婚礼の儀が進んでいく。

 豊臣秀吉の北条家への宣戦布告で日本中が殺気立っている中、ここ仙台は別天地であった。


 一月、豊臣秀吉の書状が伊達政宗宛に届いた。


 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 この春に二十八万四千騎を率いて関東に攻め入る。

 今回の北条征伐への奥羽鎮守府の加勢は不要。

 奥羽に争乱が波及せぬよう、鎮守に専念すべし。

 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 奥羽鎮守府は豊臣政権に対し、昨秋に検地台帳を提出済みだ。

 我らが総力を挙げれば十万近くの兵を動員可能なのは、秀吉にも伝わっている。

 仮に戦場で十万もの軍勢に突如裏切られたなら、北条征伐など簡単に吹っ飛んでしまう。

 豊臣方は不確定要素を排除する方向で動いてきた。


 二十八万余騎とは不遜な物言いよ、と不機嫌になる政宗。

 奥州藤原氏が滅んだ奥州合戦で、攻め手の源頼朝が動員した兵数がそれと伝わる。

 下手な動きを見せれば次は奥州に攻め込むぞ、という露骨な豊臣秀吉の恫喝である。


 宥めたのは政宗の最側近の片倉景綱だ。

 どちらが勝つか見定めてから動いても遅くはない。

 仮に秀吉を討つのであれば、両軍が疲弊した段階で兵を出せば良い。

 弟の雄勝丸を人質として京に送り出していた政宗は、その言葉に瞠目したと聞く。


 そして書状に添えられていた、石田三成からの鉱山蔵入地化の五年猶予の提案が決め手となる。

 先年に導入した南蛮吹きにより、劇的に採掘量が増加していた奥羽鎮守府にとっては、渡りに船な条件と言える。


 政宗は高見の見物を決め込み、北条征伐への不介入を宣言。

 大御所の輝宗殿と相談役の俺の両者がその決断を支持したことで、麾下の諸大名たちも大人しく右に倣った。

 ここ数年で奥羽鎮守府主導で普及させたジャガイモの効果が大きい。

 特に北奥羽の外様大名たちの食糧状況は劇的に改善しており、彼らの忠誠度はマックスを超えて限界突破している。


 一時期は見合わせる話も出ていた九戸家と二階堂家の挙式も、当初の予定どおりに開催の運びとなる。

 ただし、当然ながら酒席での話題は全て北条征伐についてだ。

 婚礼の宴には、政宗を始めとする奥羽鎮守府のお歴々がほとんと顔を出している。

 さながら首脳会議である。


「徳川家康の三万の軍勢が駿河東端の長久保城に入ったとのこと」


「清水港には全国から兵糧が船で届けられていると聞く」


「豊臣秀吉の出馬も間近であろう」


「北条家もしつこい。さっさと覚悟を決めればよいものを」


 秀吉の宣戦布告以降、援軍を求める北条氏直の使者がひっきりなしに仙台を訪れている。

 そのことごとくを政宗は追い返していた。


「我らが攻めぬだけありがたいと思え。援軍が欲しいのなら、自分たちが勝ち馬であるとの証を示すべきであろう」


 ぐぃと酒杯を干す政宗。

 要は北条家の力を見せてみろという話であった。






 政宗らのやり取りを横目で見つつ、酒を注ぎに来た息子の盛行に問う。


「盛行、甲斐姫の様子はどうか」


「大丈夫です。離縁の申し出は取り下げてくれました」


 次男盛行の嫁の甲斐姫は、忍城主の成田氏長の息女だ。

 もともと甲斐姫は北条氏政の養女の形で嫁いで来ている。

 北条家はこの婚姻関係を梃子に、我が二階堂家を動かそうとしてきた。


 甲斐姫は情に篤い性格をしており、北条家への援軍を求めてだいぶごねる。

 妊娠五ヶ月目に入っている彼女を義絶するわけにもいかない。

 なので搦手を使う。

 小田原に参陣する前の成田氏長と話を付けておいた。

 もしもの時は成田家中の全員を二階堂家で受け入れる旨を伝えてあった。


 那須疏水の整備に伴い、那須野が原の農地化が進んでいる。

 人が足りない。

 北条家が潰れた場合、成田家も改易だ。

