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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第一章 南が来る
6/83

1553 桜餅

<1553年 04月下旬某日>


『桜を一緒に見られればよいのだけれど』


 既に己の死期を悟っていたのだろう。

 病床に横たわったまま、そう呟いて少し哀しげに笑った母上の顔が忘れられない。

 その母の儚い願いは叶えられることは無く。

 俺は一人、母の墓前に立つ。


「母上、桜が満開ですよ。今年は狂い咲きにございまするな」


 須賀川二階堂家の菩提寺。

 その一角に用意された母の墓から、山桜で艶やかに染まった八幡山がよく見えた。

 懐から桜の葉で包んだ餅を取り出して、墓前にお供えする。


「やっと満足出来るものが用意出来ました故、持って参りました。母上が好きな桜に(ちな)んだ餅にございます」


 晩冬、産後の肥立ちが思わしくなく、母の体調が一向に回復せずに悶々とした日々を送っていた頃。

 病床でも春を楽しめるものは何か、と悩んだ末に思い付いたのが桜餅だった。

 先年の花見のときに桜の葉を集めて樽に詰めさせ、塩漬けしていたのを思い出したのである。


 だが桜餅の開発は困難を極めた。

 桜餅は江戸時代に入ってから生まれた和菓子だ。

 この時代、甘い餡子などほぼ存在しない。

 何故ならそもそも砂糖が高価過ぎて手に入らないのだ。


 砂糖。

 日ノ本全てが輸入に頼った状態で、そしてその輸入の玄関口も遠く九州である。

 陸奥の田舎では砂糖がまさしく砂金と等価であった。

 砂糖の代替品となるとすぐに思い付くのは蜂蜜だが、養蜂技術も鎌倉以来廃れて久しい。

 砂糖や蜂蜜を手に入れるために関係各所を総当たりするところから、そのプロジェクトはスタートした。


 仏教では砂糖や蜂蜜を最高の薬として重宝していた歴史がある。

 須賀川の長禄寺は曹洞宗の奥州一の大寺院故に、関東や上方との繋がりも強いはず。

 そう思い付いた俺は父から決して少なくないお小遣いをせびり、自ら赴いて糖の入手への協力を長禄寺に依頼。

 長禄寺の和尚は母の病気平癒のためと必死に頼む幼い俺の姿に折れてくれた。

 寄進に応じた量の砂糖もしくは蜂蜜の取り寄せを約してくれる。

 

 平行して餡子に適した小豆と皮の材料の入手に取り組む。

 しかし開発に着手してから暫く経ち、桜の蕾がやや膨らみ始めた頃、母上の容体が急変する。

 必死の看病の甲斐無く、そのまま母上は静かに息を引き取り、全てが虚しくなる。


 あの男が持ってきた一通の手紙が無ければ、俺は確実に桜餅どころか全てを投げ出してしまっていただろう。






〜1553年 03月上旬〜


 母という存在の消失。

 だがしかしだ。

 二階堂竜王丸に宿る“俺”にとっての実の母ではない。

 だからこの心に渦巻いて止まらない哀しみと失意は、一体何処から来るのだろうか。

 この体の、二階堂竜王丸としての肉体の奥底からか。


 それはそうだ。

 だってこの体は母上が産んでくれたものなのだから。

 だったらなぜ”俺”はここにいる?

 “俺”とは一体何者なのか。

 悲しさと混乱と自問自答が止まらない。

 気がついたら俺は、傅役の須田盛秀こと源次郎に何者も通すなと厳命して一人御堂に篭っていた。


 御堂には菩薩の像が幾体も並んでいる。

 その中の一体。

 辰年生まれの二階堂竜王丸の守り本尊、普賢菩薩の見下ろす厳しい眼光が、いつからか俺を捉えて離さなくなっていた。


 普く賢い者。

 この世に普く現れて仏の慈悲の心と賢き理智を顕す救済者。

 それが“俺”の役目だとでも言うのか。


 最愛の母一人救えず何を言う。

 この増上慢め!


