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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第三章 仙道筋の覇者
21/83

1563-2 輝宗

<1563年 9月中旬>


 昨夜遅くに再び会津方面で大きな地震があったが、米沢には大きな被害も無く、陸奥守護代の就任式は予定どおり行われた。

 米沢城の大広間に足利将軍家の使者を迎え入れる。


 正面に足利家の使者の大館輝光。

 斜め左に奥州探題の伊達晴宗とその嫡男の輝宗殿。

 左面に伊達家一門衆の伊達実元と梁川宗清。

 右面に陸奥守護代の桑折貞長と牧野久仲。

 背面には伊達家臣団がズラリと並ぶ。


 久しぶりに顔を合わせる義父の伊達晴宗はだいぶ貫禄を増していた。

 右を見れば牧野久仲が凍て付く視線で睨め付けて来る。

 背後の家臣団の中には前列には鬼庭良直、末席には遠藤基信と見知った顔も幾つか。

 そして俺の真後ろに座り、冷え冷えとした妖気を放っている長身で年配の御仁が、さだめし中野宗時その人なのだろう。

 まさに伊達家オールスターズだ。

 この場に祖父の伊達稙宗の姿が無いのだけは残念であった。


 式が進む。


 白傘袋、毛氈鞍覆、塗輿の認可状が大館輝光から渡される。

 通常の守護代は唐傘袋だが、前任の石母田光頼や他の二人の陸奥守護代と同格の白傘袋(守護相当)の使用が認められた。


 また官位も与えられる。

 従五位下・左京亮。

 義父の伊達晴宗は従四位下・左京大夫の為、幕府の役職だけでなく官位でもその配下になってしまった。

 念の入った話である。


 返礼として将軍家に黄金二十両他、上司となる義父殿にも黄金十両を献上。

 大館輝光と伊達家家臣団の度肝を抜いてやる。


 ザワザワ


 どよめきが収まらない。

 伊達家中で随一の富貴を誇る桑折貞長は、八年前の陸奥守護代と伊勢守就任時に黄金十両他を献金したと聞く。

 合わせてその三倍である。

 これが本格稼働を開始した高玉金山の威力だ!


 義父の晴宗は、ははは此奴め、と苦笑いだ。

 輝宗殿は、うむ!と眼を爛々とさせている。

 そして己のすぐ背後から伝わってくる冷気の如きプレッシャーが一段と増す。

 ふ、これは面白い。


 昼間の餅巻きと今回の献金により、二階堂侮りがたしの空気を一気に醸成出来た。

 これで中野一派の動きは掣肘され、伊達家中でいろいろと動き易くなるはず。

 擦り寄って来る者も出てこよう。


 式を終え、大広間から下がるタイミングで、牧野久仲がすれ違いざまに嫌味を放って来る。


「いい気になるでない。そなたの守護代職は石母田の嫡子が育つまでのただの繋ぎよ」


 自分の守護代職とは違って、あくまで仮のモノと言い張りたいようだ。


 しかし、亡き石母田光頼の息子はまだ僅か4歳と聞く。

 元服するまで少なくともあと十年はかかろう。

 その頃には陸奥守護代も他の席が空いているだろうから、何も心配はいらないさ。






 米沢城内での俺の陸奥守護代就任と左京亮叙任を祝う宵の宴。

 須賀川の清酒をしこたま振る舞い、参列の伊達家臣たちの機嫌を取る。


 宴の席の空気は面白いほど二つに割れていた。

 俺を歓待する義父殿に近しい家臣たちは、酒に浮かれて大いに騒ぐ。

 俺という強力な親族の登場が面白くない中野宗時一派の家臣たちは、不味そうに黙って酒杯を傾けている。


 宴もたけなわ、若侍衆に求められるままに渋川合戦、郡山合戦、長沼攻防戦、続く二本松攻め、人取橋合戦での武勲をそつなく披露していたところでそれは起こった。

 義父殿の近臣たちが中野一派に当て付けるように俺の活躍をいちいち褒めそやす為、それについにキレた者が現れたのである。


「己の父親ごと敵を討ち取って、その敵の幼子から領土を奪うなど、立派な大将よのぉ!俺にはとても真似出来んわ」


 なにぃ!?と反応する俺の周りの者たちを無視し、その三十過ぎの髭面の家臣は酒を飲み干しながらさらに続ける。


「いや待てよ。のこのこ己から出向き、あっさり人質になるような惰弱な将など他におらぬか!父親とは言え、そのような無能であれば思わず射殺してしまうのもわからんでもないのぉ。わはははは」


