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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第九章 小田原カウントダウン
56/83

1587-2 甲斐

<1587年 7月>


 伊達実元殿の四十九日法要を終えた後に輝宗殿と面談。

 政宗への家督移譲をそれとなく勧めてみた。


「儂もそろそろかと思うておった。しかし、少し思うところがある」


 輝宗殿が一通の書状を見せてくる。


「今朝方に遠く九州より届いた。豊臣秀吉からの書状よ」


 失礼して書状を手に取り、拝読する。


「どれどれ。『近頃節刀を得て軍を西南に向けたところ、如何程の抵抗も無く島津義久は降伏した。次は朝鮮と琉球に向けて服属を求める使いを送ったところである』ですか。なんとも露骨な威嚇ですな」


 大阪の吉次からも報告を受けていたが、日向に攻め入った豊臣秀長率いる総勢八万の支隊が、根白坂の戦いで島津本軍を撃破。

 その間に豊臣秀吉本人の率いる本隊十五万が筑前の秋月種実を一夜城で攻め下し、筑後から肥後を経由して一気に薩摩大隈まで侵攻した。

 書状で謳っているとおり、あっという間に島津義久を全面降伏に追い込み、九州征伐を完了させている。


 その書状であるが、『現在建造中の聚楽第が落成した暁には、いずれ帝の行幸を予定しているので、その折には是非もなく参列すべし』と結ばれている。

 要するに、京まで頭を下げに来いというわけだ。

 これまで豊臣政権と我ら鎮守府は、互いに尊重し合う関係にあった。

 しかし、西国を平定して気が大きくなった豊臣秀吉は、明らかにマウントを取りに来ている。


「いま儂が隠居となれば、成り上がりの豊臣秀吉に頭を下げるのが嫌で、拗ねたゆえと捉えられよう。もしくは、上洛を怖がって当主の座を投げ出したと見られるかだ」


 ここで下手に豊臣秀吉の不興を買うのは、鎮守府にとって宜しからず。

 それ以上に、新当主の政宗が軽んじられてしまうような形での家督相続など以ての外。

 それが輝宗殿の答えである。


 至極真っ当な考えだ。


「わかりました。確かに政宗殿に家督を譲られるのは、御身が豊臣秀吉と会った後とすべきでしょう」


「うむ。すまぬが上洛には盛隆殿にも付き合ってもらうぞ。伊達と二階堂の当主が揃って頭を下げれば、豊臣秀吉も格好が付こう」


 仮に上洛した二人の身に何かが起こっても、輝宗殿には政宗が、盛隆には麒麟丸がいる。

 両家ともに立ち行かなくなることは無い。


 そしてこの俺は、政宗と麒麟丸の後見役として、お留守番というわけだ。


 まぁ自分の今の立ち位置は、自分でも理解している。

 それでも、俺より先に上洛の機会を得そうな息子の盛隆のことが、少しだけ羨ましかった。






<1587年 8月>


 嫁の甄の方の第三子懐妊の知らせを受け、須賀川に赴く。

 孫たちの顔を見るのも久方ぶりだ。


 子供の成長は早い

 孫の麒麟丸は九歳となり、孫娘の星子ももう六歳となる。

 二人にお土産の金平糖を渡していると、受け取った金平糖を頬張りもせず、正座したまま麒麟丸が問いを発してきた。

 

