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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第六章 下野進出作戦
35/83

1575-1 大崎

〜 第六章 下野進出作戦 〜


主人公:二階堂盛義 31歳 須賀川二階堂家7代目当主 陸奥守護代 従五位下 左京亮


正室:南の方 34歳

├嫡男:二階堂盛隆 14歳 - 正室:甄姫 15歳

├次男:勢至丸 5歳

└次女:元子 1歳

愛妾:吉次 25歳

└長女:吉乃 4歳

実弟:大久保資近 23歳 - 正室:彦姫 23歳

└姪:れんみつ 5歳


義弟:伊達輝宗 31歳 伊達家16代目当主 奥州探題 従四位下 左京大夫

<1575年 3月中旬>


 天正三年二月二日の須賀川城。

 暦ではもう春だというのに今日は特に凍える。

 早朝の空を見上げてみれば、雪がちらついている。

 これは積もるな。


 この寒さなら冬の間のお楽しみが今一度味わえよう。

 厨房にプリンの調理を指示する。


 転生してから既に数えて二十七年。

 石高換算で三十万石近くまで領地を広げ、高玉金山のお陰もあり、ある程度の贅沢は可能な身分にまで到達した。

 その甲斐あって、須賀川で手に入る食材に限定されるが、蕎麦にチーズに清酒に続いて、桜餅だけでなく揚げ料理やら炒め料理やら蒸し料理やら。

 この時代には存在しないレシピを幾つも作成出来ている。


 暇を見つけては手ずからレシピ本までしたためていたが、(ひとえ)に己と己の家族の食料事情の改善が目的であり、ササミ料理以外は特に公開していない。

 (兵士に筋骨を蓄えさせる為、麦飯と牛乳と鶏のササミ料理は積極的に摂取するよう奨励。)

 それ以外の料理を家中の者たちが味わえるのは正月や祝いの席のみ。

 あとは褒美の膳である。


 勝戦の折、特に手柄を立てた者だけが俺の考えた料理にあり付ける、まさに餌付けシステム。

 これが良いモチベーションに繋がっている。


 その中でも特に家族にも家来にも人気なのは、何と言ってもプリンであった。

 仏教が強いこの時代、卵を食すことも肉食の一部として忌避されていたが、その迷信を積極的に打破すべく俺は奮闘した。

 プリンはその為の強力な武器の一つであり、奥羽の民もプリンを知ることで、今では卵を立派な食材と認識するようになっている。

 カステラを好む者も多いが、調理工程上どうしても冷やす必要がある為、冬場しか食べれず希少価値が高かった。




 夕餉。


「ほうプリンではないか」


 家族団欒の食事の席で、膳の添えられた甘味の存在に南の方が喜びの表情を見せる。

 息子の嫁の甄姫も「まぁ」と微笑み、嬉しそうだ。

 砂糖がやはり高価なので保存してある蜂蜜で代用し、カラメルも無しのシンプルなプリンなのだが。

 やはり女子というものは皆スィーツ好きだな。


「今日は特に冷えるゆえ作らせてみた。盛隆よ。しばらくはかような豪勢な食卓にありつけぬであろうから、心して味わうがよい」


「父上、どういうことですか?」


 疑問を呈す盛隆に説明する。


「このたいそうな雪だ。大崎攻めは難航しておろう。我らも出陣せねばなるまい」


「聞き捨てならない話だな。伊達家が負けるとでも?」


 実家の負け戦を告げる不吉な俺の物言いに、眉を潜める南の方。

 しかし残念ながらそうなるだろう。

 

