1563-1 盛義
<1563年 4月上旬>
永禄六年が明けて奥州で変事が二つ。
一つは会津。
豪雪の中で大きな地震が発生していた。
民への被害も大きく、蘆名止々斎と盛興父子が先頭に立って領内の復旧に奔走していると聞く。
二年に渡った蘆名氏方の反乱をやっと鎮圧し、春先から国力を回復しようとしていた矢先の出来事となり、蘆名家も頭が痛いであろう。
もう一つは相馬。
海道筋の宇多・行方・標葉の三郡を統治する相馬盛胤に対し、黒木城主の青田顕治と相馬中村城代の草野直清が謀反する。
先年の人取橋合戦での敗退で家中の統制力回復が急務となった相馬盛胤に対し、先代よりの重臣たちの青田顕治と草野直清が反発。
流言通りに伊達晴宗に内応して挙兵するも、素早く討伐の兵を上げた相馬盛胤によって貝殻坂と相善原の戦いで撃破されている。
我が二階堂家にとって、蘆名と相馬はどちらとも近年干戈を交えている相手である。
両家が仙道筋に介入する余力を失ったのは好機であった。
その間に安達郡の統治を確立し、安積郡の開発を進め、岩瀬郡の兵力を回復出来る。
それに我が父の二階堂輝行の一周忌についても、邪魔されずに法要を上げれそうな情勢であった。
その一周忌法要だが、遠く京より本家の二階堂晴泰が参列する事が決まっている。
畿内では、一昨年暮れの将軍地蔵山の戦いから延々続いていた三好対畠山・六角連合の争いが、ようやく結末を迎えていた。
昨年の永禄五年五月中旬、両軍合わせて十万もの兵が激突した教興寺合戦で三好長慶方の勝利が確定。
続く政所執事の伊勢貞孝・貞良父子の謀反もつつがなく討伐され、足利三好ラインでの畿内統治が軌道に乗り始めていると聞く。
将軍家の近習である二階堂晴泰にも、やっと京を離れる余裕が出来た為の参列である。
三郡の支配者に相応しい一周忌法要を、と念入りに準備を進める中、須賀川城に二階堂晴泰の一行を迎え入れる。
約九年振りの二階堂晴泰の須賀川来訪であった。
「晴泰殿、お久しゅうございます」
「おおっ、あの若子がこのような立派な武士に育ちなされたか。なんとも頼もしい。活躍は聞いておりますよ。お父上も草葉の陰でお喜びでしょう」
晴泰殿も三十代半ばまで歳を重ねていた。
記憶にあった彼の容姿に比して、大分くたびれた感がある。
あれから朽木谷の将軍家と共に京へ帰還を果たし、その後もずっと三好一派と三管領家の争いに揉まれに揉まれて苦労を重ねてきたのだから、それも仕方ないだろう。
互いに月日が流れるのは早いと実感するばかりである。
晴泰殿の一行を城中に案内しようとする。
しかし、一行の中に気になる人物が一人紛れ込んでおり、思わず脚を止めてまじまじと見てしまう。
年の頃は二十代半ばくらいの男性で、特徴的なのはその格好である。
あれは陰陽師?なのだろうか。
この世界に来てから初めて見る衣装だ。
「この者は沼田祐光。行盛殿の文に人材を紹介して欲しいとあった故、京より連れて参ったのです」
晴泰殿より紹介を受ける。
スッと黙礼をしてくる沼田祐光。
「同僚の三淵藤英の弟の嫁御がこの祐光の妹でしてな。なんでも易で占った主君を探し、武者修行がてら北に赴くと言うので、これは面白いと同道させたみたのですが」
内心快哉を上げる。
沼田祐光と言えば、後年津軽地方を制覇する大浦為信(今はまだ久慈為信)の軍師であった。
人材の発掘に苦しんでいる今の二階堂家にとっては、喉から手が出るほど欲しい逸材である。
これは是非ともゲットしておきたい。
勿論の話だが、二階堂晴泰は私人として親族の法要に参加する為だけに須賀川くんだりまで下向してきたわけではない。
あくまで公務が主であり、父上の一周忌法要への参加はそれに合わせてのついでの形を取っている。
まずは大広間で重臣一門衆を集め、幕府の正式な使者としての二階堂晴泰を迎える儀式を行う。
前回の来訪時は亡き父上が上意を受けたが、今度は俺がその役目を担う。
上座に立った二階堂晴泰の読み上げる足利幕府の文書を、部下たちを従えて謹んで拝聴する。
大方また偏諱の打診かと思っていたのだが、その目算は崩れ去る。
話はそれだけに留まらなかった為に、大広間は大きく騒めいてしまった。
二階堂晴泰が持ってきたのは、なんと陸奥守護代就任に関する内示であったのだ。