 あらカッチーンと来た。

 自分の事はいくら貶されても構わぬが、父上の死様を笑われるのは許せぬな。


「宗光!祝いの席ぞ。自重せよ!」


 俺が徳利の投擲体勢に入ろうとしている気配を読み、輝宗殿が先にその家臣、田手宗光を叱りつける。


 田手宗光。

 田手家は伊達家初代朝宗の六男を祖とする庶流であり、今は中野一派の有力な領主である。

 天文の大乱後の論功行賞で伊具郡角田を与えられ、今年の春先に角田城を落成させたと聞く。

 武勇を誇るらしく、なかなかに扱いづらそうな面構えである。


「いやいや。新しき守護代殿のたいそうなご活躍を耳に入れ、俺も我が子に討たれぬよう、しかと気をつけねばと感じいった次第。決して他意はござらぬわ。うはははは」


 傲然と輝宗殿の叱責を跳ね除ける田手宗光。

 しかし・・・。


「ほう宗光。子が親を討つを滑稽と笑うか」


 義父殿が酒をぐぃと飲み干した後に田手宗光を睨め付ける。


「あ、いや・・・」


 親子で奥羽を二分する天文の大乱を起こした主君の伊達晴宗の前で吐く台詞ではなかった。

 この田手宗光、相当の粗忽者のようだ。


「そもそも、討たざるを得ない状況に追い込んだ者がおろうに。難儀な事よな」


 場が一気に冷える。


 牧野久仲が居心地悪そうにしているが、その伊達晴宗の言葉は、栗ノ須の変事の原因となった牧野久仲だけでなく、もう一人の人物を暗示していた。


 そして、その人物自身がここで動く。


「ふふ。この須賀川の酒、酔いが廻るのがいささか早う御座いますな。確かに毒のようじゃ。皆ももう十分に堪能した事でしょう。そろそろ宴もお開きと致しませぬか」


 これまで黙していた中野宗時。

 伊達晴宗を擁立して伊達稙宗を追い落とした張本人である。


 既に60歳は越えているはずだが、背が高く老いを感じさせぬ四肢の漲り方をしている。

 見るものに鋼の如き印象を与える偉丈夫である。

 ニィと不敵な笑みを浮かべ、主人をものともしない轟然たる態度。


 この時代の奥州でよく見られた、妖怪ジジイの類の一種であった。






 中野宗時の一派が早々に立ち去り、義父の伊達晴宗の音頭で宴が終わる。

 その後、義母の笑窪御前(久保姫)に初めて会って挨拶。

 今年42歳となったと聞く笑窪御前はまだまだ若々しく、現役バリバリでいけそうでビビる。

 そして米沢城から我ら二階堂勢の逗留する寺院に移動すると、そこには伊達輝宗殿が先回りして待っていた。


「差し向かいで呑みませぬか」


 否やはない。

 境内の庭園を望みながら月明かりの下で二人酒を酌み交わす。


「姉上は元気にしておられますかな」


「ええ、とても。須賀川の水が合ったようで。毎朝薙刀の修練に付き合わされておりますよ。これがまた容赦がない」


 ははは、姉上らしいと笑う輝宗殿。

 一献注いできた後に、ところで、と本題に入ってくる。


「我が家中の有り様を見て、どう思われましたでしょうや。義兄上の率直な意見をお聞きしたい!」


 パシリと自分の両膝に手を付いて、ギラリとした眼で下から睨め付けて来る。

 この御仁、人の心に飛び込んで来るのが上手すぎる。

 苦笑しつつも、胸襟を開いて応答する。


「手前が見たところ綺麗に四つに割れていますな。義父上、御一門、中立な家臣団、そして中野一派。ああ失礼。丸森の祖父様も入れると五つになりますか。御一門や中立の者たちの中には、その時折々で中野一派や丸森方に味方する者もおりましょうから、家中の主導権争いは熾烈と見ました」


