1574-2 野州
<1574年 9月上旬>
反抗する寒河江一族の討滅とその所領の接収。
火事場泥棒で北方の村山郡を荒らしていた雄勝の小野寺勢の撃退。
国衆からの誓詞血判の受け取り。
これらの天正最上の乱の後始末が全て終わり、伊達家による出羽の最上郡の仕置きが完了する。
駐留部隊として輝宗殿の叔父の伊達宗澄殿を山形城に、重臣の桑折宗長を寒河江城を配し、伊達二階堂連合軍は米沢への凱旋の途に着いた。
二階堂勢六千の指揮は嫡男の盛隆と腹心の保土原行藤らに任せ、自分は輝宗殿と轡を並べての帰国となる。
遠藤基信ともども今後の策を大いに語り合いながらの道中であった。
米沢城到着後も輝宗殿に随行すると、本丸屋敷の前で竺丸を連れた東の方が待ち受けている。
そばには侍女たちと共に喜多が控えていた。
「「「おかえりなさいませ」」」
正室である東の方と竺丸に続いて、喜多や侍女たちが一斉に輝宗殿に挨拶する。
うむ、と応えながらも輝宗殿は怪訝な顔だ。
「梵天丸の姿が見えぬがどうした」
保母である喜多が応答する。
「資福寺におられます。修行中の身ゆえと、虎哉和尚が中座を許してくれませんでした」
「そうか。励んでいるようだな」
嫡男の出迎えが無いのもどうかとは思うが、輝宗殿はむしろ頼もしく思ったようだ。
侍女の一人が赤子を抱いている。
さだめし出征中に東の方が産んだ姫だろう。
山形城に滞在している折に知らせが入り、輝宗殿は千と名付ける旨を米沢に書き送っていた。
近づいて赤子を抱き上げ、その顔を嬉しげに見る輝宗殿。
「めんこいのう。そなたがお千か。会いたかったぞ」
千よ千よと赤子をあやす輝宗殿であったが、対して妻である東の方は何やら浮かぬ顔である。
「それより殿。最上の兄上や光直を大崎に追放するなど、あまりに無体でありませぬか」
その場に俺や遠藤基信たちが控えているにも関わらず、夫を詰ってくる。
心外そうな輝宗殿。
「何を申すか。お東、そなたにとっても弟の中野義時殿が殺されているのだぞ」
さらに言葉を重ねて東の方を叱る。
「それに親子と言えど、羽州探題の義父殿に二度までも逆らった謀反人を許したままにしておかば、国が成り立たぬわ」
「それは・・・」
反論出来ない東の方は悔しげだ。
一転してかたわらの竺丸を抱き寄せ、憐みを訴えてきた。
「しかし竺丸はまだ八歳でございます。親元を離れて一人山形城に移るなどあまりに不憫ではありませぬか」
「そなたの実家ではないか。義父殿もおられる。心配には及ばぬ。梵天丸も虎哉和尚の下で今も一人修行に励んでおろう」
「せめて元服まで待てませぬか」
「ならぬ」
輝宗殿も頑なだ。
お千を侍女に預け、蹲み込んで竺丸と目を合わせる。
「竺丸、そなたには山形のお祖父様のところに行ってもらわねばならぬ。めったに父や母に会えなくなるが耐えねばならぬぞ」
「寂しゅうございます。されど竺丸も武将の子にございます。泣きませぬ」
「竺丸、よう言うた!」
満面の笑みで竺丸の頭をわしゃわしゃする輝宗殿。
竺丸本人は聡明な気質のようだ。
その利発さがかえって東の方の未練を深めてしまっているのは皮肉な話である。
「こんなにも聡く可愛らしい我が子と、離れて暮らさねばならないなど酷すぎます。どうせ左京亮殿の入れ知恵なのでしょうね」
悲しみに暮れて泣き崩れるかと思ったら、いきなりトバッチリが飛んできた。
キッとこちらを睨んでくる東の方。
なまじ美人なだけに迫力が凄い。
指摘どおりなので反論はしないが、補足はしておく。
「安心なされませ。山形に移る竺丸殿の傅役には、山家公俊を推挙しております」
山家公俊は、東の方の輿入れの折に付き従って伊達家に籍を移した元最上家の武将である。
実直な性格をしており、お東の方の信任も厚いと聞く。
「なっ、山家公俊ですって?」
驚く東の方。
まぁ偏愛する竺丸だけでなく、腹心も引き剥がされることになるので当然か。
良い機会であった。
東の方はまだ竺丸の乳搾りに反対のスタンスを崩してないと聞く。
この際なので真っ向から牛の乳搾りの重要性を説かせてもらおう。
「山形へ養子入りする竺丸殿を賀し、須賀川より雌牛を贈らせて頂きまする。どうやら牛は人と同じように疱瘡にかかるようなのですが、人よりもその毒は薄いらしく疱瘡で死ぬ牛はおりませぬ。その牛が快癒した証の赤い跡には、疱瘡の病を退ける霊験が宿ることが明らかになっておりまする。おっとそうであった。産まれたばかりの姫子にも必要でござろう。乳が絞れる年になりましたら雌牛をまた贈らせましょう」