「若、母君の葬儀が始まりまする」


 もうここに篭って何日になるか。

 源次郎が何かを訴えているが聞こえない。


 ギリギリと物理的な圧力さえ伴って普賢菩薩の鋭い眼光が俺に迫る。

 ちょっとでも目を逸らしたら“俺”は押し潰されて消えてしまいそうで。

 両の膝についた手にグワシッと力を入れて必死に睨み返す。


 “俺”はこんな哀しい思いはしたくない!こんな思いをするくらいなら、もうここにいたくないのだ!

 ならばなぜ抗う。

 なぜ?なぜだって?なぜ・・・。

 全て投げ出して楽になればいい。所詮はうつつの世界。

 約束したんだ、須賀川を須賀川の皆を守ると母に!

 母?母だって?実の母ではないではないか。流されてるだけだ。

 違う!!!


 堂内に反響するのは俺の心の声か、それとも御仏のものか。

 ぐるぐると心の迷路に迷い込み、全てがあやふやに成り掛ける。

 そこから俺を解放したのは、唐突な外界からの光だった。


 ガチャリ、ギギギギギィ


 御堂の扉が開き、外からの日差しが闇を払う。


「源次郎!誰も入れるなとっ!」


 うぅう!?

 眩しさの目が眩む。


「ほう、これが須賀川の麒麟児ですか。聞いていた話とだいぶ違うようで。ただの泣き虫なガキですな」


「お使者殿ッ。何を言われるか!」


 源次郎より年若な男が、源次郎の抗議を物ともせずそこに飄々と立っていた。


 その男は伊達家より母上の葬儀の弔問に遣わされた使者という。

 遠藤基信、という名であった。






 遠藤基信。

 その名乗りを受け、喉元から飛び出そうとしていた無礼者!の一言を思わず飲み込んでしまう。


 伊達家十六代の伊達輝宗の腹心として、織田信長や北条氏政との取次を務めた有能な外交官。

 そして主君である伊達輝宗と運命を共にした男。

 それが俺の知る遠藤基信である。


 元は修験者の息子で全国を旅し、伊達晴宗の宿老の中野宗時に仕えていたと聞くが?


「はっはっはっ。私のような若輩の陪臣が弔問の使者と知って、二階堂家の皆様はたいそうお怒りのご様子。針のむしろとはこの事にござるな。はっはっは」


 いや、そりゃそうだろう。

 妾腹とはいえ、伊達家当主の妹が亡くなったのだ。

 その伊達家からの弔問の使者が家臣のそのまた家臣で、それも二十歳前後の素性も分からぬ若造。

 婚姻同盟を結んでいた友好国とは思えぬ対応であった。


「我が伊達家では昨年の暮れに先の大戦さの論功行賞が行われましてな。家臣皆が領地の移動やなんだでてんやわんやなのですよ」


 天文の大乱の最中に伊達家の双方の陣営から乱発された感状や安堵状の数々を整理した、世に言う晴宗公采地下賜録。

 大乱で大きく損なわれた伊達家の統帥力を回復させるため、叔父上が打った一手である。

 

「我が主君中野宗時が晴宗様から二階堂家への弔問役を仰せつかったのですがね。なにぶん増えた所領の巡検に忙しく、止む無く若輩者の私が須賀川へ赴くよう仰せつかった次第」


「嘘を申せ。大方、中野宗時と牧野久仲の父子が無精しただけであろう」


 叔父上の晴宗としては、伊達家宿老の中野宗時が使者となれば二階堂家の面目も立つと考えたのだろうが。

 肝心の中野宗時自身が二階堂家の面目を立てる必要性を感じなかった、ということだ。


「そうか。叔父上も采地下賜録で守護不入権を認めざるを得なかったと聞くが、中野父子の力は伊達家の中でそこまで大きいか」


「おや、おやおや。先程まで葬儀をサボってベソをかいていた童とは思えぬ物言い。これは滑稽でござるなぁ」


「っ!」


「源次郎やめい」


 遠藤基信の煽るような物言いに反応した源次郎を止める。

 確かに喪主の息子としての責務を放棄していたのは自分だ。

 使者の格や相手の無礼、相手の家中の勢力図をどうのこうの論ずる場面ではなく、我ながら片腹痛い。


「名乗りもまだであった。二階堂家が当主行秀が嫡男、竜王丸である。お使者殿、遠く須賀川までわざわざ足を運んで頂き、ありがとう存ずる。また、葬儀の場で挨拶も出来ず、返す返すも申し訳ない。このとおりだ」