「黒川晴氏の出方次第では、大敗してるやもしれぬな」


 史実では今から十三年後に勃発する大崎合戦。

 その折に中立だった黒川晴氏は、大崎方に付いて伊達家を一敗地に塗れさせている。


 ならば今の時点でも大崎方に転ばぬはずがない。




 史実の大崎合戦は、大崎義隆の近習同士の争いから始まった。

 それが主君と宿老の対立に発展し、大崎義隆に討たれそうになった宿老の氏家吉継が伊達政宗に助けを求めたことから、伊達対斯波(大崎・最上)へと発展する。


 しかし、今回は異なる。

 全ては最上義光の戦術の冴えによるものだった。


 先年の天正最上の乱で山形から大崎領に退去した最上義光だが、正月早々の葛西氏との領土の境界線争いに参陣。

 そこで葛西勢本陣への奇襲を敢行し、見事に大将の葛西晴信を討ち取ってしまう。

 余勢を駆った最上義光は、一部の大崎方の将兵を率いて葛西氏の本拠の寺池城まで進軍した。

 予定ではこの春に葛西晴信と示し合わせて大崎攻めを行うはずだったが、最上義光に完全に先手を取られた形になる。


 葛西氏は奥州合戦の勝者である源頼朝によって奥州総奉行に任ぜられた葛西清重を祖とする名門だ。

 陸奥五十四郡のうち登米・磐井・胆沢・江刺・気仙・本吉・牡鹿の七郡を抑える大身である。

 南北朝時代に奥州に下向して隣国の志田・玉造・加美・遠田・栗原の五郡を領した足利一門の斯波系列の大崎氏とは、長年領土争いが絶えない関係であった。


 ただし、葛西氏の内情は寺池系と石巻系の二派に別れており、当主の葛西晴信は家中の統制に苦労していた。

 その葛西晴信が討たれてしまったことで、葛西領は見事に混乱する。

 本吉郡では、先年葛西家に対して謀反を起こした本吉氏が再び決起し、大崎方に寝返った。

 気仙郡では、犬猿の仲であった陸前高田の浜田広綱と気仙沼熊谷党の確執が再燃していると聞く。

 寺池城を守る葛西晴信の息子の葛西清高は、同盟相手の伊達家に大至急の救援を求めた。


 この時に輝宗殿と協議する時間が持てれば、絶対に出兵を思い留まらせていたであろう。

 葛西清高には北の胆沢郡あたりに落ち延びさせ、捲土重来を図らせたはずだ。

 しかし、折悪く大きな地震があって混乱が生じ、須賀川への早馬は届かなかった。

 このままでは寺池城が危ないと見た輝宗殿は、急ぎ浜田宗景・景隆父子を陣代に命じ、刈田・柴田・名取・宮城・桃生郡の諸侯に陣触れを出してしまう。




 留守政景、泉田重光、長江勝景、国分盛廉らが五千の兵を率いて出陣し、大崎氏の本拠地である中新田城に迫る。

 尚、伊達軍は黒川郡を迂回して利府側から大崎領に侵攻していた。

 黒川郡を領土とする黒川晴氏は留守政景の義父に当たり、その黒川晴氏を敵に回さぬ為の配慮であったが、まぁ無駄であろう。


 一人娘を留守政景に嫁がせているとは言え、黒川晴氏は義兄である大崎義直の次男を養子に迎えている。

 そもそもが黒川氏は最上氏の分家であり、大崎氏との関係性は伊達家とのそれに比べても非常に濃いのだ。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


<大崎家系図>


大崎義兼(大崎氏九代当主。伊達尚宗を頼って領内を統治。1461-1529)

├大崎高兼(大崎氏十代当主。家督を継いで一年後に病死。1479-1530)

│ │

│ └梅香姫(大崎義直養女)

│  │

│  [大崎義宣(伊達稙宗次男。義父の義直に討たれる。1526-1550)]

├大崎義直(大崎氏十一代当主。天文の大乱で晴宗方に属する。1506-)

│ │

│ ├大崎義隆(大崎氏十二代当主。義弟の最上義光を匿う。1548-)

│ │

│ ├黒川義康(黒川晴氏養子。正室が亘理元宗の娘。1552-)

│ │

│ └釈妙英(最上義光正室。1556-)