史実の伊達輝宗と義姫の間には、梵天丸と竺丸の他に二人の姫が産まれていたはずだ。
どちらの姫も夭折しているが、一人は千子と名付けられたと記憶している。
この場で輝宗殿が抱き上げている赤子がその千子、長じて髪結いに及べば千姫と呼ばれるようになろう。
梵天丸の時は東の方の妨害にあったが、今度は失敗しないぞと怒涛の説明を実施。
「安積郡の喜久田の入会地の牧童全員を調査したところ・・・」
「もう結構です!」
東の方は怒って立ち去ってしまう。
あらら。
まぁ妻を宥めるのは夫の務めだ。
あとは輝宗殿に任せよう。
須賀川城に凱旋する。
今年数え年で五歳となる勢至丸を連れた南の方が、お元を抱いた侍女を引き連れて出迎えてくれる。
盛隆の婚約者である甄姫の姿もあった。
「初めての戦陣はどうであった?」
戦勝を寿いた後、まず盛隆に感想を尋ねる南の方。
「恐ろしゅうございました。そして何も出来なかった己が悔しいです」
俯き加減に応える盛隆。
山形城の開城交渉が始まってから寒河江領の接収まで、なんやかやで忙しかった。
盛隆の世話は護衛の遠藤壱岐や他の傅役たちに任せきりであった。
盛隆の打ち沈んでいる様子は気がかりではあったが、初めて人の死に間近で接すれば仕方のないことだろう。
この戦さでは離れて見守るのに終始したが、親の字は木に立って見ると書く。
これで良かったと思っている。
勢至丸を抱き上げて遊んでいると、南の方と盛隆が何やら深刻そうに会話を交わしている。
「陣中で裏切り者の首を刎ねたと聞く。そなたの父御は他の者には見えぬモノが見えているのだ」
「全て父上の手のひらの上でございました。戦さなどより父上の方が余程怖・・・」
ん?
そちらの会話に耳を傾けようとすると、甄姫が声を掛けてきた。
「義父様。此度の勝ち戦さ、おめでとうございます」
まだ盛隆とは婚約中のため、義父と呼ばれるのは早かったが純粋に嬉しい。
これまでも家族同然に過ごしてきてはいたが、甄姫ほどの美少女に改めて義父と慕われると、何やらこそばゆいものがある。
「なんとか秋までに片付いて良かった。これでそなたたちの挙式も予定通り進められるな」
「はい。ありがとうございます」
甄姫は今月中に一旦米沢に移動し、輝宗殿の養女としての体裁を整えてから須賀川に輿入れする段取りとなっていた。
気掛かりなのは二階堂晴泰殿の体調だ。
「晴泰殿はまだ伏せられているのか」
「ええ。京からの知らせを受けてからずっと、父の気鬱は酷いままです」
華のような甄姫の顔が憂いに曇る。
晴泰殿にとって長年の朋輩である三淵藤英が、一ヶ月半前に織田信長の命令で明智光秀の手により嫡男の秋豪共々に切腹させられていた。
二条城で三淵藤英を見捨てたことがトラウマになっていた晴泰殿には、かなり堪える知らせだったようだ。
尚、つい先日その手紙を須賀川まで遣したのは吉次である。
吉次は春に無事に上洛し、上京地区に奥州屋二号店を構えることに成功していた。
上方で仕入れた甄姫の嫁入り道具と共に、中央の動静を知らせてきたのである。
「甄姫の花嫁姿を見れば晴泰殿の気も晴れるはず。婚儀までの間の諸々はこちらに任せられよ」
「よろしくお願いします」
三つ指ついて綺麗に礼をしてくる甄姫。
盛隆と甄姫の二人の婚儀には、壬生家の徳雪斎周長本人から参列表明があった。
壬生家だけでなく、下野の群雄たちにも我が二階堂家の隆盛振りを見せ付ける良い機会となろう。
手は抜けない。
晴泰殿への手当ても含めて中々に忙しくなりそうであった。
<1574年 10月上旬>
気鬱の病の晴泰殿に代わって甄姫の伊達家養女入りを采配したり、隣国の田村隆顕が亡くなって弔問の使者を出したりと忙しい中、謡曲師の道慶が須賀川を訪ねて来た。
数名の同行者がおり、現在は交流の続いていた守谷俊重の屋敷に滞在中である。
報告に訪れた俊重に仔細を尋ねる。
「松小屋城主の岡本正親が次男を引き連れ、殿を訪ねて参りましたー。どうやら人質に差し出すつもりのようですよ」
去年須賀川を訪れた後、道慶は俊重の勧めもあって京に帰らず、野州の塩谷郡松小屋の岡本正親の下でその子息たちに謡や鼓などを教えていた。
目論見通り、岡本正親は道慶の伝手を使って俺に助けを求めて来たというわけだ。
