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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
序章 須賀川に立つ
2/83

1549 決意

<1549年 02月初旬>


「えい、えーい」


「若君、もっと強く振りなされ!」


 傅役の須田盛秀こと源次郎に見守られながら、降りしきる雪の中で木刀を振る。


 転生に気付いてから早三ヶ月の月日が経つ。

 あれから色々なことが判明していた。

 どうやら真っ当な過去の日本の戦国時代に転生したわけでは無さそうである。


 まずは昏倒から目を覚ました時に側にいた母上。

 まだ二十代半ば過ぎで優しげな容姿をしており、周りから薫の方と呼ばれている。


 母は伊達家出身の姫君で、既に不惑を越えている父上とは大分歳が離れていた。

 後妻だったようだ。


 今から十一年程前のことだ。

 伊達家の跡取りで当時二十歳だったイケイケの伊達晴宗が、岩城重隆の娘の久保姫の強奪を企む。

 久保姫は芳紀まさに十八歳で、奥州一の美少女と評判高い姫であった。

 その時に磐城までの道を貸したのが、我が父の二階堂行秀である。

 父上の案内もあり、伊達晴宗は白河結城家へ輿入れする道中の久保姫を襲うことに見事成功。

 花嫁を強奪して気を良くした伊達晴宗は、道を借りた礼としてまだ年若い妹を父上の後妻に充てがう。

 前妻と嫡子を相次いで失くしてから暫く独り身であった父上は、これを受け入れた。

 それが我が母の薫である。


 その若く綺麗な母上の姿を見て、まず違和感を抱いた。

 当然のことながら既婚である。

 にも関わらずお歯黒をしていなかった。

 そして身に纏う着物や化粧の仕方を見ると、美醜の感覚が現代のそれに近い。


 それと同様のことが家中の侍たちを見て言える。

 かつての日本人は矮小で、戦国時代の平均身長は150cm台半ばくらいだったはずである。

 足軽や農民たちを見ると確かにそれくらいなのだが、武士階級になると途端にガタイが良くなる。


 きちんと栄養と経験値を摂取する環境に身を置けば、現代以上の身体能力や頑健さ、整った容姿や美しさが手に入るらしい。

 (ただ寿命はそんなに変わらないようであった。)