 源次郎の制止を無視し、遠藤基信に対して素直に頭を垂れる。

 そして改めて問いかける。


「して、この竜王丸に何用か?」

 

 葬儀の場を離れて、御堂に籠っている子供のもとをわざわざ訪れるのだ。

 目的あってのことだろう。

 脇差は差しているが、見る限り腕前はとんと無さそうだ。

 刺客、という線は無いな。


「ふむ。どうやら無事にお役目を果たせそうですな。これは重畳でござった」


「役目?主君の中野宗時殿に二階堂家の生意気な小倅の顔を見てこい、とでも命じられたか?」


 中野宗時は清酒の一件で二階堂家を良く思っていないはず。

 主君を籠絡した小童がいったいどのような類の才を持つのか。

 調べさせようと思い立つのも自然な話だ。

 

 しかし、それも違ったようだ。


「そのようなつまらぬ命など正直どうでも良いのですよ。さて、どこに入れてたかな。おお、あったあった」


 懐や袖をガサゴソして遠藤基信が一通の手紙を取り出してくる。


「私が須賀川への使者に立つことを何処から耳に入れたものか、米沢を出るときにお預かりいたしましてな。二階堂竜王丸殿へのお手紙でございます。お受け取り下され」


 戸惑いつつ差し出された手紙を受け取る。

 米沢?

 誰だ?

 封を解いて手紙を広げる。


「伊達の若君、彦太郎様よりのお手紙になりまする」


 そう遠藤基信は優しい目をして説明してくれた。






 伊達彦太郎。

 叔父の伊達晴宗の次男。

 後の伊達家十六代、伊達輝宗。

 そしてあの伊達政宗の父。

 俺と同い年の十歳の少年だ。


 拙い筆使いだが、込められた想いの熱さは伝わってくる。


 叔母上が亡くなったことを聞いて姉上共々とても驚き、とても悼んでいること。

 父から叔母上はとても素晴らしい女性であったと聞かされており、姉上にとっては憧れの人でもあったこと。

 その叔母上と会う機会が永久に失われてしまい、自分だけでなく姉上も大いに哀しんでいること。

 姉上もとても心配しており、無理な話かもしれないが、どうかあまり気を落とさないでほしいこと。

 姉上が嫁ぐ日まで自愛し、そして願わくば姉上が嫁いだ暁には、姉上を幸せにしてあげてほしいこと。

 

