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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第四章 白河の女
22/83

1564 釘刺

〜 第四章 白河の女 〜


主人公:二階堂盛義 20歳 須賀川二階堂家7代目当主 陸奥守護代 従五位下 左京亮


正室:南の方 23歳

└嫡男:鶴王丸 3歳

実弟:大久保観音丸 12歳


義父:伊達晴宗 44歳 伊達家15代目当主 奥州探題 従四位下 左京大夫

<1564年 4月中旬>


 パッカパッカと春のうららを馬で行く。

 正月の年賀の挨拶に次いで、再びの米沢を訪問であった。

 この度は伊達輝宗殿の婚礼の儀への出席である。

 

 輝宗殿が娶る相手は足利一門で山形御所の最上義守の息女である義姫だ。

 義姫は芳紀まさに十七歳と聞く。

 二十一歳の輝宗殿とは釣り合いも取れている。

 家格も申し分ない。


 しかし、この戦国時代。

 家と家の婚姻は、勢力の強い方が嫁を出すパターンが多い。

 侍女やら家臣やらも一緒に送り込み、情報収集は勿論の事、相手の家中の意思統一に介入しての工作三昧が可能になるからだ。

 義父の伊達晴宗としてはそこは敢えて譲ってでも、独立路線を歩む最上家を伊達側に引き留めて両家の融和を図りたいのだろう。

 伊達家中で絶大な権勢を誇る中野宗時。

 彼の者を制する為の味方作りの一環とも言える。


 今回の米沢行き。

 義父の晴宗からは南の方を里帰りさせてはどうか、との誘いがあった。

 義母の笑窪御前が娘に久しぶりに会いたいと寂しがっているらしい。


 南の方が須賀川に嫁いでもう八年にもなる。

 もっともな話である、と妻を米沢に誘ってみたのだが・・・。


「いや、やめておこう。主人の留守を守るのが正室である私の役目だ。それに鶴王丸もまだ四歳と幼い。まだまだ手がかかるのでな」


 にべもなく断られてしまった。

 この須賀川二階堂家こそが己が骨を埋める家と心得て、実家である伊達家への未練や執着など微塵も見せない南の方。

 我が妻ながら頼もしい限りだ。

 彼女にならば安心して須賀川城を任せられるというものである。





 