 そして転生に気付く切欠になった名前と体力ゲージとレーダーの表示についてだ。

 便宜的に戦闘モードと名付ける。

 傅役の須田盛秀にそれとなく聞いて見たが、これが見えるのは自分だけらしい。

 転生特典というやつだろうか。


 ずっと表示されていると鬱陶しくはあったが、瞬きをダブルでするとモードを切り替えられるようだ。

 便利なのは、非表示の通常モードにしていても、ロックオンされるとキュピーンと鳴って戦闘モードに入るオート機能だ。

 この機能は不意打ちや暗殺の回避に役に立つ。


 戦闘モード中は、キーアイテムや重要ポータルの場所が矢印で表示される機能もあった。

 遠景でどっちの方向にどんな城や橋などの構造物があるか分かるので、戦争時はとても便利そうだ。

 戦場で迷うことも無いだろう。


 これだけ見ればVRゲームの世界であったが、ログアウト機能は何処にも無かった。

 自分で命を断つ勇気も無いので、なんとかこの世界に適応しようと日々努力中である。


 今朝方も新たな発見があった。

 戦闘モード時に他者の頭上に表示される体力ゲージだが、ステータス異常になると色が変わるらしい。


 朝起きた時に、二つ年下の弟の普賢丸の様子がおかしかった。

 戦闘モードで普賢丸の体力ゲージを見ると青色に変色していた。

 何らかの状態異常に掛かってしまっているらしい。

 病気だろうか。


 すぐに母上を呼び、薬師を手配してもらった。

 早めに回復してくれると良いのだが。






<1549年 02月末日>


 須賀川城内に読経の音が重なって響く。


 俺が弟の普賢丸の異変を察知してから半月足らず。

 呆気なく普賢丸は逝ってしまった。

 疱瘡だったらしい。


 泣き崩れている母上の姿を見るのが辛い。

 父上も辛そうだが、敵情視察を兼ねて葬儀に使者を寄越してきた近隣の諸豪族に対して、気丈に対応している。


 自分の知る世界とは少し異なるが、ここは曲がりなりにも戦国の世。

 人は簡単に死ぬし、医療技術も全然発達していない。


 俺が二階堂盛義であるならば、寿命は後三十年程。

 この世界で生を全うするには何をすべきか、俺は真剣に考え始めた。


 まずは疱瘡対策に乳牛の手配か。

 毎日乳を搾ろう。






<1549年 03月某日>


 去る天文十八年二月二日に、陸奥行方の小高城主相馬顕胤が亡くなった、との知らせが入ったようだ。

 病死だそうな。

 こっそり評定を覗き見て知る。


 傅役の源次郎は見て見ぬ振りをしてくれた。


「これも若君の成長の糧になるのであれば」


 理解があって助かる。

 しかしこの源次郎、僅か二十歳にしてこの落ち着きよう。

 やはり末恐ろしいな。

 そんな事を呟いていたら「若君には及び申さぬ」と返されてしまった。


 亡くなった相馬顕胤は、天文の大乱で自慢の騎馬隊を率いて稙宗方の主力として活躍。

 戦国大名としての相馬氏の基礎を固めた戦上手の武将である。

 四十歳を越えたばかりで惜しまれる死であった。


 その顕胤の跡を継いで相馬家十五代当主となるのは、若干二十一歳の相馬盛胤。

 まだ年若い当主の急な登板で、相馬家は大きく力を落とすと目された。

 表向き和睦の体を取って丸森に引っ込んでいる祖父伊達稙宗は、さぞガックリしているだろう。

 ちなみに盛胤の母も伊達稙宗の娘なので、自分にとっては従兄に当たる。


 父上や須田の爺、他の四天王たちも、これで奥州の戦の機運は一層静まるだろうと胸をなでおろしている。

 だが自分は違う。


 何故なら跡を継いだ相馬盛胤が、顕胤に勝るとも劣らない名将に育つことを知っているから。

 盛胤はこれから約四十年近くに渡って伊達家を散々に苦しめ続けるのだ。

 その切っ掛けを作ってしまうのもまた我が祖父の伊達稙宗。


 二階堂家には伊達家の娘である母の薫が嫁いでおり、その伊達の血が入っている自分が二階堂家の唯一の跡取りという現状がある。

 史実の行く末を鑑みても、二階堂家の浮沈は伊達家との関係性に掛かっていると言っても過言ではない。

 自分の記憶が確かならば、この時期の南奥羽諸大名の勢力範囲は、石高換算でおおよそ以下の通り。


- 伊達晴宗 40万石

- 蘆名盛氏 23万石

- 大崎義直 20万石

- 葛西晴胤 20万石

- 最上義守 8万/ 天童八楯 16万石

- 大宝寺義増 14万石

- 小野寺氏 12万石(クーデター発生中)