「お祖父様。お聞きしとうございます」


「何かな。麒麟丸」


「豊臣秀吉は九州を得たと聞きました。天下はこれで定まったと見るべきでしょうか」


 こちらを見つめる麒麟丸の目は、幼いながらも真剣だ。

 何年先になるかわからぬが、麒麟丸はいずれ二階堂家を継ぐ身である。

 まともに答えねばなるまい。


「さて。豊臣秀吉が九州を上手く治められるかは、まだ分からない。九州南部の地侍たちの気性は特に激しいと伝え聞くぞ。もう一波乱あろうな」


 島津を降した豊臣秀吉は、対馬の宗義智への朝鮮国王入朝斡旋命令、バテレン追放令、九州国分けと、数々の施政を矢継ぎ早に終わらせ、既に大阪への凱旋の途上にあった。

 ほぼほぼ史実と同じ動きを見せていた豊臣秀吉だが、唯一違いが有ったのは九州国分けでの肥後国の取り扱いだ。


 佐々成政は第二次手取川の戦いで討ち死にしている。

 彼の代わりに誰が肥後を任されるのか気になっていたのだが、吉次からの知らせによると、長宗我部信親が拝領したという。

 軍監の仙石久秀の暴走に付き合わず、指示通りに府内城を死守してみせた長宗我部信親を、豊臣秀吉は高く評価したようだ。

 尚、府内城の戦いで戦傷を負った島津四兄弟の末弟の家久は、その傷が癒えずに島津家降伏後に急死してしまっている。


 史実の豊臣秀吉は、戸次川の戦いで息子の信親を亡くした長宗我部元親に大隈を任せようとするも、固辞されている。

 しかしこの世界線では、生きながらえた長宗我部信親が進んで肥後半国の加増と残り半国の代官職を拝命しており、信親に対する秀吉の覚えは大変目出度いようである。


 だが、肥後は肥後もっこすどもの巣窟だ。

 強引な検地に及んだ史実の佐々成政は、一揆勢に逆に熊本城を包囲されるなど、手痛いしっぺ返しを喰らっている。

 果たして若き長宗我部信親に、火の国と称される肥後を治めきるだけの能力があるのか。

 見ものである。


「もし、その波乱がなければ、豊臣秀吉は東国に攻め入って参りましょうか?」


 不安げな表情の麒麟丸。

 ほんとにこの子は聡いな。


「安心せい。そうならないように、この爺が動いている」


 東海五カ国を治める徳川家康は、強大化した豊臣政権の圧迫に耐えかねて、間違いなく臣従の道を選ぶはず。

 そこまでは良い。

 豊臣秀吉の奥州征伐が発動しない為の鍵は、残る北条に有りだ。

 小田原征伐を阻止出来れば、必然的に奥州征伐も起こり得ない。


 伊達家と北条家と徳川家が足並みを揃え、それぞれ武力を温存したまま豊臣政権に参画すれば、豊臣秀吉も東国に対して無体な真似は出来なくなるだろう。

 北条家が豊臣家にすんなり頭を下げられるように、まずは下地作り、雰囲気作りが肝要である。


 その為の北条家と佐竹家の和睦交渉は、俺の主導で着々と重ねられていた。






<1587年 10月>


 急ピッチで完成に漕ぎ着けた那須疏水の本幹部位を現地視察する。

 指揮を取った河東田清重と那須三人衆を労い、頑張ってくれた工夫たちに対しても褒美を弾む。

 高玉金山で採取した金を大盤振る舞いだ。


 次いで宇都宮城に入り、総検地の進捗状況と下野各郡の検地結果に目を通す。

 数日の間、書斎にこもって数字と格闘していると、仙台の輝宗殿から一枚の図面が届いた。

 それは鎮守府が津軽為信に命じて作らせた、蝦夷地の函館の新城の縄張り案の写しであった。

 図面を見て思わず独り言ちてしまう。


「こう来たか。これは確実に沼田祐光の趣味であろうな」


 沼田祐光は津軽為信に仕える軍師だ。

 そして生粋の陰陽師でもある。

 函館新城の縄張りは、見事なまでに陰陽道の基本印である五芒星の形をしていた。


 まんま五稜郭だ。

 運命の悪戯であろうか。

 いや、これも世界線の収束の一部なのか?