「そのとおり!」


 我が意を得たりとばかりに輝宗殿がパンッと己が膝を叩く。


「天文の大乱が終結して十五年余りも経っておりながら、伊達家の内実はご覧の通り未だに四分五割でござる。あまりにも情けない有り様じゃ!」


 そして、義兄上は天下の形勢をどう見られる?と続けてきた。


「この輝宗、三好家の天下は長くは続かぬと見ております。幕府の使者の大館殿が言っておった。三好長慶殿の後継の義興殿は、この六月に病に倒れて明日をも知れぬ命だとか。もしかすると今頃既に黄泉へ旅立っているやも知れませぬぞ」


 それは自分も二階堂晴泰殿よりの文で知ってはいた。

 三好義興は年が近い将軍足利義輝と良い関係性を築いており、三好家中の期待を一身に受けている若武者だ。

 その余りにも早過ぎる死が三好長慶に与えたショックは計り知れず、三好一族は一気に崩壊の道を転げ落ちていく事になる。


「仮に三好が倒れるとすると、四海を見るに今は飛び抜けた勢力が何処にも無い。どんぐりの背比べじゃ。しかし逆に言えば、どこか一つが力を付けたら天下の形勢は一気に傾きはしまいか。身共はそれを恐れておるのです」


 その輝宗殿の懸念は正しい。

 未だ織田信長は斎藤義龍亡き後の美濃攻めに苦しんでいるが、その山を越えたら後は一気呵成である。

 伊達家は天文の大乱後の十五年も停滞しているが、織田信長は岐阜を得てから十五年で本能寺まで到達してしまうのだ。


「然るにこの伊達家はどうか。今のままでは奥羽の外から大敵が攻め寄せてきたら、戦う前に内から崩れてしまうは必定。伊達が潰れれば、奥羽の他の武家たちも等しく同じ滅びの道を歩みましょう」


 その為に出来るだけ早く家中を一枚岩にまとめねばならんのです!と熱く語る輝宗殿。


「我が父晴宗も伊達宗家の力を強める為にいろいろと手を打ってはいます。義兄上に姉上を嫁がせ、陸奥守護代を任せたのもその一環。そしてこの秋には弟の小二郎を石川晴光の婿養子に入れる話も進んでおります。あと・・・他言無用に願いますが、身共の嫁取りの話も。相手は出羽山形の最上義守殿の御息女だとか。身内と外の親族の力を使って、内なる敵を抑える算段の模様。しかし、それだけではあの中野宗時を抑えるのは如何にも難しい。それは我が伊達家が身をもって経験した天文の大乱が証明しておるではありませぬか」