- 岩城重隆 12万石

- 田村隆顕 10万石

- 白河晴綱 7万石

- 相馬盛胤 7万石

- 畠山義国 5万石

- 二階堂行秀 5万石

- 伊東諸氏 3万5千石

- 黒川稙家 3万5千石

- 留守景宗 3万石

- 亘理元宗 3万石

- 寒河江兼広 3万石

- 白鳥長久 3万石

- 石川晴光 3万石

- 山内舜通 2万5千石

- 石橋尚義 2万石

- 国分宗綱 2万石

- 長江勝景 2万石

- 河原田盛次 1万5千石

- 長沼実国 1万5千石


 伊達家が飛び抜けて大きいのが見て取れる。

 伊達家との同盟を最後まで維持し、伊達家の隆盛にひっついて家運を上げ、蘆名に対抗して行くのが現時点での最適解だろう。

 そのためには当の伊達家に繁栄を極めてもらわないといけない。


 その障害となるのが、まず第一に我が従兄弟の相馬盛胤である。

 どうにか伊達稙宗と相馬盛胤の連携を断つことは出来ないか。

 まだ会ったことも無い稙宗じいちゃんを説得する方法について、この日から悩み続けることになる。






<1549年 09月某日>


 家族で夕餉を取っていたら、上方から火急の使者が転げ込んで来た。

 将軍足利義藤の側近くに仕える二階堂晴泰からの文らしい。


 二階堂晴泰は信濃流二階堂宗家の当主だ。

 我が須賀川二階堂氏にとっては本家筋に当たる。


「むむっ」


 文を一読して難しい顔をする父上。


「貴方、如何なされました?」


 母上が気遣う。


「うむ。将軍の足利義藤様が、父君の義晴様と共に京を追われたそうだ。この文も逃亡先の近江の朽木谷から送られたものよ」


 父の話では、去る天文十八年六月二十四日に摂津の江口城で大規模な戦いがあり、三好長慶が同族の三好政長を討ち取ったとのこと。

 これによって三好政長に加担していた管領の細川晴元は、京を追われることになった。

 細川晴元に担がれていた将軍家の足利義晴、義藤父子も同様である。


 日ノ本の武家を統治するのが征夷大将軍の足利家。

 その足利将軍家を補佐して将軍家お膝元の近畿一帯を治めるのが、管領の細川京兆家。

 その管領の細川京兆家を凌ぐ勢力に成長し、畿内への影響力を強めていたのが、阿波守護を務める同族の阿波細川家。

 その阿波細川家の阿波統治の実務を担当していたのが、阿波守護代の三好家。


 その三好家の当主である三好長慶が、将軍も管領も居なくなった京を占拠する。

 まさしく下克上の世の到来である。

 まぁその三好家も家宰の松永弾正に内側から食われ、いずれボロボロになっていくのだろうけど。


「伊達の晴宗殿に急ぎ文を書かねば。あと金子の用意もせんとな。また出費が嵩むことになろう。頭が痛いわ」


「金子、でごじゃいますか?」


 大人しく父の話を聞いていたが、思わず尋ねてしまう。


「竜王丸。聡いお前ならもう理解も出来るかもしれんな。将軍家が朽木谷に逃れるのはこれが二度目のことよ」


 何でも父の父、つまり我が祖父の二階堂行直が当主だった頃、同じように将軍が細川氏の内紛によって朽木谷の逃れていたのだとか。

 この時、宗家先代の二階堂直泰を通して足利将軍家から偏諱の打診があり、その見返りとして多額の金子を求められたという。

 宗家の直泰の顔を潰すわけにもいかず、足利義晴の京への帰還のための資金を提供し、祖父は晴行と名乗るようになる。

 今回も同じ流れになるというのが父の予想であった。


 確かに史実を鑑みるに、父の二階堂行秀から輝行に改名している。

 父の予想は当たるだろう。

 しかし疑問があった。


 戦国末期の日本全国の総石高は二千二百万石余りだったと聞く。

 そして今の二階堂家の所領はたったの五万石程度。

 悲しき四百四十分の一である。

 そんな小名にまで何度も何度も金の無心をしに来るなんて、幕府は相当貧乏なのだろうか。

 それともこの須賀川の二階堂家、年貢以外の収入源が結構あって実は裕福?


「良いところに目を付けおる。幕府というより将軍家自体が困窮しているのよ。幕府の財布は政所執事の伊勢貞孝が抑えているでな」


 二階堂晴泰の文によると、その伊勢貞孝は足利義藤に従わず京に残り、三好長慶の下で幕府の運営を続けているらしい。

 将軍不在でも幕府の機構と京洛の統治が滞りなく回っている理由が、それであった。


「小倉に西川、赤取根に塩田の金山で今は何とかなっているが、いずれ金脈も尽きよう。掘り尽くしたら終いだでな。頭が痛いわ」


 現代では遠くの昔に廃坑になっていて跡も残って無いが、この時代の須賀川では複数の金山が稼働していたようだ。

 たった五万石の二階堂家が、大勢力の伊達家に対してある程度の期間反抗を続けることが出来た理由は、それであったか!

 疑問が溶けてスッキリする。


 しかし、父上の言う通りで金山は掘り尽くしたらお終いである。

 なんとかして南蛮との伝手を作って灰吹法を導入せねば。

 あと新しい金鉱銀鉱の探索も必要だ。

 未発見の大規模な鉱山って何処だろう・・・。


 越後の佐渡金山って本格的な開発まだだったよな。

 だが遠すぎる。

 海を越えないといけないのも難問だ。


 確か東洋一の大銀山の羽後の院内銀山は、佐竹氏が関ヶ原の戦いの後に羽後へ飛ばされてからの発見だったよな。

 これもまた須賀川から遠い。

 院内銀山のある雄勝郡まで田村、二本松、伊達、最上、小野寺と一体いくつの領地を飛び越えていかないといけないのか。


 近場のこのあたりで未発見の金山となると・・・。

 そうだ高玉金山があった!


