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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第五章 英傑たち
31/83

1572 軍神


<1572年 3月中旬>


 伊達晴宗と久保姫の間に生まれた長男の鶴千代丸は、今から二十一年前に祖父である岩城重隆の養嗣子となる。

 そして岩城親隆と名乗り、三年前に重隆が亡くなった事で岩城家の家督を継いだ。

 近年は磐城北部の楢葉平野を巡って小高城主の相馬盛胤と激しく争っており、楢葉城や日向館を取り返すなど優勢に戦さを進めている。


 しかし、元々線の細かった彼の精神は、度重なる戦さで擦り減り続けていた。

 昨秋の戦場にて相馬方の夜襲を受けた折、蓄積していたダメージが遂にその限界値を超える。

 岩城親隆は惑乱して政務が取れない状態となり、近臣たちに幽閉されるに至った。


 当主の代行を急ぎ立てねばならない事態に追い込まれた岩城家。

 しかし、親隆の嫡男常丸は未だ六歳と年少に過ぎた。

 後見が必要となる。


 後見候補は三人。

 佐竹義重と石川昭光とこの俺、二階堂盛義だ。


 佐竹義重は岩城親隆の従弟で、親隆の妹の宝姫を妻としており、実妹の桂姫は親隆の正室である。

 石川昭光は磐城の西の石川郡を治めており、岩城親隆の実弟にあたる。

 俺は俺で岩城親隆の実妹の南の方を正室に迎えている。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


<岩城家系図> ★後見人候補


岩城重隆(岩城氏十五代当主。正室は佐竹義舜娘。1500-1569)

├久保姫(岩城重隆長女。伊達晴宗正室。1521-)

│ │

│ ├岩城親隆(伊達晴宗長男。鶴千代丸。岩城氏十六代当主。惑乱中。1540-)

│ │ │

│ │ ├☆岩城常丸(岩城親隆嫡男。1567-)

│ │ │

│ │ [桂姫(佐竹義昭次女。15??-)]

│ │

│ ├阿南姫(伊達晴宗長女。二階堂盛義正室。1541-)

│ │ │

│ │★[二階堂盛義(須賀川二階堂氏七代目当主。1544-)]

│ │

│ ├伊達輝宗(伊達晴宗次男。伊達氏十六代当主。1544-)

│ │

│ ├★石川昭光(伊達晴宗四男。石川氏二十五代当主。1550-)

│ │

│ └宝姫(伊達晴宗五女。佐竹義重正室。1552-)

└宮山玉芳(岩城重隆次女。佐竹義昭正室。15??-)

 │

 ├ ★佐竹義重(佐竹義昭長男。佐竹氏十八代当主。1547-)

 │

 └桂姫(佐竹義昭次女。岩城親隆正室。岩城常丸の実母。15??-)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 石高が僅か三万石しかない石川昭光はその時点で脱落。

 同じ二十五万石前後の国力となる佐竹義重と俺の一騎打ちとなるが、血の繋がりの濃さは佐竹義重の方が断然上だ。

 佐竹義重の重の字は彼の祖父にあたる先代の岩城重隆から授かったもので、何より実妹が常丸の生母というのが強い。

 後見役として佐竹義重が一番相応しいのは衆目の一致するところであり、岩城家中も大多数を佐竹派が占めている。


 俺としても佐竹義重の後見役就任を大筋では認めざるを得ないが、石川昭光と俺のバックには奥州探題の伊達家がいる。

 会津を飲み込んで更に強大となった伊達家の意向は、さしもの佐竹義重も無碍にする事は出来ない。

 落とし所を探る交渉が続けられていた。






 飯野平の大館城。

 戦国大名としての岩城氏十二万石の本拠である。


 岩城親隆の見舞いと称して訪れたその大館城の一廓で、佐竹家との条件交渉は大詰めに入っていた。

 共に家臣団を率いての対面した佐竹義重とは、五年前に南郷の寺山城にて月光の下で対峙した時以来の直接対決だ。


 佐竹義重はこの年25歳。

 長身で頑健そうな肉体に磨きがかかっており、精悍さが倍増していた。

 かの上杉謙信が「我が武を受け継ぐ者はお主よ」と指名した坂東太郎の完成形である。


 既に二階堂家は奥村永福、佐竹家は外交僧の岡本禅哲がそれぞれの主君に代わって調整を進めており、最後の確認の局面となっている。

 岡本禅哲から両家の合意内容が発表される。


「では、これで良うございますな。一つ、佐竹家は二階堂家へ羽黒山城を割譲するものとする。一つ、常丸殿元服の折に二階堂家よりれんみつ姫を輿入れさせるものとする。一つ、佐竹家は二階堂家に対して和田昭為の奉公構えを申し立てぬものとする。以上三点を持って、二階堂家はお屋形様の常丸殿後見役就任を認め、今後の岩城家の政務の補佐に関して佐竹家に一任する。これで如何か」