 予定通りに婚儀の前日に米沢入りする。


 前回も泊まった寺院が今回も我ら二階堂勢一行の宿となる。

 寺院に寄って荷を下ろした後、米沢城に登城する。

 まずは義父母の伊達晴宗と笑窪御前への挨拶だ。


 大広間ではなく奥に通されて二人と面会。

 最近ではもう扱いが丸っ切り一門衆と変わらなくなっている。


「よう参った」


 俺の顔を見た晴宗が気さくに声を掛けてきた。


「此度は嫡男輝宗殿のご成婚、まことにおめでとうございまする」


 一通り挨拶の口上を述べた後、南の方から預かってきた手紙を笑窪御前へ渡し、同行出来なかったことを詫びる。


「あらあらまぁまぁ残念ね。しかし、あの子も頑固なところは相変わらずのようね。一度こうと決めたら譲らないところは殿や丸森の大殿とそっくり」


 文を読み終えた笑窪御前が、苦笑しながらチラリと隣に座る夫に視線を送る。

 フンッと途端に機嫌が悪くなる伊達晴宗。


 どうやら伊達家の嫡流の婚儀にも関わらず、丸森からは祝いの使者のみらしい。

 稙宗本人の臨席を望んだが体調を理由に断られ、それが気に入らない様子。


「大殿も去年喜寿(七十七)を迎え、体調を崩すこともありましょう。いつまでも意地を張っておられると、顔を合わせる機会が無くなってしまうかもしれませんよ」


 夫を優しく諭す美魔女の笑窪御前。

 既に四十を越えており、六男五女を産んでいるとはとても思えない可憐さである。

 それがますます晴宗を意固地にさせているようだ。


 しかしそうか。

 確か伊達稙宗が亡くなるのは来年あたりだったか。


「そうだわ。大殿は盛義殿にとっても血の繋がったお祖父ちゃんにあたるのよね。丸森まで見舞いに行ってみてはどうかしら。まだお会いしたことはないのでしょう?」


 それは笑窪御前からの唐突な提案であった。

 局外中立のこの盛義が丸森に赴いた方が、稙宗も胸襟を開いてくれるやも知れない。

 長年の父子の和解への切っ掛けを探る為に、是非とも丸森の様子を見てきて欲しいと頼まれてしまう。

 晴宗は隣で難色を示しているが、笑窪御前に押し切られる格好となる。

 これは良い機会やも知れない。


「はっ。では折を見つけて、丸森に赴きまする」


「はい。宜しく頼みましたよ」


 笑窪御前に対して一礼し、その要請に従う旨を表明。


 ちょうどそのタイミングでドカドカと輝宗殿が登場する。


「おお、義兄上。参られたか。待っておりましたぞ!」


 婚礼の祝いの言葉を述べようとするも、輝宗殿に押し留められてしまう。


「いやいや。まだ早うござるぞ。この輝宗、義姫とやらがこの伊達家に相応しく無い姫であれば、即刻山形に送り返す所存」


「輝宗、何を言うておる!」


 晴宗が輝宗殿を叱り付けるも、当人はケロリとしたものであった。

 自分の嫁は自分が決める、と譲らない。

 終いには晴宗が「ええぃ、もう勝手にいたせ!」と怒って席を立ってしまう始末である。


 頑固者はここにも一人いた。

 やはり血は争えないようだ。


「それよりも義兄上。宿はまたあの城下の寺ですか。水臭うござるぞ。この城に泊まれば良いものを。今宵は語り明かしましょうぞ」


 苛立って去っていく晴宗を尻目に、母の笑窪御前に対して俺の為の部屋を手配するよう願い出る輝宗殿。

 笑窪御前はやれやれ仕方ありませんねと苦笑しながらも、人を呼び付ける。


 笑窪御前の声を受けて、晴宗と入れ替わるようにスッと現れた侍女が一人。


 二十代半ばくらいだろうか。

 玲瓏なオーラを身に纏っており、ひと目で只のモブキャラではないことがわかる。


 輝宗殿が驚きの声を上げる。


「おう、其方は喜多ではないか!随分と久しいの」


「若殿、ご無沙汰しております」


 共に挨拶を交わす輝宗殿と喜多と呼ばれたその女性。


