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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第三章 仙道筋の覇者
19/83

1562-3 遺言

<1562年 4月下旬>


 人取橋合戦の首実験を後回しにして、負った傷の手当てもお座なりに松峯城へと馬を駆ける。

 後から護衛が「お待ちくだされー」と付いてくるも振り切る。


「行盛じゃ!開けよ!」


 乗馬したまま山を駆け上がって松峯城の大手門に突入。

 俺の姿を確認した城兵が慌てて壊れかけの門扉を開く。


 城の中は酷い有様で、何処を見回しても怪我人だらけである。

 激戦の証であった。


「主膳正!須田主膳正は何処におる!?」


 とにかく爺を探す。


 お殿様こちらです、とその場にいた老兵が案内してくれる。


「爺・・・」


 城郭内の陣屋の柱に寄り掛かって座っている須田永秀。


 酷い有様になっている。


 体のあちこちに刀傷が無数。

 肩や脚に折れた矢が数本突き刺さったまま。

 更に血に濡れた包帯で片目を巻いている。

 まさにズタボロで、生きているのが不思議なぐらいである。


 戦闘モードで確認するとその体力ゲージはレッドゾーンだ。


「永秀様、殿がいらっしゃいました。いらっしゃいましたよ」


「・・・何?おお、殿か」


 薄らと片目を開けてこちらを見る爺。


「爺、大丈夫か」


「殿。この永秀、最後の苦言を呈すべく、恥を偲んで介錯を断り、殿をお待ちしておりました。ゴホッ」


 近付いて咳き込む爺を支える。


「ああ、後でいくらでも聞こう。だが爺よ。その前に傷の手当てをいたそうではないか」


「・・・お黙りなされい。聞きましたぞ。戦さ場で自ら槍を取って真先に敵陣に突っ込まれたと。それでその様に手傷をいくつも負われて。何という浅慮か」


「この程度の傷、須賀川を守る為なら何程も無いわ。城壁に立って槍を振るった爺と同じよ。これも兵を奮い立たせる為の策であろう。それよりも」


「カッーーーー!!!」


「うぉ!?」


 いきなり耳元での喝に思わず目を瞑って仰反る。

 幼き頃よりこの喝を幾度食らった事か。

 こまっしゃくれた俺の反論は、いつもこの喝一発で吹き飛ばされてしまう毎日であった。


「ゲフッゲフッ、御大将が儂の如き匹夫の勇を真似てどうするのかっ!ゲフッ、おお情けなやっ!」


 バンバン床を叩く爺。


「わかった!わかったから動くな爺!」


「その傷は決して名誉の負傷にあらず!須賀川の侍衆にとっては己の背に負った恥ずべき逃げ傷と同義なのですぞ!殿は我らが臆病者未熟者よと嘲笑されるのを良しとなさるのか!」


 爺の体を抑えようとしたら、逆に胸ぐら掴まれて激怒される。


 確かに主君に傷を負わせた部下が、周りからどう見られるかまでは配慮出来ていなかった。

 武士は名誉で食う者という大前提が、未だに身に染み付いていない故の失態である。

 この世界の理の根本的な部分が理解出来ておらず、他者とズレが生じてしまっている。

 それを見抜き、正したいが為の爺の魂の激昂であろう。


 フィールドタイプの乱戦型格闘ゲームと浮かれ、戦場を嬉々として駆けずり回っていた僅か一刻前の自分に、バケツで氷水を浴びせたい気分になる。

 だが、今はそれよりも爺の怪我の手当てが先である。


「・・・わかった。二度とせぬゆえ許してくれ。だからまず大人しくしてくれ!」


「まことですな?ゲフッ。蛮勇を振るうのはこれで最期と、まことにこの爺と約束できますな?」


「わかった。わかった!誓おう。烏帽子親である其方に嘘はつかぬ」


 爺を納得させる事を何よりも優先し、言われるがままに誓いを立てる。


 それで安心したのだろう。

 爺が大きく息を吐く。


「ふーーーっ、ならば宜しかろう。これにてこの老体の役目は全て終わり申したな」


 そう呟くとフッと体の力を緩め、寄り掛かっていた柱からズルリと崩れ落ちていく爺。


「おい!爺、・・・なんじゃこれは?」


 反射的に抱き止めると、死角となっていたその背には大きな槍傷が入っており、止めどなく血が流れ落ちていた。

 慌てて再び戦闘モードで確認すると、レッドゾーンに入っていたその体力ゲージは急激に目減りしており、今にも尽きようとしているではないか。

 焦って血を止めようとするも既に手遅れであった。


「伝えたき事は全て、グフッ、須賀川を暇乞いする時に、お南の方様にお伝えてありまする。後は、儂の代わりに、お南の方様が、若を叱って、くれま、しょう・・・」


「爺、爺よ!爺ぃいいいい!」

 

