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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
序章 須賀川に立つ
3/83

1550 初升

<1550年 05月某日>


 モー、ゥモー


 乳を絞られ牛が鳴く。

 ここ最近は疱瘡・天然痘対策の牛の乳絞りが毎朝の日課になっている。

 手ずから桶に集めた牛乳を台所に運んで煮沸。

 そして体の育成の為に毎日升一杯分の牛乳を飲む。


 今年に入ってすぐに父の二階堂行秀に散々掛け合い、須賀川城内の犬馬場の一部に牛舎を建てた。

 近隣の村々から出産直後の雌牛(牛痘のある牛)とその子牛のペアを一組だけ借り、角を落として牛舎で飼育。

 乳の出が悪くなったら村に戻し、他の出産直後で頃合いの牛を新たに借りるルーティーンを確立する。


 ホルスタインではなく労役に使う普通の牛だ。

 乳の量はそんなに出ないし、味も不味い。

 品種改良って大事だよねと改めて思い知る日々を送っている。


 この時代の奥羽では、牛よりも馬の飼育に力が入れられている。

 奥州産の駒は関東のそれと比べてもガタイが大きく、健脚のため高く売れる。

 関東や上方の馬商人に馬を売って銭を稼ぐのが、鎌倉時代以降の奥州の諸豪族にとって生計を立てる術の一つとなっている。

 特に北奥州の南部駒なんて、源義経が活躍した奥州藤原氏の頃から超ハイブランドで、武者なら一度は乗ってみたい一品だ。

 まさしく戦国時代のスーパーカー、南部の跳ね馬である。

 馬の繁殖が奥州でそれほど盛んということは、当然農耕用の家畜も牛より馬の数が圧倒的になっていた。


 ただ隣国の会津地方では牛が神聖視されている関係上、農耕用の牛もまだまだ多い。

 平安初期に国内の寺を立てるのを手伝ってくれたとか、疫病(天然痘)を追い払ってくれたとか。

 兎角会津地方では赤い牛を守り神と同一視する伝承が多かった。

 会津に程近いこの須賀川にもその風習は伝わっており、他に比べて牛を入手しやすい環境にあったと言える。


 犬馬場に牛舎を作るに当たって、当然周りの武者たちは良い顔をしなかった。

 牛を飼うくらいなら一頭でも良質な馬を飼うべし!と不平不満が上がる。

 そして俺が乳を絞ろうとすると、若君が牧童のような行為をするなどもってのほか!と忠臣顔で文句。

 さらに牛の乳を飲もうとする俺を見て、吐きそうな顔をしてゲテモノ喰い認定である。


「牛頭天王の神託を受けたのじゃ!いいからとにかく牛を連れてまいれ!父上の許可は得ておる!」


「わしが当主になったら、一族郎党の幼き子は必ず牛の乳絞りをするよう、家法を定めてくれん!」


「古の天皇上皇も牛の乳を飲んでたと聞くぞ。醍醐は牛の乳から作られるのじゃ。超高級品じゃぞ!ぬしらも飲め!」


 たかが6歳の童が、舌ったらずな口調で癇癪を起こしながら、そんな言葉で喚くのだ。

 どう考えても異常で怖いだろう。

 ホラーの類いである。

 薄気味悪過ぎて、もしかしたら害意まで抱いてしまうレベルやもしれなかったが、全て「牛頭天王の神託!」で押し切った。

 毒食わば皿までとばかりに領内を富ます為の一手も更に打っている。


「余った乳で(チーズ)を作って岩瀬の特産とするのじゃ!」


 かつての大和朝廷は全国に蘇も税として治めるべしと触れ回り、諸国の国司にその製造手順をばら撒いた。

 武士が台頭してきた鎌倉時代を経て、その徴税方法は製造手法も含め、とっくの昔に廃れている。

 しかしながら、源次郎に領内の寺院仏閣を当たらせたところ、須賀川城西方の桙衝神社に製造手順を記した書物が運良く残っていたのである。


 桙衝神社は日本武尊が東征時に八尋の矛を突き立てて蝦夷討伐を武壅槌神に祈ったのが開基とされ、大和朝廷からは同じくを武壅槌神を祭る常陸の鹿嶋神社の分社と目されていた、由緒ある神社である。