└娘(黒川晴氏正室)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


<黒川家系図>


黒川氏矩(黒川氏五代当主。1466-1529)

└[養女(最上義淳の娘)]

 │

 [黒川景氏(黒川氏六代当主。飯坂清宗の子。伊達稙宗腹心。1484-1552)]

 │

 └黒川稙国(黒川氏七代当主。1502~1560)

  │

  ├黒川稙家(黒川氏八代当主。15⁇-1568)

  │

  └黒川晴氏(黒川氏九代当主。正室が大崎義直の妹。1523-)

   │

   ├竹乙(留守政景正室。1550-)

   │

   └[黒川義康(大崎義直三男。正室が亘理元宗の娘。1552-)]


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 皆でプリンの甘味をじっくりと楽しんで眠りについた翌朝。

 米沢よりの早馬が到着する。


 俺の予想は現実のものとなっていた。







<1575年 3月下旬>


 「父上、荷台隊への兵糧の積み込みが終わりました」


 「うむ、では出立だな」


 荷台隊の指揮をしていた息子の盛隆の報告を受け、諸隊に進発の合図を送る。

 須賀川城を出陣した我ら二階堂勢は、名取の岩沼城にて伊達家の軍勢と合流していた。

 兵糧や武具を阿武隈川の舟運で先に送り込んでいた為、中々に素早い兵力展開になったと思う。


 岩沼城に集結した伊達二階堂連合の軍勢は、我ら二階堂家の五千の兵と、伊達家の信夫・伊達・伊具・亘理の軍勢五千。

 伊達家の主だった将は、叔父の梁川宗清殿と亘理元宗殿、義弟の杉目直宗殿らだ。

 今回はこの一万の軍勢を率いて留守政景らを救出する任を負うこととなる。




 葛西家を助ける為に最初に大崎に出征した伊達軍。

 そもそもその部隊構成が悪かった。

 輝宗殿の実弟である留守政景と輝宗殿の股肱之臣の泉田重光の両者は、宮城の八幡氏の家督相続の件で最近特に揉めていた。

 些細なことでぶつかりあって軍議もままならず、牽制だけに留めておけば良いものを、大崎方が待ち受ける中新田城へ深々と進撃。

 中新田城を囲む低湿地と深田に苦しんでいたところ、折からの大雪で身動きが取れなくなる。

 そして黒川郡の黒川晴氏が大崎方に加担してその退路を塞いだ為、大敗を喫する。

 大崎方の追撃の激しさは伊達方の国分勢の主だった将がほとんど討死してしまったほどで、敗退した伊達軍は新沼城に逃げ込んでの籠城を余儀なくされた。


 そこから状況は加速度的に悪化する。


 伊達家の大敗を伝え聞いて動揺した葛西清高は、家中の混乱を沈めきれず寺池城を支えきれなくなる。

 共に寺池城に詰めていた家老の柏山明吉に従い、柏山明吉の所領である胆沢郡への逃亡を図った。

 しかし、それを見逃す攻め手の最上義光ではない。

 大崎勢の一手を率いて柏山明吉を急襲してその首を討ち取る。