 実父である二階堂輝行の死から月が変わって永禄五年四月。

 次は二階堂家の長老であり、我が烏帽子親である須田永秀が逝く。


 八十八歳で大往生を遂げた史実よりも、その死は十年も早いものであった。






<1562年 5月上旬>


 須田永秀を看取った後、そのまま安積郡に留まって人取橋合戦の首実験と論功行賞、遺体と負傷者の後送を行う。

 そして松峯城の補修と平行して、二本松への再遠征軍の再編に着手する。


 人取橋合戦があまりの激戦だった為に兵の消耗は激しい。

 この身についた手傷もそのままである。

 その為に再度の二本松攻めは秋口まで延期すべきとの声も勿論上がっていた。

 しかし、父上や永秀爺を失った哀しみと同様に、それらの声も捻じ伏せる。


 今しか無いのだ。

 南奥州をぐるりと見回しても、今ならば邪魔する勢力は何処にもいない。


 相馬家は人取橋の激闘にて自慢の騎馬武者軍団を大きく損じた。

 好機と捉えて北上の構えを見せている岩城重隆への対処と、騎馬武者軍団の再建で手一杯のはず。

 田村家は田村梅雪斎の戦死と田村月斎の謹慎によって軍部の2トップを欠いており、混乱中だ。

 更に塩松の大内義綱、定綱父子が鬼生田城を奪い取った為に、本拠の三春から動けない状況にある。


 永秀爺の奮戦とその死を無駄にしない為にも、ここはあえて無理をしてアクセルを踏む。


 人取橋の蛮勇の副次的効果だろうか。

 重臣たちや一門衆たちの俺を見る目にどこか恐れがあり、表立って反発する者は誰もいなかった。

 強引に兵をかき集めた結果、三千人の遠征軍が出来上がる。


 対する畠山方は再び二本松城への籠城の構えを見せるも、三ノ丸の補修は全く進んでおらず焼け落ちたまま。

 前回の戦いで城に籠った者は武者に限らず容赦なく我らに斬られていた為、籠城に参加する者の数自体が大幅に減っていた。

 二本松城に籠った兵の数は僅か四百人。

 正しく風前の灯であった。






 半月前と異なって後背の安全は完全に確保されている。

 最早二本松城を遮二無二攻める必要も無い。


「此度は作戦を変える。兵を三手に分ける。一手は二本松城への抑え。残り二手で畠山方の城館を片っ端から攻め落とす」


 人取橋合戦では兵を失い過ぎた。

 これ以上の兵の損耗を避けるべく、我攻めではなく城兵の心を攻める作戦を取る。


 永秀爺との約束もあるので前線には出ず、本陣にどっかと腰を据えたまま待つ。

 その間に家臣たちはそれこそ馬車馬のようによく働いてくれた。

 僅か一週間ばかりで二本松城以外の畠山方の城館は全て降伏し、我ら二階堂家の傘下に入る。


 情報は封鎖せず、二本松城にも伝わるようにしていた。

 周辺の城館がことごとく落とされていく知らせを聞いて、城方の士気はどんどん下がる一方である。

 既に我らに下った親族の庇護を求め、城から逃げ出していく者たちも多数に上る。


 頃合いであった。

 本格的に城攻めに取り掛かる為に兵を集結する。


 奥州探題の義父にして叔父の伊達晴宗公からの使者が到着したのはその時である。


 伊達家の使者の名は桑折景長。

 奥州探題の下に配された三人の陸奥守護代の一人。

 伊達家の家臣団のトップに位置する男であった。





 桑折家は中野宗時と同様に守護不入権を持ち、足利将軍家より毛氈鞍覆と白傘袋の使用を許されている名家である。

 伊達家中では「執権の中野、格式の桑折」と呼ばれており、桑折景長自身はあくまで晴宗公の一の家臣というスタンスを崩していない。

 彼が出てくるという事はすなわち、本当の意味での奥州探題の代理役としての登場であった。


