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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第八章 ズレゆく世界
51/83

1584 連鎖

<1584年 2月>


 天正十二年正月。

 宇都宮城を前田利益と奥村永福の両名に任せ、仙台に出府する。


 息子の盛隆の年賀の挨拶に付き添って仙台城に登城し、そのまま大評定に参加。

 相談役のポジションで、輝宗殿の本年度の施政方針演説を傾聴する。

 まずは上方の情勢に対する鎮守府の方針発表からだ。


「羽柴秀吉から書状が届いておる。織田信雄と手切れの折には、佐竹義重と歩調を合わせて秀吉の指示に従うように、と言うて参った」


 輝宗殿の発言に場がざわめく。

 羽柴秀吉は織田信孝を滅ぼしており、次いで織田信雄までもとなると、主家殺しの下克上一直線である。

 天下取りの野望を隠そうともしなくなった羽柴秀吉の態度に皆が驚いており、反感を抱いた者も多い。

 その代表格が伊達家嫡男の政宗であった。


「なんたる不遜な物言いっ。この政宗、秀吉の天下など決して認めませぬぞ!」


「そう思うておる者も多いようだな。秀吉退治に協力して欲しいと、織田信雄、徳川家康、北条氏政からもそれぞれ書状が参った」


 羽柴秀吉との決戦を睨み、東国の諸大名は既に動き始めていた。

 恐らく徳川家康などは、四国の長宗我部元親や越中の佐々成政、紀州の根来衆や雑賀衆にも声を掛けていよう。

 秀吉包囲網の形成である。


「して、父上はどちらに味方するおつもりでしょうや」


「うむ。我が伊達家はあくまで中立よ。高見の見物をしながら力を蓄える良い機会であろう。連れて参れ」


 政宗の問いに応えつつ、小姓に合図を送る輝宗殿。

 新顔の三十代後半の精悍な武将が大広間に通されてくる。


「皆に紹介しよう。新たに鎮守府に名を連ねることになった新発田重家である」


「越後の新発田城主、新発田重家に御座る。よろしくお願いいたす」


 上杉景勝本人を討ち果たして余裕が出来たのだろう。

 今回わざわざ新発田重家自らが仙台を訪れ、援助の御礼と共に臣従を表明してきた。

 遠藤基信が捕捉する。


「このたび殿のご息女の千子様と、新発田重家殿の嫡男の治時殿のご婚約が決定致した」


「「「おめでとうございまする」」」


 千畳敷の大広間に集まった文武百官が一斉に祝いの声を上げた。

 史実では夭折している千子であったが、すくすくと成長しており、もうすぐ髪結いの年頃を迎えそうだ。

 乳搾りや栄養価の高い食事を推奨した結果であろう。


「この婚約に先立ち、実元殿の説得により中条三盛が鎮守府への恭順を申し出ておりまする」


「山浦城主の山浦景国も、我が新発田家に同心することを宣言しており申す」


 遠藤基信と新発田重家が下越の最新情勢を告げる。


 胎内の鳥坂城を治める中条氏は、今は亡き越後上杉家に仕えていた名門である。

 先代の中条景泰は本能寺の変の翌日に魚津城で自害しており、十二歳の中条三盛が当主となっている。

 伊達実元殿の母親の実家となり、その縁での調略が成功していた。


 山浦城を治める山浦景国は、かつては北信濃の戦国大名であった村上義清の息子である。

 上杉謙信の猶子となって山浦上杉家の名跡を継いだが、上杉景勝からは酷い扱いを受けていた。

 謀反を疑われて旧村上家臣団と引き離され、対新発田の最前線に放り込まれており、その恨みが爆発している。


 輝宗殿が続ける。


「上杉家は未だ混乱しておる。これを機に下越を制圧しようぞ。総大将は政宗に任せる」


「父上、お任せくだされ!」


 若干十八歳の政宗が隻眼をギラリと光らせて、興奮している。

 雪溶けを待ち、総勢四万の大兵で越後に攻め入ることが決定した。






 越後への侵攻は、越中の佐々成政への援護に通じる。

 伊達家は中立を装いつつ、実際は秀吉包囲網を支援する立場を取ることになる。

 徳川家康と北条氏政に対しても、あくまで商取引の形式での支援を申し出ていた。


 長雨に祟られた関東東海と違って、昨年の奥羽は米が良く取れた。

 登米と葛西の新田開発は順調に進んでおり、余剰米が大量に生じている。

 輝宗殿と相談して、その余剰分を徳川と北条に売り付ける算段する。

 純粋な商売となる為、羽柴秀吉も文句は付けられまい。


 問題は佐竹義重である。


 織田信長が東国に進出して来た時に、佐竹家は真っ先に臣従の姿勢を明らかにしている。

 羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦さに勝って以降、次の天下人は羽柴秀吉と見定めて、露骨に東国出馬を要請しまくりだ。