 羽黒山城だけではなく東館城の割譲も求めていたが、流石に佐竹家は難色を示す。

 その代わりとして常丸とれんみつの婚約が提案されていた。

 れんみつは我が弟の大久保資近と彦姫の間に二年前に産まれた姫であり、常丸にとっては従妹にあたる。

 彦姫の実家の伊達家の意向もあり、我が二階堂家としてもこの案は受け入れざるを得なかった。

 弟の資近には悪いが、れんみつはこの二階堂盛義の養女として岩城家に嫁ぐことになるだろう。


 和田昭為の件については俺の意向が強く働いている。

 既に間者と見切られている為、佐竹家としてはすぐにでも常陸に引き上げさせたいはずであったが、俺がそれを認めなかった。

 和田昭為の吏僚としての力量は得難いものがあり、阿武隈川拡幅事業を手伝ってもらうにはうってつけの人財だ。

 強引に囲い込みを掛ける。

 佐竹家側も、和田昭為が二階堂家にとっての獅子身中の虫になる事を期待して、最終的には折れている。


「殿」


「委細承知」


 奥村永福に促されて言葉少なにうなずく。


「お屋形様」


「よかろう」


 同様に岡本禅哲の呼びかけに佐竹義重も応える。


 総じて佐竹家が一歩引いた形での落着となる。

 佐竹義重としては、他家に察せられる前に岩城家を丸ごと取り込みたかったところだろうが、その前に二階堂家がねじ込んできた格好だ。

 憤懣やる方ないはずであったが、関東の急変した情勢が選択の余地を無くしてしまう。


 先年の末に北条氏政が上杉謙信との同盟を破棄し、武田信玄との同盟を回復させた。

 その余波は隣国の下野にも波及しており、岩城家と同じく佐竹義重の妹が嫁いでいる宇都宮家では、ただいま絶賛クーデター中である。

 重臣の皆川俊宗が主君の宇都宮広綱の病気に乗じて宇都宮城を乗っ取り、上杉派の岡本宗慶を斬り捨てて家中の実権を握ったのだ。

 皆川俊宗は北条方の壬生家や反上杉の那須家と連携し、親北条路線に宇都宮家の舵を切っていた。

 佐竹義重が北条氏政に対抗する為に当てにしていた下野の戦力は、一夜にしてごっそりと失われてしまう。


 この悪夢のような状況下においては、さしもの鬼義重もせめて北面の安全だけでも確保しておくべきと考えたのだろう。

 むしろ下野に圧迫を加える為にも、また岩城家に敵対している相馬・田村の両家を黙らせる為にも、仙道筋の二階堂家の協力は不可欠である。

 多少の譲歩は許容する態度を見せざるを得ない。


 内心は面白く無くも、大人な対応で誓紙血判に署名する鬼義重。

 こちらも黙って調印に臨む。


 無料で羽黒山城を入手し、さらに将来的に岩城家に介入する余地も得られた。

 これから上杉家と不可侵条約を結ぶ交渉に当たる上でも、佐竹家との連合継続の事実はきっと役立つはずだ。

 まずは満足すべき結果である。


 調印後、岩城家臣団を前にして佐竹義重の後見役就任の挨拶が行われる。

 その間、俺と佐竹義重が視線を合わせる事は一度も無かった。






<1572年 5月下旬>


 輝宗殿の要請を受けて米沢に向かう。

 遠藤基信の進めていた上杉家との同盟交渉が、相互に不可侵を誓う内容で纏まりつつあった。


 由緒正しい関東管領と奥州探題の両者が、東国を股にかけて結ぶ格式高い同盟だ。

 そして室町幕府の役職的には、奥州探題よりも関東管領の方が断然上位である。

 最終的な調印の場には、伊達家側からそれなりの位階の使者を出すのが礼儀であろう。

 奥州探題の名代ともなれば、文字通り陸奥守護代のこの俺、二階堂盛義が春日山に向かうのが筋というものである。