 フフッてなる。

 思わず笑みが溢れた。

 叔母である我が母の死を悼み、俺を気遣っているのは勿論だが、それ以上に己の姉の南姫を心配しているのが透けて見える。

 そうか、伊達輝宗は生粋のシスコンだったか。


「若・・・」


「どうした源次郎。ん?」


 やけに目頭が熱いと思ったら、何故か両の目から涙がとうとうと溢れていたようだ。

 おかしいな。

 自分でも不思議だったが、どんなに哀しくても、母の死を看取った瞬間でさえ、涙だけは出なかったのに。

 この手紙から伝わってくる家族の絆の暖かみがそうさせたのだろうか。


 間接的にではあるが、まだ俺の幸せを願ってくれている人がいる。

 純粋にただ守ってあげたいと思えた無垢な願いがこの世界にまだあった。

 それに気付けたことで、母上という糸が切れて何処かに飛んでいってしまいそうだった“俺”という凧が、新たな糸に結えられたように思えた。


 ふと俺を見下ろす普賢菩薩像を見上げる。

 先ほどまでとは違い、佇む普賢菩薩像の眼光は穏やかだ。


 俺は何を勘違いしていたのだろうか。

 普賢菩薩に問うべきは俺の転生の意味ではない。

 普賢菩薩は平安時代から女人救済の御仏として崇められている菩薩ではないか。

 俺は普賢菩薩に対し、母上が成仏する為に何を成さなけれならないかを問うべきであったのだ。

 そしてその答えはもう既に得ている。


「良き手紙を頂いた。実にありがたい。お礼の返信がしたい。遠藤殿、暫し待って頂けるか?」


「はっ。喜んで承りまする」


 源次郎と遠藤基信を従えて御堂を出る。

 まだ日は高く、外は明るい。


 彦太郎殿と南姫への文を書いたら、急いで葬儀を行なっている菩提寺の長禄寺に向かおう。

 そして母の位牌に手を合わせ、もう一度誓おうか。

 あの時交わした約束は必ず守ると。






〜1553年 04月下旬某日前々日〜


 葬儀と葬儀後のバタバタがひと段落着いた後、俺は再び桜餅と向き合うことになる。


 桜餅を食べてもらいたかった、喜んでほしかった母上はもういない。

 だが、父に頼んで拠出して貰った長禄寺への寄進の額は莫大だ。

 上方から取り寄せた砂糖と蜂蜜と、長禄寺に使わせた労力を無駄にするわけにもいかなかった。


 桜を愛でたいと願った母の供養の為。

 そう自分に言い聞かせて気力を振り絞り、長禄寺の庫裏を間借りして桜餅の開発に向き合うこと一ヶ月。

 長禄寺の庫裏を担当する僧たちの全面協力の下、必要な食材をやっと全て揃えることが出来た。

 

 まずはビジュアル的に絶対必要な桜の葉。

 この時代の奥羽での一般的な桜は大山桜である。

 葉脈も硬く食用には適さない事もあって、一年塩漬けにした桜の葉は香り付け用に割り切って使用する。


 次にメインとなる中身の餡。

 岩瀬産の小豆を集め、長禄寺の伝手で入手した砂糖と蜂蜜を有効活用するために出来るだけ少なめに投入。

 試行錯誤を繰り返し、こし餡派とつぶ餡派の両方に対応する。

 

 そして食べ応えを大きく左右する皮。

 これまた長禄寺の協力で餅米っぽい米が手に入ったので関西風を採用。

 細かく砕いて似非道明寺粉を用意した。


 最後に皮を色付ける為の紅。

 大山桜の花と余った砂糖と蜂蜜を流用して桜シロップを作成し、着色料として使用する。

 なんとしても今年中に作り上げたかったため、人手を出して一分咲きの花弁を刈り集め、超突貫で漬け込みを実施。


 こうして桜が五分咲きになったつい先日、用意した全ての食材を組み上げて、ようやく試作品が完成する。

 桜餅は大きく関東の長命寺餅と関西の道明寺餅に分類されるが、試作品はどちらかと言うと関西風だった。


 早速、母の四十九日法要と納骨の儀の後に試食会を開催する運びとなる。






「母を偲んで味おうて下され」


 父をはじめとする二階堂家の面々と、世話になった長禄寺の高僧たちに試作品の桜餅を振る舞う。

 用意出来た桜シロップと餡の量に限りがあるため、小ぶりなサイズ感で甘さも控えめである。

 それでも皆を唸らせることに成功する。

 食べたことの無いであろう上品な甘さに、皆が恍惚の表情を浮かべていた。

 