 婚姻を結んでいるとは言え、東国での勢力堅持を目論む伊達家にとっては明確な障害となりつつあった。

 その佐竹家に対して、まずは外交戦でプレッシャーを掛ける。


「ところで、岩城常隆殿はどちらにおられるのか。我が姪が嫁ぐ相手の顔を拝ませて頂けませぬか」


 猿芝居をして輝宗殿に話を振る。


「おお、そうであった。この正月には挨拶に参る約定となっていたはず。盛重、如何なっている?」


 佐竹家からの取次役を担う実弟の伊達盛重に声を掛ける輝宗殿。

 伊達盛重は汗をかきかき弁明してくる。


「そのー、兄上。常隆殿は瘧の病を得て療養中なれば、仙府への出仕は春先まで日延べしたいと申し入れが・・・」


「何ということよ。真に病であろうな」


「さ、それは」


「常隆仙府出仕は我が伊達と二階堂、北条、佐竹の四家の間の約定ぞ。万難を排して守らねばならぬものであろう!」


 常隆が無理であれば、代わりに母の桂御前をすぐにでも仙台に送るべし。

 激怒した輝宗殿は、出府延期のペナルティを佐竹家と岩城家へ通達するよう盛重に命じる。

 その上で、従わぬ場合は改めて関東の事は全て二階堂家に任せる、と言明してくれた。


 これで佐竹を討つ大義名分が手に入れば良いのだが。






<1584年 4月>


 伊達家の下越侵攻が始まる。

 伊達政宗を総大将とする総勢四万の鎮守府軍が、会津と米沢と庄内の三方から下越に進軍中だ。

 この大軍に上杉家は組織的に争う術を持たず、下越の揚北衆が個別にそれぞれの城を防御するのみの抵抗となっていた。


 そして上方では想定通りに小牧の戦いが勃発している。

 織田信雄が秀吉と内通していた三家老を斬り捨て、徳川家康と結んで挙兵する。

 しかし、美濃の池田恒興と森長可の父子が織田方を裏切って羽柴秀吉に味方し、あっという間に劣勢に追い込まれていた。

 それでも律儀な徳川家康は二万の兵を率いて小牧に着陣。

 織田勢一万五千と共に、羽柴勢の十万の大軍と向き合っている。


 我が二階堂家は、後背の佐竹家の抑えを任せたい旨が記された北条氏政からの書簡を受け取っていた。

 その北条家は伊達家から兵糧を大量に買い込んでおり、美濃遠征に向けて伊豆・相模・武蔵の兵を中心とした三万の手勢を小田原城に集結中だ。


 宇都宮城で軍議を開く。


「佐竹義重の様子はどうか」


「常陸の警戒は相当ですー。間者がなかなか戻って来れなくて、様子がわからないんですよね」


 謀臣の守谷俊重が困った顔を見せる。


「ふむ。須賀川の盛隆からの報告では、何くれと理由を付けて岩城家の桂御前の仙府入りが遅れている。恐らくだが北条攻めの為に磐城勢も動員しているな」


 佐竹勢が密かに牛久城攻めの準備をしているのは確実であった。

 伊達家の目が下越に向いていることを確認した上で、佐竹義重は北条の後背を突こうとしている。

 しかし、大領である北条家と戦うには常陸の兵だけではとても足りない。

 佐竹義重にしてみれば、岩城家の兵力も制約無しに活用したいところであろう。


 佐竹義重は小牧の戦いでの羽柴秀吉の勝利の出目にオールインだ。

 周りが全部敵なのに逆張りしたがるのは、佐竹家のお家芸なのだろうか。

 後年の関ヶ原の戦い然り、奥羽列藩同盟の離脱然り。


「よし、佐竹義重に対して先手を打つ。塩谷義通、塩谷郡の兵を率いて喜連川城を攻めよ」


「承知!」


 塩谷義通は勇んで応答してくる。