 更に北へ逃げる葛西清高を追って一関を越え、長駆して胆沢郡にまで攻め入ってしまう。


 また大崎での伊達家大敗を受け、羽前の白鳥長久が突如挙兵し、寒河江城に攻め寄せてきた。

 驚くべきことに天童八楯の半数以上が白鳥方に加担し、天童八楯は解体。

 寒河江城は失陥し、伊達方は山形城の保持も危うくなる。

 どうやら白鳥長久の背後には最上義光がおり、根回しは万全だったようだ。

 そして羽後の小野寺景道だけでなく、庄内の大宝寺義氏も密かに助力しているとの噂があり、予断を許さぬ情勢である。

 輝宗殿としても、大崎よりも息子の竺丸がいる山形城の救援を優先せざるを得なくなる。


 輝宗殿が会津・米沢の兵を率いて山形に向かった為、新沼城に逃げ込んだ留守政景らへの援兵はこの二階堂盛義に委ねられた。

 新沼城は小さな城であり、敵中に孤立しており、糧食の蓄えも少ない。

 出来るだけ急いで救援に向かう必要があるだろう。




 昼過ぎに岩沼城を出立して宮城郡に入り、国分領を通過しつつ青葉山を確認。

 その後、七北田まで進んで夜営の陣を布く。

 大崎方に付いた黒川晴氏の治める黒川郡はもう目の前である。


 明日は黒川郡に乱入して富谷を越え、黒川晴氏の居城である鶴楯城を一気呵成に攻め落とす。

 そしてその勢いで新沼城まで攻め上ろうと目論むが、その夜の軍議の場にて叔父の亘理元宗が無視出来ぬ知らせを持ってきた。


「まことにござるか。相馬が出張って来ていると?」


「うむ。我が陣に相馬の手の者が忍び込んで参ってな。寝返らぬかと勧誘されたわ。何でも大崎勢と当たる際、我らの後背から襲い掛かる手筈だとか」


 亘理氏と相馬氏は千葉常胤を祖に持つ同族である。

 一時期は共に手取って伊達家に抗ったこともある。

 それ故の誘いだろう。


「亘理城に残した我が手の者からも知らせがあった。目立たぬよう姿を潜ませ、密かに北に向かっている軍勢の姿があったとな」


「数は?」


「およそ二千。騎馬武者の数が多かったらしいぞ」


 大崎勢に味方するべく、我らを追尾するように移動してきているのか。


 このまま鶴楯城を攻めれば、新沼城を包囲している大崎勢は包囲を解いて鶴楯城への後詰に現れるだろう。

 その大崎勢との決戦の最中、相馬勢に後背から攻め掛かられて挟み撃ちにされたら一溜りも無い。

 早急な対処が必要だ。


 すぐに軍勢を二手に分ける算段をする。

 二階堂家の軍勢五千のうち二千を俺が率い、亘理元宗殿の千の兵と共に相馬勢を討つ。

 残り三千は盛隆と保土原行藤に任せ、梁川宗清殿と杉目直宗殿の四千の兵と共に鶴楯城攻めだ。


 新沼城に篭っている留守政景や泉田重光らの伊達勢は、補給もままならずボロボロの状態だろうから、戦力としてあてには出来ない。

 しかし大崎勢もまた最上義光の一派が葛西領に深く攻め込んでおり、更に新沼城の監視に兵を残しておかねばならないのだ。

 鶴楯城の救援に向かってくる大崎勢は、黒川晴氏の兵も合わせて多く見積もっても七千。