 だからこそ、とギラつく眼で輝宗殿が訴えて来る。

 身共が伊達家の家督を継いだ暁には、義兄上には是非にも身共の片腕となってその才を振るって頂きたい!と。






 さて、ここで輝宗殿の要請を受けるか否か。

 これが二階堂盛義の、引いては我が須賀川の命運を決める大きな別れ道であった。


 今は亡き我が母は伊達宗家の出である。

 正室の南の方は輝宗殿の姉である。

 中野宗時らの一派とは既に犬猿の仲になっている。

 陸奥守護代として奥州探題の伊達宗家を助けるのは理に叶う話である。

 これから本格化するであろう蘆名・結城・田村・相馬との戦さを乗り切るには伊達家の助力が必要だ。


 いろいろと理由は上げれる。

 しかし、もう答えは出ていた。


 輝宗殿の嫡男の伊達政宗。

 史実では我が須賀川を攻め落とし、全てを灰にしてしまった男だ。

 彼は小田原に赴いたとき『あと二十年早く生まれていれば』と嘆いたと聞く。


 然るにその伊達政宗より二十三年も早く生まれている伊達輝宗が目の前にいる。

 しかもその輝宗殿の死亡フラグは、我が父輝行を身代わりにする事でこの俺が叩き折っているのだ。

 今の輝宗殿の可能性は無限大と言える。


 夢想が止まらない。

 それは父の死の対価がたかだか三万五千石であった事に納得出来ず、悶々としていた己の想いの発露なのかも知れない。

 歴史を知っている俺が上手く導けば、輝宗殿を“二十年早く生まれた伊達政宗”にする事が出来るのではなかろうか。

 我が二階堂家だけでは関東に進出するまでが関の山かも知れないが、輝宗殿の伊達家と共に歩むならば天下が見えては来まいか。

 輝宗殿の大徳に俺のチート知識が加われば、かなり良いところまで行けそうな気がする!