 正使は陸奥守護代の二階堂盛義で、副使は遠藤基信と決まる。


 越後に向かうにあたって、先ずは米沢で輝宗殿に伺候し、同盟の条件の細部と上杉への進物のリストを確認する。

 上杉謙信は無類の酒好きゆえに、進物に関しては須賀川の清酒が一番悦ばれるはずであった。

 守谷俊重に命じ、清酒は先んじて会津に運び込ませている。

 越後への道中の途中で合流する手筈となっていた。


 その他の進物リストと現品確認を一緒に行うも、どうにも輝宗殿の様子がおかしい。

 何か悩み事があるようだ。


「どうなされた輝宗殿。心ここにあらずではありませぬか」


「うむ。すまぬ義兄上。少し相談に乗ってくれるか」


「一体何事でござろうや?」


「義兄上は天下の二甘露門をご存知か?」


 甲斐の名僧の快川紹喜和尚の弟子たちの内、特に優れた二人に付けられた尊称だ。


 そうか。

 梵天丸の師に関する悩みか。


「確か美濃の虎哉宗乙と、下野の大虫宗岑でしたか」


「そのとおり!その一人の虎哉宗乙和尚をこの米沢の東昌寺に招いたのだが、なかなか梵天丸の学問の師となることを承知して頂けぬ。武将の子は弟子には取らぬと申されてな」


「ふむ」


「第二の織田信長を育てるつもりは無い、と莞爾と笑われると何も言い返せなんだ」


 先年の秋に比叡山延暦寺を焼き討ちした織田信長の悪名は、日ノ本全土に広がっていた。

 虎哉和尚の言い分もわからぬではないが、ならば何故わざわざ草深い奥羽の地まで足を運んだのか。

 史実通りに相当なへそ曲がりのようだ。


 誠心を尽くしてるが中々肯いてくれず、輝宗殿もほとほと困り果てていた。

 では一つ、二つ助言をしてみようか。


「何も輝宗殿自らの師として虎哉和尚を招聘しようとしているわけではありますまい。肝心の梵天丸殿をお引き合わせなさればよい。確か東昌寺には見事な不動明王の像があるとか。梵天丸殿に不動明王を拝観させるよう、保母の喜多殿にお命じなされ。自ずと梵天丸殿は虎哉和尚の目に止まりましょう」


「あとは、虎哉和尚ならば既に目を通し始めているやもしれませぬが、直山公(伊達稙宗)が纏められた塵芥集をお渡しなされませ。例え織田家と同じ武門とは言え、伊達家は領民の保護に重きを置く家であることを理解して頂けるのではありますまいか」


 あまり踏み込み過ぎても裏目に出てしまいそうなので、助言はこの程度に留めておく。


 まぁ史実では終生の子弟関係を築く伊達政宗と虎哉和尚の二人だ。

 収まるところに収まってくれるだろう。






 越後を旅する。

 思えばこの世界に転生して初めて奥羽の外に出る。

 ウキウキであった。


 越後はとにかく縦に長い。

 目指す春日山城は上越地方の頸城平野の西端にある。

 須賀川からの距離を測れば、相模の小田原城と同じくらいに遠い。

 数多くの進物を運びつつも彼方此方に立ち寄る行程の為に、往来で一ヶ月を予定していた。


 先ず立ち寄った先は蒲原郡東部にある曹洞宗の名刹、観音寺である。

 須賀川の長禄寺を開基した月窓明潭が、晩年に長尾家の招請を受けて開いた寺院であった。

 須賀川とは非常に縁が深い寺院であり、一度訪れてみたいと思っていた。

 越後から養蜂技術を導入するにあたって大いに骨を折ってくれたと聞いており、百貫ほどの寄進も行う。

 お世話のなった礼ではあったが、勿論打算もある。

 上杉謙信が幼少期に学んだ林泉寺も同じく曹洞宗という事もあり、観音寺は越後国主となった謙信によって手厚い保護を受けている。

 上杉謙信の信用度を上げる為の施策の一環でもあった。

 