 後に伊達政宗の保母となり、その人格形成に大きな影響を与えたという片倉喜多。

 これが彼女との初めての出会いの場となる。






「明日の婚儀は来客も多いでしょう。喜多には無理を言って奥向きの仕事をお願いしているのです」


 笑窪御前が輝宗殿に説明する。

 喜多は臨時の手伝いで米沢城に来ているらしい。

 喜多が何処ぞの内儀に収まっていないと知って不思議そうな表情を浮かべる輝宗殿。


「まだどこにも嫁いでないとは不思議なこともあるものよ。喜多ほどの器量であれば、貰い手は幾らでもおったであろう」


「なかなか良いご縁が有りませぬ故」


「いやいや、そのようなことはあるまい」


 喜多はさらりと受け流そうとするも、輝宗殿は納得出来かねるようだ。

 そのしつこさに笑窪御前が喜多に助け舟を出す。


「これ輝宗や。喜多は今、家の跡取りである年少の弟の養育に忙しいのです。あまりとやかく言うものではありませんよ」


 喜多の母は鬼庭良直の正室であったが、側室が嫡男(後の鬼庭綱元)を上げた為に離縁され、神職の片倉家に再嫁していた。

 そこで年の離れた弟が生まれるも両親は流行病で亡くなってしまった為、喜多が親代わりとなって弟の育成に努めたという。

 つまりは家を守る為に己の婚期を逃した喜多であったが、この時代の家という概念はそれ程に重いものであったと言えよう。


「ほう、喜多。その弟の名は何という」


「小十郎と。今年で八歳になります」


「その小十郎とやら。喜多の薫陶が厚く育つのであれば、定めし伊達家を支える将となろうな。これは楽しみじゃ」


「さて、それはどうでしょうか」


 俺そっちのけで輝宗殿と喜多の間で話が盛り上がっている。

 輝宗殿は余程喜多に会えたことが嬉しいようで、置いてけぼりだ。


「喜多殿とは、もしかして鬼庭周防守殿の御息女であった喜多殿でしょうか」


 それとなく話に割って入り、自分もいるよアピール。


「おお、義兄上。これはすまぬ。そのとおり。さては姉上から喜多の名を聞いておられましたな?」


「まさしく。小太刀二刀流の達人と聞き及んでいます」


「喜多、こちらは姉上の夫の二階堂盛義殿よ。奥州一の荒武者の名は其方の耳にも入っておろう」


 誇らしげに俺を紹介する輝宗殿。

 スッと三つ指を着いて礼をしてくる喜多。


「片倉喜多にございます。挨拶が遅れまして申し訳ございません」


 涼やかな眼元をしており、知的で静謐ながらも芯の強さを感じさせる女であった。






 片倉喜多は非常に優秀な女官である。

 俺が急遽宿泊することになった部屋だけではない。

 二階堂家の供の者たちの控え部屋や食事の用意なども、寸分と滞ることなく手配してくれた。

 流石は太閤秀吉に「少納言」とまで称賛された才女だ。


 婚儀が始まるまでの幾ばくかの間、喜多が話相手をしてくれる時間がちらほらあったが、どれも中々に楽しいひと時であった。

 この世界に来てからというもの、自分以上に教養のある女性と話す機会自体がなかなか無かったこともあり、とても新鮮である。

 同じ兵書を論じるにしても、むさ苦しい野郎を相手するよりも見目麗しい女性とする方が、万倍も楽しいではないか。

 ついつい刻を忘れてしまう程だ。


「小十郎が聞けば、羨ましがりましょう」


 俺との知的交流は喜多にとっても満更でもなかったらしい。

 弟の小十郎が俺の大ファンであることをそっと明かしてくれた。

 そして「いずれ機会があれば、弟の小十郎に兵法の講義をお願いしとうございます」とまで頼み込んでくる。


 伊達政宗の軍師の片倉小十郎。

 その小十郎に俺が兵法を講ずる?

 何の冗談だろうか。

 逆だろう。

 俺の方が伊達の名臣たる片倉小十郎の講義を受けたいよ!