「よし、会おう」
「わっかりましたー」
白河城代の奥村永福に上那須衆の調略を進めさせているが、野州北部に二階堂家の影響力を浸透させる絶好機が到来した。
須賀川城内に岡本正親を招くよう俊重に命じる。
広間で岡本正親一行と対面する。
四十代半ばの武人が挨拶してくる。
「陸奥守護代様に初めて御意を得ます。下野が松小屋城主、岡本正親と申す。これなるは我が子息の清九郎になります」
「岡本清九郎でございます」
清九郎はまだ大分幼い。
十歳にもなっていないだろう。
「二階堂左京亮盛義である。して早速だが用件を聞こう。この須賀川に何用か」
「我が主君、塩谷義通様の後ろ盾をお願いしたく罷り越しました」
岡本正親の仕える塩谷義通は塩谷氏の現当主となるが、その立場は非常に弱いものであった。
下野の塩谷郡の過半を治める塩谷氏の内情は大分複雑である。
まず川崎城を中心とした嫡流の塩谷氏と、喜連川城に寄る分家の喜連川塩谷氏に別れている。
ただ嫡流と言っても二代前は宇都宮家からの養子が家督を継いでおり、本当の意味での塩谷氏嫡流は断絶していた。
また先代の塩谷義孝の弟の塩谷考信が喜連川塩谷氏に養子に入り、その跡目を継いでいる。
つまり本家も分家も塩谷の血統が薄く、他家の影響を非常に受けやすくなっていた。
更に本家の先代の塩谷義孝には二人の後継者候補がいた。
既に病いで亡くなっていた、嫡男の義冬の忘れ形見たちである。
塩谷義冬は生前にまず岡本正親の姉との間に塩谷義通をもうけており、その後に宇都宮広綱の養女を正室に迎えて弥六郎を得ていた。
これにより本家の塩谷氏は、塩谷義通を後継に推す岡本正親らと、弥六郎を推す親宇都宮の派閥で二分される。
尚、喜連川塩谷氏を継いだ塩谷考信の方は、宇都宮家と敵対する那須家の大関高増の娘を妻に迎えている。
本家の塩谷義孝が宇都宮家寄りのスタンスであった為、血を分けた兄弟なれど両者の関係は次第に険悪になっていく。
そして今から十年前の永禄七年。
嵐の中で僅かな手勢を率いて塩谷考信が本家の川崎城に潜入。
城中の裏切りもあって、兄である塩谷義孝の殺害に成功してしまう。
実弟に討ち取られた塩谷義孝は、この時点で孫のどちらを嫡男とするか明らかにしていない。
その為、弥六郎が当時まだ数え年で五歳と若年だったこともあり、暫定的に十七歳の塩谷義通が本家の家督を継ぐことになる。
しかし、家中の大半は宇都宮家が後援する弥六郎派に属しており、事実その二年後に家老の山田寛業を中心とした弥六郎派が川崎城の奪還に成功していた。
塩谷義通は家督は継いではいるものの塩谷家中での力は少なく、弥六郎元服までの繋ぎの当主と目されていた。
岡本正親はそんな姉の息子である塩谷義通を支援すべく、息女を嫁がせて関係の強化を図るも劣勢は否めない。
そしてこの秋についに弥六郎が元服を迎え、家督委譲を強要する弥六郎派の突き上げが日増しに強くなっている状況であった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<塩谷家系図>
塩谷孝綱(宇都宮正綱の四男。名跡を継いで名門の塩谷氏を再興。1470-1546)
│
├塩谷由綱(義孝。再興塩谷氏二代目。後継を決めずに暗殺される。1488-1564)
││
│└塩谷冬綱(義冬。父に先んじて病死。再興塩谷氏四代目を追贈。 1513-1561)
│ │ │
│ │ ├★塩谷通綱(義通。塩谷城主。暫定で再興塩谷氏五代目就任。1547-)
│ │ │ │
│ │ │ [正室: 岡本正親娘]
│ │ │
│ │ [側室: 岡本正親姉]
│ │
│ ├☆塩谷義綱(弥六郎。宇都宮家の支援を受けて川崎城主となる。1560-)
│ │
│ [正室: 宇都宮広綱養女]
│
├塩谷時綱(義尾。対結城戦で討死。再興塩谷氏三代目を追贈。1510-1559)
│
└塩谷季綱(孝信。喜連川塩谷氏を継ぐ。兄の由綱を強襲して討ち取る。1530- )
│
├塩谷惟久(1563-)
│
[正室: 大関高増娘]
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「これはおかしな話よ。なぜ川崎城を取り返した戦果があるからと言って家督を譲らねばならぬのか。仇である塩谷考信はまだ健在であろうに。それに川崎城はあくまで塩谷氏が本拠とする城に過ぎぬであろう。塩谷義通殿が治める御前原の塩谷城は、律令の昔より塩谷郡の郡衙のあった地。その塩谷城を守り通した手柄の方が、塩谷郡を治める塩谷氏棟梁に余程相応しいと思えるがな」