 平安末期の前九年合戦の際には、源氏の総帥である源頼義が桙衝鹿島大明神と呼んで戦勝祈願を行ったほどであり、規模も大きく文献も維持管理がしっかりとなされている。

 今回蘇を再現させるべく、神社の神主たちに協力を仰ぐことに成功。

 現在鋭意試行錯誤中である。


 問題なのは、レシピに記載されている升や匙の容量が不明なために、レシピを正確に再現できない点だった。

 日本で初めて度量衡が統一されるのは確か豊臣秀吉の時代で、今から約50年後くらいだろう。

 それまでは日本各地でマチマチなサイズの升を使っており、年貢となる米の分量もどんぶり勘定であったと聞く。

 将来的に須賀川領内で使用する升のサイズを統一することも視野に入れて、まずは基準となる升の製作を職人たちに依頼。

 その新升、須賀川升の活用を蘇造りから開始する。


 また牛乳は足の早い食材である。

 牛乳を取り扱うに当たって、衛生面にも気を使わないと洒落にならないことになる。

 その危険性を低減するための対策については、立案も含めて桙衝神社のかまど番に丸投げだ。

 

 そんなこんなで、最近は家中の武者たちから「どこが竜王丸だよ、あれじゃ牛王丸だろ」と陰口を叩かれている始末。

 なのでいっそのこと今度は夢に迦楼羅天が出てきたことにして、次は養鶏を推奨してみようと思ってる。

 新鮮な鶏肉と卵が継続して手に入れば食のバリエーションも増えよう。

 いずれは豚、養豚にも手を出したいが、あれは飼育が大変だからなぁ。


 仁王立ちで腰に手を当て、升に注いだミルクをゴクゴクと飲む。


「若君、そろそろ刻限です。書院に移られませ」


 升のミルクを呑み干したタイミングで、傅役の須田盛秀こと源次郎が声を掛けてきた。


「今日もまた習字か。何とかサボれないものか。練習用の紙だって結構値がはるのに」


「若君。また我が父にしばかれますぞ」


「うー、わかっておる」


 書の手習いの教師は二階堂四天王の須田家の長老須田永秀だ。

 もう六十代も半ばを過ぎているにも関わらず、矍鑠としている爺さんである。

 この年の春に隠居して家督は嫡男の須田秀行に譲っており、隠居後の目下の楽しみは俺の養育らしい。


 怒らせるとめっさ怖い。

 主君の息子だというのに普通に拳骨が飛んでくる。

 ちなみ我が傅役の源次郎は永秀の次男となり、須田秀行の弟に当たる。


 ええいっ、おっくうだが勉学に向かうとしよう。






 クシャッ。


 また字が潰れてしまった。

 きーっ!ええい、なんて書き辛さだ!


 自分、筆との相性が最悪で、未だに字がまともに書けない。

 フリックやキーボード入力に慣れ過ぎていたせいか。

 せめて鉛筆やシャーペン、ボールペン、万年筆・・・。


「若、このような汚い文字の文では相手に舐められますぞ!一筆一筆にもっと気合いを入れなされ!」


 正座して机の上の紙に向かい、筆を取って字の練習。

 戦闘モードに入れれば、どのような手紙や書物でも勝手にルビが振られて読めるようになる。

 問題は書く方だ。


 この時代、紙はとにかく高い。

 特に奥州で良質な紙を手に入れるには、上方か関東の商圏の紙座から取り寄せなければならず、余計高価になる。

 紙座の既得権益がどうのこうの、楽市楽座は素晴らしいだのを論じる以前の問題である。

 紙を無駄にしないよう、細かく文字を書こうとしなければならず、余計に集中力と指先の神経が削られていく。

 すぐに指が疲れて震え、字が崩れてしまう。


「爺、右筆を雇うには日当幾らくらい用意すれば」


「カッーーーー!!!なんと情けないっ。そのような性根では文武両道の良将にはなれませぬぞ」


 思わずぼやくと永秀爺にガミガミ言われる。

 花押を書くだけで済むように、早く右筆を雇えるだけの財力を蓄えたいよ。

 