 領民も含めて成田家の面々を下野に呼ぶことが出来れば、我が二階堂家にとっても益となろう。


 あとは忍城がどうなるかだ。

 石田三成による忍城水攻めは、果たして実際に起こり得るのか。

 史実では佐竹、宇都宮、佐野、結城、多賀谷、水谷などの北関東の諸侯の二万の兵が石田三成に従い、堤防を構築している。

 つまり我が二階堂家の軍勢には動員が掛かる可能性がある。


 謀臣の守谷俊重に命じ、ここ数年のうちに大量に仕込んでおいた北条領内の細作たち。

 彼らを活用し、戦さの今後の成り行きを注視しておく必要があるだろう。






<1590年 6月上旬>


 下野国中村の遍照寺。

 伊達輝宗殿と共に樅ノ木の古木を拝する。


 かつて伊達家初代朝宗の領地だった土地で、奥州合戦の恩賞で転封する際に二代宗村が植樹した樅木となる。

 現在は結城家家臣の水谷勝俊の領地だ。

 小山城へ援軍に赴く途中、許可を取って立ち寄らせてもらっている。


「大きな樅ノ木ですな」


「うむ。樹齢四百年ともなれば見事なものよ。この樅ノ木は我が伊達家の写身である」


 樅木の保護の為に遍照寺に厚く寄進を行うよう手配する輝宗殿。

 後世までこの樅ノ木は残ろう。


「御先祖様が治めていたこの地には、いつか立ち寄りたいと思っておった。ようやく念が晴れたわ」


 輝宗殿は感慨深い表情で樅ノ木に触れる。

 奥羽を統べる王となった輝宗殿が、伊達家発祥のこの地を訪れる。

 伊達家累代の祖先への何よりの供養であった。


「これで思い残すことはない。戦さに専念出来ると言うものよ」


「ははっ」


 関東で始まった豊臣秀吉と北条氏直の戦いは、早二ヶ月を経過している。

 両者が疲弊したタイミングでの、満を持しての奥羽鎮守府の参戦だ。


 豊臣方としての出陣であった。






 豊臣秀吉の征東軍に対し、北条氏直は頑強に抵抗を続けている。

 豊臣方と北条方の両者は、現在のところ主に四つの戦場で槍を合わせているが、その全て膠着状態となっていた。


 まず主戦場の箱根山だが、未だ北条方の城塞群が健在だ。

 北条氏直は山中城と足柄城と鷹ノ巣城に対し、各城の防御機構を十全に活かせるだけの兵力を配置していた。

 その結果、豊臣方の猛攻を跳ね返し、持久戦に持ち込むことに成功している。

 寄せ手の豊臣方としては、主力の豊臣秀次軍の事実上の司令官だった一柳直末が、山中城への最初の無理攻めで討死してしまったのが痛かった。

 また豊臣秀吉が頼りとする徳川家康も、得意な野戦とは随分と勝手の違う山岳戦に相当苦労している様子である。


 次いで伊豆方面の戦いについては、やはり北条氏規の守る韮山城が堅い。

 一刀で最大一万人を斬る戦術家だけあり、北条氏規は僅か四千ばかりの兵で織田信雄率いる四万五千の兵の攻勢を防ぎ止め続けている。

 更に北条方の伊豆水軍と安房水軍の合計六千の兵が、駿河湾を越えて豊臣方の水軍一万四千を翻弄中だ。

 地の利を活かしたゲリラ戦法にて、清水港から三枚橋城に向かう兵糧船を何度も襲撃し、遠征で疲労している西国の船乗りたちを更に苦しめている。


 転じて上州の碓氷峠の攻防となるが、こちらも数度の激突の後は、睨み合いと小競り合いに終始している。

 北条氏邦率いる上州勢二万が碓氷峠の降り口の碓氷城をガッチリ守っており、中山道を封鎖中であった。

 豊臣軍北国勢は三万五千の大軍であったが、急峻な地形と細長い街道に戦場が限定されてしまっており、その数の利を活かせていない。


 最後に常陸の牛久戦線であったが、先年に家督を継いだばかりの佐竹義宣が大変に難儀している。

 南進して北条方の牛久城を攻めたは良いが、下総の千葉氏重が援軍として現れたのに合わせ、後背の小田城の小田氏治が北条方に寝返ったのである。

 旧小田家の家臣団がこの動きに連動し、もともとが小田家の所領だった土浦城を乗っ取った為、佐竹勢は敵中に孤立していた。


挿絵(By みてみん)