 気が付けば見返りも条件も何も言葉にせず、輝宗殿にニッと笑いかけ、月に向かって盃を高く突き出していた。


「おお!!」


 輝宗殿もまたその意味を悟り、満面の笑みを浮かべて月に盃を掲げる。


 いずれかの命が儚く散るその時まで二人は唇歯輔車たらん。


 こうして月光の下で一つの誓約が交わされる。

 きっとこの誓約こそが基点となり、この世界は変わっていくのだ。






<1563年 11月上旬>


 米沢で輝宗殿から事前に聞いていた通り、仙道の石川郡を治める石川晴光が、義父の伊達晴宗の四男小二郎殿を婿養子に迎えようとしていた。

 我が妻の南の方の九歳下の弟であり、俺の母方の従兄弟でもある。

 石川晴光としては隣国の二階堂家があっという間に大国になってしまい、次の標的は自分たちかと恐れる日々であったのだろう。

 その二階堂家が従属している伊達家から当主を迎え入れれば、二階堂家も石川郡には手が出せなくなる、という目算であった。

 嫡子となれる息子二人を差し置いて、婿養子として迎え入れるところに石川晴光の必死さが見て取れる。


 婿入りにあたり、数えで十四歳となる伊達小二郎が須賀川に逗留する話になっていた。

 婿入りの行列の差配は、大森城主で伊達家一門筆頭の伊達実元殿が担っている。


 伊達実元は我が義父の伊達晴宗の弟であり、義息子でもある。

 天文の大乱は、伊達稙宗が三男の実元を実元の母方の親族の伝手で、越後守護の上杉定実の養子に入れようとした話が発端であった。

 大乱時は稙宗方の武将として晴宗と戦い、大乱終結後は晴宗の次女の清姫を嫁に迎え、晴宗との仲を修復している。

 つまりは俺にとっても17歳年上の叔父にして義弟となる。


 伊達実元殿は大森城にあって我が二階堂家から見てすぐ北の信夫郡と伊達郡を統括する立場にある。

 また伊達小二郎は須賀川のすぐ南の石川郡の跡取りとなる。

 連携を深めておいて損は無い。

 その為に須賀川城での伊達実元殿と伊達小二郎を歓待を、勝手知ったる南の方に任せていた。


「よう参られた叔父上。小二郎も久しいの。この姉の顔、覚えておるか?」


 実元殿は我が妻を眩しそうに眺め、小二郎は頬を赤らめてモジモジしてる。

 米沢にいた頃よりも垢抜けて一気に美人になってる姪、姉に歓迎されて一方はこそばゆくも受け入れ、一方は気恥ずかしくなっているようだ。


 小二郎には伊達家から随従して石川家に籍を移す家臣が六名いる。

 歓迎の宴でその全員に南の方が手ずから酌を注いで周り、好印象を残す。

 俺も、仙道筋でもしもの時に頼りになるのは二階堂家、とのアピールを忘れない。


 尚、この伊達小二郎の石川家への婿養子入りは、白河の結城晴綱を大いに慌てさせた。

 これまでは中立であったが、どちらかと言うと結城家寄りだった石川家。

 佐竹家の北進を食い止めるときも結城方に味方し、少なくない兵を南郷に出している。

 その石川家が、伊達・二階堂陣営に組みする事を表明してしまったのである。


 これで仙道七郡の内、信夫・安達・安積・岩瀬・石川の都合五郡が伊達方になってしまった。

 白河結城氏としては由々しき事態である。

 だが、血縁同盟関係の蘆名家は内紛だ地震だで非常にバタバタしていて頼りない。

 情勢が情勢なだけに、このまま蘆名と結んだままで良いのかという声もちらほら上がり始めたと聞く。

 どうやら結城家の中でも権力の地殻変動が徐々に起こりつつあるようだ。






<1563年 12月下旬>


 また会津で酷い地震が発生している。

 今年に入って三回目の大きな地震であった。


 復旧がやっと軌道に乗ったところでのこの災害は、蘆名止々斎と盛興父子を徳政令に走らせ、会津の経済に少なくない混乱を生じさせているようだ。

 仙道筋にも結構な被害が生じており、我が二階堂家も領内の建て直しに奔走しなければならなかった。


 尚、陸奥守護代に就任した影響か、結局この年は他家とは戦さにはならず、一年丸々民力回復の年にする事が出来ている。

 昨年まで丸々四年ほど戦さが続いていた為に渡りに船であったが、そこに今回の地震である。

 出来ればもう一年か二年は小休止したいのが正直なところだが、輝宗殿との誓いもある。

 来年は中々に難しい舵取りを強いられそうであった。


 そんな中、京の二階堂晴泰殿よりの文が来る。

 征夷大将軍の足利義輝がこの冬にリリースした全国大名許可一覧にて、二階堂家は伊達と蘆名に続く奥州第三の大名としてリストアップされた、という晴れがましい知らせであった。

 陸奥守護代として伊達家の下に二階堂家を配置しつつも、全国の名だたる大名在国衆五十四名の中にその名を入れる事で、我が二階堂家の面目も立たせるという、絶妙な政治のバランス感覚による小憎らしい采配であった。