「昨年末に伊達の家中の石母田光頼殿が亡くなられたが、その息子はまだ五歳と年若。奥州探題配下の三守護代の席が一つ空いてしまっておる故、私の方から公方様に推挙しておいたのです」
「なんと・・・」
二階堂晴泰の顔にはなんのてらいも無い。
純粋な善意による推挙なのは疑い無かった。
ここで陸奥守護代に任ぜられると言う事は、安積郡・安達郡の統治について公儀から御墨付きを貰ったに等しい。
もちろん巨額な御礼が必要になるが、二階堂晴泰にとっては分家の須賀川の羽振りの良さは既知であり、むしろ分家にとっては渡りに船な話と思い込んでいる。
二階堂晴泰本人にしてみても、己の一族の奥州での権威が増大し、かつ将軍家の懐も潤って公方様への面目も立ち、ウハウハな展開だろう。
しかし、前振りも何も聞かされてなかったこちらにとってみれば、困惑甚だしい話である。
単純な家臣たちは沸き立っているが、わかっている保土原行藤が声を上げる。
「本来であれば陸奥守護代職は奥州探題の家来筋が担う役職になりましょう。この件、既に奥州探題の伊達晴宗様には打診済みでしょうや?」
「うむ。左京大夫殿には文でお伝えしているが大分喜んでおられましたぞ。行盛殿のような頼り甲斐のある息子が守護代を担ってくれるなど、まさに鬼に金棒じゃとな。はははは」
まぁ、そうなるよな。
須賀川二階堂家はここ数年で急激に大きくなり過ぎた。
渡りに船とばかりに鎖に繋ぎに来たか。
これまでの関係性においては、ただの在地領主である我が二階堂家には奥州探題の伊達家の命令に服する義務はあったが、共に足利将軍家の仕える武家同士となり、主従の関係には無かった。
正室として伊達家から南の方を娶って血縁同盟も結んではいるが、それでも二階堂家と伊達家は歴とした別個の家なのである。
これが奥州探題と陸奥守護代の関係に差し代わると、話は途端に別となり、そこに明確な主従が生じてしまう。
あまりにも中央で下克上を見続けてきた二階堂晴泰は、所詮は形式ばかりの話と考えてしまっているようだ。
だが、これが権威主義が未だ蔓延る奥州での話となると実にデカい。
極端に言えば、陸奥守護代職に就任した時点で二階堂家は伊達家の傘下の従属大名に成り下がるのだ。
奥羽一円の他家からは伊達家の一門衆扱いされてしまうだろう。
もう将軍からの内示が出されており、断るに断れない状況にあった。
陸奥守護代のネームバリューとキラキラ感に騙されて喜びの声に溢れている大半の家臣たちを見て、暗澹たる気持ちとなる。
そして偏諱を賜わる段になって、さらにその憂鬱さは加速していく。
「行盛殿の陸奥守護代就任に当たって、公方様が偏諱を賜うと仰せられましてな。須賀川二階堂家の長年の献金の労に報いるためにも、此度は是非にも将軍家の通字である“義”の文字をとのこと。謹んでお受けなされよ」
「はっ。ありがたく頂戴いたしまする」
「では今より其方は“盛義”、二階堂盛義と名乗らせませ」
盛義。
ズシリとくる。
この名の重みは俺しかわからぬものであった。
やはりそうなったか。
どうやら運命は変えられないらしい。
俺が二階堂盛義となるのは天によって決められていたようだ。
しかし一応確認してみる。
「なぜ“盛義”でございましょうや。頂いた“義”の字を下に置くなど、公方様に対して無礼になりますまいか」
「うむ。しかし“義”を上に置くとなれば“義行”か“義盛“のいずれか。“義行”は判官が鎌倉殿に追われた時に改名させられた名。そして“義盛”は鎌倉に叛いて族滅の憂き目にあった和田義盛と同じ。鎌倉武士を祖とする我が二階堂家には、いずれも相応しくない」
そう言われると確かにそうか。
「さすれば“義”を下に置いてでも“行義”か“盛義”となろう。“行義”は隠岐流二階堂家の始祖の名であり、我ら信濃流二階堂家が名乗る名では御座らぬ。それに我らが祖先の“行盛”の方が事績は格段に上。わざわざ格下の名前に変えるなどおかしな話。ならば“盛義”しかなかろうて。公方様もそれでかまわぬと言うておられましたぞ」
恐らくあまり興味が無かっただけだろうな。
もしくは代替案を考えるのが面倒くさくなったか。
重要なのは返礼だけ。
むしろそれを理由に金額を釣り上げようとしてる?