 喜連川城主は塩谷義通の祖父の仇の塩谷孝信であった。


 続いて那須塩原の大関高増、福原資孝、大田原綱清の三兄弟へ指令を発する。


「喜連川家は源氏の名門。同じ源氏の佐竹家は救援せざるを得まい。佐竹方の那須資景が駆け付けて参ろう。上那須衆はこれを討つべし」


 次第に戦闘の規模を拡大し、佐竹義重の本隊を下野に誘き寄せる作戦である。


 佐竹義重の本隊を誘き寄せたら、宇都宮の本軍八千の出陣と共に更なる一手二手三手を叩き付ける予定である。

 まずは陽動で川俣の盛行の一千の兵を動かし、海道筋の岩城方の楢葉城を攻めさせる。

 更に三春の田村清顕に二千五百の兵で岩城方の三坂城を攻めさせ、一気に岩城家の本拠の磐城平城を狙わせる。

 その上で須賀川の盛隆に八千の兵で棚倉南端の東館城を攻めさせ、一気に佐竹家の本拠の太田城を狙わせる。


「佐竹義重を喜連川に誘き寄せて対陣しているだけで良い。あとは勝手に裏から崩れてくれよう」


 北条勢は北条氏照が総州と房州の兵を率いて下総の関宿城に入っており、結城晴朝や多賀谷重経らの動きを牽制している。

 これで二階堂家と佐竹家の一騎打ちとなる。


 負けられない戦いだ。






<1584年 8月>


 暑い夏だ。

 茹だるような猛暑の中でも、日ノ本の各地で戦さは続く。

 何処の戦況も容易には決着を見ず、一進一退で推移していた。


 伊達家の下越侵攻は当初の想定よりも長引いている。

 越後最強の武力集団、揚北衆の誉れは噂通りであった。

 各々の持ち城で散々抵抗した後、新津城の新津勝資、平林城の色部長実、五泉城の甘粕景継はやっと開城に応じている。

 しかし、三条城の甘粕景持と本庄城の本庄繁長の両名は、未だに頑強に抵抗を続けていた。

 特に伊達家の天敵とも言える本庄繁長はやたら強く、何度も若い政宗に煮え湯を飲ませていると聞く。


 小牧の対陣も依然として継続中だ。

 長久手の戦いで羽柴方の池田恒興と森長可の討ち取った織田徳川連合軍は、更に北条氏規率いる三万の援軍を得て意気軒昂。

 北条家が運び込んで来た奥羽米で補給も改善され、羽柴勢と互角以上の戦いを見せている。

 羽柴勢十万と連合軍六万五千が対峙し、関ヶ原クラスの大合戦の様相を呈し始めていた。

 越中の佐々成政はこの情勢を見極めて反秀吉陣営に身を投じており、四国統一を推進する長宗我部元親と共に、羽柴秀吉にとっての脅威と成りつつあった。


 我が二階堂家の主戦場である下野でも、悔しい話だが戦局は泥沼化している。

 塩谷義通が八百の兵を率いて喜連川城を強襲し、見事に父の仇の塩谷孝信を討ち取ったところまでは良い。

 逃亡した塩谷孝信嫡男の塩谷惟久が烏山城に助けを求め、那須資景が千二百の手勢で喜連川城に攻め寄せたのも想定通りである。

 大田原三兄弟率いる上那須衆八百の援軍を得て、塩谷義通は那須軍の撃退に成功している。

 しかし、佐竹義重率いる一万三千の軍勢が下野に姿を表したところで、様相が変わって来た。


 大関親憲がボヤく。


「いや、単純に凄うござるな。佐竹義重はどれだけ鉄砲を揃えているのか。呆れるばかりの火力ではありませぬか」


 体感的には敵兵の三分の一以上が鉄砲隊であった。

 佐竹家ってどんだけ火縄銃を揃えているのよ、という話である。


「うーむ。香取海を抑えているだけあって、上方との直接の海上交易が盛んなのであろう。正直ここまでとはな」

 