 自然と笑顔となり、桜餅の美味さを語り合う一同。

 母が亡くなってから家中に重苦しく張り詰めていた雰囲気が、ふわりと解けたのが分かる。

 さすが甘味の力は偉大であった。


「思えば御方様もこの桜餅のような方でしたな、美しく、そして優しく包み込むような」


 須田の爺がしみじみと呟く。


「桜の花の色の振袖がよう似合われた」


「そうじゃそうじゃ」


「殿の婚儀の時、神々しすぎてわしゃ目が潰れるかと思いましたわ」


 爺に釣られれるように、重臣たちが口々に母上の思い出話に華を咲かせる。


 それを父上が「まったくじゃ、まったくじゃ」と涙を浮かべながら笑みを浮かべて同意する。


 一番辛かったのは当然父上だろう。

 母を亡くした失意を抱いたまま、それでも父は領主としての激務に立ち向かい頑張っていた。

 泣く暇も無かったはずで、その疲れ切った脳にはこの桜餅の糖分が何よりの薬になると思えた。


 心なしか父上の顔色も上気してきたかもしれない。

 それだけでも苦労してこの桜餅を作った甲斐があったというもの。


 なお、こし餡かつぶ餡か。

 二階堂家中での評価は、六対四でつぶ餡派の優勢であった。

 そういえば仙台で食べたづんだ餅もつぶが立っていたし、陸奥のお国柄なのだろうか。






 さて、こちらにも挨拶が必要だろう。

 長禄寺の和尚の方に向かう。


「この度はご協力ありがとうございました」


 伝手を使っての砂糖と蜂蜜の入手と、庫裏での試行錯誤への協力に対しての礼を述べる。


「うむ、とても美味な餅じゃった。見事成し遂げたのぉ」


「これも全て長禄寺の皆様のお力有ってのこと。この桜餅であれば、天に昇った母上もきっとお悦びくださるはず」


 皆のレビューを反映して微調整した後、明後日くらいにはお供え出来るだろう。


 ただ、領民が必死に金鉱を掘り返して得た金銀を大量に浪費して、せっかく作り上げた桜餅。

 お供えだけに使うのは流石にもったいない。

 有効活用し、領民に還元するための種を撒いていこう。


「ときに和尚。この桜餅、作り方をお売りします故、長禄寺の名物に致しませぬか」


「なんとな?」


 出来れば自らの手で城下で売りに出し、新しき須賀川の名物にしたい。

 しかしながら何如せん材料の砂糖が高価過ぎ、今のままでは一般庶民には絶対に手が出せない超超超高級品の和菓子だ。

 富豪が一定数いる上方ならいざ知らず、陸奥では原価で出してもこの値段では需要も見込めない。

 だが、今回の試作により、桜シロップと餡の製造には、砂糖ではなくとも蜂蜜なら十分に代用可能なことがわかった。

 養蜂技術を確立して蜂蜜の安定供給さえ確保できれば、この桜餅で多大な利益を確保できよう。


「鎌倉以前、東国諸国は朝廷に租税として蜂蜜や蜂房を納めていたと伝え聞きまする。越後でも蜂蜜が大いに取れたとか」


 長禄寺は須賀川二階堂家の祖である二階堂為氏が寺領として一千石用意して招致した大名刹である。

 天皇の勅願寺として栄え、陸奥だけでなく越後や下野も合わせて百三十以上の膨大な数の末寺を構えている。

 長尾景虎の領域である越後にはこちらからは探索の手は出せないが、仏門であれば別。

 岩瀬郡にしか影響力のない二階堂家よりも、長禄寺の方が越後から養蜂技術を手に入れれる可能性は大きい。

 であれば、任せてしまった方が得策であった。


「この餅は確かに美味い。正しく天上の食べ物とはこの様なものであろう。御仏の教えを広める為にも是非作り方を習いたいものじゃ。しかしじゃ。まだ越後に養蜂の技術が今も残っておるか分からぬ。そして残っていても門外不出にしておるかも知れぬ。とてもではないが銭は払えぬよ」


「問題ございませぬ。お代は餅が一つ売れる都度、その餅の価格の五厘を頂く計算で結構。それよりもお願いしたき事は、末寺の和尚が見聞きした諸国の武家の噂話でござる。今も定期的に各寺の状況を総本山のこの長禄寺に報告されておられると推測致しまするが、その文の末尾に加筆頂き、それを集めて我が二階堂家に都度提供頂きたい」