 埒もなく悩んでいると、障子の向こうから奥村永福が声を掛けてくる。


「殿、よろしいでしょうか?」


 奥村永福のその声は若干沈んでいた。


「何かあったか?」


「はっ、前田利益が帰参いたしました」


 約束の三年まであと数ヶ月ある。

 奥村永福の声音から察するに、前倒しの帰参には何か理由が有りそうだ。






 久方ぶりに相対する前田利益はやはりデカかった。

 人懐っこい表情も相変わらずである。


「義父殿。金沢にいる理由が無くなりました故、戻って参りました」


 前田利益の養父であった前田利久が、先月金沢で亡くなっていた。

 奥村永福にとってもかつての主君であり、沈んだ声音はその死を悼んでゆえだったようである。


 佐々成政を討ち取った前田利益は、先の第二次手取川の戦いの第一の勲功者だ。

 前田利家も如何に煙たがろうと、前田利益を無碍にすることは出来ない。

 前田利久の遺領である能登七千石を、前田利益に継がせようとしたらしい。

 しかし、前田利益はそれを断って出奔して来たとのこと。


「そなたのことだ。前田利家殿にも水風呂を馳走したのであろう」


「いや。あっはっはっ」


 笑って誤魔化してくる。


 今は夏場だけに前田利家はマシだろう。

 俺の場合は霜が下り始めた晩秋だったのだからな!


 まあ良い。


「大関親憲に預けている壬生城をそなたの手に戻す。早急に受け取りに行け。いやその前に阿蛍じゃな。息子や娘の顔を早く見てやるのだ」


 出立間際に阿蛍に仕込んだ胤で、前田利益不在の間に産まれた娘は既に三歳だ。

 特に五歳となる長男の虎太郎は、物心が付いてから初めて父親の前田利益と顔を合わすことになる。

 ここから子供らと家族の絆を育んでいくのは、中々に難しそうなミッションのように思える。

 まぁ我が養女の阿蛍は出来た嫁なので、なんとかなるだろう。


「要らぬ助言であろうが、阿蛍を労るのだぞ。あれほどの器量の女子はそうはおらぬ」


「承知仕った」


 一転して引き締まった顔で頷いてくる前田利益。


 結果的にほんとに要らない助言であった。


 前田利益。

 まさに猛獣のような男よ。

 