 高玉金山は日本三大金山の一つに数えられる程の大金山だ。

 その埋蔵量は莫大で、戦国時代から昭和まで稼働し続ける程だ。

 地理的にはこの須賀川のすぐ北に位置する、安積郡の安子ヶ島城の側に位置する。

 今は二本松の畠山義国の勢力圏になる。


 確か高玉金山が発見されるのは1570年代で、会津の蘆名盛興が畠山氏を傘下に収めてからのはず。

 今ならまだ蘆名氏の安積郡への支配力も緩く、我らが奪い取ってしまう機会もあるだろう。


 その為にはどうやって蘆名の勢力を削っていこうか。

 蘆名盛氏って相当な名君って聞くからなぁ。

 うーんうんうん。


「竜王丸、これ竜王丸や。ほんとにもうこの子ったら」


 あれ?

 いつの間にか父上が居なくなっていた。

 とっくの昔に夕餉を切り上げ、伊達晴宗に上方の異変を知らせる文を書きに行った模様。


 母上が困った顔で、膳の前で物思いに耽ける俺を見守っている。

 慌てて膳の残りを掻っ込んだ。


 普賢丸を失ってから半年。

 最近ようやっと母上の顔にも笑みが戻ってきたのに、俺が心配させてどうする。


 しかし不味い飯だな。

 というか調味料が少なすぎ。

 この時代の調理技術の向上も喫緊の課題だわ。





<1549年 10月下旬>


 片田舎の草深い奥州。

 普通にやっていたら情報の入りがとにかく遅い。


 大きな家は諜報機関を用意して周辺や関東、京などの遠方の情報をそれなりに仕入れることも可能だろう。

 しかし、こちらは如何せん五万石ぽっちの小名である。

 自前の諜報機関を設立して運用するなど、とてものこと無理の話だ。


 普通の小名であったら、交流のある武家同士で文のやり取りを行なって、各地の情勢や噂を仕入れるくらいが関の山。

 だが、他の奥羽の小名たちに比べると、二階堂家は大分マシと言える状況にあった。


 まず在京の将軍の側近くに仕える信濃流二階堂宗家とのパイプがあり、上方の情勢を入手しやすかった。

 そして、須賀川は奥州街道と猪苗代湖南岸に至る白河街道の合流地点の直ぐ北にあり、また磐城に通ずる岩城街道との結節点に位置している為、奥州の仙道の要衝であった。

 商人の行き来もある程度あり、会津や陸奥中部の情報が入って来やすい。

 さらに須賀川には曹洞宗の参禅道場、長禄寺がある。


 須賀川城の外堀にあたる釈迦堂川。

 その釈迦堂川の内側に在って、城の西方に位置する長禄寺は、二階堂家の菩提寺である。

 須賀川二階堂氏の祖である二階堂為行が、曹洞宗の著名な和尚である月窓明潭を招いて開いた仏閣になる。

 開山してすぐに後花園天皇の勅願寺となったことで勢力が一気に拡大。

 今では陸奥だけではなく、越後下野含めて百三十以上の末寺を擁する大寺院となっている。

 名実共に奥羽一の参禅道場となっていた長録寺を目指して、諸国から多くの僧や侍が須賀川を訪れており、関東や越後の情報も多く漏れ聞こえてくる。

 

「源次郎、今日はどのような話を仕入れてこれたのじゃ?」


 ここ最近は、傅役の須田盛秀を城下に派遣して情報収集させ、寝る前に報告させるのを日課にしていた。


 隣国の蘆名盛氏の隙を探ることや、伊達稙宗の動静を調べることが目的であったが、各国の噂話を聞く機会が増えて純粋に興味深い。

 越後の長尾景虎が兄を隠居に追い込んだとか、尾張のうつけが美濃の蝮の娘を娶ったとか、三河でどこぞの城主が暗殺されたとか。

 聞くだに焦りを喚起せざるを得ない話ばかりである。


 そういえば、そろそろ日本にキリスト教が伝来した頃であろうか。

 鉄砲はもう伝来済みだよな。

 実戦配備って今くらいからか?