 餡の砂糖や蜂蜜の配分や、桜シロップや桜の葉の熟成期間の情報は秘していたが、庫裏で調理を担当している僧たちは工程を間近で見ている。

 材料さえ用意出来れば、独力で真似た餅を作り上げるのも容易だろう。

 ならば先手を打って恩着せがましく高く売れるうちに売っ払ってしまえ。


「ううむ。どう思う。皆の衆」


 レシピの購入にかかる初期費用ゼロ。

 お代は売れたらその代金の中から都度払えばよく、一見して長禄寺側に何も損は発生しない取引に見える。

 彼らから見れば、諸国の噂話の集積とその提供についても、毎月の報告書を書き写す坊主たちの手間がほんの少し増えるだけ、であった。

 高僧たちから特に問題視する声も上がらなかった。


 さすればと、ロイヤリティの発生時期等の細かい調整は後に回し、まずは契約を結ぶ為の交渉に入ることを大枠で合意する。


「では、今後とも宜しくお願い致しまする」


 神妙な面持ちで和尚や高僧たちに向かって頭を垂れる。

 まだ妥結したわけではなく何も決まっていないが、この交渉が上手くいけば、懸念事項であった二階堂家の隣国の情報収集能力の大幅な向上が期待できる。

 にやけそうになる口元を引き締め、後日の交渉に万難を排して臨むことを決意。

 その前にまずは母上へのお供えだな。






 なお、この交渉妥結後から幾年か経て、思惑通り長禄寺は越後から養蜂技術の導入に成功。

 契約に従って二階堂家は長禄寺の末寺百三十余を情報収集の拠点として有効活用出来るようになる。

 だが果たしてこの契約の真の勝者はどちらであったのか。


 長禄寺の売りに出した桜餅は、すぐに長禄寺餅と呼ばれるようになり、岩瀬の人々の親しまれるようになった。

 そして奥羽の内に限らず長禄寺餅は爆発的な評判を呼ぶようになり、春になると諸国から大いに人を呼び寄せるまでに至る。

 そこで禅寺としての機能を前面に押し出した長禄寺は、座禅からの喫茶、そして桜餅の黄金リレーを訪れた人々に提供。

 春の長禄寺座禅ツアーは、後世お伊勢参りや金比羅詣でに比する人気を確立し、歴史にその名を刻んだのであった。

 