 一ヶ月後、阿蛍から第三子懐妊の知らせを受けることになる。







<1587年 12月>


 時代は着実に動いている。


 豊臣秀吉から肥後一国を拝領した長宗我部信親は、新領土を見事に治めきっていた。


 どんな手妻を使ったのだろうか。

 史実で燃え盛った燎原の火の如き肥後国人一揆は、影も形も無い。

 小規模な反乱が数件発生しただけである。

 それらの小火騒ぎについても、土佐阿波から派遣されていた一領具足によって瞬く間に鎮圧されていた。


 九州全域で見ると、豊前の城井鎮房などの一部の国人が未だ反抗していたが、それも局所的な話となる。

 豊臣秀吉が西海道を完全に掌握した事を悟った徳川家康は、ついに臣従を決断する。

 史実に遅れること一年。

 聚楽第の落成を祝う名分で大阪に赴き、豊臣秀吉に対して深々と頭を下げた。


 小牧長久手の戦さが半年長引いた結果、豊臣秀吉は徳川家康を無理に臣従させようとはせず、九州平定を優先していた。

 その為、豊臣秀吉の妹である朝日姫の三河輿入れや、母親の大政所を人質とするくだりは未発生である。

 つまり朝日姫の夫の佐治日向の切腹は回避されているわけで、その点については一介の歴史マニアの視点からすると大変良かったと思う。


 この徳川家の豊臣政権への臣従は、東国では規定路線として受け止められている。

 来るものが来たかという感であった。


 ただ各勢力の対応は割れた。

 豊臣政権への臣従を既に表明済みの佐竹家は歓迎。

 豊臣政権と講和中の伊達家は静観し、二階堂家もそれに倣う。

 旗幟を明らかにしていない北条家は沈黙である。


 この東国の主要な四家の中で、徳川家と関係が一番深いのは北条家だ。

 現当主の北条氏直は、徳川家康の次女である督姫を正室に迎えている。

 その為、北条家の内部では当初、徳川家康の上洛を歓迎し、豊臣政権との融和に向けての橋渡し役を期待する声も上がったと聞く。

 しかし、後北条氏累代の宿願の関八州制覇を内心未だ諦めていない北条氏政の意向によって、それらの声は封殺される。


 家中の好戦派の統制の為に強気な態度を崩さない北条氏政は、あえて徹底的に豊臣秀吉を無視する。

 ただ和平派に対する配慮も忘れてはいなかった。


 西の豊臣政権に対し、和戦のいずれかの道を選ぶとしても、東の佐竹家と和睦しておくのに如くはない。 

 まして、北に位置する二階堂家とその背後にいる強大な伊達家の歓心を買えるなら、尚更である。


 かくして、我が二階堂家が仲介役を務める北条家と佐竹家の和睦交渉に、ようやく大きな進展が見られることになる。






 天正十五年十一月某日。

 古河の甘棠院に各家の代表が集まり、関東公方の足利国朝の立ち合いの下で和睦の調印が行われる。


 北条家からは北条氏照と板部岡江雪斎、佐竹家からは佐竹義久と岡本顕逸が出席する。

 そして我が二階堂家からは、この俺本人と護衛役の大関親憲が仲介役として臨席していた。


 これまで複数回の和睦交渉の中で取り決められた、幾つかの条約を読み上げる。


 ・北条家の目付け役の常駐を条件に、佐竹家に亡命中の小山秀綱へ下野の小山城を返却する。

 ・佐竹家に亡命中の千葉良胤を二階堂家預かりとする。

 ・佐竹家の目付け役の常駐を条件に、北条家に亡命中の小田氏治へ常陸の小田城を返却する。

 ・小田家家老の菅谷政貞・範政父子を二階堂家預かりとする。


 ほぼほぼイーブンな内容である。


 小山秀綱は、下野南部の小山を支配していた関東八屋形の一家である小山家の現当主だ。

 北条家の攻勢を受けて十一年前に小山城を追われており、佐竹義重を頼っていた。

 北条家へ臣従を誓う形にはなるが、ついに小山城への帰還を果たすことになる。


 千葉良胤は、千葉家先代当主の千葉邦胤の双子の兄で、反北条を標榜しての武装蜂起に失敗して常陸に逃げ込んでいた。

 佐竹義重は千葉良胤を下総に戻したがるも、北条氏政は強硬に拒否。

 千葉家は北条氏政の五男の直重が継いだばかりであり、今帰還されるとその支配体制が揺るぎかねず、当然であろう。

 宙に浮いた形となった千葉良胤の身柄だが、本人の希望もあって二階堂家で引き取る形となる。


 小田氏治は、常陸西部の筑波を支配していた関東八屋形の一家である小田家の現当主だ。

 とにかく戦さに弱く、上杉謙信や佐竹義重によって幾度も幾度も本拠の小田城を失っている。

 佐竹家へ臣従を誓う形にはなるが、まさに不死鳥の如く再び小田城への帰還を果たすことになる。

 

 菅谷政貞と菅谷範政の父子は、かつて土浦城主を勤めており、主君の小田氏治を盛り立て、幾度も小田城へのカムバックを果たさせている。

 不撓不屈の小田家臣団の中核とも言える親子であり、佐竹家は小田氏治本人の小田城帰還は許すも、彼らの同行は認めなかった。

 彼らが北条家に留まることも佐竹義重が嫌った為、結果として両名とも我が二階堂家で引き取る形となる。

 優秀な小田家の武将を取り込めるのは、我が二階堂家にとっては思わぬ役得である。


 これらの取り決めと合わせて、係争地となっていた常陸南部の牛久城に関する両家の境界線も決定した。


 牛久と言えば大仏だ。

 和平の記念として牛久の地に大仏を作ってはどうかと提案してみたのだが、困惑を招いただけであった。

 まぁいきなり「大仏の高さは四百尺」などと言い出したら、奇人の類いと思われて避けられてしまうのも当然か。

 