「然り!然りでござる!」
我が意を得たりと岡本正親は激しく同意してくる。
「先代の義孝様は亡くなる一ヶ月前、塩谷家累代の菩提寺である寺山観音寺の六十年に一度の御本尊開帳に、義通様を連れて観進されており申す。これこそ義通様に後継を任せようとしていた証に相違ござらぬ!」
であれば塩谷義通を支援する名目も立つか。
「正しき筋目によらぬ統治は乱のもとであろう。我が二階堂家は畏くも朝廷より白河の関守の役目を頂いている。関の内にある下野の平穏を守るのにも注力せねばならぬ立場にある。塩谷郡の正常な統治の一助となるのはやぶさかではない」
「おおっ!」
岡本正親は希望を抱いたようだが、事はそんなに都合良くは運ばない。
大崎攻めを企む今、弥六郎派の背後にいる宇都宮広綱はまだしも、その宇都宮家と血縁同盟にある佐竹義重とはまだ本格的には揉めたくなかった。
「ただしだ。我が二階堂家に出来る介入は、あくまで話し合いでの解決を取り計らうくらいよ。弥六郎派の面目もある程度は立てねば逆に戦さとなろう。それに先代の仇討ちも諦めて頂く必要があるやも知れぬな」
「・・・どういうことでございましょうや」
「喜連川塩谷家の他に川崎塩谷家を別家として立てるのよ。そしてこの際、喜連川塩谷家も合わせて所領を取り決め、三家で互いに弓矢を交えぬよう誓ってもらう」
ややこしいのは、先年に佐竹家に服従している那須家もこの件に一枚噛んでいるという点だ。
塩谷義孝を殺した弟の喜連川城主の塩谷考信は、那須家の庇護を受けて今も塩谷本家との敵対関係を継続していた。
つまり佐竹義重に本件の仲介を頼むには、那須家を宥める方法も提示する必要があった。
落とし所としての三方一両損の案である。
ただし成功すれば、労せずして塩谷郡の三分の一強が我が二階堂家の手中に落ちる。
是が非でも岡本正親にはこの案を飲んでもらう。
「如何かな?」
「・・・承知仕った。よろしくお願い致し申す」
俺に従わない時点で、宇都宮家の影響力が格段に高まった塩谷家中にて主従共々に逼塞する未来が確定する。
従えば一部所領は取りっぱぐれるが、塩谷家の家督は維持出来るし、更に近年隆盛著しい二階堂家の庇護を受けられるのだ。
岡本正親にしてみれば、断る選択など端から無いのは当然だ。
塩谷義通が二階堂家に後ろ盾を頼むにあたり、岡本正親の次男の清九郎がこのまま須賀川に人質として預けられることとなる。
塩谷義通にとっては妻の弟となり、従兄弟でもある。
これで離反する可能性はかなり低くなった。
早速だが白河城に赴いて、奥村永福に佐竹家外交僧の岡本禅哲とのコンタクトを命じようと思う。
勝算はある。
佐竹義重は現在上杉謙信との協調が進まず、北条氏政の攻める下総の関宿城救出に四苦八苦している状況と聞く。
宇都宮家や那須家と共に対北条戦線を早急に整えたい佐竹義重にとって、塩谷郡での新たな争いの勃発は避けたいはず。
それに佐竹家としても二階堂家や伊達家と干戈は交えたくないだろう。
あとは宇都宮側にも手を回しておくべきだな。
壬生家の徳雪斎周長は宇都宮家の重臣だ。
こちらの関心を買いたいなら進んで協力してくれるはず。
今回の一件は良い試金石になろう。
案外すんなり話が進むのではないかと睨んでいるが、果てさてどうなることやら。
<1574年 11月上旬>
伊達家の養女となった甄姫の須賀川への輿入れが行われる。
米沢を発った輿入れ行列は長大で、護衛する兵の数は千五百騎。
南の方の輿入れの折の三倍である。
伊達家と二階堂家の家格が上がるに連れ、豪壮さにも磨きがかかっていた。
嫁入り道具も絢爛豪華で長持の数が凄い。
須賀川城下の者たちはさすが伊達家よと褒めそやしているようだが、何のことは無い。
ほとんどが我が二階堂家が京にいる吉次に命じて若狭から酒田経由で準備させた品々であった。
甄姫を五摂家の姫に劣らぬよう見せる為の箔付けの策である。
婚儀に合わせて他国からも大勢の使者が到来している。
隣国の田村家からは、先々月に家督を継いだばかりの田村清顕の名代として郡司敏良が来着した。
「人取り橋の戦場以来でございますな」
懐かしげに挨拶される。
えっと、そうだっけ?