 次いで訪れたのは新潟津である。

 蒲原津と沼垂湊と合わせて新潟三ヶ津と呼ばれているが、新潟津の隆盛が盛んで近年では他の津の存在が霞んでしまっている。

 信濃川と阿賀野川の土砂がまだ堆積していない、この時代の新潟港近辺の地形を是非この目で見ておきたかった。


 それからは北国街道をとにかく南下だ。

 途中で琵琶島城の近くを通り、あれが亡き宇佐美定満の居城かと見物する。

 船遊びに誘って長尾政景諸共に溺死したのは本当だろうか。

 興味は尽きない。


 まだ梅雨には入っておらず、天候は良好。

 麗かな春の陽気の中、青空の下で馬に揺られながら物見遊山の旅を満喫だ。






<1572年 6月上旬>


 春日山城に無事到着した我ら伊達使節団は、そのまま上杉家が用意した宿舎に入る。

 先ずは旅の疲れを癒すために城下で一泊し、身形を整えた上で明朝に春日山城へ登城の予定であった。


「お実城様より接待役を仰せつかった上杉家家臣の直江景綱と申す」


「丁寧な挨拶いたみいる。二階堂盛義でござる」


「伊達家家臣、遠藤基信にそうろう」


 この老年の人物が上杉家重臣の直江景綱か。

 内心感動しつつ、遠藤基信と共に挨拶を返す。

 すると直江景綱は、引き連れた若い武人を紹介してきた。


「これなるは皆様方の宿舎の警備を務める大関親憲でござる」


「大関親憲と申す。何か不都合があれば何なりと申し出てくだされ」


 年の頃は俺より二、三歳ほど年若だろう。

 かなり体格が良く、馬面で黒子が多い。


 この男が上杉家中屈指の武辺者の水原親憲か。

 史実における大阪の陣では、徳川秀忠から賜った感状をその場で朗読。

 将軍の前から退出した後、子供の石合戦の如き戦さで陪臣にまで感状を配るとはおかしきことと、徳川将軍家の姿を大いに笑った剛の者と伝え聞く。

 