 尚、条約締結の前提条件として、北条家から二階堂家への申し入れが二件あった。


 まず一点目は、四年前に交わした約定「二階堂家が常陸に代替地を得た後、益子領を益子勝宗に返却する」の履行に関する督促である。

 一昨年の東館城攻めの折に、我が二階堂家は佐竹家から依上保を奪い取っている。

 代替地を得たのだから約定を果たせ、との要求だ。


 嫡男安宗への家督相続と、益子安宗が二階堂家に臣従を誓うことを条件にその要求を受け入れる。

 と言っても返却するのは、益子領約三万石のうち、かつて益子本家の治めていた領地のみだ。

 ざっと一万石程度に限定する形となるが、北条家は何も文句は言って来なかった。


 益子領は現在のところ河東田清重に領主を代行させている。

 那須疏水を完成させた河東田清重に対しては、ちょうど褒美を検討していたところだ。

 良い機会なので、河東田清重を白河那須三万石で正式に封じ、二階堂家の直参扱いにしておいた。


 次いで二点目は、かねてから打診のあった、我が次男の盛行の嫁取りの件である。

 板部岡江雪斎が嫁候補を紹介してくる。


「忍城主の成田氏長の長女、甲斐姫を大殿の養女とし、左京亮様の御次男の盛行殿に嫁がせまする」


 成田家は藤原北家の流れで、古くから武蔵に蟠踞する一族である。

 祖先は源氏の頭領である源義家に対して馬上での挨拶を許されていたほどで、坂東武者の中でも名門中の名門だ。

 山内上杉家から北条家に鞍替えして早四十年。

 先代の成田長泰の頃に上杉謙信に臣従することもあったが、関東管領就任式で下馬しなかった為に打擲され、その恨みでまた北条方に転んでいる。

 今では北条家の武蔵支配の要の家と言っても良いほどで、北条家創業以来の御由緒六家と同等の扱いを受けていた。


 確かに北条家の重臣の姫であり、家の格的にも申し分無い。

 無いのだが。


「如何なされた?成田家では不服と申されるのか」


「いや、そんなことはない、と思うぞ」


「甲斐姫は今年で十六歳。たいそうな美貌と評判でしてな。年の頃も容姿の秀麗さも盛行殿とはよう釣り合うておる。さぞお似合いの夫婦になりましょうぞ」


「う、うむ。あいわかった」


 なんと豊臣秀吉の側室に収まるはずの姫が、我が家に嫁に来ようとしていた。

 驚くべき展開ではあるものの、ここは受け入れざるを得ない。

 動揺を隠し、泰然自若を装って承諾する。






 これにて二階堂家、北条家、佐竹家の三家を跨いでの合意が成立し、和睦は成った。

 豊臣秀吉が関東奥羽惣無事令を発動する前の落着である。


 鎮守府の面目もこれで保たれたであろう。

 後は定められた約束事を粛々と実行していくのみだ。

 甲斐姫の輿入れは来年の春と決まる。


 甲斐姫と言えば、史実の忍城の戦いでの活躍が有名だ。

 豊臣秀吉の小田原征伐の折、小田原城に籠った父の成田氏長に代わり、十九歳の若さで忍城を守り抜いている。

 東国に比類無い美貌とも伝わり、花も実もある女武者であった。

 並べた字面だけ見れば、我が妻の南御前とキャラクターが若干被っている。

 その活躍の伝承だけ見れば、上位互換と言っても良い。


 盛行との相性はもちろん大事だ。

 だが姑の南御前と合うか合わないかの方がより心配だ。

 ひとたび嫁姑戦争でも勃発しようものなら、撃剣の音を覚悟せねばならぬのではないか。

 悪寒がする。


 果たして我が息子の盛行には、まだ見ぬ甲斐姫を御するだけの度量があるのかどうなのか。