 膠着の要因は、北条家に生じたいくつかの変化によるものだ。


 房総半島を完全に領土化していた結果、旧里見水軍を動員可能となっており、西伊豆に戦力配置出来ていた。

 小牧長久手の戦いの経験を経て、箱根にガチガチに強固な防衛ラインを予め構築済みであった。

 我ら奥羽鎮守府の局外中立宣言を信じ、東の佐竹義宣らへは最低限の対処で済ませ、その兵力のほとんどを西側に集中させていた。

 いつぞや伊達政宗が披露したプランを採用し、箱根に十分な兵数を送り込みつつ、豊臣軍の北国勢に対処する為の遊軍を用意していた。


 史実と違って小田原が遠い。


 埒があかない戦況に業を煮やした豊臣秀吉は、協力不要と言い放ったはずの奥羽鎮守府に対し、出兵要請をかけて来る。

 小山城攻めに加わり、背後から北条家を刺せとの命令であった。






 豊臣秀吉から奥羽鎮守府への関東出兵要請。


 見返りは、鉱山蔵入地化の猶予期間の更なる延長だ。

 従えば奥羽各地の金山銀山を、今後十年は採掘し放題となる。


 ただし豊臣家の面子を保つ為、援軍ではなく謁見の名目での派兵となる。

 そして更には兵数制限まで付いてきた。


 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 伊達輝宗は奥羽の諸大夫を率いて三枚橋城まで挨拶に来ること。

 ただし護衛の兵数は二万を持って上限とする。

 なお鎮守府将軍の伊達政宗は国元にあって、奥羽の治安維持の職務に専念すべし。

 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 石田三成あたりの献策であろう。

 戦場で突如裏切られてもダメージが少ない兵数を指定してきた。

 さらに輝宗殿と政宗を引き離すことで、国元の主力の動きを制限してくる。


 また、我が二階堂家にも別の指示が発せられていた。


 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 常陸の佐竹義宣より、二階堂家中の者が小田氏治に協力しているとの訴えがあった。

 疑いを晴らしたくば、野州の兵を率いて武蔵に攻め入ること。

 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 とんだ言いがかりだ。

 確かに我が二階堂家には、元小田家臣の菅谷政貞と菅谷範政らが所属している。

 俺の意向を受けて、二人は旧主の小田氏治に対して挙兵の愚を諌めるよう努めてくれていたが、小田氏治は聞く耳を持たなかった。

 戦さ下手の小田氏治の悪い癖が、また出てしまっただけであった。






 豊臣秀吉の要求に対して従うか、従わずに無視するか、それとも逆ギレするか。

 議論を尽くした上で最終的な決断は政宗に託されたが、ここは豊臣秀吉に恩を売っておくべきとの結論になる。

「前九年の役にて源頼義に出兵を請われた、清原武則の心地よな」とは、この時の政宗の言だ。

 あわよくば関東丸々を褒美に貰いたいとの願望が溢れた発言であった。


 輝宗殿と俺に否やはない。

 北条討伐で抜群の手柄を挙げておけば、それに続く奥州征伐の発生の確率は大きく低下するだろう。

 政宗に請われ、それぞれ兵を率いて北条領に踏み入ることを了承した。


 輝宗殿は、最上政道、岩城常隆、相馬義胤、戸沢盛安、和賀義忠、稗貫広忠、斯波義光、九戸政実、津軽為信、安東通季、新発田重家ら、傘下の大名の当主連中を引き連れ、二万の軍勢での出撃となる。

