1573 幕滅
<1573年 3月下旬>
雪解けと共に伊達家による二回目の奥会津遠征が発動する。
とは言っても、昨秋に比べて派兵の規模は小さい。
伊達と我が二階堂の両軍合わせても一万人程度である。
元亀四年が明けてすぐ、只見の水久保城に篭っていた山内舜通が剃髪して隠居。
山内首藤家の家督を継いだ嫡男氏勝が、深い雪を掻き分けて米沢まで年賀の挨拶に訪れ、伊達家への恭順の意を示した。
輝宗殿はこれを受け入れ、山内氏勝が現在保持している水久保城周辺の知行のみを安堵する。
会津一円における残った敵対者は、これで南会津の河原田盛次一人となっていた。
早速軍を率いて久川城に迫ると、河原田盛次は無駄な抵抗を諦めたようだ。
城を放棄し、一族郎党を引き連れて沼田方面に逃散して行った。
ならば最初から反抗するなよと言いたいところではあったが、労せずして久川城と駒寄城の接収が完了する。
占拠した久川城にて輝宗殿と酒を酌み交わす。
「輝宗殿、会津制覇、祝着至極に存じます」
「うむ。これも義兄上の協力あってこそ。越後まで赴いてもらった甲斐があったと言うものよ」
輝宗殿はかなり上機嫌だ。
「義兄上には摺上原の戦いより幾度も戦さ手伝いして貰っているが、これまでまともに御礼をしておらなんだ。これを機会に是非とも報いさせて頂きたい」
確かに二階堂家として得た所領は、一連の戦いで猪苗代南岸を接収したくらいとなる。
それも自力で切り取ったものであった。
「今回攻め取った河原田領を含め、南会津を全て義兄上に任せたいのがどうであろうか」
「南会津全域となると、長沼実国殿の所領はどうなりましょうや」
「実国には只見に移って貰う。奴にとっても都合五千貫以上の加増になろう。否やは言わせん」
長沼実国には山内家から奪った所領が与えられるようだ。
父祖伝来の地から他所に移らねばならないのは辛かろう。
しかし、伊達家が強大過ぎて歯向かうわけにもいくまい。
この国替えは、きっと長沼家に対して伊達家家臣としての自覚を促すものとなるはずだ。
伊達家と長沼家の双方に取って必要な措置と言えた。
「ありがたく頂戴いたしましょう」
謹んで拝領する。
既に伊達領となっていた下郷の塩生館周辺や、長沼実国が治めていた下野の塩谷郡北部も譲られるとのこと。
実質三万石程度の加増であった。
これで我が二階堂家の所領は二十八万石を超える。
ありがたいはありがたいが南会津は広く、山間の谷合しか生活圏が存在しておらず、耕作地もほとんど無い。
統治するのに難儀な辺境の地を、恩賞に託けてただ押し付けられただけのように見えなくもなかった。
そして新領地の南会津に関しては、全て弟の大久保資親に加増して統治を任せようと考えている。
妹である彦姫の夫に与えた領土となれば、伊達家中の誰からも今回の輝宗殿の差配への不平の声は上がらないだろう。
ただ、これで奥州と関東を繋ぐ道は全て二階堂家が抑えた形になる。
陸前地方の経略を急ぐ輝宗殿から、関東に関する対応は一任されたと言っても過言では無い。
関東の火の粉が奥州に飛んで来ないよう防火壁の役目を担うか、それとも二階堂家の勢力を伸ばす為に南進を試みるか。
全ては俺の采配一つであった。
<1573年 6月下旬>
須賀川城の広間に謡曲が朗々と響く。
広間には集まっているのは、正室の南の方をはじめとする鶴王丸ら家族たちと、須田盛秀こと源次郎や守谷俊重らいつもの近臣の面々だ。
家中で慶事が重なっており、それを祝う内々での宴であった。
まずは、京にて公方の側近くに仕える信濃流二階堂宗家の晴泰殿から八年前に預かった、晴泰殿息女のお甄の成人だ。
本来であれば晴泰殿の臨席の上で髪結いしたかったが、いつまでも禿姿のままで城に置いておくわけにもいかない。
我が妻の南の方の差配により、お甄の髪結いの儀がつつがなく行われた。
甄姫へと名乗りを変えたお甄の美しい成長ぶりには驚かされるばかりである。
続いて、実弟の大久保資親と彦姫の夫妻の独立である。