まぁいいや。
田村家もそろそろ取り込み頃だろう。
「いやまことに。あの折は戦さ場ゆえ失礼な扱いをしたやもしれぬ。容赦されよ」
話を合わせておく。
いやいや何の、と話しを続けようとする郡司敏良の口上を遮り、それとなく探りを入れる。
「オホンッ。ところで。清顕殿のご息女は今年でいくつになりましたかな」
「はて。愛子様のことでござろうか。御年七歳になられましたがそれが何か」
「嫁ぎ先は決まっているのであろうか」
「いや、我が殿にとっては目の中に入れても痛くないほど大切な一人娘でござる。嫁ぎ先など・・・」
田村清顕は今年で三十八歳になると聞くが、史実どおりに男子の後継がいない状態であった。
ならば話の持って行きようはある。
「まだ七歳となればもう少し先の話になるが、どうであろうか。伊達家では今、嫡男の梵天丸殿にふさわしい嫁を探しておりましてな。梵天丸殿は御年九歳。似合いの夫婦になりそうに思える。清顕殿さえ良ければ、この陸奥守護代の盛義から奥州探題殿に推挙しても構わぬが」
「なっ、そ、それはっ」
「清顕殿には和子がいないと言うが、伊達家先代の晴宗様に嫁ぎ、第一子に実家の岩城家を嗣がせた笑窪御前の例もあるではないか」
伊達家の領地は会津だけでなく山形も飲み込んでさらに広くなっている。
田村家とは最早十倍ほどの開きが出来ている。
大領の伊達家の嫡男の正室に嫁を送り込めるとなれば、田村家としては万々歳だろう。
しかしその決断は、田村清顕の正室の実家であり、長きに渡って攻守同盟を結んできた相馬家と袂を分かつことを意味していた。
「持ち帰って御家中でよくよく検討されるがよかろう。決して悪い話ではないゆえな」
「はっ、ははっ」
額に汗を垂らしながら平伏する郡司敏良。
これで良い。
これで大崎攻めの折に田村家は動けなくなる。
塩谷郡の塩谷義通の名代の岡本正親が再び須賀川にやって来た。
もちろん盛隆と甄姫の婚儀を祝うためである。
しかし、つい先日落着した塩谷家の家督争いの件で、改めての御礼の言上も兼ねていた。
佐竹家の使僧の岡本禅哲の呼びかけの下、塩谷義通と塩谷孝信と塩谷義綱(元服した弥六郎)の三者のそれぞれの後ろ盾が塩谷城に集まって合議を行なった。
塩谷義通は我ら二階堂家の奥村永福、塩谷孝信は那須家の大関高増、塩谷義綱は宇都宮家の徳雪斎周長である。
宇都宮家は誰に任せるかでかなり揉めたようだ。
突然出てきて我が物顔で塩谷義通を擁護し始めた我ら二階堂家に対し、当主の宇都宮広綱は怒り心頭だったらしい。
もともと塩谷義綱の川崎城奪還への支援は、広綱と芳賀高継のラインで進められた経緯がある。
それもあって当初は芳賀高継が会合に参加する予定であった。
しかし折悪くの広綱の病状の悪化と、佐竹の実家の指示を受けた正室の呂姫の意向により、芳賀高継の参加は見送られる。
そして代わりに選ばれたのが徳雪斎周長であった。
宇都宮家中は権力を巡っての鍔迫り合いが目まぐるしい
つい先年に主君の広綱を幽閉して専横を振るっていた皆川俊宗は、佐竹義重によって宇都宮城を追い払われた後、小山秀綱との戦さで命を落としている。
現在は徳雪斎周長と芳賀高継の二人が家中の主導権争いを繰り広げており、今年に入ってから共に兵を率いて一戦にまで及んでいるほどだ。
徳雪斎周長にとってはライバルの芳賀高継の息のかかった塩谷義綱に愛着など無く、むしろその戦力は削ぎ取っておきたい。
それに我が二階堂家に恩を売る良い機会と捉えたようだ。
結果ほぼ二階堂家の要望が通る形での落着となる。
あとで奥村永福に徳雪斎周長の印象を尋ねたところ、困った顔をされる。
老齢で小柄なご老体でしたが得体の知れない怖さがありました、と返されて妖怪爺の類いと認識しておいた。
それはさておき。
「岡本正親殿、よう参られた」
「ははっ」
「清九郎殿の顔も見て参られよ。勢至丸の遊び相手を良く務めてくれているわ」
「ありがたき幸せに御座います」
「清九郎殿の鼓の腕前は道慶仕込みのようだな。勢至丸がことのほか気に入っているようでの」