 慌てて冷静になる。

 喜多の涼やかな色気に当てられてしまったか。

 こんなチートでズルし放題な俺の話を幼い頃に聞き、それを真に受けてしまったら、片倉小十郎の人生はお先真っ暗になってしまうだろう。

 片倉小十郎が喜多の下で育むであろう輝かしい王佐の才をドブに捨てない為にも、片倉姉弟にはあまり近づかない方が良さそうであった。






 北の国境の中山峠に赴いていた伊達実元、中野宗時、鬼庭良直の三名が最上義光から義姫の輿を受け取り、ようやく米沢城に到着する。

 もうすでに辺りは暗くなっており、松明を何十本と焚いての行進となる。

 その輿の行列の先頭には、脳天を射抜かれて絶命している大猪が吊るされていた。

 輿の引き渡しの際に突っ込んで来た大猪を、なんと輿から飛び出した義姫自らが颯爽と討ち取ったという。

 随分とお転婆な姫もいたものである。


 輝宗殿はその剛毅果断な義姫の振る舞いにいたく感じ入り、初めて対面した義姫に対して「気に入った!そこもとを儂の嫁として迎え入れる!」と気炎万丈の面持ちで宣言。

 あんなに山形に追い返すだなんだとゴネていたのが嘘のようであった。

 そしてそのまま夜中の祝言に突入する。


 祝言の後は祝いの宴である。

 新たに夫婦になった二人のお披露目だ。

 宴に先立っての祝いの挨拶が始まる。

 伊達一門の面々が両脇に控える中、トップバッターの俺が祝いの目録を持って新郎新婦の前まで進む。


 初見の義姫。

 これがあの伊達政宗の生母かと密かに感慨深い。


 最上家も美貌な家系で知られており、その血はしっかりと義姫にも受け継がれているようだ。

 鬼のように整った美貌で気品がある。

 しかし、その目には意思の強さが溢れており、ただのお嬢様という感じでは無い。

 属性は相反しているが、どことなく我が妻の南の方や、昨日会ったばかりの片倉喜多にも通ずるものがある。

 輝宗殿が義姫に魅かれた理由もその点だろう。


 属性を論じるならば、南の方が“青=水”だとすると、喜多が”緑=木“で、義姫が”赤=火“になるか。


 水は木に弱く、木は火に弱く、火は水に弱い。

 相対時にはダメージ倍増とかの特殊効果がありそうだ。

 だって見るからにこの義姫には喜多では勝てそうにないもの。

 南の方も喜多との手合わせは苦手にしてたみたいだし。


 奥州を代表する女丈夫たちの見事な三すくみである。


「義姫。そなたも噂には聞いておろう。義兄上は儂と同い年ながら、名うての戦上手。百戦錬磨の勇将よ」


 ラチもない妄想をしていたら、輝宗殿が新妻に俺を紹介してくれていた。


「ご活躍は山形でも伺っておりました。我が最上の遠縁にあたる石橋尚義を謀で追い払い、塩松をその手中に収めたとか。結構な武略でございますね」


 畏まって挨拶すると、四歳年下の美少女にチクリと恨み言を言われてしまった。

 どうやら初っ端から敵視されてる?

 実兄の最上義光からなんぞ言い含められているのだろうか。


「これ、義姫!義兄上に対してなんという口の利き方ぞ」


 輝宗殿が隣で小声で諫めるも、義姫はツーンとそっぽを向いてしまう始末。

 あらカチンときた。


 この義姫。

 伊達家の嫡男である政宗の生母ではあるが、最期まで伊達家の人間になれなかった姫である。

 伊達の当主の正室ながらも山形の実家に何くれと理由を付けて幾度も里帰りし、徹頭徹尾に最上家の為に働いている。


 義姫といえば、実兄最上義光と実子伊達政宗が争った大崎合戦の際に両軍の間に輿で乗り入れたエピソードが有名だ。

 大崎合戦で不利だった政宗をこの行為で救ったとも伝えられるが、実のところ義光の方が早期の和睦を望んでおり、義姫がその意を受けて動いていた説も根強い。

 伊達家側は当主の政宗がまだ米沢に控えており、そして最上家の背後では関白豊臣秀吉の内諾を得ていた上杉家が庄内地方を狙って蠢動していた。

 仮に和睦が成らなかった場合、大崎まで出張ってきた政宗本軍との泥沼の戦いから抜け出せなくなり、最上家は庄内地方のみならず山形まで上杉家の侵攻を許していた可能性が高かった。


 この世界線においても、義姫があまりにも山形に利する動きを見せるようでは問題がある。

 よし、ここはあえて釘を刺しておこうか。


「義姫殿。今あなたは“我が最上”と口にされた。これは大きな心得違いと言えましょう。伊達の嫡流たる輝宗殿と夫婦の契りの盃を交わされた以上、この伊達家こそが義姫殿の家ではありませぬか」


「四年前に尾張の桶狭間で今川義元を討って名を挙げた織田信長。巷の噂によると彼の者の正室の濃姫は、美濃より嫁ぐ際に父斎藤道三より懐剣を渡されたそうな。信長がうつけならその刀で刺すよう道三に命じられるも、濃姫は“この刀は父上を刺す刀になるやも知れぬ”と返したと聞きまする。果たして義姫殿はその濃姫と同じだけの覚悟を抱いて米沢まで参られましたかな」


「我が妻の南の方は伊達家より二階堂家に嫁いで既に八年。その間一度たりともこの米沢に足を運んでおりませなんだ。これは二階堂家の社稷をこの盛義と共に守る覚悟の現れでありましょう。それ故に二階堂家の家中は民草も含め、皆が我が妻を心より慕っておりまする。義姫殿にも是非とも我が妻を見習って、何があっても米沢に留まり続けて頂きたい。それこそが米沢と山形の真の紐帯に繋がりましょう。この二階堂盛義たってのお願いでござる」