 そんな事を考え、永秀爺の小言を上の空で聞き流していると、唐突にぐらりとそれは来た。

 地震である。






「びっくりした」


「随分長い地震でございましたな」


 永秀爺に手早く担がれて庭に逃れ、地震をやり過ごして一息つく。

 須賀川ではあまり震度は大きく無かったようだが、結構横揺れが長かった。

 震源は遠くだろうか。


「城内を見回りましたが、特に目立った被害は無いようです」


 源次郎がささっとやって来て報告してくる。

 この時代でも宮大工の技量は発達しており、金を掛けて作られた屋敷や寺、仏塔などはある程度の耐震強度は確保されている。

 だが町家や城下の庶民の家はそうも言ってられないだろう。

 領内の金山の状況も心配だ。


 しかし地震か。

 この時代の日本列島は地震や火山活動が活発な時期だったはず。

 史実通りに起こるとすれば、事前に知っている自分なら対策が可能。

 他の大名たちを出し抜く手妻の一つにすることも出来よう。


 日本の戦国時代に起こった有名な天変地異となると何だろうか。

 武田家が滅亡する直前の1582年の浅間山の噴火は有名だった。

 あとは小牧長久手の戦いの直後、秀吉が家康征伐を中止せざるを得なくなった1586年の天正大地震。

 そして秀吉の伏見城が倒壊し、地震加藤で加藤清正が名を上げた1596年の慶長伏見地震あたり。

 関ヶ原以降でいうと、全国的に津波の被害が大きかった1605年の慶長地震、そして立て続けに東北地方を襲った1611年の慶長会津地震、慶長三陸地震が挙げられるが。

 って、どれも自分が死んだ後(1581年以降)の話じゃないか。

 あまり役に立たないぞ。


 1581年以前の奥羽に限定し、思い当たる災害がないか頭を捻る。

 うーん、思い出せない。

 地震、雷、火事、野分、あと火山の噴火?