勢至丸はあと数年の後、南の方と相談の上で米沢の資福寺に預ける予定となっている。
虎哉和尚の下で、伊達家の梵天丸殿の側近となるよう鍛えてもらうのだ。
塩谷家からの人質である清九郎も資福寺に同道させようと考えている。
今のうちにから伊達家の次代を担う梵天丸の知己を得ておくのは、岡本正親にとっても悪い話ではあるまい。
越後の上杉家からの使者は、重臣の直江景綱の婿養子の直江信綱であった。
北条氏政に攻められている下総の関宿城救援の為、主だった上杉家の諸将は関東出征中である。
留守を任されていた直江景綱は、娘のお船に娶せたばかりの直江信綱を祝いの使者として派遣してきた。
「陸奥守護代の二階堂左京亮盛義でござる。遠いところをわざわざのご足労、ありがとう存ずる」
「直江信綱と申します。義父の直江景綱の名代として参りました。軽輩のこの身がこのような大役を担うこと、ご容赦くだされ」
「なんのなんの。上杉殿が大変な折にも関わらず、婚儀を進めた我が家の不調法こそ許されよ」
聞けば直江信綱は二十歳になったばかり。
妻のお船は十八歳と聞く。
実直そうな若者ではあるが、それほど腕が立つようには思えない。
史実においてはこの信綱、恩賞に不満を抱いた同僚に斬り殺される運命が待ち受けている。
そして直江家の名跡を絶やさぬよう、寡婦となったお船は上杉景勝の命令で樋口兼続と再婚。
愛の兜と直江状で有名な直江兼続の誕生に繋がる。
俺が推し量るのもおこがましいが、樋口兼続との再婚はお船にとって幸せなことだったのだろうか。
自分の生を精一杯生きた彼女ならば、きっと幸せだったと答えるだろう。
けれど客観的な立場から見ると、必ずしも幸せな人生だったとは言い切れないように思う。
最終的にお船は米沢上杉家の二代当主の母代わりとなるも、直江家自体は彼女の代で断絶してしまっているのだから。
目の前にいる直江信綱が凶刃に倒れず、お船と最後まで添い遂げれるのなら。
それはそれで、お船にとってはまた幸せな人生なのではないか。
そのイフに分岐する為には、俺は何をすれば良いのだろう。
おっといけない。
埒もない妄想に一瞬捉われてしまった。
それよりも予想外に嬉しいハプニングがあった。
上杉家の一行の中に、二年前に春日山を訪れた時に大いに語らった大関親憲の姿があったのだ。
「盛義様、お久しゅうござる!」
「おおっ、なんと親憲か。これは驚いた」
「約束どおり須賀川まで参りましたぞ。されば約束どおり美味い酒と肴をたらふく味わせてくだされ」
てっきり遠征に従軍して関東で暴れているものだと思い込んでいた。
なんでも、上杉家の関東遠征組から外されて不貞腐れていたところに直江景綱から声が掛かったとのこと。
「関東の方は上手く捗っていないと聞き及んでおり申す。こちらの方がよほど役得じゃ。人間万事塞翁が馬とはこのことですな。わはは」
北条氏政は万難を排して関宿城の攻略に臨んでいる。
下総の関宿城は関東平野の中心に位置し、利根川水系を牛耳るに絶好の要地にあった。
今は亡き北条氏康は関宿城一つで一国に相当すると称しており、北条家にとっては関東制覇の象徴たる城になっている。
それ故に反北条陣営も是が非でも絶対に死守せねばならないはずなのだが・・・。
越相同盟の衝撃があまりに大きく、関東の諸将の間に上杉謙信への不審が色濃くこびり付いていた。
上杉家が関東へ出征して関宿城を攻める北条軍の後背を扼そうにも、これまでと違って兵が集まらず苦戦していると聞く。
佐竹家や里見家との連携もギクシャクしたままで、効果的な関宿城支援が出来ていない。
もうすぐ関宿城の攻防も一年が経とうとしており、限界が見え始めていた。
下野の宇都宮家からの使者として、壬生家の徳雪斎周長自らが須賀川に来訪する。
付き従う壬生家の郎党を数多く引き連れての登場であった。
「陸奥守護代の二階堂左京亮盛義に候。御身が宇都宮家を取り仕切る徳雪斎殿か」
「ほほほ。いかにもいかにも。拙僧が徳雪斎にございますよ」
七十歳を優に超えてまだ矍鑠としている僧形の小柄な妖怪爺。
それが徳雪斎周長であった。