 滔々と義姫に訴えて、深く頭を下げる。

 義父の晴宗も含めた伊達家の一門衆は、思惑通り皆が戦国トリビアを絡めた俺の言葉に深い感銘を受けている。

 現当主の長女であり、一門の皆に愛されていたであろう南の方を引き合いに出しての、義姫が山形に帰り辛くなる雰囲気を醸成する策であった。


 頭を上げると義姫が燃えるような瞳で俺を睨み付けていた。

 明鏡止水の心持ちでそれを受け止める。


 輝宗殿が苦笑しつつも口を開いた。


「義兄上の言葉、至極もっともじゃ。義姫、儂からも願おう。皆の前で今一度誓ってくれぬか。伊達の女になると」






<1564年 5月中旬>


 婚礼の宴の満座の前でプレッシャーをかけ、義姫からどんな理由でも実家には戻らない宣言を引き出してから一ヶ月。

 会津の蘆名家が動く。


 と言っても、我ら二階堂家が牛耳る仙道筋を狙ったものではない。

 伊達家と二階堂家の紐帯が固いと見たのか、蘆名家が攻め入った先は越後であった。

 どうやら甲斐の武田信玄の要請に乗っての出兵らしい。


 一昨年鎮圧された会津の蘆名氏方の乱。

 蘆名氏方を支援していたのは、実のところ我ら二階堂家だけではなかった。

 下越の揚北衆も氏方の支援に乗り出していたようなのだ。

 その証拠に敗勢が濃くなった氏方は越後に逃れようとしたところを、今は蘆名止々斎を名乗っている蘆名盛氏に討たれている。

 上杉輝虎と蘆名家の関係はこのところ悪化しており、両者の間隙を武田信玄が突いた形となる。


 上杉輝虎は半年振り四回目の関東出征中であり、越後は空になっている。

 武田信玄の信州野尻城攻略と時を合わせ、蘆名止々斎は五泉城に向けて兵を進めた。

 上杉輝虎は関東経略にどっぷりハマっており、その隙を突けば下越への進出は容易いとの読みなのだろう。


 まぁすぐに上杉輝虎が関東から舞い戻って来て、あっさり蹴散らされると思うが。

 あの軍神は止めようがないから。


 我が二階堂家としては、蘆名が越後にかまけているこの隙に磐梯熱海城の要塞化を急ぎ進める方針である。

 また先年に本格的に稼働を開始した高玉金山の運営を採掘量を上げる為、関東に人を派遣して人足を募集している。

 北関東では近年の上杉輝虎の関東出征による相次ぐ戦乱で土地を離れる者が増加しており、昨年から仙道筋への人の流入も増加傾向だ。

 その流民たちに対して順次築城と鉱山開発の仕事を充てがうことで、須賀川の富国強兵策は深く静かに力強く推進中であった。






<1564年 11月中旬>


 米沢の義父の晴宗より三度道を貸して欲しいとの連絡を受ける。

 今度は十三歳となる五女の宝姫の嫁入りである。

 嫁ぐ相手は北常陸の佐竹義重だ。


 佐竹義重。

 一昨年に十六歳の若さで父の佐竹義昭から家督を譲られた若武者である。

 史実では鬼義重の異名を取り、南奥州の覇権を巡って伊達政宗と激しく争っている。

 仙道筋に居を構える我が二階堂家としては、最も注視しなければいけない武将の一人であった。


 しかしながらこの世界の佐竹家は、四年前の寺山城の戦いで蘆名白河陣営相手に一敗地に塗れ、南郷経略が頓挫してしまっている。

 その代わりと言っては何だが、方針を転換して常陸一統に向けて注力しているようで、常陸平氏の嫡流である大掾氏を完全に支配下に置くことに成功していた。

 そして今は上杉輝虎と組み、小田原の北条氏康を相手取りながら、筑波の名族である小田氏治を土浦に追い詰めている最中である。


 今回のこの婚姻は、伊達晴宗の長子である岩城親隆の斡旋によるものだ。

 伊達家から養子に入って常陸の北に位置する磐城を治める岩城親隆。

 その妻は佐竹義重の末妹となる。


 近年その岩城家もまた磐城の北に位置する相馬家との仲が悪化しており、同じく後背を固める必要に駆られていた。

 そこで佐竹家と岩城家の間で両家の紐帯をより強くする為の議論が交わされ、その中で今回の婚姻話が出てきたと聞く。


 佐竹家の現当主である佐竹義重が、岩城親隆の実妹である伊達家の宝姫を娶る。

 佐竹家は南奥の蘆名白河陣営とも敵対関係にある。

 敵の敵は味方という定石に添えば、その反陣営である伊達二階堂連合への佐竹家の参加は、実に理にかなった話と言える。


 我が須賀川二階堂家としても蘆名家との争う折に、白河結城氏を南から牽制可能となる為、決して悪くない話ではあったが・・・。






 ちょうど一年前、今は石川親宗を名乗っている義弟の伊達小二郎殿が、この須賀川を経由して石川氏に養子入りしている。

 その時と同様に、宝姫の輿入れの行列の須賀川逗留の差配については、全て我が妻の南の方に任せていた。

 須賀川城に一泊した後、万事滞り無く常陸に向けて出立していった宝姫の一行を共に見送りつつ、南の方がため息をつく。


「流石に疲れたであろう。すまぬな。何から何まで任せてしまって」


 南の方を労るも、彼女の顔は晴れない。

 この婚姻に関して何か気になる事があるようだ。


「この程度の疲れなど何ほどの事もないよ。ただ、伊達の家の有り様を思うと少し憂鬱になる」


「何の話だ?」


「いや何。己の子を有力な諸侯のもとに押し込んで勢力を拡大していく。祖父のそのやり口を真っ向から否定した父上が、今は率先して同じ轍を踏もうとしているようにしか見えなくてな」