 ちなみに色々と因縁の出来てしまった牧野久仲の他、後もう一人の陸奥守護代は石母田城主の石母田光頼が勤めている。

 現在は病床にあると言う。


 桑折景長が持ってきた話は、畠山勢の会津への退去と引き換えの二本松城を含む安達郡全域の二階堂家への移譲であった。

 牧野久仲の時と異なり、現時点でのこちらの要望に十割沿った内容である。

 拒否する理由は見当たらなかった。


 安達郡の支配権さえ手に入れば、畠山義継を初めとする二本松方の武将たちの首などには興味など無い。

 復讐自体は高田原で畠山義国を討ってその屍を磔で晒した時点で済んでいる。

 あくまで二本松を攻めたのは、自分を殺してでも安達半郡を手に入れて力を付けよ、という父上の遺言に沿った行動であった。


 晴宗公の持ってきた開城案を謹んで受け入れる。

 その後、桑折景長が二本松城に入って畠山勢を説得し、晴れて開城の運びとなった。

 翌日悔しげにこちらを睨み付けながら城から退去していく畠山義継少年を眺めつつ、二本松城の接収に取り掛かる。


 父上が亡くなってから一ヶ月余り。

 怒涛の日々が過ぎ去った後に、安達半郡と三春の鬼生田が我ら二階堂家の支配圏に加わった。


 仙道七郡のうちの三郡が我が手中に収まり、その石高はざっと十七万石を超えるにまで膨れ上がるに至る。




 


<1562年 5月中旬>


 保土原行藤と守谷俊重に新領土となった安達郡の統治を任せ、半数の兵を率いて奥州街道を上って須賀川を目指す。

 父輝行の四十九日法要の準備の為である。


 鶴王丸は元気にしているだろうか。

 妻の南の方とも一ヶ月ぶり顔合わせとなる。

 父上の葬儀と続く出陣の折、余裕が無さ過ぎて冷たい態度で接してしまっていた事を謝る必要があった。

 それと三万五千石あまりを得る為に無茶をし、永秀爺を初めとする多くの兵を失った報告もせねばならず、気が重い。


 馬に揺れながら須賀川に到着。


 なんだ?

 先頭の方が騒がしいな。


 そのまま馬を進めると、須賀川城の城門に到達した兵たちが何故か入城していない。

 皆困惑してどよめきながら門の左右に割れてその場で控えていた。

 どうした?と思いながら城門に近づく。


 すると城門前には薙刀を携え騎馬に跨った南の方の袴姿があった。


 周囲の兵たちと同様、その凛々しくも美しい乗馬姿に唖然としていると、南の方が声を掛けてくる。


「随分と遅いお帰りだ。待ちくたびれたぞ」


「・・・今戻った。なんともその、物々しい格好だな」


「なんでも仙道の餓狼は非常に凶暴と聞いた。出迎えにはそれなりの備えは必要であろう」


「夫を狼扱いとはひどくないか?」


 俺のことを餓狼と唾棄したのは確か相馬盛胤だったか。

 それがどうやら須賀川まで伝っていたらしい。


 牛から麒麟になって高順を経て次は狼。

 どんどん渾名のストックが溜まっていくな。


「語り草になっているぞ。一人で敵中に斬り込んで敵将の相馬盛胤に襲いかかったそうだな。まるで昨年の川中島での関東管領と信玄入道の一騎討ちのようではないか」


 人取橋合戦での蛮勇を揶揄される。

 どうやらだいぶ誇張されて伝播されたようだ。


「やめよ。今際の際の永秀爺に叱られたわ。あのような無茶はもう二度とせぬ」


「良いではないか」


 何?

 爺と同じく俺を叱る為にその出立で現れたのではないのか?


「何を苦しんでいるかと思えば、気苦労ばかりで存分に槍を振るう機会が無かったのが辛かったのだな。敵を間近で見て堪えきれずに飛び出してしまったのであろう」


 はい?