 須賀川近隣で注視しないといけない活火山を強いて挙げるとすれば、会津磐梯山だろうか。


 この時代はまだ山体崩壊を起こしておらず、桧原湖も存在しない。

 磐梯山が噴火して北麗の村々が押し潰されてしまうのが確か1888年。

 今は加圧が高まって来ている状態のはず。

 火山性活動が頻繁に起こっても不思議ではない。

 外道な話だが蘆名氏攻略になんとか役立てれないだろうか。


 でもちょっと待てよ。

 天変地異だけじゃない。

 もっと色々な内政チートがあるじゃないか。


 良い機会だ。

 富国強兵、殖産倍増に使えそうなチート知識を整理しておこう。


 鉱山はもう高玉金山に当たりを付けている。

 食品関係だと、清酒・椎茸・パン・そば切りの製法や、水車や千歯扱ぎなどの労働力低減に関するノウハウ。

 嗜好品では、砂糖・馬鈴薯・甘薯・砂糖黍・ビートに関する入手経路。

 衛生健康面では、牛痘以外にも石鹸・歯磨き粉・安全剃刀・防虫草・オギノ式の基礎知識と、湯治用の温泉が湧き出そうな場所。

 軍事関連では、長槍・長弓・鉄砲の運用方法や、硝石の取り方。

 その他土木建築関係では避雷針、土地の把握のための三角測量の知識、堤防や土地改良に適した地の情報も役に立つはず。

 江戸時代にここいら辺が一大産地となるはずの養蚕も、是非今のうちから奨励していきたい。


 うーん、今すぐにでも書き出して置かないと忘れてしまいそうだわ。

 えっと書くもの書くもの。


「爺、筆と紙をもて」


「なんと!このような状況下でも習字を続けたいと仰るか!これは名将の予感」


 いや、そういうことじゃないんだ。






<1550年 6月某日>


 去る天文十九年五月四日に、南近江で先の将軍の足利義晴が病死した。

 三好長慶に京を追われ、結局京に戻ること叶わずに亡くなってしまったわけだが。

 例のごとく宗家の二階堂晴泰からの多額の香典の拠出要請が須賀川に届く。

 予想していた偏諱の打診とは違うパターンでの集金に、父も頭を抱えてしまっているようだ。


 足利義晴の後継の征夷大将軍の足利義藤はまだ十五歳。

 既に義晴在命中から将軍ではあったが、後ろ盾の義晴を失った今、周囲からは細川晴元と六角定頼の傀儡、神輿と見られている。

 これから将軍としての己の影響力の拡大を図り、全国に名前を売っていくために躍起になって動くだろう。

 香典とは別枠で、近い将来に義藤から要請されるであろう支援金の額も、大きく跳ね上がることが予想された。


 また数日前、大崎にて大崎家当主の大崎義直が、己の養子の大崎義宣を攻め殺したという驚きの知らせがあった。

 義宣は我が祖父伊達稙宗の次男で、義直とってみれば稙宗によって強引に押し付けられた跡取りであった。

 天文の大乱では義直と義宣はそれぞれ晴宗方と稙宗方に別れ、大崎家中を二分して激しく相争っている。

 そして稙宗の隠居で後ろ盾を無くしてしまった義宣は、大崎家での自分の居場所も無くす。

 日々の義父の圧迫に耐えかね、大崎家と犬猿の仲である葛西家に逃亡しようとするも、追い付かれて討たれてしまったそうだ。

 何も殺さなくてもと思うが、元来大崎家は奥州探題の家柄で、本来であれば伊達家の主君筋である。

 伊達稙宗は大崎家が代々就任していた官位の左京大夫を奪い、更に前例のない陸奥守護に就任し、大崎家の権威を徹底的に貶めてきた。

 その伊達家から養子まで迎え入れて従属状態におかれてしまったことが、よっぽど恨み骨髄だったのだろう。

 これが天文十九年の五月二十日のことである。


 前年の相馬顕胤の死去に続いて、旧稙宗方はまた一つ力を落とすことになった。

 パワーバランスが崩れたことにより、再び奥州に戦雲がやってきそうな気配が漂い始めている。


 先日の地震による領内の被害に関する復旧のための臨時出費。

 そこにさらに戦になった場合に必要となる矢銭。

 一族重臣を集め、朝からずっと対策を論ずる評定が行われている。

 結論は中々出ず、そろそろ昼食の時間にまで至る。


「源次郎、準備は良いか」


「はっ、膳の支度は全て滞りなく済みましてござりまする」


「では行くか!」


 源次郎や神社の神主たちの協力を得て、須賀川の新たなる特産品となる三種が完成していた。

 須賀川城の台所頭や小姓たちを懐柔し、評定の合間の昼食の膳でサプライズで披露してしまおうという魂胆である。


「父上、そろそろ昼食としてはいかがでしょう!」


 頃合いを見てトテトテと評定の間に推参する。