こうして俺は、室町幕府第十三代征夷大将軍である足利義輝の若干の無関心によって、わざわざ高い金を出して将軍家の通字を買ってその字を踏み付けた、日ノ本で唯一の武将となったのである。
想定外の陸奥守護代職の内示と、己の運命が確定されたかのように感じる盛義への改名。
この二つの衝撃を抱えたまま、夜の宴の準備を進める。
宴は二階堂晴泰一行を歓待する為のものであったが、その実ターゲットは沼田祐光ただ一人。
このまま須賀川に残って俺に仕えるよう必ず説得する!
気持ちを切り替えて接待に臨む。
宴もたけなわで、皆も良い感じにほろ酔い加減になってきたところで、晴泰殿に話を切り出す。
「晴泰殿、そろそろ沼田祐光殿をご紹介頂きたいのだが、如何でしょうや」
「あら楽しや。お、おお!そうじゃった。祐光!祐光はおらぬか?あれ、あやつ何処へ行った?厠かのぉ?」
いつの間に沼田祐光は宴の席から姿を晦ましていた。
近侍の者を呼んで探させる。
暫くして近侍の者が戻り、沼田祐光にあてがった客室に置かれていた手紙を携えてくる。
宛先は二階堂晴泰殿となっていた。
差し出された手紙を晴泰殿が読み上げる。
「んー、何々?『先程星を占うに我が主人の住処は更に北と出て候。先を急ぐ故これにて失礼仕り候』・・・なんじゃこれは?」
に、逃げられた!?
<1563年 9月中旬>
隣国の下野が騒がしい。
先年僅か十六歳の嫡男佐竹義重に家督を譲ったばかりの常陸の佐竹義昭が動く。
大関高増ら上那須衆を率いて下野に攻め入り、敵対する那須資胤と五境五峰山で激突。
これに勝利し、北関東での佐竹氏の武威を高めている。
そんな中、俺は米沢に向けて須賀川城を出立しようとしていた。
陸奥守護代への就任が正式に発表され、米沢で行われる就任式に出席する為である。
守護代は唐傘袋、毛氈鞍覆、塗輿の使用等の様々な特権を幕府から認められるが、その認可を米沢で受けるのだ。
もちろん幕府への返礼品も米沢に持ち込んで引き渡す形となり、護衛の軍勢を率いての初めての米沢行きとなる。
今回、奥州探題である伊達晴宗の強い要望により、奥州探題の立ち会いの下で幕府の使者を迎える式次第となっていた。
二階堂家が正式に伊達家の傘下に入った証として、伊達晴宗は俺の陸奥守護代職就任式を奥羽の内外にアピールしたい様子である。
これは山形の最上義守・義光父子が春先に海路で上洛して将軍足利義輝に拝謁し、御所号を免許された事への対抗措置と言えた。
最上家は斯波出羽家とも呼ばれ、奥州探題であった同族の斯波大崎家と並び、室町幕府より羽州探題を任されてきた家柄である。
現当主の最上義守が幼少の頃には伊達家に従属してしまっていたが、天文の大乱の折に伊達晴宗側に味方して領土を回復。
大乱終結後には伊達家からの独立路線に徐々に舵を切り始め、今や足利一門の名家として山形御所を名乗るまでに至っている。
その最上氏だが同族の大崎家の姫を嫡子義光の嫁に迎え入れており、伊達家と言えども決して侮れぬ勢力と成りつつある。
大崎家から奥州探題職を奪い取った伊達晴宗にとって、羽州に新たに確立されたこの権威は無視出来なかったのだろう。
同じ藤姓で近年隆盛著しい二階堂家を一門扱いする事によって、この奥羽で一番権威と実力がある者は誰なのかを改めて知らしめる魂胆だ。
我が二階堂家にとってもメリットが無いわけではない。
現在二階堂家は西に蘆名、南に結城、東に田村相馬と、北方以外の三面に敵を抱えている。
特に先年の蘆名氏方を使嗾して反乱を起こさせた経緯もあって、蘆名の我が方への恨みは深い。
また一度結んだ和約を破棄されて攻め込まれた結果、未だに田村方とは断交状態が続いていた。
伊達家の傘下に入れば、これらを大いに牽制出来よう。
また陸奥守護代という分かりやすい権威は、苦労している人材面の拡充にもプラスに働くと思えた。
もともとが『我が二階堂家の死命を制するのは、伊達家との関係性』と考え、これまで須賀川の舵取りをして来た経緯がある。
この度の陸奥守護代就任についても、毒食わば皿までと覚悟を固める良い機会と捉え直し、前向きに動こうとしていた。