長沼実国の国替えに伴い、鴫山城へと居を移す準備がようやく整う。
既に西部衆の塩田重政が奥会津に入っており、資親の補佐役の付家老として様々な手配を行なっている。
近々に須賀川城下の屋敷を引き払い、夫妻で奥会津に向けて出立する手筈となっており、資親もこれで一城の主人であった。
そして次は我が腹心の源次郎の妻女である冴の出産である。
長らく子供がいなかった源次郎と冴の夫妻であったが、既に昨年の正月に待望の嫡男を得ている。
嫡男に続き、つい先日産まれたのは双子の男の子たちで、源次郎が齢四十を越えてからのケチャドバであった。
尚、双子の忌子として片方を将来僧籍に入れようと考えていたようなので、迷信であると二人にはキツく言い聞かせてある。
最後に、冴の出産に連動したわけではないだろうが、南の方の三度目の懐妊が明らかになっていた。
数え年で言うと俺ももう三十歳となるが、南の方は三十三歳だ。
この時代で言うと高齢出産になるが、南の方の母の久保姫も何度も高齢出産を経験しており、あまり心配はしていない。
そして南の方自身、位階が高いせいか二十代半ばと言われても不思議ではない若々しさなのだ。
「今度は娘が欲しいものだ」
ふと南の方が漏らしたその願望は、吉乃を産んだ吉次への対抗心によるものだろうか。
宴には歌舞音曲が付き物である。
いつも通りの須賀川城下で演者を手配していると、保土原行藤こと左近が最近知り合ったばかりの謡曲師を紹介してきた。
道慶という名の若い謡曲師で、奥州遊覧中のところを数寄者の左近が二本松城下で見つけ、交友を深めたのだそうだ。
左近の文によるとかなりの名手という事なので、左近と共に須賀川城まで道慶を召し出し、サプライズでの謡曲の披露をお願いしていた。
独特の節回しの謡声を束の間まんじりともせずに聞き続ける。
個人的には能や謡曲の良さは全く分からない。
しかし皆が感心しているので、左近の言うように道慶の技量は相当に高いのかもしれない。
数番聞き終えて妻の南の方もだいぶ満足したようだ。
妊娠初期は激しい運動は禁物ゆえ、日課である薙刀の稽古も当然お休み中である。
次男の勢至丸の養育はきちんと乳母が担っていることもあり、南の方は大分暇を持て余していた。
良い気分転換になったのだろう。
「夫殿、この者に格別の褒美を取らせたいがどう思う」
「ああ、構わぬ」
南の方の機嫌が取れるなら安いものである。
小姓を呼び寄せて褒美を用意させていると、左近が道慶の腕前を嬉しそうにアピールしてくる。
「我が君、道慶殿は京から参られたそうです。笛や鼓も素晴らしい腕前にございますぞ」
「ほう、京からか」
そちらの方が興味を惹く。
聞けば、昨秋に織田信長が将軍の足利義昭に十七箇条の異見書を叩き付けたのが切っ掛けだった。
何やら雲行きが怪しくなって来たので、道慶は京を少し離れようと決断。
年が明けて早々に、前々から興味のあった奥州にまで足を向けたとのことである。
「長い旅であったろう。道慶殿、道中で見聞きした何か面白き事があれば教えてくれぬか。褒美は更に弾むぞ」
「はて、そうですな。されば」
少し考えた後、旅の最中の己の体験をおもしろおかしく語り出す道慶。
それは下野を旅している時に盗賊団に目を付けられて危機一髪に陥った話であった。
盗賊らに執拗に追われ、その都度機転を利かせて逃げ続け、最終的に偉いお侍様に盗賊団を退治して貰っての大団円である。
講談師の才能もあるようで、謡曲よりも断然楽しい。
「お武家様の名は岡本正親殿。宇都宮家と同族の塩谷家の家臣だとか。智勇仁愛に優れたる武士でございました」
岡本正親。
対那須家の最前線の山田城近くに位置する、松ヶ嶺城の城主だったか。
確か塩谷家中では現在とても苦しい立場にあると聞く。
使えるな。
さりげなく守谷俊重に目配りする。
俊重もニッコリ笑って頷いてくる。
実は長沼家から下野の三依を引き継ぐにあたり、隣接する塩原を守る塩原越前守より密かにアプローチがあった。