 対大崎の北方戦線は兵力的には互角だが、地の利は敵にある。

 苦戦はするだろうが、そこは何とか持ち堪えてもらおう。

 その間に兵力で勝る南方戦線にて速戦で相馬勢を撃ち破り、北に馬首を返すプランである。


 夜半のうちに相馬勢の居場所を掴む必要があった。

 四方に放った細作の帰りを待ちながら、一夜を明かす。




 座流川で相馬勢を捕捉する。


 相馬勢は現代で言えば八木山の遊園地あたりで夜営していた。

 その知らせを受けた時、あの特徴的なコマーシャルソングが俺の脳内で再生されたのは言うまでもない。


 相馬勢も敵地での夜営の為、十分に警戒はしていたようだ。

 早朝に我らの軍勢が迫ってくるのを察知した相馬盛胤は、亘理元宗の調略に失敗したことを悟って撤収を開始する。


「逃すな!かかれーーーっ!」


 俺の号令とともに我が二階堂勢は進撃を開始。

 陣を退いた相馬勢を座流川に追い込んでいく。

 座流川は先日の雨で増水中だ。

 相馬勢の足が止まる。


 鉄砲で敵陣を乱して一気に押し出す味方。

 押せ押せの味方三千と逃げる敵二千。

 兵と鉄砲の数の差を生かして、相馬方の多くの武者たちを討ち取ることに成功する。

 座流川が相馬自慢の騎馬による機動力を殺していた。


 この戦さで一番の手柄を立てたのは、黒木対馬守正房であった。

 須田盛秀の妻である冴の兄だ。


 相馬盛胤は今回の遠征に不仲な長男の義胤ではなく、次男の隆胤を同陣させていた。

 越河御前との離縁を迫られても頑なに拒否し続け、父の不興を買っていた相馬義胤。

 その義胤に代わって相馬家の家督を継ぐのではないかと噂されていたのが、今年二十五歳になる次男の相馬隆胤である。

 父譲りの武勇を誇り、血気盛んな猛将であったが、その首級を黒木対馬守正房が見事に挙げる。

 父の相馬盛胤を追って座流川に入ろうとしたところを、我が二階堂家の雑兵が熊手で川に引き釣り込み、そこへ黒木対馬守正房が駆け付けて隆胤の首を落とした。


 次代の後継者候補を討たれて意気消沈した相馬勢は、大将の相馬盛胤自身が殿を務めて敗走。


 ここで相馬勢を追撃していれば、もしかしたら相馬盛胤も討てた可能性も高かったが、今は急ぎ北に向かうべきである。

 残敵を掃討した後、相馬方の抑えを亘理元宗殿の手勢に任せ、早速戦線を移動する。




 富谷に急ぎ向かう最中、鶴楯城を巡る戦端は未だ開いてないことを知る。

 ならばただ味方と合流するだけなのはつまらない。

 利府を経由して鶴楯城の北面に出てみる。

 大崎勢の後背を突く動きである。


 すると大崎義隆は一戦も交えず鶴楯城を見捨て、兵を中新田城まで退いてしまった。

 肩透かしをくらう。


 まぁ必然的に新沼城の包囲が解けるので、それならそれで良い。


 空城となっていた鶴楯城を攻め落とし、悠々と新沼城に進軍。

 留守政景らと合流を果たす。


「助かりましたぞ、義兄上」


 くたびれた顔の留守政景殿が礼を言ってくる。


 ん?