 豊臣秀吉への謁見が最終目的となる為、嫡男を連れて参加している大名も多い。


 俺の方は、野州の手勢を中心とした一万の軍勢を編成し、忍城攻めに備えて次男の盛行を同行させる。

 三男の佐野行久にとってはこれが初陣だ。


 そして政宗と我が長男の盛隆は、奥羽各家の主力を束ねて宇都宮城に入る。

 いつでも援軍を派兵可能なように、下野で戦況を見守る布陣であった。








<1590年 6月中旬>


 奥羽鎮守府軍の南進開始の報は、瞬く間に関東全域に響き渡る。

 響き渡るように俺が手配した。


 北条家使僧の板部岡江雪斎が血相を変え、先陣を務める我が軍列に飛び込んでくる。


「出兵の理由をお聞かせくだされ。中立の誓いは如何された。大敵と向き合って奮闘している我らの背後を撃つなど、あまりに無体ではありませぬか」


 矢継ぎ早に文句を言ってくる板部岡江雪斎に対し、冷徹に反論する。


「中立を誓ったは関白殿下へよ。その関白殿下が関東に兵を入れよと言うてきているのだ。何も問題はあるまい」


 そもそも鎮守府将軍は朝廷が任じた役職であり、朝廷の首座である関白の命令に従うのが道理だ。

 さらに言えば、帝から節刀を賜っての東征となる。

 自分たちが的となっているのならば別だが、これに歯向かう場合の大義名分が絶対的に不足していた。


 板部岡江雪斎が悲痛な叫びを上げる。


「我が北条家が潰れれば、次は伊達家と二階堂家の番となるは火を見るよりも明らか。左京亮様ともあろうお方が、この理を無視なさるのは合点がいきませぬ!」


「大きな手柄があればお目溢しもしてくれよう。ゆえに今は絶好機というわけさ」


 飄々と(うそぶ)いてやる。

 これも戦国時代の慣いだ。

 隙を見せた北条家が悪い。


「くっ、この悪虐非道な振る舞い。いずれきっと報いを受けましょうぞ!」


 最後は呪詛の言葉を残して立ち去っていく板部岡江雪斎。


 これで完全に北条家とは手切れとなる。






 北条方の諸将の士気は一気に下がった。


 三万の軍勢で小山城に迫っただけで、小山城主の小山秀綱は北条方の軍監を斬って降ってきた。

 結城勢四千と小山城守備兵を吸収して南進を続けると、今度は古河城が戦わずして開城してくる。

 その後、古河の渡しを使って渡良瀬川を越え、上州に乱入して館林城を攻撃。

 主力が碓氷城守備に出払っていた館林城を、三日間の攻防で降伏に追い込んだ。


 関東の各戦線の戦況は、この時点で急転直下で豊臣方優勢に転がり始める。


「石田治部からの書状が届きましたぞ」


 館林城の開城を輝宗殿と検分していると、遠藤基信がやってくる。


「見せよ」


 輝宗殿が書状を受け取り、中身に目を通す。


「ふーむ。秀吉の本隊は箱根の山を越えたようだの。碓氷峠も方が付いたようだ」


 我らの古河城攻めと刻を同じく、長曾我部信親の水軍が一気に下田城を制圧し、そのまま長躯して東伊豆方面に船を進めていた。

 小田原との分断を恐れて撤退を開始した箱根三城の北条軍を追う形で、豊臣軍本隊の十万は箱根を通過し、小田原城の包囲を開始している。


 碓氷峠に布陣していた豊臣軍北国勢は、後背に敵を抱えて動揺した北条勢を撃破し、そのまま上州へと雪崩れ込んでいる。

 現在は北条方の大道寺政繁が守る松井田城を攻めつつ、周辺の諸城を攻略中とのことであった。


「我ら伊達家は鉢形城に、二階堂家は忍城に向かうべしとありましたな」


 遠藤基信の書状の内容を教えてくれる。


 鉢形城は上州勢を率いていた北条氏邦の持ち城だ。

 輝宗殿率いる奥羽鎮守府軍は、北条氏邦を追撃中の豊臣軍北国勢と合流し、武蔵の西側を南下することになろう。

 我ら二階堂勢は武蔵の東側の南下しつつ、佐竹義宣と連携して北条領東側の諸城の攻略に当たる。


「では赤岩の渡しで利根川を越えた後は、しばらくのお別れとなりましょう」


「うむ、小田原で会おうぞ」


 輝宗殿と互いの武運を祈り、各々の陣に戻る。


 輝宗殿も俺も、もう四十七だ。

 まだまだ老け込む歳ではないが、お互いに白髪が目立ち始めている。

 戦さはこれで最後にして、後は政宗や盛隆らに任せたいものである。


 箱根には良い温泉がある。

 輝宗殿と湯に浸かりながら、美味い酒を酌み交わすのも良いだろう。






<1590年 6月下旬>


 我が二階堂勢は、怒涛の勢いで破竹の進撃を続けている。