塩原越前守の申し入れとは、ずばり宇都宮家から二階堂家への鞍替えである。
と言うのも、かつては益子氏と芳賀氏の紀清両党を従えて関東八屋形の一家として威勢を誇った宇都宮家も、近年その支配力の低下が著しい。
天文十八年の早乙女坂の戦いで先代の宇都宮尚綱が討ち取られて以来、四半世紀近くに渡って家中の大身たちに振り回され続けている。
主君の宇都宮広綱は病弱で心許なく、今年の初めに妻の兄である佐竹義重に助けられるまで、重臣の皆川俊宗に幽閉されて専横三昧される状態にあった。
北条家を頼って独自路線を歩んでいる壬生家と皆川家や、既に佐竹家との両属状態になりつつある笠間家や茂木家だけでなく、塩原越前守のように宇都宮家を見限る者たちが出てくるのも仕方の無い話であろう。
もともと塩原城は長沼家が十六世紀初頭に築城した城だ。
それを奪った宇都宮家が奥州勢の南下を阻止する為に要害化した。
つまり奥州勢が真っ先に攻め込んでくる拠点となる。
にも関わらず、内輪揉めが続いて援軍が期待出来ないとなれば、城を任された塩原越前守が自己保全に走るのも当然だろう。
そして塩原越前守は塩谷一族の地頭の出であり、岡本正親はその塩谷家の仕える重臣である。
こちら側に引き込んでおいて損は無い相手だ。
十分な褒美を渡した後、守谷俊重に命じる。
「俊重、道慶殿を今宵の宿舎まで案内するように。懇ろに馳走致せ」
「了解ですー」
道慶を説得し、岡本正親への繋ぎ役に仕立て上げるのは守谷俊重の仕事であった。
さて宴もそろそろ解散!というところで注進が入る。
源次郎が小姓から受け取った手紙を差し出してくる。
「殿、京の晴泰殿よりの書状にござる」
宗家の二階堂晴泰殿からの手紙であった。
皆の前で封を切ってバサリと広げ、中身に目を通す。
晴泰殿がこの手紙をしたためたのはちょうど一ヶ月前。
上京の焼き討ちを断行した織田信長の非道に憤り、武田信玄の甲斐帰還を嘆く文言が並ぶ。
三方ヶ原にて徳川軍を鎧袖一触で粉砕した武田信玄の勝利の報を受け、足利義昭は公然と挙兵に及んだ。
しかし、武田信玄は何故か上洛を諦めて三河から兵を返してしまい、織田信長に余裕が出来た。
京に上った織田信長は和睦に応じようとしない足利義昭を圧迫する為に、元亀四年四月初頭に上京を焼き討ちする。
御所と二条城の周りは尽く灰燼に帰してしまい、逃げ惑う人たちへの略奪が横行した。
まるでこの世の地獄であったと晴泰殿の文は伝えてくる。
早くこの地獄を抜け出してお甄に会いたい。
その一文で手紙は結ばれていた。
読み終えてスンッと大きく息を吐く。
武田家が天下が取れた唯一の道筋がこれで断たれたな。
織田信長の覇道は最早止まるまい。
「父上、上方の情勢は如何ですか。晴泰殿は変わりのうございますか」
早速に鶴王丸が尋ねてくる。
側に控える甄姫の心配顔が麗しい。
手紙を源次郎に渡しつつ、鶴王丸に答えてやる。
「晴泰殿はご無事だが、織田信長が上京を焼き討ちしたとあった。内裏から勅命で和睦したとあるが、すぐにまた戦さとなろう。どうやら甲斐の虎が陣中で身罷ったのは確実なようだし、晴泰殿にはすぐに奥州に落ちられるようお勧めしようと思う」
史実通りに武田四天王の采配によって未だ秘められていたが、天命には逆らえなかったらしい。
一昨年に北条氏康、毛利元就、島津貴久と日ノ本の東西の英傑たちが相次いで儚くなっていたが、それに続く大物の退場である。
渡された手紙を音読し、皆に内容を知らせる源次郎。
すると鶴王丸が重ねて尋ねてきた。
「父上、手紙には武田軍は甲斐に帰陣したとしかありません。何を持って信玄入道が没したと判断されたのです?」
「武田軍の動きから風林火山の四如のうち三つまでが欠けている。伝え聞く武田信玄の軍略からはおよそ考えられぬ采配よ。さだめし残る『徐如林』は、薫陶篤き名臣たちが主の遺命を律儀に守っているのであろう」