「まずはお礼いたそう。塩谷の一件で骨を折って頂き、感謝いたす」
「ほほほ。頭をお上げ下され。我ら壬生家と日光山に連なる姫が輿入れするのです。この縁を大事にせねばバチが当たるというもの」
直訳すると今度はそちらが協力する番ですよだ。
壬生家の日光山統治が円滑に進むよう、寄進で日光山の不満度を低下させねばなるまい。
「そうそう。左京亮殿の希望どおり、塩の谷にはしっかりと戦さの種を仕込んでおきましたぞ。ほほほ」
お見通しか。
やりづらいな。
この妖怪爺とこれから親戚付き合いしないといけないのは、結構来るものがある。
あのいつも涼やかな奥村永福が困った顔を見せたのも理解出来る。
「その種が芽吹くのはいつくらいでしょうや」
「ほほほ。こちらも急いでましてな。来年の春くらいかのう」
「それは少し早すぎる。年内には必ず刈り取るゆえ、秋口くらいに調整できまいか」
「むむむ。では配る水を少し絞らねばなるまいて。賀茂茄子(上那須)の方はいかがじゃな?」
「熟して落ちねば、強引に捥ぎ取るだけのこと」
「ほほほ。それは頼もしい」
さて、この徳雪斎周長の思惑はどの辺にあるのか。
我ら二階堂家に乗り換えての自己保全、自領堅守だけなら問題は無いのだが。
まぁそれはおいおい探っていけば良い。
ずるずると北条家との全面衝突にまで引き摺り込まれるのだけは注意だな。
多くの人間たちが見守る中、盛隆と甄姫の婚儀が始まった。
二階堂家の次代を担う二人の新たな門出である。
俺に残された時間はあと七年を切っている。
それまでに仙道四郡と南会津を元手に野州一国を取り込みつつ、北条家や佐竹家の拡大を阻止し続ければ俺の勝ちだ。
その間に奥羽を統一し終えた伊達家が、奥羽の出丸となった野州を守る二階堂家をバックアップする体制が出来上がる。
輝宗殿が豊臣政権とどのように向き合うかは任せるしかない。
ただ、少なくとも盛隆たちが生き残る為の選択肢は史実よりも増えるはず。
子供たちに明るい未来を残す為に、この少しおかしな戦国の世を最期まで全力で駆け抜けるとしよう。
〜 第五章完 〜
<年表>
1574年 二階堂盛義 30歳
01月
▷因幡の山名豊国(26歳)、毛利方に寝返り。山中幸盛(29歳)率いる尼子再興軍、鳥取城を失う。
◎須賀川にて二階堂盛義の正室南姫(33歳)が元姫を出産。
02月
▼山形の最上義光(28歳)、中野城を攻めて弟の中野義時(24歳)を弑す。天正最上の乱勃発。
■米沢の伊達輝宗(30歳)、最上義守(53歳)の要請を受けて山形へ派兵。義弟の最上義光(28)と戦う。
☆越前府中の富田長繁(23歳)、一向一揆と結んで決起。越前守護代の前波吉継(50歳)を殺害。
◆相模の北条氏政(36歳)、氏康の遺志を継いで下総の関宿城攻略を開始する。
◆常陸の佐竹義重(27歳)、土浦城を攻め落として小田氏治(40歳)を追う。
■米沢の伊達輝宗(30歳)、最上義守派の白鳥長久(47歳)らに寒河江城攻めを指示。寒河江兼広(44歳)降伏。
03月
☆遠江にて徳川家康(31歳)の側妾の於万の方(26歳)、家康の次男の於義伊を産む。
◆越後の上杉謙信(44歳)、関東出征13回目。膳城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城などを攻略。
☆越前府中の富田長繁(23歳)、一向一揆と決裂して敗死。越前を加賀一向一揆の七里頼周(57歳)が制圧。
▶︎︎土佐の長宗我部元親(35歳)、一条家の内紛に介入。一条兼定(31歳)を追放して娘婿内政(12歳)を傀儡とする。土佐西部平定。
★上洛した織田信長(40歳)、正四位下参議叙任。蘭奢待を切り取る。
04月
▽大隅の肝付兼亮(16歳)と伊地知重興(46歳)、禰寝重長(38歳)を攻めるも島津の援軍に撃退される。
◆下野唐沢山の佐野昌綱(45歳)死去。佐野宗綱(18歳)が家督を継ぐ。
◇白河の吉次(24歳)、二階堂家の名産品を揃えて上方に出立。山城に奥州屋京都支店を構える。
◎須賀川の二階堂盛義、米沢の伊達輝宗(30歳)の要請により羽前に出兵。山形城を包囲。寒河江兼広(44歳)を斬る。