 良い知己を得る機会であった。

 春日山に逗留の間、大いに交流を深めておきたい。


 水原親憲は初陣であった第四次川中島の戦いで大いに武功を挙げ、上杉謙信に称賛されたとされる。

 その噂は本当なのだろうか。

 是非とも打ち解けて質問してみよう。






 夜遅くまで大関親憲と武功話で大いに盛り上がり、明けて翌日。

 正装の直垂を纏って春日山城に登城する。

 いよいよ関東管領との対面であった。


 春日山城は標高180mの山城だ。

 その城中からは直江津と頸城平野が遠くまで丸見えである。

 風が気持ち良い。


 屋形の大広間に通され、左右にズラリと並ぶ上杉家の重臣たちに囲まれて上杉謙信を待つ。

 右を見ても左を見ても超有名な武将ばかりで、ニマニマが止まらない。


 そして両列の先頭には、上杉謙信の養子が二人。

 十代後半の青年らが座っていた。

 左が長尾顕景、亡き長尾政景の息子で後の上杉景勝だ。

 右が上杉景虎、亡き北条氏康七男の北条三郎である。

 実直そうな長尾顕景と、華のある上杉景虎の対比が面白い。


「お実城様、御成にございます」


 小姓の合図で顔を引き締め、頭を下げて登場を待つ。

 上杉謙信は礼儀にうるさい。

 成田長泰の様には成りたくないからな。


 着座する上杉謙信。


「面を上げよ」


 許しを得て身体を起こす。


「お初にお目に掛かりまする。陸奥守護代、二階堂左京亮盛義にございまする」


「関東管領、上杉謙信じゃ」


 謙信の号を名乗っても、この時期まだ剃髪はしていない。

 直垂に流れるような黒髪。

 四十を超えているはずだが、天才は年を取らないようだ。

 整い過ぎてる容貌はカリスマ性抜群である。


 流石に女体化はなかったが、フィールドタイプの乱戦型格闘ゲームの軍神に相応しいキャラ立ちだ。






 事前の交渉で、既に不可侵条約を締結する方向でまとまっている。

 残すところは交換する人質の確認であった。


「伊達家当主輝宗様のご舎弟、杉目直宗殿で如何でござるか」


「されば上杉家からは、そこなる甘粕景持の次男重政を米沢に送りましょうぞ」


 遠藤基信と直江景綱が互いの人質候補を挙げる。


 本当であれば輝宗殿の次男坊の竺丸が適任であったが、まだ五歳と幼なく人質に出すのは忍びない。

 お東の方の猛反発もあって、止む無く末弟の直宗殿に白羽の矢が立っている。

 上杉家は上杉家で、謙信に子や弟がいない為、重臣の息子がその代役を務めるようだ。

 柿崎景家の息子の晴家が相模に送られた、越相同盟と同じパターンである。


 どうしてもと言われれば、人質を出すのに否やはない。

 ただ個人的に、人質交換は余り意味が無い行為に見えて仕方ない。


 そこで思い立って上杉謙信に対して提案してみる。


「管領殿。提案がございます。此度の盟約、人質の交換は無しに致しましょう」


「なに?」


 怪訝そうな上杉謙信とざわつく上杉家臣団。

 ついでに遠藤基信もビックリしてる。


「明らかに北条氏政の不義理となりましょうが、この春に破談となった越後と相模の盟約が良い例でございます。人質を出しても裏切る者は結局裏切りましょう」


「ほう、なれば如何にして信義の証を立てるのか」


「上杉家の信義の証はもう既に立っております。北条とは手切れとなっても、管領殿はそこに居られる上杉景虎殿を斬り捨てなさらず、更には御養子の座に置かれたままと聞き及びます。その仁愛なる様を拝見させて頂くだけで充分にござる。されば必要となるは我ら伊達家としての信義の証」