三方ヶ原で徳川家康を完膚なきまでに叩き潰し、後詰めも封じた状態にも関わらず、小城の野田城の攻略に一ヶ月もかけている。
全然風の如くない。
そして、ただの病気療養であれば、落とした城を本陣にして腰を据え、山県昌景や馬場信春、息子の武田勝頼に三河制圧を任せればよい。
全然山の如くない。
しかし、織田信長が京に出向いている絶好機にも関わらず、不自然なまでに呆気なく本拠の甲斐に向けて兵を退いてしまった。
全然火の如くない。
「よいか鶴王丸、敵が静かに兵を退く時は二つある。一つは後の先を取っての逆撃を狙っている時。もう一つは絶対に襲われたく無い時だ。既に武田軍は徳川軍を三方ヶ原で撃ち破っており前者を選ぶ理由が無い。一昨年に吉次が上方から持ち帰ってきた三国志演技を読むが良い。『死諸葛走生仲達』とあるが、それの再現よ」
「わかりました。父上」
鶴王丸も数え年で十三歳だ。
指摘も大人並みに鋭くなっている。
そろそろ元服を考えねばなるまいな。
「しかし夫殿、織田信長という男は強運だな。これで三好と浅井朝倉を各個に討つ余裕が出来てしまった」
ポツリと南の方が呟く。
その通りであった。
「ああ。織田信長が何度も殿中御状や異見書を突き付けても、公方の行状は一向に改まらない。また挙兵に及ぶは確実だ。織田信長は上京や比叡山まで焼き討ちする男ぞ。公方に付き従った幕臣たちも此度は容赦なく斬り捨てよう。急いで晴泰殿に文を書かねばなるまい」
貰っている俸禄以上に将軍家への忠孝は尽くされたはず。
既にもう五十も半ばを過ぎており、隠居しても誰も文句は言うまい。
この上は須賀川にまで落ち延びて頂き、甄姫と共に健やかな余生を楽しんで頂きたい。
「お父さま・・・。どうかご無事で」
「大丈夫だよ甄姫。父上がきっと何とかして下さる」
見れば青い顔した甄姫を鶴王丸がしっかと支えていた。
奥州も既に梅雨の時期が到来している。
先ほどまでの祝いの空気と五月晴れが嘘のように、また庭の木々の葉を濡らす雨音が響き始めていた。
<1573年 10月中旬>
二階堂晴泰殿が須賀川に姿を現したのは、既に「天正」に改元された後であった。
長旅で衣類は汚れてボロボロとなっており、本人も大分憔悴している。
十年振りに見た晴泰殿はかなり痩せ細っており、積み重ねた苦労が偲ばれた。
「お父さま!」
「おお、お甄か。おお、おお。見間違えたぞ」
それでも感無量で娘の甄姫と抱き合う晴泰殿。
感動的な光景を南の方と鶴王丸らと家族一同で見守る。
鶴王丸がグスッを鼻を鳴らす。
「これ、もうすぐ元服を迎える男子が涙目など見せるものではない」
「泣いてなどおりませぬ。これは埃が目に入ったのです。母上こそ鬼の目にも涙ではございませぬか」
誰が鬼ぞ!と妻と息子が戯れている。
二人とも照れ隠しが下手だな。
何はともあれ無事で良かった。
先に届いた美濃の奥州屋加納支店からの手紙によると、既に足利義昭は河内に追放され、朝倉義景は一乗谷と共に滅亡し、浅井長政の小谷城も落城間近であった。
今頃は浅井家も織田信長に攻め滅ぼされており、北近江の三郡は織田家の出世頭の羽柴秀吉が拝領しているのだろう。
寡婦となったお市の方とその娘たちは、無事に織田信長の下へ送り届けられているのであろうか。
後世では足利義昭の京からの退去をもって足利幕府の滅亡とされるが、この時代の感覚としてはそれは異なる。
剣豪将軍の足利義輝が幾度も朽木谷に逃れたように、歴代の足利将軍の幾人もが京を追われている。
全国の諸大名たちは、今回もまた一過性の将軍の京不在と受け取っていた。
その為、まだ幕府の役職の権威は失われてはいない。
ただし、それも織田信長が内裏を上手く操り、官位のインフレを起こすまでの話だ。
史実においては、織田信長の官位が足利義昭に並んだ二年後の右近衛大将補任をもって、足利幕府の権威は正式に否定される。
それまでに輝宗殿も俺も奥州探題と陸奥守護代に代わる権威、あるいは単純に武力を蓄えておく必要があるだろう。
この戦国時代、最後にものを言うのはやはり力なのだから。