■米沢の伊達輝宗(30歳)、次男の竺丸(6歳)を最上義守(53歳)の養子とする。羽前の諸将、伊達家に臣従。
05月
▼山形の最上義光(28歳)、正室の実家の大崎に退去。
■米沢の伊達輝宗(30歳)、山形城と中野城を接収。最上義守(53歳)を山形城に戻す。
▷備前の宇喜多直家(45歳)、浦上政宗の孫久松丸(7歳)を奉じて挙兵。天神山城の戦い。浦上宗景(48歳)、離反が相次ぎ苦戦。
▽薩摩の島津義久(41歳)、肝付兼亮(16歳)と伊地知重興(46歳)を降す。大隅平定。
06月
■米沢の伊達輝宗(30歳)、寒河江一族を討って寒河江城を接収。桑折宗長を駐屯させる。
◆安房上総の里見義堯(68歳)死去。
◆北信の武田家臣の真田幸隆(61歳)死去。嫡男信綱(38歳)が家督を継ぐ。
☆甲斐の武田勝頼(28歳)、徳川方の高天神城を攻める。
07月
■米沢にて伊達輝宗の正室義姫(26歳)が長女の千姫を出産。
■米沢の伊達輝宗(30歳)、最上郡の小野寺景道(40歳)の軍勢を追い返す。
☆甲斐の武田勝頼(28歳)、織田の援軍が到着する前に謀略で高天神城を攻め取る。
☆岐阜の織田信長(40歳)、明智光秀(45歳)に命じて三淵藤英を切腹に追い込む。
08月
▼津軽の大浦為信(24歳)、南部領の大光寺城を攻めるも滝本重行に奇襲され敗退。
☆岐阜の織田信長(40歳)、八万の大軍で長島を包囲。第三次長島侵攻。
■米沢の伊達輝宗(30歳)、出羽最上郡の国人衆に誓詞血判を提出させる。
09月
■米沢の伊達輝宗(30歳)、山形城を叔父の伊達宗澄に任せて米沢に帰国。
◆越後の上杉謙信(44歳)、関東出征14回目。
▼三春の田村隆顕(85歳)死去。田村清顕(37歳)が家督を継ぐ。
◆常陸の佐竹義重(27歳)、小田方の行方城・宍倉城・戸崎城を攻略。小田氏治(40歳)、嫡男友治(26歳)を人質に差し出して北条氏政(36歳)に救援を懇願。
10月
◎須賀川の二階堂盛義、岡本正親(44歳)の要請で塩谷義通(27歳)を支援。
☆岐阜の織田信長(40歳)、伊勢長島一向一揆を鎮圧。兄の織田信広(47歳)や弟の織田秀成(29歳)など多くの織田一族が戦死。
▷安芸の毛利輝元(21歳)、小早川隆景(41歳)主導で宇喜多家の支援を決定。三村元親(33歳)、毛利家と手切れ。織田家と結ぶ。
11月
◎須賀川の二階堂盛義、佐竹義重(27歳)と壬生周長の仲介で塩谷領を分割。
◎須賀川の二階堂盛義の嫡男盛隆(13歳)、伊達家養女の甄姫(14歳)と祝言を挙げる。壬生周長、二階堂家へ接近。
★摂津の荒木村重(39歳)、幕府方の伊丹城を攻め落とす。伊丹親興自害。
◆常陸の小田氏治(40歳)、佐竹義重(27歳)が関宿城救援に出陣した隙を突いて土浦城を回復。
12月
▷毛利家の小早川隆景(41歳)、八万の軍勢で三村元親(33歳)を攻める。備中兵乱。
◆相模の北条氏政(36歳)、下総の関宿城を制する。上杉謙信(44歳)と佐竹義重(27歳)の救援間に合わず。
◆常陸の佐竹義重(27歳)、上杉謙信(44歳)と対立して北条氏政(36歳)と和睦。
-------------
▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
<同盟情報[南奥 1574年末]>
- 伊達輝宗・二階堂盛義・石川昭光・佐竹義重
- 田村清顕・相馬盛胤
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 29万石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 15万7千石
・奥州 伊達郡 1万5千石
・奥州 白河郡 7万4千石
・奥州 田村郡 2千石
・奥州 会津郡 3万石
・野州 塩谷郡 2千石 + 1万石 (NEW!)
ブックマーク登録、いいね、☆☆☆☆☆クリックでの評価を頂けると大変励みになります。
よろしくお願いします。