 そこで言葉を切って、思わせぶりに腹案を披露する。


 証は毎年一万貫で越後の青苧を買い付ける約定で如何でしょうや、と。







 勝手に条件を変えて交渉を妥結してしまった事で、控えの間に移った後も遠藤基信はおかんむりだ。


「一万貫などいったい何処から捻り出すのです!?」


「そう怒るな基信。伊達家が出せぬというなら、我が二階堂家が責任を持って買い取るよ」


 高玉金山や南郷の諸金山の採掘による蓄えを更に切り崩し、初期費用に充てる事になる。

 しかし、青苧から衣類を加工し、奥州一円に向けて販路を開拓すれば、十二分に元が取れる計算が立つ。

 阿武隈川の拡幅も大分進み、和田昭為の加入もあって、吉次の負担も大分軽くなっている。

 吉次には、阿武隈川の水運を利用した青苧の輸入販売事業も、子育てついでに立ち上げてもらおうではないか。


 上杉謙信とは二年毎に売買契約を見直す条件で合意している。

 上杉家の重臣一同も大いに乗り気で、人質の話はこれで雲散霧消であった。


 上方以外に青苧を大量に捌ける販路が出来る利を見極め、冷静に判断を下した上杉謙信。

 とかく軍神として名高い彼であったが、史実においては軍資金を貯め込む才も相当なものがあったと聞く。

 ただし、商才があって理財に明るく、ガメつく金を蓄えたという風でもない。

 単純に頭脳明晰で、何事にも如才なくこなしてしまう天才なのだろう。


 勿論のこと二年縛りにしたのはこちらの意向である。

 気候の変動により収穫高も変わる為、価格の見直しの機会が必要との主張が通った。

 価格交渉の場には須賀川の清酒を進物として持ち込み、信用度を維持していくつもりである。

 ただ俺の予想では恐らく契約の更新は二度までだ。

 三度目はあるまい。


 軍神の唯一の弱点。

 それは酒だ。


 その弱点は、この後に行われた盟約成立を祝う宴の席で、さっそく発揮されてしまう。






「うまい」


 須賀川から持ち込んだ清酒を一口に飲み干し、上杉謙信が感嘆の声を漏らす。


 上杉家の家臣たちもまた極上の酒に舌鼓を打っていた。

 久しぶりの祝いの席のようで大分盛り上がっている。


「ほう、これが噂の奥州の酒でござるか。見事なものではないか」


「そうかのう。澄み過ぎて、いくら飲んでも酒を飲んだ気にならぬ」


「なら儂に寄越せ」


「いやじゃ」


 直江景綱と柿崎景家の老臣漫才だ。


 北条家と手切れとなり、上杉家はこの二月に関東に出兵。

 利根川を挟んで武田と北条の兵と対峙している。

 関東の諸将の動勢は定かならず、越後に引き上げた後も、上杉家中の面々には気の休まらない日々が続いていたようだ。


 それは上杉謙信も同じだったらしい。


「干天の慈雨の如き酒ぞ」


 ゆったりと杯を干していくのだが、その量は尋常じゃなかった。


 普通に見えて、実は大分酔いが廻っているようだ。

 据えた目で突然問うてくる。


「左京亮。そなた、父を敵ごと撃ち殺したと聞く。どのような想いで引き金を引いたのか」


 酒の席のざわめきがピタリと止まる。


「お実城様、何もこのような祝いの席で尋ねるような話ではありますまい」


 直江景綱が嗜めるも上杉謙信は止まらない。


「こやつの心底が見えぬがゆえに聞いておる。左京亮、答えよ」


 なかなかに胆力が必要な場面が、いきなりやってきた。






 思い返せばもう十年だ。

 しかし、あの時の引き金の感触は今でも鮮明に思い出せる。


 己の悔恨も、父の覚悟も、畠山義国の狂気も。

 言葉にすれば全てが陳腐になるだろう。

 全て己が内に在るだけで良い。

 他人に何がわかるというのか。


「言いたくありませぬ」


 出来るだけ冷静に答える。


「なんだと」


「されば天文十七年。管領殿は実兄の長尾晴景殿と刃を交えられておいでだ。その時の御身の心情を開陳せよと求められても、難しゅうございましょう」


 場がひりつく。

 上杉謙信本人のみならず、上杉家自体のタブーに触れたようだ。

 だが関係無く言葉を重ねる。


「先程我らは互いを侵さぬことを神仏に誓い申した。その血判も乾かぬうちに言葉の刃を持って斬り込んで来るとは。関東管領殿のご了見を疑いまする」


 言い放って上杉謙信と向き合い、その眼力に正面から対抗する。


 あの軍神と名高い上杉謙信と差しで睨み合うなどと、予想だにせぬ事態であった。

 能力値もド平均なマイナー武将の二階堂盛義にとっては、身に余る舞台であろう。

 なんでこうなった?と内心首を傾げながらも、丹田に力を込める。


 すると、フッと上杉謙信からの圧力が弱まった。


「ふふ。面白い。その物言い。まるで宇佐美のようじゃ」


 宇佐美?