南会津の鴫山城に移った弟夫妻の屋敷が丁度空いていたので、晴泰殿と甄姫に使ってもらう。
宗家の面目を立てる為、こちらから屋敷に参上。
上杉憲政を越後に迎えて御館を用意した、かの軍神の長尾景虎方式である。
側の甄姫にいたわられている晴泰殿に挨拶をし、今後はゆるりと須賀川で過ごすよう伝える。
だが、晴泰殿は須賀川まで逃げてきた己を大いに責めているようで、その顔色は未だ晴れない。
先の槙島の戦いにおいて、足利義昭より三淵藤英と共に二条城を任せられていた晴泰殿。
しかしながら、織田家の大軍を前にして他の奉公衆らが全員逃散してしまったが為に、止む無く晴泰殿も退却を選択していた。
結果として、将軍家に忠義を尽くして二条城に残ったのは三淵藤英ただ一人となり、それも衆寡敵さず柴田権六の前に降っている。
「私は三淵殿を見捨てたのですよ。いや、それよりも三淵殿が弟御の藤孝殿を討とうとした時に止めておれば。後悔先に立たずとはまさにこのこと」
いや、わざわざツッコミはしないけども。
仮に三淵藤英が織田方に寝返った弟の細川藤孝を許していたとしても、結果は何も変わらなかったろう。
「二条城から逃げ出したあの時、私は公方様に仕える資格を失ったのです。あとは生恥を晒すのみ。最後に一目でもお甄の姿をと、気がついたら脚が東に向かっておりました」
「お父さま、ご自分を責めるのはもうおやめください」
「しかしのぉ、お甄よ・・・」
娘の甄姫に嗜められるも晴泰殿の嘆息は続く。
いつまでも付き合っていても仕方ない。
強引に話題を変える。
「さて、晴泰殿には詫びねばなりますまい。米沢で鶴王丸の元服の儀を執り行う為に明日須賀川を発ちます。本来であれば、須賀川まで参られた宗家の晴泰殿に烏帽子親をお頼み申すのが道理でございましょう。されど既に伊達輝宗殿にお願いしており、直前でこれを翻すのもまた奥州探題職に対して非礼。どうかお許し願いたい」
「そのようなこと気になされる必要はありませぬぞ。私は既に幕臣にあらず。役職も官位も奥州探題殿に遠く及びませなんだ。御嫡子にとって名誉なことゆえ、是非とも米沢に向かいなされ」
宗家の許可を得て仁義は通した。
出来れば我が須賀川二階堂家が信濃流二階堂宗家の座を引き継ぎたい。
その為の布石として、晴泰殿に仮親とは言え、鶴王丸の親になって頂きたかった。
しかし今は伊達家との紐帯を更に強くしておくに如かず。
婿を取った甄姫が姫を産めば、鶴王丸の次の代辺りで宗家の血筋を引き込むことが出来るのだが。
なんと言ってもこの器量だ。
婿になりたい男子は数多出てこよう。
まぁ少し未来にはなるだろうが、ゆっくりと統合していけば良い。
<1573年 10月下旬>
米沢で鶴王丸が元服する。
輝宗殿の好意により、阿武隈川の拡幅が完成した祝いの席に併せて、鶴王丸の元服の儀が盛大に執り行われた。
伊達一門と同等以上の扱いである。
髪上げと加冠が無事終わり、輝宗殿から鶴王丸の元服名が発表される。
「鶴王丸殿、そなたは今日から二階堂盛隆を名乗るが良い。御父上の如く、智勇に優れた将となれるよう励まれよ!」
「ははっ、頂いた盛隆の名を汚さぬよう、精進して参ります!」
頬を紅潮させた鶴王丸もとい盛隆が、輝宗殿に対して深く頭を下げる。
合わせて俺も礼をする。
「良き名を頂きました。有り難き幸せに御座います」
実際は俺と輝宗殿で事前に打ち合わせて決めた名前であった。
輝と義の字は将軍家の偏諱ゆえに使えない。
伊達家当主の通字である宗の字は、まだそれ程までに伊達家への貢献はしていないとこちらからはばかった。
結局は盛の字にこちらからの希望で隆を合わせて盛隆となる。
違う名にしようか相当に悩んだが、あえて史実と同じ名にしたのは自分への戒めである。
親の欲目を差し引いても盛隆は絶世の美少年顔だ。
挨拶に訪れた伊達家家中のいい歳した男たちが皆ポーッと見惚れてしまっている。
絶対に衆道へは走らせない。
絶対にだ!