 随分と兵の数が減っているな。


「国分盛廉殿は討死されたと聞いたが、長江月鑑斎殿の姿が見えぬな。如何された」


「長江殿は先日勝手に城を出て大崎方に降られています。今頃は桃生の居城に戻っておりましょうな」


 泉田重光が怒りを含んだ声で俺の問いに答える。

 浜田宗景・景隆父子も苦々しげだ。

 史実でも長江月鑑斎は伊達家を裏切って最終的に殺されるが、同じ結末になりそうである。


 まぁそれは今は置いておこう。

 まずは新沼城中の伊達家の敗残兵たちの再編成に着手する。

 長江月鑑斎の離脱もあってその数は三千を切っており、動ける兵は二千程度であった。


 一度失敗した中新田城攻めに、今度は総計一万一千の兵力で挑むことになる。






<1575年 4月上旬>


 新沼城での軍の再編成の間、葛西領でも新たな動きがあった。

 一関の先の胆沢郡での戦いが決着していた。

 最上義光の完全勝利である。


 もともと胆沢郡は葛西家中で随一の勢力を誇る家臣の柏山明吉が領する土地である。

 しかし、その柏山明吉は寺池城失陥の折に最上義光に討ち取られてしまっていた。


 柏山明吉には四人の息子がいたが、その兄弟仲は最悪だった為、胆沢郡に攻め寄せた最上義光に対し、柏山勢は効果的な防御戦を展開出来ずにいた。

 それでも何とか近隣の江刺信時の力を借りて本拠の胆沢城を保持していたのだが、その江刺信時の所領である江刺郡が狙われてしまう。


 江刺郡よりも更に北に位置する斯波郡高水寺城主の斯波詮真と、最上義光は同族のよしみで手を結んだようだ。

 敵対する南部氏の当主晴政と養子信直が絶賛暗闘中ということもあり、斯波詮真は最上義光の要請を受諾して兵を南に向ける。

 和賀・稗貫郡を治める和賀義忠と稗貫広忠の兄弟に、葛西領最北端の江刺郡を攻めさせた。

 主力不在であった江刺信時の居城の岩谷堂城は、和賀軍にあっさりと占領される。


 その岩谷堂城失陥の報が切っ掛けとなり、城中で裏切りが誘発され、胆沢城は最上義光の手中に落ちた。

 葛西清高も討たれ、柏山明吉の息子たちも散り散りになる。

 これで葛西家の北の戦力は消滅し、大崎勢は戦力を南に集中することが可能となっていた。




 葛西清高討死の報を受けて軍議を開く。


「父上、救援すべき葛西清高はもうこの世におらず、我らが大崎領に攻め込む大義名分は失われております。それでも中新田城を攻めるのでしょうか」


 息子の盛隆が疑問を呈してくる。


「もはや葛西がどうのという段階では無い。この戦さは大崎義隆を撃ち払い、大崎葛西の都合十二郡を我らが一気に呑み込む為のものよ!」


 輝宗殿からは大崎方面の差配を全て任されている。

 俺の放った豪語に、叔父の梁川宗清殿をはじめとする伊達家の将たちが奮い立つ。

 特に留守政景殿と泉田重光は雪辱の機会に燃えていた。


 今年は天正三年。

 西暦で言うと1575年だ。


 上方の情勢を分析するに、このまま長篠の戦いが勃発する可能性が高い。

 武田勝頼が織田・徳川連合軍に惨敗を喫し、武田家の勢力は大きく減ずるだろう。

 織田信長の威勢はますます高まり、天下の趨勢はほぼ定まる。


 我ら伊達二階堂連合もここらで大きく飛躍せねば、間に合わなくなる。

 人取橋と摺上ヶ原に続いての、ここ一番の大勝負であった。




 中新田城に向けて進軍。

 大崎勢は再び籠城の構えを見せていた。


 兵数的には我ら伊達・二階堂連合軍が一万一千に対して大崎勢が七千。

 乾坤一擲で仕掛けてくるかと思ったが違った。

 どうやら胆沢に遠征中の最上義光の手勢が戻ってくるのを待っているらしい。


 望むところである。

 そして城の攻防戦における攻撃三倍の法則に従えば、中新田城を攻めるには兵数が心許ない。

 まずは直接には中新田城に攻め掛からず、周辺の大崎方の支城を軒並み攻め落とすところから始める。


 大崎勢は中新田に兵力を集中しており、各城に配置された兵数は少ない。

 一月前と違って天候にも恵まれた。

 師山城、古川城と圧倒的兵力で一つ一つ支城を攻め落とし、大崎義隆が最近居城としていた名生城攻めに取り掛かる。


 すると大崎義隆は耐えきれずに中新田城を出撃してきた。

 一向に北から戻ってくる気配の無い最上義光を待ちきれず、痺れを切らしたようだ。