 宇佐美定満のことか。


 視界の端で若い長尾顕景が身動ぎしている。

 親の仇の名に反応したか。


「その方の言う通りよ。我の無礼を詫びよう」


 軍神、存外素直であった。

 緊張していた上杉家臣団もホッと一息である。






 宴もそろそろ締めという段になり、上杉謙信から再びご下問があった。

 今度は友好的な質問で安堵する。


「手厚い進物であった。先程の詫びも含めて返礼を用意しようと思うが、何がよい?」


 渡りに船とはこのことだ。


「されば、奥会津の山内舜通と河原田盛次の両人への、伊達家への帰順を勧める文を所望致しまする」


 両者ともに上杉家を頼って伊達家への抵抗を続けている。

 その頼みの軍神がアテにならないと知れば、自ずと膝を屈してくるはず。

 よしんばそれでも降らないとなれば、武力制圧の大義名分が立つ。


「奥州の武士が奥州探題に従うは道理。その程度なら容易いことよ」


 快諾してもらえた。

 ただし、しっかりと釘も刺される。


「あまり無体な事はせぬがよい。武田の奴輩の如く、欲しいままに人倫に悖る道を進めば、きっと天罰が降ろう」


 軍神がこの世で最も嫌うのは、孫子四如の文字だそうだ。

 塩を送ろうが何だろうが、そこは若い頃から変わってないらしい。






 翌日、御館を訪ねて先の関東管領の上杉憲政に挨拶をした後、宿舎に戻ると春日山城が何やら騒がしい。

 大関親憲に尋ねてみたら、何でも加賀一向一揆衆が越中に乱入したのだとか。

 上杉家中に我らを接待している暇など最早無さそうだったので、邪魔にならないように米沢に戻る準備を開始する。


 そして大関親憲と別れを惜しみ、いつか機会があれば須賀川を訪れるようにと言い含めて春日山を発つ。

 再び春日山城を訪れる日が来るのかどうかさえもわからぬが、なかなかに得難き旅であった。






<1572年 10月下旬>


 関東管領上杉謙信の文を持ってしても、田舎侍の武士の一分は挫けないようだ。

 只見の山内舜通と南会津の河原田盛次の両名は、未だ米沢への伺候を拒絶中である。


 孤立無援の状況を理解しているにも関わらず、武士の本懐と宣っての抵抗であった。

 如何に大徳の輝宗殿であっても、これ以上野放しにしては奥州探題職の沽券に関わる。

 秋の刈り入れが終わるのを待って山内・河原田の両家の追討を宣言。

 奥羽内外に伊達家の武威を見せつけるが如く、伊達家は派兵可能な全戦力を黒川城に集結させていた。

 我が二階堂家や石川家も会津に駆け付け、その数は総勢で二万三千人を超える。

 壮観である。


 黒川城の大広間にて軍議が開かれ、輝宗殿自らが基本戦略を説明し、諸将に発破をかける。


「義兄上は昭光の手勢と共に鴫山に向かい、長沼盛秀の案内で和泉田城を攻められよ」


「承知」


 我が二階堂勢は、後に下野街道と呼ばれる南山通りを進軍することが決まった。

 伊達家の主力は沼田街道を進む。


「残りの者どもは儂に続けっ。只見の岩谷城に攻め掛かるぞ!」


「「「応っ!!」」」


 会津が伊達家の下に帰属してから三年が経つ。

 その間、伊達家に臣従した長沼盛秀と河原田盛次の間で小競り合いが続いていたが、これが初めての大規模な奥会津への派兵となる。






 鴫山城で長沼盛秀の手勢と合流。

 七千五百の兵を率いて南会津の和泉田城に迫る。

 伊南川を挟んだ対岸の簗取城をあっさり攻め落とし、本陣を構える。


 戦闘モードで確認するに、和泉田城には三百ほどの兵が篭っている様子だ。

 城主は五十嵐道正。

 河原田家の支族である。


「我が君、やはり一戦に及ぶとのことでした」


「ならば仕方ありませぬなぁ。一揉みに攻め潰しましょうか」


 保土原左近の降伏勧告の結果報告を受け、大内定綱が我攻めを献策してくる。


 和泉田城は典型的な山城で、史実では会津を制圧した伊達政宗が、配下の原田宗時に四千五百の兵で一日で攻め落とさせた城であった。

 しかしながら城方の抵抗が凄まじく、八百もの損害を得てしまい、その後の伊達家の奥会津征服が頓挫する原因となっている。


「いや、やめておこう。なかなかに攻め難き城に見える。輝宗殿からは攻め急ぐ必要無しと言われておる。ゆるゆるとやろうぞ」


 城の東側に布陣している石川勢や長沼勢には威嚇を担当してもらう。

 我が手勢には西側から鉄砲と弓を射掛けて城兵を追い詰め、堀切を埋め立ててジワジワ攻めるように指示を出す。

 守りの硬そうな正面への攻めはあくまでダミーであった。






 幸いなことに五十嵐道正は楠木正成ではなかったようだ。

 一週間ほどの籠城戦を経て、和泉田城は開城。

 城方の三分の一は討死しているが、我が方の被害は五十名足らず。

 完勝である。


 半数にまで目減りした動ける兵とその家族たちを引き連れ、久川城に向けて退去していく五十嵐道正。

 あえて騙し討ちはせずに、開城の条件に従って黙って見送る。