伊達家臣団へのお披露目も一通り終わり、祝いの宴の席に移る。
笛や鼓が鳴らされる中、家臣たちが下手な踊りを披露して場を盛り上げている。
しかし笛の音だけがやたら別格に上手い。
見ればまだ十代半ば程度の少年が笛を巧みに操っている。
「輝宗殿、あの笛の小姓は?」
「さすが義兄上、気付かれたか。あれは喜多の弟の小十郎よ。今は片倉景綱を名乗っておる」
なんでも先月米沢城下でボヤ騒ぎがあったそうなのだが、駆け付けた小十郎の機転で大火にまで至らなかったとのこと。
小十郎の働きを見初めた輝宗殿が、梵天丸の保母を勤める姉の喜多に登用を打診し、現在は小姓として働いている。
輝宗殿はえらく小十郎を買っていた。
「才知に長けた若者ぞ。梵天丸の傅役にどうかと思うておりましてな」
それにやんわりとストップをかけたのは遠藤基信だ。
「まだまだ未熟でござろう。少なくともあと二年は修行を積ませねば、若のお役には立てますまい」
「基信、ゆくゆくの話よ」
「これは失礼。ははは、お許しくだされ」
確か史実では検断職の矢内重定の娘を小十郎の嫁に宛てがったのも遠藤基信だったはず。
後進の育成にもきちんと目端を利かせている遠藤基信は偉いな。
嫁といえば、盛隆の正室を決めなければならなかった。
そろそろ本題に入ろう。
「輝宗殿、我が二階堂家は伊達家とのよしみを更に強めたいと考えておりまする。この盛隆の嫁も伊達家から迎えたいが如何か」
「おお。確かに元服の次は嫁取りとなりましょうな。しかし、肝心の姫がおらん。どうじゃ基信」
「はっ。そうですな。殿のご舎弟や近しいご親族のお子たちを見回しても、盛隆殿と似合いの年頃となるとなかなか」
ううむ。
やはりそうか。
三人で頭を悩ます。
すると、すぐそばで我らの話を聞いていた息子の盛隆が、やおら輝宗殿の前に進み出て平伏する。
「輝宗様に申し上げます。我が妻に迎えたき姫がおりまする。お許し頂ければ我が孫の代まで二階堂は伊達家に忠勤することを誓いましょう!」
な、盛隆よ。
いきなり何を言い出すのだ。
あまりのことに唖然としていると、興が乗ったのか輝宗殿が盛隆の話に耳を傾け始めてしまう。
「ほう、面白し!盛隆殿にはもう好いた女子がおるのか。どこの姫御かな?」
物怖じもせずハキハキと答える盛隆。
「我が信濃流二階堂の宗家の姫御、甄姫になります。今は父御の晴泰殿と共に須賀川に滞在しておりまする」
甄姫だと?
甄姫が須賀川に来て八年。
これまで家族同然に過ごしてきたのに、なんでそういう話になるのか。
頭がついていかない。
「なになに?二階堂家の本家の姫御とな。晴泰殿と言えば確か何度かこの米沢で会うておる。覚えておるぞ」
「晴泰殿には殿の元服や伊達家の奥州探題職補任の折にお世話になりましたな。ご無事であったとは重畳にござる」
二階堂晴泰殿が最後に米沢を訪れたのはもう十年も前だ。
輝宗殿と遠藤基信が懐かしがっているが、そんなことはどうでも良い!
そして衆道どころの話では無かった。
とにかく止めねば。
「盛隆、控えよ!」
「父上、甄姫を娶れば我が血筋が二階堂宗家になります。家中の結束は高まりましょう」
「そなたの正室には伊達家から嫁を取ると決めているのだ。勝手を申すな!」
「甄姫も私のことを好いてくれております!」
え、そ、そうなの!?
幼なじみで両思いって、それなんて奇跡。
「まぁまぁ義兄上。少し落ち着きなされ。基信、これで問題は解決したように思うが、どうじゃ?」
「まさしく。一旦その姫御を殿の養女となさってから盛隆殿のもとへ嫁がせれば、万事丸く収まりましょう。伊達家に年頃の姫君がいないのを逆手に取っての妙案にございますな。早速にも晴泰殿への文をしたためましょうか」
え、ええー!?
伊達家側は存外に乗り気であった。
トントン拍子に話が進み始めていた。
帰りの道中、盛隆は終始上機嫌だ。
いくら小言を述べてもニコニコと受け流される。
須賀川城に戻って、妻の南の方に愚痴を漏らしたら、呆れられた。
「知らぬは我が夫殿ばかり、だな」
盛隆と甄姫が恋仲にあるのは、城中の者ほとんどが知っていたらしい。
「夫殿は白河に入り浸ってばかりゆえ、気付かぬのであろうよ」
だいぶお腹も大きくなってきた南の方に、逆に冷たい目で詰られてしまう。
い、いかん。
「おっとマズい。まずは晴泰殿に謝りに行かねばっ」
慌てて南の方の前から退散する。
だって吉次も吉乃も可愛いのだから仕方あるまい。
二階堂晴泰殿の屋敷に向かい、輝宗殿からの書状を渡す。
晴泰殿が一読し終えるのを待って、まずは詫びる。
「愚息の差し出がましい申し出により、晴泰殿より甄姫を奪う形になってしまいました。伏してお詫びいたす」
「むむむ、お甄を輝宗殿の養女に、ですか」
「はい。伊達家には年頃の姫がおらず、されば最初は五摂家より姫を迎えるべしと議論に及んでいたのですが。公家の姫よりも二階堂宗家の娘御の方が相応しかろうという話になりましてな。反論出来ませなんだ」
伊達家としては、伊達の血筋を引いた姫が二階堂家に三代続いて嫁入り出来るのならば、それが当然一番良い。
しかし、それが現実的に無理な以上、二階堂家の従属状態を維持する上で、他の有力大名の姫ではないのならば、極論すれば誰でも良かった。
そして、五摂家ともなれば養女を迎えるにあたっては相応の謝礼が必要になるが、相手が二階堂宗家であればお手頃価格である。
ベストとは言わないけれども、ベターな選択肢だ。
晴泰殿としては家を絶やさぬ為に一人娘の甄姫に婿を迎えたいはず。
だが、伊達家の養女になった時点で甄姫は二階堂宗家の人間ではなくなる。
つまり厳密に言えば、二階堂宗家は晴泰殿で断絶する事になるのだ。
断腸の想いだろう。
しかし、それが伊達家の意向とあれば、無理にでも受け入れて頂くほか無かった。
一つ大きくため息を吐いてから晴泰殿がその想いを吐露する。
「断れる話ではありますまい。奥州探題の養女に迎えられるはお甄にとっても名誉なこと。それに信濃流二階堂家の宗家の血は、盛隆殿とお甄の間に生まれるであろう和子に引き継がれていく。めでたい話ではありましょう。ただのぅ・・・」
ただ?