 まずは最上義光を討とうと考えていたこちらとしては、嬉しい誤算であった。






<1575年 4月中旬>


 野戦の最中に最上義光が何処から奇襲を掛けてくるか気を揉んでいたが、結局最後までその姿は見えなかった。

 戦さ自体は我が二階堂家の白河勢、奥村永福と河東田清重らの活躍で完勝で終わっていた。


 大崎勢を野戦で散々に撃ち破った後、大崎義隆が逃げ込んだ中新田城を包囲攻撃中である。

 つい一月前の泉田重光の苦い経験を生かし、泥田を避けて中新田城に迫り、攻撃を繰り返す。

 合わせて息子の盛隆に一軍を率いさせて、大崎家家老の氏家吉継の領地である岩出山城の攻略に向かわせていた。


 盛隆には岩出山城を無理攻めせず、氏家吉継の一族について決して粗略に扱わぬよう厳命してある。

 その上で大崎義隆と共に中新田城に籠城中の氏家吉継に対し、調略を仕掛けていた。


「して、首尾はどうか」


「バッチリです。氏家吉継、内応を約してくれましたー」


「それは重畳」


 守谷俊重の報告に頷く。

 史実では氏家吉継は伊達家家臣に収まるので、分の良い賭けではあった。

 これで決着だな。


 と思っていたら、少々思惑と異なる形で中新田城は開城する。


 城中で反乱を起こしたのは、史実の大崎合戦に至る経緯で氏家吉継と対立した新井田刑部の一派であった。

 主君の大崎義隆を人質に取り、大崎義隆ごと城外へ逃れて伊達の陣に駆け込もうとする新井田刑部の一派。

 氏家吉継は阻止しようとする大崎方の諸将の軽挙妄動を諫め、大崎義隆の人命を第一として泣く泣く城門を開いた。


「新井田刑部たち、大崎義隆の身柄の褒美として所領の安堵を要求していますが、どうしますかー」


 わかり切ったことを聞いてくる守谷俊重。


「首を跳ねよ。二心抱く者への戒めとなろう」


 さて中新田城内への進駐と大崎勢の武装解除は、浜田宗景・景隆父子に任せよう。


 俺は虜囚の身となった大崎義隆のご機嫌伺いと参ろうか。


「ああ、そうそう。俊重、城中に最上義光の妻女の妙姫がいるはず。身重と聞く。必ず捕らえるように」






<1575年 4月下旬>


 結論から言うと中新田城に妙姫の姿は無かった。

 開城のどさくさに紛れて、何者かが連れ去ったらしい。

 黒川晴氏が手引きしたということだが晴氏は黙秘している。

 最上義光の手の者なのは明らかなので、それはもう良い。


 既に主要な城は攻略済みであった為、大崎の占領はあらかた終わっている。

 次は葛西領だ。


 葛西氏の本城であった寺池城や、戦線離脱した桃生の長江月鑑斎、気仙沼や三陸の葛西残党については、全て伊達家の軍勢にお任せする。

 俺は二階堂勢四千五百を率いて一路胆沢郡を目指す。


 胆沢城を攻め落とした後の最上義光の動向が不明であり、何に先んじてでもかの者の身柄を押さえる必要があった。

 もし最上義光が出羽に向かえば、話はまたややこしくなるからだ。


 山形に進駐した輝宗殿は、白鳥長久と小野寺輝道の連携に初めは苦戦していたが、当初から伊達方だった天童頼貞に加えて、中立を維持していた延沢満延を味方に引き込むことに成功。

 白鳥方に与しているその他の元天童八楯らに対する圧迫を強めていた。

 そこに最上義光が参戦するとなると、その求心力によって伊達家の優勢がひっくり返される恐れがある。


 山形の輝宗殿を援護する為にも、胆沢への道を急ぐ。






 一関を越え、平泉を通過。

 中尊寺金色堂がこの時代どのような状態なのか興味をそそられるが、後回しだ。


 全く抵抗が無く胆沢城に到達する。


 胆沢城は胆沢川と北上川の合流地点沿にある平城である。

 この時代から遡ること五百年前まで、陸奥の地を治める鎮守府として機能した城である。

 八幡太郎と名高い源氏の源義家が陸奥守として奥州に赴任した際も、この城に入っている。

 感慨深いものがあるが・・・。


「父上、物音一つ聞こえませぬな」


「うむ」


 胆沢城の大手門に迫っても、盛隆の言う通り人の気配がしない。

 それも当然、戦闘モードで見た胆沢城の上空には、敵の耐久力を示すゲージが存在しなかった。

 全くの空城である。


 最上義光と彼の手勢の姿は無く、何処かに消え失せた後であった。





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