 踊りを得意とするだけに、母と妻の間でキリキリ舞する盛行の未来の姿が、何故か目に浮かんできた。


 盛行、すまぬな。

 頑張ってくれ。






<年表>

1587年 二階堂盛義 43歳


01月

☆遠江の徳川家康(43歳)、本丸御殿が完成した駿府城に居城を移す。

▽豊後で戸次川の戦い。島津家久(40歳)、渡河中の十河存保(33歳)らを撃滅。長宗我部信親(22歳)、渡河せず府内城に撤退。

▽豊後で府内城の戦い。長宗我部信親(22歳)、府内城に籠って島津家久(40歳)と激闘。本山親辰(42歳)討死。家久負傷。

▽豊後で臼杵城の戦い。島津義弘(52)、大友宗麟(57歳)の仏狼機砲と志賀親次(21歳)のゲリラ戦に苦戦。


02月

★大阪の豊臣秀吉(50歳)、従一位関白兼太政大臣叙任。

★大阪の豊臣秀吉(50歳)、伊達輝宗(43歳)に対して朱印状を発行。

▽筑前の秋月種実(39歳)、家臣の恵利暢堯(37歳)の諌死を振り切って島津義久(54歳)に与する。


03月

★上田の真田昌幸(40歳)、上洛して豊臣秀吉(50歳)に拝謁。真田信繁(17歳)、豊臣秀吉(50歳)の馬廻りとなる。

★上田の真田昌幸(40歳)、妻の縁で三条家に部下の高梨内記の息女桐(15歳)を女官見習いとして潜入させる。

■仙台の伊達輝宗(43歳)、蠣崎慶広(39歳)を呼び出して蝦夷地の状況を諮問。蠣崎慶広、松前に改姓。

■仙台の伊達輝宗(43歳)、津軽為信(37歳)に命じて函館新城の縄張り開始。

◎宇都宮の二階堂盛義、ジャガイモの種芋を奥羽鎮守府所属の諸将に分配。フライドポテトとポテサラの衝撃。


04月

■仙台の伊達輝宗(43歳)、奥羽総検地を開始。

■仙台の伊達輝宗(43歳)、庄内大堰着工。

◎宇都宮の二階堂盛義、那須疏水着工。

★大阪の豊臣秀吉(50歳)、九州遠征に出発。

▽九州遠征の豊臣秀吉(50歳)、岩石城を一日で攻略。益富一夜城で戦意喪失した秋月種実(39歳)、剃髪して降伏。


05月

◆上総で里見義頼(44歳)が病死。北条氏政の弟の里見氏忠(33歳)が里見家の家督を継承。里見義康(14歳)、小田原に送られる。

■仙台の伊達輝宗(43歳)、新発田重家(40歳)に仙台屋敷を下賜。長女の千姫(13歳)を新発田治時(15歳)に嫁す。

◎宇都宮の二階堂盛義、北条家と佐竹家の和睦調停に乗り出す。

■仙台で伊達実元(60歳)死去。伊達成実(19歳)、黒川城改修完了。若松城に改名。

▽日向で根白坂の戦い。島津軍、豊臣方の大軍勢に挑むも大敗。島津忠隣(18歳)、猿渡信光(53歳)戦死。


06月

▽九州遠征の豊臣秀吉(50歳)、薩摩大隅に侵攻。島津義久(54歳)降伏。

▽豊後で大友宗麟(57歳)死去。

▲仙台で地震発生。

★堺で荒木村重(52歳)病死。


07月

▷石見で吉川元長(39歳)死去。吉川広家(26歳)が家督を継ぐ。

▽薩摩で島津家久(40歳)急死。

▽九州遠征の豊臣秀吉(50歳)、朝鮮国王入朝の斡旋を宗義智(19歳)に命じる。

▽九州遠征の豊臣秀吉(50歳)、九州国分実施。長宗我部信親(22歳)、肥後半国加増と残り半国の代官職を拝命。立花統虎(20歳)、筑後柳河拝領。

▽九州遠征の豊臣秀吉(50歳)、バテレン追放令。諸大名が棄教を選ぶ中、高山右近(35歳)が領地と財産を捨てる。

★畿内で宣教中のルイス・フロイス(55歳)、バテレン追放令を受けて長崎に退避。


08月

◎須賀川で二階堂盛隆(26歳)の正室の甄姫(27歳)が第三子懐妊。

▽九州遠征の豊臣秀吉(50歳)、大阪に帰還。