 ふむ。

 岩城親隆、石川親宗、そしてこの二階堂盛義と、今回の佐竹義重。

 確かに伊達家の南方のほとんどが晴宗の実子と婿で固められてしまっている。


「その先に行き着く果てが、あの天文の大乱ではなかったのか。なぜ父上は同じ誤ちを犯そうとしていることに気付けないのだろう」


 もう一度深く息を吐いた後、俺を安堵させる為に表情を改めて「気にしないでほしい、埒もない話であった」と立ち去っていく南の方。

 その後ろ姿を眺めつつ、南の方の先見の明に感心してしまう。


 史実でも伊達輝宗が伊達家の家督を継いだ後、祖父稙宗と父晴宗が険悪な関係であったと同様に、晴宗との仲が悪化する。

 結果として子の政宗に代替わりした時には、前述の家々は全て伊達家の敵に回っていた。

 これは伊達家の宿痾であった。


 この厄介な業を産み出した張本人こそが、この二階堂盛義の祖父にして伊達家十四代である稙馬もとい稙宗である。

 奥羽の地を遍く包む洞を構え、伊達家の最盛期を築き上げた巨星だ。

 抱えた側室は五人を超え、作った子供は推定二十一人以上。

 戦国の世に限って言えば、その槍働きは尾張の織田信秀(二十五人)や織田信長(二十二人)に匹敵する。

 天下を取った徳川家康でさえ、十六人と稙宗には遠く及んでいない。


 今は丸森城に隠居の身で、隣国の相馬盛胤の嫡子義胤に嫁いでいる実娘の越河御前が足繁く通ってその面倒を見ていると聞く。

 それ故に稙宗が没する際、丸森の領有権を巡って伊達家と相馬家の間で諍いが生じ、長きに渡る戦さが始まってしまうのだ。

 対蘆名戦にて伊達家側の戦力をあてにするには、どうにかしてこの丸森方面の戦さフラグを圧し折っておく必要があった。


 そう言えば笑窪御前に丸森の稙宗を訪ねる旨を約束していたな。

 この時代に生を受けた以上、一度はその英傑の顔を見ておきたいのは勿論のこと。


 それと共に祖父である稙宗に一言物申して釘を刺し、不毛な戦さの芽を今のうちに摘み取っておくとしよう。






<年表>

1564年 二階堂盛義 20歳


01月

☆三河で一向一揆勃発。松平家康(21歳)の側近重臣が次々と一揆側に加勢して内戦状態に突入。

◆相模の北条氏康(49歳)、第二次国府台合戦にて安房上総の里見義堯(57歳)を圧倒。

◆越後の上杉輝虎(34歳)、関東出征4回目。唐沢山城の佐野昌綱(35歳)を攻める。


02月

☆美濃の斎藤龍興(16歳)、竹中重治(20歳)に稲葉山城を占拠される。

▷備前の浦上政宗(39歳)、嫡男清宗と小寺家臣・黒田職隆養女の婚礼中に赤松政秀(54歳)に攻められ敗死。


03月

◆関東出征中の上杉輝虎(34歳)、常陸の小田氏治(30歳)を攻める。山王堂の戦い。小田城落城。

▽薩摩の島津貴久(50歳)、相良領の大口に侵攻。赤池長任(35歳)が防衛に成功。

▽肥後の相良頼房(20歳)、従四位下修理大夫と足利義輝(28歳)の偏諱を受ける。義頼に改名。大友と島津、幕府に抗議。


04月

▽豊前柳ヶ浦で大友軍と毛利軍が激突。

■米沢の伊達晴宗の嫡男輝宗(20歳)、最上義守の息女義姫(16歳)を娶る。

◎米沢を訪れた二階堂盛義、婚儀の祝いの場で義姫(16歳)を説教。