<1553年 08月某日>


 夏真っ盛り。


 蝉の鳴き声と共に、遠く信濃の方から聞こえてくる戦況が姦しい。

 甲斐の武田晴信が北信濃の葛尾城主の村上義清を攻め、その村上義清を越後の長尾景虎が支援する。

 北信濃の地を巡って、武田晴信と長尾景虎の英傑二人が相手の廻しを激しく取り合っている。


 治水が難を極め、治めるに難しい甲斐を抱える武田家が生き残るためには信濃を攻め取るしかなく。

 北信濃を攻め取られると本拠地の春日山に匕首を押し付けられることになる長尾家は北信濃を守る他ない。

 避けるに避けれない直接対決。

 遠く奥州に居ても、川中島の戦いの気配が段々と近づいているのを感じる。


 そして、この奥州でも一つの大きな動きがあった。

 先年の采地下賜録によって家中の統制力を回復させた伊達晴宗がいよいよ外征に打って出る。

 天文二十二年七月十八日。

 大兵を率いて陸奥懸田城に押し掛け、反抗を続けていた懸田俊宗・義宗父子を攻め滅ぼす。


 一つにまとまった伊達家の大軍勢を前にして、懸田家が単独で敵うには無謀に過ぎた。

 頼みの相馬家は若輩の相馬盛胤に代替わりしてから家中の統制力強化に忙しく、出兵を見送らざるを得なかった。

 そして三春の田村隆顕は敵対する会津の蘆名盛氏の動向が気に掛かり、北方に兵を回す余裕など無かった。

 孤立無援の中、懸田城内で家臣たちの裏切りが発生し、城は呆気なく伊達家に蹂躙されてしまったと言う。


 懸田氏は南朝の頃から伊達家に付き従っていた伊達家譜代の武家である。

 懸田俊宗は我が父同様に伊達稙宗の娘を正室に迎え、その子である懸田義宗は我が従兄弟であった。

 天文の大乱の折には、桑折西山城に幽閉されていた伊達稙宗を懸田城に匿い、稙宗派の急先鋒として活躍。

 足利義藤による停戦命令後もただ一家だけ抗い続け、叔父の晴宗からしてみればまさしく大乱の元凶に見えていたことだろう。

 叔父自らの手で、妹の夫と妹の息子を斬り殺したとのことで、その積もりに積もった恨みは如何ばかりであったか。


 そしてその苛烈な処断は、同じ立場にある相馬、田村、更には我が二階堂への見せしめの意味合いも多分にあっただろう。

 我が伊達家に刃向かうとこうなるぞ。

 血縁など斟酌に及ばぬという強い意思表示。

 怖すぎて身震いする。


 何はともあれ、叔父の伊達晴宗は懸案だった懸田氏の反抗を見事潰すことに成功し、本当の意味で天文の大乱にケリをつけた。

 祖父伊達稙宗が陸奥守護に任ぜられた頃のかつての勢力を取り戻すために、暫くは伊達家の興隆著しい時期が続くであろう。

 我が二階堂家も伊達家にぴったりと貼り付いて歩調を合わせ、勢力を拡大していこうではないか。

 桜餅に貼り付く桜の葉の塩漬けのように。






<年表>

1553年 二階堂竜王丸 9歳


01月

■米沢の伊達晴宗(32歳)、晴宗公采地下賜録を作成。天文の大乱の論功行賞を整理し、家中の統制力を回復。


02月

☆尾張で織田信長(19歳)の傅役の平手政秀(61歳)が諌死。

▷周防の陶晴賢(33歳)、大内家武断派内の政敵で豊前守護代の杉重矩(55歳)を謀殺。

▷周防の大内晴英(21歳)、将軍足利義藤(17歳)より偏諱を受け、大内義長に改名。


03月

★洛中の足利義藤(17歳)、再び三好長慶(31歳)と対立して東山霊山城に籠る。

◆越後で先の三条長尾家当主の長尾晴景(44歳)が病死。

◎須賀川の二階堂行秀(46歳)の正室の薫御前(31歳)、産後の肥立ちが悪く死去。


04月

▷出雲の尼子晴久(39歳)、美作に侵攻。美作勝山の戦いで浦上宗景(27歳)率いる浦上勢を撃破。


05月

■米沢で伊達晴宗の正室の笑窪御前(32歳)懐妊。

☆美濃国境で正徳寺の会見。織田信長(19歳)、岳父の斎藤道三(59歳)に衝撃を与える。

◆北信の村上義清(52歳)、甲斐の武田晴信(32歳)の圧迫に耐えかねて葛尾城を脱出。越後に亡命。


06月

◆北信の村上義清(52歳)、越後の長尾景虎(23歳)の支援を受けて葛尾城奪還。武田軍撤退。


07月

▶︎︎阿波の三好義賢(26歳)、守護の細川持隆(37歳)を暗殺。

★大和の筒井藤勝(5歳)が成人。叔父の筒井順政が補佐。筒井順昭の影武者、放逐され元の木阿弥に戻る。


08月

■米沢の伊達晴宗(32歳)、伊達郡懸田城主の懸田俊宗(39歳)父子を滅ぼす。

▽肥前の龍造寺隆信(24歳)、少弐氏配下の小田政光(44歳)を下して佐賀城を奪還。

◆甲斐の武田晴信(32歳)、再度北信濃を攻める。村上義清(52歳)、城を捨てて再び越後の長尾景虎(23歳)を頼る。

▽薩摩出水の島津実久(41歳)死去。薩州家を継いだ島津陽久(17歳)、島津貴久(39歳)に従属。


09月

◆越後の長尾景虎(23歳)、川中島に出兵。第一次川中島の戦い開始。

★摂津の三好長慶(31歳)、東山霊山城の戦いで幕府方を破る。足利義藤(17歳)、朽木谷に再び逃亡。


10月

★摂津の三好長慶(31歳)、家宰の松永久秀(45歳)を摂津滝山城主に任じる。

◆川中島の武田晴信(32歳)、長尾景虎(23歳)との決戦を回避。甲越両軍共に兵を退く。第一次川中島の戦い終結。

★越後の長尾景虎(23歳)、朽木谷で足利義藤(17歳)に拝謁して上洛。参内して後奈良天皇から御剣と天盃を下賜される。

★丹波守護代の内藤国貞(59歳)、晴元派の丹波八上城を攻めるも敗死。松永長頼(37歳)が国貞の娘を娶り、内藤家を差配。


11月

★北近江の浅井久政(27歳)、地頭山合戦で六角義賢(32歳)に敗北し、再び臣従。

▷安芸の毛利元就(56歳)、尼子晴久(39歳)の備後攻めの防衛に成功。

▷石見の三本松城主の吉見正頼(40歳)、陶晴賢(33歳)に叛旗を翻す。


12月

■米沢で伊達晴宗の五男彦九郎(後の伊達盛重)誕生。

★畿内の長尾景虎(23歳)、堺を遊覧し、高野山を詣で、京で座禅してから越後に帰国。


-------------

▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[奥羽 1553年末]>

- 伊達晴宗・岩城重隆

- 田村隆顕・相馬盛胤・畠山義国


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 5万1千石

・奥州 岩瀬郡 5万1千石

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