「夫殿。よもや騙し討ちは無いとは思うが、油断はせぬことだ」
「もちろんだ。だが、何かあった場合は鶴王丸を宜しく頼むぞ。妻殿」
南の方に後事を託し、岩瀬の精兵千五百名を引き連れて米沢に向かう。
長槍七百五十、騎馬二百五十、弓胎弓二百五十、鉄砲二百五十の構成である。
率いる兵たちは主君の守護代就任という晴れの舞台への参加に心躍らせており、士気も非常に高い。
幕府への返礼品の他に、形式上は幕府との間を取り持ってくれた事になっている奥州探題への相応の引き出物もある。
米沢へ向けての行列は長大なものとなった。
奥州街道を北上する。
伊達領の信夫郡に入った後、杉目城(福島城)を横目に板谷街道へ左折。
羽前の置賜地方にある米沢を目指す。
南の方が須賀川に嫁いで来たときのルートを遡る。
米沢。
呼んで字の如く米の沢。
古くより置賜地方の飯豊山麓には米の栽培に適した湿地帯が多くあり、今では盆地全体に広大な穀倉地帯が広っている。
天文の大乱に勝利した伊達晴宗は、仙道の伊達郡にあった桑折西山城を破却し、伊達家の本拠を米沢に移す。
これは伊達稙宗に味方していた有力大名たちの所領が、全て阿武隈川より東に集中していた為となる。
守りやすい盆地の米沢にまで本拠を下げ、周りに味方を配置し、伊達郡と信夫郡を旧稙宗派との緩衝地帯とした。
阿武隈川東岸に陣取る伊達稙宗との再戦を想定しての本拠地変更である。
しかし、天文の大乱が終結してから十五年。
案に相違して丸森城に引き下がった伊達稙宗は動かず、米沢は一度も兵火に晒される事無く、順調に発達し続けている。
今や須賀川に比す都市の規模を誇っている。
ザッザッザッザッ
米沢城下を我が須賀川兵団が進む。
友邦とは言え他家の軍勢が米沢城下を進むのは珍しいらしく、多くの人手が沿道に集まって二階堂家の軍列を見物していた。
視線の質は、歓待よりも好奇心や警戒感の方が大いに勝っている。
率いる軍の装備の充実ぶりが、余計に精強な印象を与えているようだ。
あれが須賀川の陥陣営、あれが父殺しの餓狼ぞと、怖いモノ見たさで俺個人にやたら視線が集まる。
準備しておいて良かったな。
頃良きところで兵を止め、米沢の民衆に向かって口説を放つ。
「我が名は二階堂盛義!此度は晴れがましくも公方様と探題殿より守護代職を賜る為に米沢まで参った!我が福を皆へも分けようぞ。餅を撒け!」
合図を出し、兵たちに紅白餅を撒かせる。
ワーーーッ
この永禄飢饉の折に餅の配布はありがたかろう。
一気に米沢の民たちは歓待ムードに早変わりする。
次から次へと人が集まってくる。
餅を受け取って歓声を上げる米沢の民たちに笑顔を振りまきながら馬を進める。
伊達の家中で上手くやっていくには武名だけでは足りないものがある。
友邦である事をアピールし、自分たちにとって頼れる味方であると米沢の民たちにも思わせられれば、俺の勝ちだろう。
好感度上げ作戦の第一弾は見事に成功と見た。
米沢城の大手門に到着する。
城下の騒ぎは城まで届いており、多くの伊達家臣が城門まで物見に出ていた。
悠然と馬を降りて馬を預けようとしていると、城中が騒がしい。
お待ちくだされー!
若殿なりませぬー!
ええぃ邪魔じゃ、どけい!
門からドタバタと身なりの良い若い男が駆け出して来る。
「おお!!」
そして俺を見つけると満面の笑みを浮かべ、ノシノシと無防備に近づいて来るではないか。
その迫力に圧倒されかかる。
よくよく見れば年の頃は俺と同じくらいで、背格好も俺よりやや小さく身体の厚みもそれほどではない。
しかし、そのギラギラとした眼光の凄まじさは尋常では無かった。
な、なんだ?
そのあまりの目力に面食らっていると、正面から両肩をガシリと掴まれ、強く肩バンバンされる。
「よう参られた!お会いしとうございましたぞ、義兄上!」
これが我が義弟にして、終生の莫逆の友、至誠を捧げる主君となる、伊達輝宗その人との初めての対面となる。
時は永禄六年八月二十五日。
それは京の三好政権の崩壊を告げる三好義興の死と、奇しくも同日の出来事であった。
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