「お甄の母方の一族がのぅ。もしこの婚姻を知ったら、いかに思うか心配なのです」
甄姫の母は足利義輝の側室の小侍従に仕えていた女房と知らされていた。
永禄の変にて主と運命を共にしたようだが、その一族とは?
「お甄の母は京に追われた下野の壬生家の姫だったと聞いております。その父は日光山の座主まで務めた方だとか」
日光山。
この時代の東国の全ての武士にとっての聖地だ。
史実では徳川家康が東照大権現として葬られ、八州の鎮守となった御山である。
日光山は寺社勢力が強大で、今は壬生家の徳雪斎周長が統治している。
甄姫はその徳雪斎周長の甥の孫娘にあたるのだそうだ。
足利幕府の権威が消滅しつつある中で、その甄姫を嫡男の正室に迎える。
それはつまり、我が須賀川二階堂家が否応なく下野の勢力争いに巻き込まれることを意味していた。
<年表>
1573年 二階堂盛義 29歳
01月
☆遠江の徳川家康(30歳)、三方ヶ原の戦いで武田信玄(52歳)に惨敗。脱糞しながら浜松城に撤退。夏目吉信(55歳)や本多忠真(42歳)らの多数の将士を失う。
◆常陸の佐竹義重(26歳)、妹の呂姫の求めに応じて皆川俊宗(48歳)を攻める。幽閉されていた宇都宮広綱(28歳)を解放。
02月
■米沢の伊達輝宗(29歳)、山内舜通・氏勝父子の降伏を受け入れる。
☆越後の上杉謙信(43歳)、越中の一向一揆衆と和議を結んで椎名康胤(74歳)の降伏を認め、越後に帰国。
☆越後の上杉謙信(43歳)、約を違えて富山城を占拠した椎名康胤(74歳)を再び追い払う。
◆常陸の佐竹義重(26歳)、元旦の連歌の会中の小田氏治(39歳)を攻めて小田城を占領。
◆常陸の小田氏治(39歳)、隙を突いて佐竹義重(26歳)から小田城を奪還。
03月
◆常陸の佐竹義重(26歳)、手這坂の戦いで小田氏治(39歳)を破り小田城再占領。
▷但馬潜伏の山中幸盛(28歳)、山名祐豊(62歳)の支援を得て因幡へ攻め込み、桐山城を拠点とする。第二次尼子再興運動開。
■米沢の伊達輝宗(29歳)、河原田盛次の討伐完了。奥会津制圧。
◎須賀川の二階堂盛義、伊達輝宗(29歳)より南会津と下野の塩谷郡の一部を割譲される。
04月
☆上洛戦中の武田信玄(52歳)、三河の野田城を攻略。
★摂津の和田惟長(22歳)、配下の高山友照(46歳)・右近(20歳)に返り討ちにされる。右近、重傷を負うも一命を取り留める。
★摂津の荒木村重(38歳)、織田信長(39歳)に臣従。池田知正(18歳)、池田家を村重に乗っ取られて追放。
▶︎︎阿波の篠原長房(60歳)、主君三好長治の母の小少将に疎まれ、上桜城に引き篭もる。
☆越後の上杉謙信(43歳)、越中の神通川以東を自領に組み入れて越後に帰国。
05月
☆上洛戦中の武田信玄(52歳)、瀬田に旗を立てるよう言い残して死去。武田勝頼(27歳)が当主となる。武田軍、三河より撤退。
★山城で二条城の戦い。織田信長(39歳)、足利義昭(36歳)を攻めて上京焼き討ち。
◎須賀川の二階堂盛義の正室の南姫(32歳)懐妊。
06月
▽肥前の龍造寺隆信(44歳)、西肥前平定。
▶︎土佐の長宗我部元親(34)、三男親忠(1歳)に津野氏の名跡を継がせる。
◎須賀川で二階堂盛義、塩原城の塩原越前守から帰順の打診を受ける。
07月
☆越後の上杉謙信(43歳)、再度越中の向けて出兵。椎名康胤(74歳)と神保長職(58歳)を討伐して越中一国を平定する。
☆遠江の長篠城主奥平信昌(18歳)、武田家から離反し徳川家に鞍替え。激怒した武田勝頼(27歳)、人質を磔にする。