 さて今日はどんな話が聞けるのか。


「はっ。既に父君にもご報告しておりますが、隣国の下野にて下克上が起こったようにございます」


 天文十八年九月十七日、那須七党を率いる那須高資が下野守の宇都宮尚綱を攻め、長喜連川の五月女坂で両軍が激突する。

 数で勝る宇都宮軍は那須軍を押し込むも、那須軍の伏兵にあって混乱。

 混乱を治めようと前線に出た宇都宮尚綱が弓矢で射殺され、主君を失った宇都宮軍は崩壊。

 那須高資が大勝利を挙げる。


 話はそれだけでは終わらない。

 主君の討死を知った宇都宮氏の宿老壬生綱房が、宇都宮城を占拠してしまって下克上を果たす。

 尚綱の嫡男の伊勢寿丸はまだ五歳の幼さだそうだが、その行方は未だ不明とのこと。


 上方の日本国の中枢で大規模な下克上が起こったことで、ある意味タガが外れたのかもしれない。

 今後、日本各地で下克上がどんどん発生していくだろう。

 諜報活動の重要性がまた増してしまったと言える。


 今はまだたった六歳のこの身には、独自の諜報機関を組織する財も力も無い。

 いずれにしても金子が大量にいることは間違いない。


 高玉金山を蘆名氏より先に絶対手に入れる!

 その決意がより確固たるものに強まった。






<年表>

1549年 二階堂竜王丸 5歳


01月

◆越後の長尾景虎(19歳)、兄の長尾晴景(40歳)に代わって三条長尾家の家督を継ぐ。

■米沢で伊達晴宗の三男六郎(後の伊達政景)誕生。


02月

◎須賀川の二階堂竜王丸、弟の普賢丸(3歳)が疱瘡にかかってるのを発見。普賢丸死去。


03月

▼陸奥行方の相馬顕胤(41歳)死去。相馬盛胤(20歳)が家督を継ぐ。

☆尾張の織田信長(15歳)、美濃の斎藤道三(55歳)の娘の帰蝶姫(14歳)を娶る。


04月

☆三河の松平広忠(23歳)、家臣の岩松八弥に暗殺される。


06月

▽薩摩の島津貴久(35歳)、大隅の肝付兼演(51歳)を攻める。黒川崎の戦いで伊集院忠明(47歳)が初めて戦場に鉄砲を導入。


07月

★摂津の三好長慶(27歳)、江口の戦いで政敵三好政長(41歳)を討ち取る。政長の嫡子の三好政勝(21歳)敗走。


08月

★京の足利義晴(38歳)、義藤(13歳)、三好政長方の細川晴元(35歳)らと共に近江朽木谷に逃れる。細川政権崩壊。

▽薩摩にフランシスコ・ザビエル(43歳)上陸。キリスト教伝来。


09月

▷周防で毛利元就(52歳)の嫡子隆元(26歳)が大内家重臣で長門守護代の内藤興盛三女あやや(22歳)と婚儀を挙げる。

■米沢で伊達晴宗の正室の久保姫(28歳)が懐妊。


10月

◆下野で早乙女坂の戦い。那須高資(29歳)、宇都宮尚綱(36歳)を討ち取る。

◆下野で宇都宮家宿老の壬生綱房(70歳)、宇都宮城を占拠し下克上。芳賀高定(28歳)、尚綱の嫡子伊勢寿丸(4歳)を保護。

▶︎土佐の長宗我部国親(45歳)、父の仇の山田氏を討滅。


11月

☆駿河の太原雪斎(53歳)、三河安祥城を攻略。織田信秀(38)の庶長子信広(22歳)を捕虜とし、松平竹千代(6歳)と人質交換。

▼相馬行方の相馬盛胤(20歳)、妹の於北(14歳)を三春の田村隆顕(61歳)の嫡子清顕(12歳)に嫁がせ、婚姻同盟を締結。


12月

▽薩摩の島津貴久(35歳)、大隅の肝付兼演(51歳)を降す。

■丸森の伊達稙宗(61歳)の側室、末娘を産む。後の越河御前。


-------------

▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[南奥 1549年末]>

- 田村隆顕・相馬盛胤


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 5万1千石

・奥州 岩瀬郡 5万1千石

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