 既に武蔵の南東の江戸城攻めに取り掛かっている最中だ。

 豊臣方の諸将の中で、北条領の奥に一番食い込んでいるのは我らとなろう。


 忍城については、息子の盛行が単身ふらりと城中に赴き、城代の成田長親と話をつけてきた。

 正木丹波守、柴崎和泉守、酒巻靱負ら豪の者たち率いる四百騎の成田兵が、我が軍に加わっている。


 騎西城については、成田家に縁深い武蔵小田氏の城だった為にその伝手であっさり開城。

 その兵も吸収する。


 岩槻城については、北条一門の北条氏房の城だけあって、伊達房実を守将とする二千の兵が抵抗してきた。

 しかし、久しぶりに使う戦闘モードで敵兵の少ない方面を見抜き、前田利益に命じて猛攻を仕掛けさせ、一日でこれを攻め落としている。


 次いで川口の渡しで荒川を越えての、江戸城攻めである。

 既に我が軍の兵数は、これまで降した城から徴集した兵を合わせると二万の大台に達していた。


挿絵(By みてみん)


 昼に江戸城に到着し、湯島天神に本陣を構える。

 江戸城主の川村秀重に対して降伏勧告の使者を送りつつ、周辺の地形を見て回る。

 この時代の江戸の姿を、直にこの目で見れるのはありがたかった。


 後年の大都会の東京は、もちろんのこと見る影も無い。

 ただし、葦で一面が覆われた寒村というのは言い過ぎだ。

 江戸は水路や陸路が交差する要衝となり、今もある程度は栄えている。

 城自体は麹町台地の東端に築かれており、かの名将の太田道灌が築城しただけはあって防衛力が高いのが見て取れる。

 これは腰を据えて攻略に取り掛からねばなるまい。


 布陣を終えて本陣に戻り、翌朝の城攻めに備えて眠っていると、ふと気配を感じて目が覚める。

 夜明けが近いようだ。

 薄らと障子に影が映っている。


 起き上がって無言で障子を開ける。

 仮の寝所の外に控えていたのは、いつになく真剣な表情の前田利益であった。


「義父殿、困ったことになりましたぞ」


 岩槻城攻めで活躍した前田利益の壬生衆は、今回は後陣に配していたはず。

 主将が部隊を離れ、暁闇に紛れて本陣を訪ねてくるなど余程の事だ。

 そういえば豊臣家と北条家の手切れを伝えてきたのも、この前田利益であったな。

 嫌な予感がする。


「如何した」


「一昨日夕刻、鉢形にて大御所様が暗殺されたとのこと」


 何を言っているのか聞き取れない。

 本気で予想外過ぎて、その報告は脳に染み入ってこなかった。


「間をおかず豊臣方の強襲があり、新発田重家殿、稗貫広忠殿ら数多くの将が死傷しておる模様。深谷城に逃げ込んだ最上政道殿が、至急の援軍を請うておりまする」


 何を言っているのだ、前田利益よ。

 理解不能だ。

 聞こえん!

 聞こえんぞ!!


「義父殿よ!!!この知らせは、すでに宇都宮の政宗殿にも届いておりましょう。急がねば間に合わなくなりますぞ!!」


 戦場にて万騎を圧する前田利益の怒声を至近で浴びる。

 フリーズしていた脳が、やっと再起動を果たす。


「・・・もはや間に合わん。深入りし過ぎたわ」


 江戸から深谷までは遠い。

 そして政宗は速い。

 既に宇都宮城を全軍で発しておろう。

 行き着く先は豊臣秀吉との全面衝突しかない。


 ギリと唇を噛む。


「利益、壬生衆を連れて先に立て。川口の渡しを確保せよ。その後は岩槻城に入り、北条方の放った虚報かどうかを探るのだ」


「承知仕った」


 シュッと前田利益の姿が消える。

 次いで騒ぎに気付いて集まってきた周囲の兵たちに対し、命令を発する。


「急ぎ各陣に赴き、将たちを叩き起こせ。今から撤収のための軍議を開く」


「「ははっ」」


 散っていく兵たち。


 しばし暁闇に一人となる。






 輝宗殿が亡くなった、だと?


 有り得ない。


 しかし、もしも。

 もしもそれが真実であったならば。


 必ず仇に報いねばなるまい。


 それが豊臣秀吉と徳川家康だったとしても。

 必ず果たしてみせようぞ。


 必ずだ。




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[良い点] あわわわ びっくり
[良い点] ほほー、輝宗暗殺で、一気に局面がひっくり返った。
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