 思わず唸ってしまう。

 昨年の常陸攻めの折は長雨が続いていた為、佐竹軍はその本領を全く発揮出来ていなかったようだ。

 今回の戦さ、盛隆と盛行らがタイミング良く奥州側で戦端を開いていなければ、そのまま撃ち負かされていただろう。

 本拠を突かれる危険性を察知した佐竹方は、一万三千の手勢のうち磐城勢三千と佐竹義久隊二千の兵を本戦線から離脱させた。

 現在両軍共にほぼ同数で対陣中であり、佐久間信盛直伝の塹壕で、佐竹の鉄砲隊の猛火を何とか凌いでいる。


 息子たちが戦っている奥州戦線も一進一退だ。


 盛隆は八千もの兵を率いながらも、佐竹家の北の守りである東館城を攻めあぐねていた。

 要塞化された東館城には佐竹の精兵二千が籠っており、防御は万全であった。

 更にそこに佐竹義久の二千の兵が援軍に駆け付け、城の内外から盛隆を苦しめている。


 田村清顕殿も一旦は三坂城を陥落せしめていたが、下野から急ぎ戻ってきた磐城勢三千との決戦に及ぶ。

 この三坂城を巡る戦いで田村勢は磐城勢に圧され、田村清顕殿の実弟の田村氏顕殿が討死するほどの痛手を負う。

 結局三坂城も取り返されてしまっている。


 唯一優勢なのは海道筋の盛行の軍となり、従軍した矢田野義正の活躍で楢葉郡全域の占領に成功している。

 矢田野義正は二階堂家の一門の出の西部衆となり、若干二十歳の若武者である。

 史実では二階堂家滅亡後も居城の大里城で一人だけ抵抗を続け、秀吉から称賛された程の武人であった。


 奥州でも野州でも長期戦の様相を呈し始めている。

 しかし、このように戦力が拮抗してしまっている場合は、往々にして調略で戦局が転換するものである。

 偵察に出ていた前田利益が告げてくる。


「義父殿、どうやら佐竹軍は退き陣のようですぞ」


「何が有った?」


 撤退の理由が分からず首を捻っていると、守谷俊重も現れた。


「ご注進にございますー。佐竹方の小田城主の梶原政景が謀反のよし」


 関宿城の北条氏照による調略だろう。

 梶原政景は長らく対北条の急先鋒を務めてきた太田資正の嫡男である。

 佐竹義重もこれは無視出来まい。


 前田利益が問うて来る。


「追いますか?」


 数瞬で決断を下す。


「いや、此度はここまでよ。二階堂家の現有戦力だけでは、佐竹は潰せぬことが良く分かった」


 北条も小牧の戦さが決着するまでは、佐竹討伐に本腰は入れまい。

 伊達家も今は下越の制圧作戦で忙しい。


 東館城を攻めあぐねている奥州の盛隆に対し、急ぎ撤兵の指示を出さねばなるまい。


 五ヶ月もの長陣を強いて、結局得られたのは下野の塩谷郡の喜連川城一帯と陸奥の楢葉郡だけ。

 ここまで敵対相手の勢力が大きくなると、ほんの僅かな所領を切り取るだけでも一苦労だ。


 しかし、当初の目的であった佐竹家への牽制は果たせている。

 北条家は佐竹義重に邪魔されることなく織田徳川陣営に参戦出来ていた。

 