 突然の当主の幼児の登場に、難しい顔を付き合わせて論議していた一族重臣たちは虚を突かれた様子。


「これ竜王丸、子供が顔を出すような場ではない。引っ込んでいなさい」


「まぁまぁ父上、古来より腹が減っては戦にならぬと申すではないですか。源次郎!」


「はっ!」


 源次郎に差配されて小姓たちが膳をずらずらと運び込んで来る。


「なんじゃこれは」


「風変わりな。これはほんとに食べ物か」


 膳の中を見てどよめく一門と重臣たち。

 父上も驚いている。


「説明せい。竜王丸」


「はい。それでは」


 一つは牛乳から作った蘇、まあ厳密には違うが言うなればチーズである。

 やっと製造手順を確立することが出来たため、このお披露目に間に合った。

 塩気を利かせ、薄くスライスした数枚を皿に乗せて出している。


「味が濃いのぉ、酒のあてにぴったりではないか」


「牛の乳がこのようになるとは。保存も効くのは便利じゃの」


 一門衆たちがチビチビとチーズを齧り、じっくり味わっている。

 なかなか好評のようだ。


 もう一つは蕎麦である。

 と言っても、この時代に信州を中心とする東国で良く食べられていた蕎麦がきではない。

 後に蕎麦切りと呼ばれる、この時代では革新的なスタイルの蕎麦であった。


 源次郎に命じて蕎麦の実を集め、蕎麦の実を臼で引かせ、蕎麦粉を作らせてみた。

 ここまでは蕎麦がきを作るのと一緒の手順である。

 そこから俺自ら横で監督し、蕎麦粉に水を入れて玉にし、練って蕎麦だねを作らせ、平たく伸ばし、細く切るように指示。

 しっかりと茹で上げて水で締め、大振りの椀に盛り付けてある。

 蕎麦ツユはたまり醤油は高価だったので、須賀川でも良く採れる辛味大根のおろしとおろし汁を用意した。

 蕎麦に鰹節をふりかけた高遠そばスタイルで提供。


「ズルズルッ。これは止まらぬ!」


「辛っ!それがまた美味いわ」


 重臣一同夢中になって蕎麦を大根汁でわしわしと掻き込んでいる。

 事前にリサーチしており、蕎麦がきがアレルギーで食べれない重臣には、うどんを用意しているので安心だ。


 最期の一品は酒である。

 ここ須賀川でも酒蔵は数蔵ある。

 当然この時代の一般的な酒は濁り酒だ。

 酒蔵から取り寄せたその酒を、炭を叩いて砕いた粉末を使って濾過。

 清酒っぽい酒の完成である。


 澄んだ酒は見た目も綺麗だ。

 不純物を取り除いているので飲みやすく、頭痛や二日酔いも和らぐ。

 スルスルいけるので量も多く消費されるだろう。


「なんと、これが酒とな?水のようではないか」


 杯に注がれた透明な液体の正体が酒と知って、父上も驚愕している。


「父上、蘇とこの新しき蕎麦と共にこの酒を売りに出せば須賀川に人は集まり、蘇も酒も飛ぶように他国へ売れていきましょう」


 この春先に越後で件の守護上杉家が断絶し、守護代で無類の酒好きの長尾景虎が越後国主に収まったようだ。

 あそこは青麻とかでやたらと儲けているので、この清酒を売り込みに行けば、がっぽがっぽと富が廻ってくるのではなかろうか。

 製造方法を出来る限り秘して、ブルーオーシャンで太く長く稼いで行きたいものである。


「でかした!竜王丸!これで頭の痛い将軍家への寄進も領内の復旧もいっぺんに解決じゃ!」


 父上、狂喜乱舞。

 一門重臣たちも「さすが二階堂家の麒麟児よ!」と褒め立ててくる。


 ありがとうありがとう。

 竜から牛を経て今度は麒麟だ。

 あ、この清酒はまだまだ用意してあるからジャンジャン飲んでね。


 俺の思惑どおり、評定はそのまま宴会に様変わる。

 夜遅くまでバカ騒ぎが続きそうであった。


 個人的に、蕎麦はやはり醤油の効いた蕎麦ツユとネギと山葵で食べたいんだよね。

 行商人からのたまり醤油や鰹節の仕入れの拡大と、自生の山葵が領内の山々に生えてないかの調査を父上にお願いしてみた。

 二つ返事で許された。


 しかし、やはり美味いつまみがあれば、酒はどんどん入っていくものだな。

 一門衆や重臣一同の様子を観察して、これは上手く行きそうだとほくそ笑む。


 隣国の名君蘆名盛氏の嫡男はまだ四歳だそうだが、確か無類の酒好きに育つはず。

 酒が好き過ぎて酒毒にやられて体調を壊し、蘆名盛氏が禁酒令を二度も出す羽目になるほどだ。

 くくく、この清酒は会津を牽制するのに有意義な道具となろう。


 この新しき酒をもって、蘆名盛興の命を更に縮めてくれん!

 そして日本三大金山の一つである高玉金山を我が手に!