★大阪の豊臣秀吉(50歳)、浅井三姉妹のお初(17歳)を南近江の京極高次(24歳)に娶せる。

★大阪の豊臣秀吉(50歳)、長宗我部信親(22歳)を正五位下宮内大輔に推挙。


09月

★大阪の豊臣秀吉(50歳)、聚楽第を完成。

◎加賀で前田利久(50歳)死去。前田利益(36歳)、加賀を出奔。

▽肥後の長宗我部信親(22歳)、肥後国人衆の隈部親永・親泰父子、甲斐親英、菊地武国、和仁親実らを相撲興行に招き寄せ、腹心の久武親直(41歳)に命じてまとめて暗殺。肥後を平定。

▽柳河の立花統虎(20歳)、妻の誾千代(18歳)との別居を回避。


10月

◎宇都宮の二階堂盛義、那須疏水の本幹部分完成。

◎宇都宮の二階堂盛義、前田利益(36歳)を再雇用。

■仙台の伊達輝宗(43歳)、庄内大堰の基盤部分完成。

■仙台の伊達輝宗(43歳)、津軽為信(37歳)の函館新城案を承認。

▽対馬の宗義智(21歳)、偽使を朝鮮に送って宣祖(35歳)に通信使の派遣を求めるも、無視される。


11月

★駿河の徳川家康(44歳)、上洛して豊臣秀吉(50歳)に臣従。

☆駿河の徳川家康(44歳)、豊臣秀吉(50歳)の推挙により従三位権中納言補任。

▽豊前の城井鎮房(51歳)、転封を拒否して決起。黒田長政(19歳)の追討軍を退ける。

◎宇都宮で前田利益(36歳)の室の阿蛍(26歳)が第三子懐妊。


12月

◎宇都宮の二階堂盛義、北条氏政(49歳)と佐竹義重(40歳)の和睦を斡旋。

◆相模の北条氏政(49歳)、小山秀綱(58歳)に小山城を返却。

◆常陸の佐竹義重(40歳)、小田氏治(53歳)に小田城を返却。

◎宇都宮の二階堂盛義、益子安宗(25歳)に益子城を返却。千葉良胤(30歳)、菅谷政貞(59歳)、菅谷範政(28歳)の身柄を引き取る。

◎宇都宮の二階堂盛義の次男盛行(17歳)、成田氏長の長女甲斐姫(15歳)と婚約。


-------------

▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟従属情報[1587年末]>

- [伊達輝宗]・二階堂盛義・相馬義胤・岩城常隆・新発田重家・結城晴朝

- [豊臣秀吉] ・徳川家康・毛利輝元・長宗我部信親・大友義統・上杉義真・真田昌幸・佐竹義重・多賀谷重径・島津義久・龍造寺政家・有馬晴信

- 北条氏政


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 80万1千石

・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 白川郡 26万2千石

・奥州 伊達郡 2万石

・奥州 信夫郡 1万2千石

・奥州 会津郡 3万石

・奥州 標葉郡 楢葉郡 3万石

・奥州 行方郡 2千石

・野州 河内郡 芳賀郡 那須郡 塩谷郡 足利郡 梁田郡 29万石

・野州 都賀郡 8万5千石

・野州 安蘇郡 2万石

・常州 久慈郡 5万石


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― 新着の感想 ―
[良い点] 上手く物語の緩急がついていると思う。 特に主人公のフラグ回収話等 [気になる点] なぜ、北条をここまで貶すのかが分からないです。 北条五色備や関東に広く農作物の土壌を開拓し民に慕われていた…
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