 史実と異なる展開が、秀吉の天下取りにどのような影響を及ぼすか、遠く宇都宮から注視させてもらおうか。






<1584年 12月>


 冬が到来する。


 仙台の輝宗殿から越後の戦況を知らせる書状が届く。

 宇都宮城での評定の場で、配下の諸将に状況を伝達する。


「抵抗を続けていた本庄城がやっと降ったそうだ」


「さすがは本庄繁長殿。随分と粘りましたな」


 上杉家将士の中での大先輩格で、面識もあるのだろう。

 大関知憲が感嘆の声を上げる。


 刀折れ矢尽きての落城、では無かった。

 上杉義真の下にいた息子の本庄顕長が春日山城を出奔し、伊達方に寝返って父親の本庄繁長を説得した結果である。

 余力を残しての本庄繁長の降参となる。


「して、本庄繁長殿の身柄はどうなりましたかの」


 鎮守府軍の総大将は伊達政宗である。

 先年の安東攻めの折には、檜山城に籠って抵抗を続けた安東愛季以下を全て処刑している。

 大関知憲が心配するのも当然だろう。


 散々伊達軍を梃子摺らせた本庄繁長は打首に処されるのが妥当であろう。

 しかし、そこは師匠の虎哉宗乙譲りのへそ曲がりの伊達政宗だ。

 あえて周囲の予想を裏切り、本庄繁長の一命を奪わない選択をして、鎮守府軍の諸将を大いに感心させていた。


「政宗殿は本庄繁長を希世の逸物と激賞し、本庄城主の座を嫡男の本庄顕長に譲らせ、繁長本人の方は己の側近に迎え入れたそうな」


「ほう、それは越後の諸将も随分と降り易くなりましょうな」


 評定に参加していた大内定綱が相槌を打つ。


「うむ。政宗殿は更に西に進み、三条城の甘粕景持を恭順させている。これで伊達家の勢力圏は中越の東部にまで食い込んだわけだ」


 輝宗殿の書状の文面からは、政宗の成長を大いに喜ぶ感情が滲み出ていた。

 この分では、伊達家は来年早々にでも、予てから企図していた佐渡攻めに取り掛かれるだろう。






「さて、これで下越は落着した。残るは上方の大戦さの方だが・・・」


 天正十二年の十一月半ばを過ぎても、徳川家康は小牧の陣を離脱していない。

 北条家の三万の援軍と北陸での佐々成政の活躍が織田信雄を後押しし、羽柴秀吉との単独和睦を踏み止まらせていた。


 佐々成政は上杉家と和睦した後、全戦力の二万を率いて越中から能登へ侵攻する。

 史実では奥村永福の活躍で末森城の戦いに勝利した前田利家が、佐々勢の撃退に成功している。

 しかし、その奥村永福は現在のところ我が二階堂家に仕えている。

 末森城主であったはずの奥村永福不在や、史実よりも数の多い佐々軍など、その他の様々な要因が重なった結果なのであろう。

 旭山城の村井長頼を一気に蹴散らした佐々成政は、末森城も攻め落として能登と加賀の分断に成功してしまう。


 加賀攻略成功後の能登割譲を匂わせ、上杉義真の父の畠山義春と取引を行なったようで、能登の旧畠山家勢力は佐々成政に協力する姿勢を見せていた。

 能登一国を順調に手中に収めた佐々成政は、加賀への圧力を高めており、対する前田利家は窮地に立たされている。

 羽柴秀吉は北陸への手当も必要になって大忙しだ。


 評定に参加している前田利益と奥村永福の表情が優れない。

 前田家は二人にとってのかつての主家。

 前田利益の義父であり、奥村永福の主君であった前田利久は、今は弟の前田利家に仕えて加賀に居ると聞く。


「義父殿」


「みなまで言うな。利益、そなたには上方の戦況の偵察任務を命じる。妻の阿蛍と息子の虎丸は、奥村永福に預ければ良かろう」


 もう覚悟が定まった顔をしていた前田利益の機先を制し、その行動の自由を許可する。