「「「おめでとうございまする!!!」」」


 須賀川の家臣一同が大いにこれを寿ぐ。


 何はともあれ、この一年で幕府の役職を手に入れ、官位を叙任し、大名として正式に室町幕府に認められた。


 苦節十五年。

 我が須賀川二階堂家は、ようやく戦国大名としてのスタートラインに立てたのである。





〜 第三章完 〜


<年表>

1563年 二階堂行盛 19歳


01月

☆井伊谷の井伊直親(27歳)、謀叛の疑いで今川氏真(25歳)に誅殺される。

▷安芸の毛利元就(66歳)、荒隈城を築城して出雲に進駐。

▽豊前で毛利隆元(40歳)と小早川隆景(30歳)が大軍を率いて門司城を救援。大友軍と対峙。

◆越後の上杉輝虎(33歳)、関東出征三回目。


02月

▶︎土佐の本山茂辰(38歳)、長宗我部元親(24歳)の調略による切り崩しに耐えかねて朝倉城を放棄。本山城に引き下がる。

▲会津で地震。蘆名盛興(16歳)、領内の復旧に奔走。


03月

■米沢の伊達晴宗(44歳)、配下の田手宗光に命じて角田城を築城。

◆常陸で三村の戦い。小田氏治(29歳)、那須・結城氏と連合。佐竹義昭(32歳)の留守を突いて大掾慶幹(48歳)を破る。

◆上野の上杉方の松山城落城。第三次関東出征中の上杉輝虎(33歳)、相模の北条氏康(48歳)牽制のために武蔵騎西城を攻略。

▼陸奥行方で相馬黒木館主青田顕治、相馬中村城代草野直清の二人が密かに伊達と通じて謀反。


04月

▽日向の伊東義祐(51歳)、相良頼房(19歳)と手を結び北原領の大明神城を攻略。島津家と相良家が険悪化。

▽肥前の龍造寺隆信(34歳)、肥前小城の千葉胤連と同盟を結び、丹坂峠の戦いで少弐・有馬・大村軍を破る。

▼陸奥行方の相馬盛胤(34歳)、貝殻坂と相善原で青田顕治、草野直清を滅ぼす。相馬義胤初陣。

◎京の二階堂晴泰(33歳)、須賀川に来訪して二階堂輝行の一周忌に参列。二階堂行盛、足利義輝(27歳)から通字の偏諱を受けて盛義と改名。


05月

▽第五次門司合戦終結。毛利隆元(40歳)、幕府を仲介して大友宗麟(33歳)と和議。周防守護職を得て、尼子攻めに向かう。

◆第三次関東出征中の上杉輝虎(33歳)、下野の小山高朝(55歳)の籠る小山城を攻略。高朝、降伏して出家。

▼山形の最上義守(42歳)と義光(17歳)父子、海路で上洛。足利義輝(27歳)に拝謁。御所号を免許される。


06月

▷備前の浦上宗景(37歳)、兄の浦上政宗(38歳)と和睦。毛利方の備中三村家との戦いに専心。

▶︎土佐の長宗我部元親(24歳)、本山茂辰(38歳)の岡豊城攻撃を撃退。


07月

☆三河の松平元康(20歳)、元の字を捨てて家康に改名。今川家への敵対を明確化。

★越前の朝倉義景(30歳)、若狭国の粟屋勝久(40歳)を攻める。

▼山形の最上義守の嫡男義光(17歳)、大崎義直の娘の妙姫(15歳)を娶る。

▽ポルトガルのルイス・フロイス(31歳)、佐世保の横瀬浦に上陸。


08月

▷出雲遠征途上の毛利隆元(40歳)、備後で暗殺される。

▷安芸の毛利元就(66歳)、隆元の弔合戦として月山富田城へ通づる白鹿城を猛攻。

◆下野で下那須衆謀反。常陸の佐竹義昭(32歳)、下那須衆を率いて那須資胤(36歳)と激闘。五境五峰山の戦いに勝利。武茂城を勢力下に置く。


09月

★摂津の三好義興(21歳)、病で死去。十河一存の嫡男重存(15歳)が家督を継ぐ。三好長慶(41歳)、政治への関心を失う。

◎須賀川の二階堂盛義、 米沢にて伊達輝宗(19歳)と始めて対面する。

▲会津で地震。蘆名盛興(16歳)、領内の復旧に奔走。

◎須賀川の二階堂盛義、 米沢にて陸奥守護代に就任。従五位下・左京亮に叙任される。


10月

▷安芸の毛利元就(66歳)、尼子倫久(17歳)率いる白鹿城救援軍を撃退。

★南近江で観音寺騒動勃発。六角義治(18歳)が重臣後藤賢豊(44)を誅殺。六角父子の勢力激減。

▼庄内の大宝寺義増(41歳)、庄内合戦で小野寺勢を破る。小野寺景道(29歳)、真室郷に退いて鮭延城を築城。


11月

▷安芸の毛利元就(66歳)、白鹿城を降す。月山富田城の攻略経路を確保。

▶︎土佐の長宗我部元親(24歳)、本山茂辰(38歳)を攻める。主力不在の岡豊城を安芸国虎(33歳)に攻め寄せられるも、家臣吉田重俊(65歳)の活躍で撃退。

■米沢の伊達晴宗(44歳)、四男小二郎(13歳)を陸奥石川の石川氏の婿養子に入れる。小二郎、元服して石川親宗を名乗る。


12月

▲会津で地震。蘆名盛興(16歳)、徳政令発動。

◎須賀川の二階堂盛義、 足利義輝(27歳)の大名在国衆一覧にて、伊達と蘆名に続く奥州第三の大名として認められる。


-------------

▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州



<同盟情報[南奥 1563年末]>

- 伊達晴宗・二階堂盛義・石川晴光

- 蘆名盛氏・結城晴綱・山内舜通・河原田盛次・長沼実国

- 田村隆顕・相馬盛胤

- 佐竹義重・大関高増・岩城重隆


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 17万7千石

・奥州 岩瀬郡 安達郡 12万1千石

・奥州 安積郡 3万5千石

・奥州 伊達郡 1万5千石

・奥州 白河郡 4千石

・奥州 田村郡 2千石

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