05月

◆会津の蘆名盛興(17歳)、武田信玄(43歳)と手を結び下越に侵攻。上杉輝虎(34歳)、関東から舞い戻り会津軍を撃退。

▶︎︎土佐の長宗我部元親(25歳)、本山城を攻略。本山茂辰(39歳)、瓜生野城まで退いて抗戦。


06月

▽日向の伊東義祐(52歳)、北原領の今城を攻略し、真幸院以外の南日向を制圧。

★河内の三好長慶(42歳)、三好重存(16歳)の三好本家家督相続に不満を抱いていた弟の安宅冬康(37歳)を粛清。


07月

☆三河の松平家康(21歳)、三河一向一揆を鎮圧。本多正信(26歳)出奔。

▷出雲の尼子義久(24歳)、弓浜合戦で杉原盛重(31歳)率いる毛利軍を退けるも伯耆尾高城攻略失敗。

☆甲斐の武田信玄(43歳)、飛騨の江馬時盛(55歳)を支援。劣勢の三木良頼(44歳)、越後の上杉輝虎(34歳)に助けを請う。

◆常陸の佐竹義昭(33歳)、弟の義昌を大掾家に送り込み、大掾昌幹と名乗らせて乗っ取り。


08月

▽山城の足利義輝(28歳)の仲介により、大友軍と毛利軍の和睦成立。豊芸講和。

★河内の三好長慶(42歳)没す。松永久秀(56歳)、三好家から独立。

◆越後の野尻池で長尾政景(38歳)と宇佐美定満(75歳)が舟遊び中に溺死。政景嫡子の顕景(8歳)、上杉輝虎(34歳)の養子となる。

◆武蔵の太田資正(42歳)、親北条の嫡子家資(22歳)に岩槻城を追い出され、常陸の佐竹義昭(33歳)を頼る。


09月

☆美濃で竹中重治(20歳)が稲葉山城を主君龍興(16歳)に返還。

◆越後の上杉輝虎(34歳)、飛騨支援のため北信濃に出兵。甲斐の武田信玄(43歳)と対峙。第五次川中島の戦い開始。

▽大隅の肝付兼続(53歳)、島津忠親(52歳)と日向福原で戦って勝利。島津家への圧迫を強める。


10月

◆川中島の上杉武田両軍共に撤収。第五次川中島の戦い終了。


11月

■米沢の伊達晴宗の息女宝姫(12歳)、常陸の佐竹義重(17歳)に嫁ぐ。伊達佐竹二階堂連合、蘆名白河陣営を牽制。

◆越後の上杉輝虎(34歳)、関東出征5回目。唐沢山城の佐野昌綱(35)を再び攻略。人質を取って許す。

◆下野の川崎城にて塩谷義孝(76歳)が弟の孝信に奇襲されて討ち死。


12月

▽肥前の龍造寺隆信(35歳)、肥前中野城を攻め、少弐政興と馬場鑑周を降す。


-------------

▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州



<同盟情報[南奥 1564年末]>

- 伊達晴宗・二階堂盛義・石川晴光・佐竹義重・大関高増・岩城重隆

- 蘆名盛氏・結城晴綱・山内舜通・河原田盛次・長沼実国

- 田村隆顕・相馬盛胤


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 17万7千石

・奥州 岩瀬郡 安達郡 12万1千石

・奥州 安積郡 3万5千石

・奥州 伊達郡 1万5千石

・奥州 白河郡 4千石

・奥州 田村郡 2千石


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