「感謝致す」


 前田利益が頭を下げてくる。

 奥村永福も同様に頭を下げ、ホッとした表情を見せている。


 無双の強さを誇る前田利益の一時戦線離脱は痛い。

 だが我が二階堂家の直近の仮想敵である佐竹家は、鉄砲隊を主戦力としている。

 佐竹家の火力を封じるのに必要なのは、武将個人の武勇よりも部隊の指揮能力の方であった。

 更に言えば、戦さ場働きよりも、伊達家と北条家との連携交渉の方がより重要となってくる。


 内治だけでなく外交戦も縦横に活躍してくれている奥村永福には、気持ちよく働いて貰いたい。






 三年の期限を切って前田利益を加賀に送り出す。

 その背中を見送りながら、今後の乱世の動向に思いを馳せる。


 史実と異なり、小牧・長久手の戦いは未だ決着していない。

 戦さは翌年に持ち越しとなりそうな情勢である。


 その間に西国では、土佐の島なき島の蝙蝠、長宗我部元親が四国統一に王手をかけている。

 羽柴秀吉と中国の国分けで揉めている毛利輝元も、未だ中立の姿勢を崩していない。

 また沖田畷の戦いで肥前の熊、龍造寺隆信を見事討ち取った島津四兄弟が、いよいよ九州制覇に乗り出していた。


 羽柴秀吉の天下取りは、時間が経てば経つほど難しくなっていくはず。

 そして豊臣政権の小田原征伐が遅れるほど、佐渡金山と院内銀山を入手し、大崎葛西の大規模な開墾を推進中の伊達家の力は増大していく。

 諸々の積み重ねが連鎖し、今のところ情勢は二階堂家にとって悪くない方向に進んでいるように見える。

 東国のこの宇都宮から俺が伸ばせる腕はそう長くはないが、今だからこそ打てる手は全て打っておきたい。


 紀州の根来衆に数度襲撃を受けたとも聞くが、大坂城の城下町の整備は凄い勢いで進んでいると聞く。

 大坂にも情報収集の拠点を用意しておくべきだろう。

 となれば我が内縁の妻である吉次の商家の出番であった。


 新たな支店を出すともなれば、上方の上流階級に顔が効く吉次自ら赴く必要がある。

 一番下の息子の栄丸は昨年の内に乳離れを終えており、だいぶ大きくなっている。

 吉次にとっても丁度良いタイミングであろう。


 今から諸々の準備を行うとなると出発は来春となろう。

 吉次にとっては四年振り四度目の上方行きとなる。


 それはつまり、予てから吉次の隊商への同行を強く希望している、娘の吉乃の巣立ちの時でもあった。






<年表>

1584年 二階堂盛義 40歳


01月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の鳥坂城の中条三盛(11歳)を降す。

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の山浦城の山浦景国(38歳)を降す。


02月

★大坂の羽柴秀吉(47歳)、近江坂本で織田信雄(26歳)と会見。決裂。

■仙台の伊達輝宗(40歳)、長女の千姫(10歳)と新発田治家(12歳)の婚約を発表。新発田重家(37歳)を従属大名化。

▽筑前の秋月種実(36歳)、高瀬川で対峙する龍造寺家と島津家の和睦を周旋。


03月

☆遠江の徳川家康(40歳)、従三位参議補任。

☆伊勢の織田信雄(26歳)、家臣の佐治一成(15歳)に浅井三姉妹の江(11歳)を娶せる。

◎南会津にて大久保資近の正室の彦姫(32歳)懐妊。


04月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、下越に四万の兵で侵攻。上杉方の諸城の攻略を開始。