08月
☆遠江にて徳川家康(30歳)の側室於万の方(25歳)懐妊。
★山城で槇島城の戦い。織田信長(39歳)、足利義昭(36歳)を京から追放。二階堂晴泰放浪。
▶︎︎阿波で上桜城の戦い。三好長治(20歳)、閉居中の宿老篠原長房(60歳)の謀叛を疑って攻め殺す。阿波三好家の崩壊早まる。
★岐阜の織田信長(39歳)の主導で年号が「天正」に改められる。
▽薩摩の島津義久配下の北郷時久(43歳)、大隅の肝付兼亮(15歳)と戦い勝利する。
◆常陸の佐竹義重(26歳)、小田方の穴倉城を攻め落とす
▷因幡攻略中の山中幸盛(28歳)、山名豊国(25歳)を支援。甑山城の戦いで毛利方の武田高信(44歳)に勝利。鳥取のたのも崩れ。
★山城で第二次淀古城の戦い。織田方の細川藤孝(39歳)、淀城を攻めて三好三人衆の岩成友通(44歳)を討ち取る。
09月
■米沢で大火。片倉小十郎(16歳)活躍。伊達輝宗(29歳)に小姓として召抱えられ、片倉景綱に改名。
★岐阜の織田信長(39歳)、小谷城包囲。浅井家を救援に来た朝倉勢を奇襲。刀根坂の戦いで斎藤龍興(25歳)らを討ち取る。
☆越前で一乗谷の戦い。朝倉義景(40歳)、一族の朝倉景鏡(48歳)に裏切られて討死。朝倉氏滅亡。
★北近江で小谷城の戦い。市姫(26歳)と茶々(4歳)、初(3歳)、江(0歳)を逃して浅井長政(28歳)自刃。浅井氏滅亡。
◆常陸の佐竹義重(26歳)、小田方の戸崎城を攻め落とす。
10月
☆岐阜の織田信長(39歳)、長島の一向一揆を攻める。第二次長島侵攻。失敗。林通政討死。
▽大隅の禰寝重長(37歳)、肝付・伊地知両氏を裏切り、単独で島津義久(40歳)に降る。
★北近江の羽柴秀吉(36歳)、織田信長(39歳)から浅井旧領三郡を授かる。今浜を長浜に改名。
◎須賀川で二階堂盛義、都落ちしてきた二階堂晴泰(43歳)を須賀川で受け入れる。
◎須賀川で二階堂盛義の嫡男鶴王丸(12歳)が米沢にて元服。盛隆と名乗って晴泰息女の甄姫(13歳)と婚約。
11月
◆下野の小山秀綱(44歳)、北条方の壬生義雄(21歳)と皆川俊宗(48歳)を撃退。皆川俊宗を討ち取る。
◆常陸の佐竹義重(26歳)、小田方の藤沢城を攻め落とす。
▷因幡で奮闘中の山中幸盛(28歳)、鳥取城を攻略。山名豊国(25歳)を城主に据える。東因幡を諸城を次々と陥落させる。
12月
■米沢にて伊達輝宗の正室義姫(25歳)懐妊。
◆常陸の佐竹義重(26歳)、小田氏治(39歳)の篭る土浦城を攻める。
★摂津で若江城の戦い。三好義継(24歳)自害。三好本家滅亡。
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▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
<同盟情報[南奥 1573年末]>
- 伊達輝宗・二階堂盛義・石川昭光・佐竹義重
- 田村隆顕・相馬盛胤
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 28万石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 15万7千石
・奥州 伊達郡 1万5千石
・奥州 白河郡 7万4千石
・奥州 田村郡 2千石
・奥州 会津郡 3万石 (NEW!)
・野州 塩谷郡 2千石 (NEW!)
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