<1550年 10月某日>


 天文の大乱が収まってから僅か二年。

 会津の蘆名盛氏がついに戦さの口火を切った。

 二本松街道沿いに安積郡に進出し、田村隆顕と小競り合いを開始する。


 もともと天文の大乱の初期の頃、蘆名盛氏も田村隆顕も伊達稙宗方で参戦していた。

 乱の終盤に蘆名盛氏と田村隆顕の間に不和が生じた結果、蘆名盛氏は伊達晴宗方に転じて田村隆顕と矛を交える。

 その再燃である。


 いずれ蘆名と再戦することになるのは、田村隆顕も十分に理解していたようである。

 田村家は当主が交代したばかりの相馬家と昨年末に婚姻同盟を結んでおり、後顧の憂いをしっかり絶っている。

 迎え撃つ気満々であった。


 史実では、安積郡を巡る蘆名と田村の両者の戦いに巻き込まれ、隣国の安達郡の二本松義国と同様に、岩瀬郡の我が須賀川二階堂家も徐々に力を落としていくことになる。

 だが逆に言えば、両者の隙を突いて須賀川二階堂家が勢力を伸ばすことだって出来たはずだ。


 今回、蘆名盛氏から安積郡への共同進出の誘いもあったが、我ら須賀川二階堂家は何くれと理由を付けて出兵は見送っている。

 俺が元服して戦に出られるようになるまでは、じっと我慢である。

 両者の動きを注視しながらも内政を充実させ、いざ!という時に一気果敢に襲い掛かれるよう準備をしておかないと。


 まずは再び習字から、である。





〜 序章完 〜


<年表>

1550年 二階堂竜王丸 6歳


01月

▼塩松の石橋尚義、大内義綱(54歳)らによって幽閉されて実権を奪われる。塩松四天王、畠山義国(29歳)に従属。


02月

▽豊後の大友家中で二階崩れの変。大友義鑑(48歳)死去。大友義鎮(20歳)が家督を継ぐ。


03月

◆越後の上杉定実(72歳)死去。越後上杉家断絶。足利幕府、長尾景虎(20歳)を越後国主として認める。


04月

▽隈本で大友義鑑実弟の肥後守護菊池義武(45歳)挙兵。甥の大友義鎮(20歳)に敵対。

■米沢で伊達晴宗の四男小二郎(後の伊達昭光)が誕生。


05月

★南近江で先の将軍の足利義晴(39歳)病死。

▲東国で大震。


06月

▼大崎の大崎義直(44歳)、伊達稙宗(62歳)の次男で養子になっていた大崎義宣(24歳)を攻め殺す。

▽薩摩の島津貴久(36歳)、拠点を内城に移す。


07月

☆駿河の今川義元(31歳)の正室で、武田晴信(29歳)の姉の恵姫(31歳)が亡くなるも甲駿同盟継続。


08月

★大和の筒井順昭(27歳)が脳腫瘍で密かに死去。嫡子藤勝が2歳と若年だった為、影武者(木阿弥)を立てる。

◆甲斐の武田晴信(29歳)、小笠原長時(36歳)の林城を攻め陥とす。南信濃制圧。

▽肥前の龍造寺胤信(21歳)、大内義隆(43歳)の庇護を受けて龍造寺隆信に改名。

▷安芸の毛利元就(53歳)、専横著しい井上元兼(64歳)ら井上党を粛清。領国内で中央集権を確立。


09月

▽肥後の菊池義武(45歳)、甥の大友義鎮(20歳)に隈本城を追われ、相良晴広(37歳)を頼る。


10月

▼会津の蘆名盛氏(29歳)、仙道進出。三春城主の田村隆顕(62歳)と争う。

◆北信で砥石崩れ。村上義清(49歳)、砥石城で武田晴信(29歳)を破る。


11月

▷安芸の毛利元就(53歳)、吉川興経(32歳)を隠居に追い込む。次男元春(20歳)を吉川家の当主に据えた後、興経父子殺害。


12月

★摂津の三好長慶(28歳)、中尾城の戦いで幕府方を圧倒。足利義藤(14歳)、復権を果たせず堅田に逃れる。

◇白河の商家で女子誕生。(キツ)と名付けられる。


-------------

▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[南奥 1550年末]>

- 田村隆顕・相馬盛胤


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 5万1千石

・奥州 岩瀬郡 5万1千石

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