☆伊勢の織田信雄(26歳)、三家老を処刑。徳川家康(41歳)と同盟を結んで羽柴秀吉(47歳)に対抗。小牧・長久手の戦い勃発。

☆美濃の池田恒興(48歳)、羽柴方に寝返って犬山城を占拠。羽黒の戦いで徳川方が勝利。

★紀州の根来衆・雑賀衆、大坂を攻める。岸和田合戦勃発。

▽肥前の有馬晴信(17歳)造反。龍造寺方から島津方に転じる。


05月

▽肥前で沖田畷の戦い。島津家久(37歳)、寡兵で龍造寺隆信(55歳)を討ち取る。島津家勢力伸長。

▽肥前の鍋島直茂(45歳)、柳河まで退く。龍造寺隆信の首の受け取りを拒否して島津家に徹底抗戦の態度を露わにする。

▽豊前の大友宗麟(54歳)、立花道雪(71歳)と高橋紹運(36歳)を出陣させ、龍造寺方から筑後奪回を図る。

☆遠江の徳川家康(41歳)、三河を急襲した羽柴方の池田恒興(48歳)と森長可(26歳)を長久手で討ち取る。

◎宇都宮の二階堂盛義、北条氏政(46歳)の要請を受けて佐竹方の喜連川城を奇襲。塩谷孝信(54歳)を討ち取る。

◆相模の北条氏政(46歳)、徳川家康(41歳)に加勢。北条氏規(39歳)が三万の兵を率いて小牧着陣。


06月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の新津城の新津勝資(54歳)を降す。

◎宇都宮の二階堂盛義、喜連川城外で佐竹義重(37歳)と対陣。佐竹軍の鉄砲五千挺に苦戦。

◎須賀川の二階堂盛隆(23歳)、東館城を攻撃も跳ね返される。

◎川俣の二階堂盛行(15歳)、日向館と楢葉城を攻略。

▼三春の田村清顕(47歳)、三坂城を攻め落とすも磐城勢の逆襲を受けて負傷。

▶︎土佐の長宗我部元親(45歳)、引田の戦いを経て讃岐制圧。羽柴方の十河存保(30歳)と仙谷秀久(32歳)、淡路に撤退。


07月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の平林城の色部長実(29歳)を降す。

★大坂の羽柴秀吉(47歳)、滝川一益(59歳)に水上からの尾張攻撃を命じて蟹江城合戦に及ぶ。徳川家康(41歳)、蟹江城を奪回。

■福島の杉目直宗(30歳)病死。信夫郡と伊達郡は一時的に伊達家直轄領となる。


08月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の五泉城の甘粕景継(34歳)を降す。

◆常陸の小田城主の梶原政景(36歳)、突如佐竹義重(37歳)を裏切って北条氏政(46歳)と結ぶ。

◎宇都宮の二階堂盛義、撤退する佐竹義重(37歳)を追わず。喜連川の戦いが終結。

◆北信の室賀正武(32歳)、徳川家康(41歳)の指図で真田昌幸(37歳)を暗殺しようとするも返り討ちにあう。


09月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の護摩堂城を降す。

★大和の筒井順慶(35歳)病死。養子の筒井定次(22歳)が家督を継ぐ。

▽肥後の阿蘇惟種(44歳)死去。幼年の阿蘇惟光(2歳)が家督を継ぐ。

◆常陸の佐竹義重(37歳)、小田城を攻める。太田資正(62歳)を仲介して梶原政景(36歳)の帰参を許す。


10月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の栄雲寺城を降す。

☆越中の佐々成政(48歳)、混乱続く上杉家と和睦。越後方面の備えが不要となったため、全力で加賀に侵攻開始。旭山城の村井長頼(41歳)を追い払う。

☆越中の佐々成政(48歳)、末森城の戦いで前田軍に勝利。佐々軍、旧畠山家臣と連携して能登を席巻。

◎南会津にて大久保資近正室の彦姫(32歳)が出産。嫡男の清丸誕生。


11月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の本庄城の本庄繁長(44歳)を降す。下越を掌握。

☆小牧長久手出陣中の羽柴秀吉(47歳)、従五位下左近衛権少将補任。


12月

■仙台の伊達輝宗(40歳)、上杉方の三条城の甘粕景持(49歳)を降す。

☆小牧長久手出陣中の羽柴秀吉(47歳)、従三位権大納言叙任。

▶︎土佐の長宗我部元親(45歳)、西伊予の河野通直(20歳)を降す。

☆小牧長久手の戦い終結せず。北条氏政(46歳)の参戦、佐々成政(48歳)の奮闘によって翌年に持ち越し。

◎ 宇都宮の二階堂盛義、前田利益(33歳)の単騎での加賀援軍を承認。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[1584年末]>

[南奥・下越]

- 伊達輝宗・二階堂盛義・田村清顕・相馬義胤・新発田重家

- 佐竹義重・岩城常隆


[関東]

- 北条氏政・千葉邦胤

- 佐竹義重・那須資晴・多賀谷重径

- 結城晴朝

- 上杉義真・真田昌幸


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 70万2千石

・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 18万7千石

・奥州 伊達郡 2万石

・奥州 信夫郡 1万2千石

・奥州 白河郡 7万4千石

・奥州 会津郡 3万石

・奥州 標葉郡 1万5千石

・奥州 楢葉郡 5千石 + 1万石 (NEW!)

・奥州 行方郡 2千石

・野州 河内郡 芳賀郡 足利郡 梁田郡 17万石

・野州 塩谷郡 3万2千石 + 5千石 (NEW!)

・野州 那須郡 3万5千石

・野州 都賀郡 8万5千石

・野州 安蘇郡 2万石


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