 ボロボロとなった五十嵐道正らの一行の姿が我ら伊達勢の強大さを喧伝してくれる。

 彼らを受け入れた久川城の士気は低下するだろう。


 只見を攻める伊達本軍も順調であった。

 伊達家の大兵の前に、首藤山内氏の一族は次々と裏切り見せていた。

 本拠の中丸城を支えきれなくなった山内舜通は、更に奥地の水久保城に逃れている。


 一気に攻め落としたいところではあったが、窮鼠猫を噛むの言葉があり、冬も近づいて来ていた。

 また、遠く越中で一向一揆相手に荒ぶっている上杉謙信との約定もある。

 輝宗殿と相談の上で一旦ここまでで兵を引き上げ、改めて山内・河原田の両氏への降伏勧告の使者を送る運びとなった。


 軍神の信用度を下げないよう対処するのは、中々に大変である。






<年表>

1572年 二階堂盛義 28歳


01月

☆岐阜の織田信長(38歳)の嫡男奇妙丸(17歳)元服。織田信重を名乗る。

◆相模の北条氏政(34歳)、北条氏康の遺言に従って越相同盟破棄。甲斐の武田信玄(51歳)と再同盟。

◆下野の宇都宮広綱(27歳)、病臥。重臣の皆川俊宗(47歳)が親上杉派の岡本宗慶を殺害して宇都宮城を占拠。専横開始。


02月

◆関東出征中の上杉謙信(42歳)、武田・北条両軍と利根川を挟み対峙。


03月

◆磐城の岩城親隆(32歳)、人事不省となる。常陸の佐竹義重(25歳)が岩城常丸(5歳)の後見となって磐城を併呑。

◎須賀川の二階堂盛義、佐竹義重(25歳)より羽黒山城を受領する。岩城常丸(5歳)とれんみつ(2歳)の婚約成立。


04月

▼三戸の南部晴政(55歳)、南部信直(26歳)を襲撃。信直、防戦して晴政を狙撃。南部家内乱状態に突入。

▼羽後の湊騒動終結。檜山の安東愛季(33歳)、豊島玄蕃を追放。秋田郡と由利郡過半を勢力下に収める。


05月

▼津軽の大浦為信(22歳)、石川高信の後継の石川政信(16歳)を討つ。

■米沢の伊達輝宗(28歳)、虎哉宗乙(42歳)を招いて梵天丸(5歳)の師とする。


06月

▽薩摩の島津義弘(37歳)、木崎原の戦いで大勝。伊東義祐(60歳)、家中の有力武将を尽く失って真幸院攻略頓挫。相良軍撤兵。

◎須賀川の二階堂盛義、越後に行脚して上杉謙信(42歳)と対峙。清酒を贈って越伊同盟締結。

☆加賀の杉浦玄任(55歳)、一向一揆衆を率いて越中に乱入。上杉方の諸城を攻略する


07月

▽肥前の龍造寺隆信(43歳)、少弐政興を肥前から追い出す。

◆常陸の佐竹義重(25歳)、下野の那須資胤(45歳)と和睦。長男徳寿丸(2歳)の嫁に資胤の娘を迎え入れ、武茂城を受領。


08月

★岐阜の織田信長(38歳)、北近江に虎御前山砦を築いて木下秀吉を入れ、浅井朝倉間の連絡を断つ。前波吉継(47歳)と富田長繁(20歳)が織田家へ返り忠。

◆甲斐の武田信玄(51歳)、本願寺顕如(28歳)に越中一向一揆の発動を依頼。


09月

☆越後の上杉謙信(42歳)、越中に出征。加賀一向一揆衆と戦う。

☆織田方の木下秀吉(35歳)、織田家家老の丹羽長秀(37歳)と柴田勝家(50歳)から一字づつ貰い、羽柴性を名乗る。


10月

▷備前の浦上宗景(46歳)、足利義昭(35歳)・織田信長(38歳)に仲裁を頼んで毛利輝元(19歳)と講和。

☆越後の上杉謙信(42歳)、尻垂坂の戦いに勝利して加賀一向一揆衆を越中から駆逐。

■米沢の伊達輝宗(28歳)、只見の山内舜通を攻めて水久保城まで追い詰める。

◎須賀川の二階堂盛義、南会津の河原田盛次を攻めて和泉田城を奪取する。


11月

★上洛した織田信長(38歳)、足利義昭(35歳)に十七カ条の異見書を叩きつける。

☆甲斐の武田信玄(51歳)、西上作戦開始。遠江に侵入し徳川家の二俣城を攻める。第二次信長包囲網形成。

☆越後の上杉謙信(42歳)、富山城を攻め落とす。


12月

☆武田方の秋山虎繁(45歳)、織田信長の叔母おつやの方(34歳)を口説いて岩付城を陥とす。

☆越後の上杉謙信(42歳)、岐阜の織田信長(38歳)と盟約を結ぶ。濃越同盟成立。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[南奥 1572年末]>

- 伊達輝宗・二階堂盛義・石川昭光・佐竹義重

- 田村隆顕・相馬盛胤

- 山内舜通・河原田盛次


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 24万8千石

・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 15万7千石

・奥州 伊達郡 1万5千石

・奥州 白河郡 7万3千石 + 1千石 (NEW!)

・奥州 田村郡 2千石


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