「妻として夫の不満に気付いてやれなんだ事は痛恨だ。少しでも解消出来ればと思ってこの格好で待っていた。さぁ武器を取れ。いざ!」


「なっ!?うぉっ、ちょ、ちょっと、ちょっと待てって!」


 人馬一体となって電光石火に斬り込んでくる南の方。

 その動きは人取橋で相対した敵兵の誰よりも鋭かった。


「はっ、せやっ、せいっ、てやーーーーっ!」


「くっ、ぬぉ!?ああっ」


 ギンッ


 素手では対処しきれず、反射的に腰間の刀を引き抜いて防ぐも、あっという間に弾き飛ばされてしまう。


 スチャッ


 薙刀を首に突き付けられる。


「「「おおーーーーっ」」」


 周りに控えていた将や兵、観衆たちから響めきが巻き起こる。

 お前ら黙って見てないで止めろよ!


「つまらないな。その程度の傷など何ほどでもなかろう。心が緩み過ぎている」


 南の方が凄く不平そうな顔で睨んでくる。

 貴女が戦いたかっただけだろ!と思わず文句が出そうになるも、薙刀を更にズズいと突き付けられたので黙ってます、ハイ。


「もう良い。そろそろ乳の時間だ。鶴王丸が待っている。早く参ろう」


 スンッと息を吐いた後に薙刀を下ろして馬首を返し、城に入っていく南の方。

 一体何だったのか。

 それでも俺は黙ってトボトボとその後を付いて行くしかなかった。


 なお、この時の夫婦水入らずの手合い?のシーン。

 多くの者たちに見られていた為にすぐに南奥一帯に広まってしまった。

 噂話に尾鰭が付いてお南の方最強説が流れ、我が妻の須賀川での権威が益々高まりを見せる。


 それこそが彼女の真の狙いであったと、俺はこの後にすぐに知るところとなる。






 帰城に伴う諸々を済ませ、グズる鶴王丸の機嫌も取り終え、改めて南の方と差し向かう。

 夫婦の時間である。


 戦さには勝ったとはいえ、爺の須田永秀を初めとして多数の士卒を見殺しにした。

 須賀川城中には家族を失った者も多いだろう。

 城の奥を取り仕切る正室の南の方には、それらの者達へのフォローなどの苦労を掛けてしまった。


「気にしなくて良い。それが私の役目なのだから」


 助かる。

 素直に頭が下がる思いだ。

 そう言えば、爺が何かを南の方に言い遺してあると話していた。

 何を聞いたのか尋ねてみる。


「夫殿が幼い頃の話を長々とされたな」


 苦笑いする南の方。


「あと祐筆を持たせるなとも。習字が不得手ですぐサボっていたので、一行に字が下手なままと嘆いていた」


 そんな事もあったなとしんみりする。


「わかったと頷いておいたが、気にする必要はない。祐筆なぞ何人でも雇え」


「何?」


「謀略手回し算段が大好きな夫殿ゆえ、文を書く機会は絶えまい。他でも出来る仕事は他に任せ、貴方しか出来ない有意義な時間の使い方をすべきだ」


 思わず戸惑って南の方の顔を伺う。

 誠実で朴訥で裏表が無さそうに見えて、男を誑かす方便をさらりと行使してくる南の方の姿に女の怖さを見た。


「もしかして、故人の願いゆえ聞き届けねばならないと律儀に思うているのではなかろうな。一騎駆けをもうせぬと言っていたのもそれでか」


「それは違う。爺の遺した諫言に理があると納得したが故よ」


 爺の忠臣としての見事な死様を南の方に伝える。


 しかし話を聞いた我が妻殿は、意外にも憤懣と反論してきた。


「主君の傷は家臣にとっては逃げ傷。その通りよ。貴方から見て有能な臣下が少ない。須賀川には弱兵しかおらぬ。己が暴れた方が余程勝算がある。そう踏んだ故に貴方は相馬勢に自ら斬り込んだのであろう?ならば責められるのは貴方ではなく、不甲斐ない家臣たちの方ではないか。断じてその逆ではない。彼らが臆病者未熟者よと謗られるのは至極当然のこと。むしろその罵声を甘んじて受け入れられない事こそが武者としては失格であろうに!」


 何やらスイッチが入ってしまったようだ。


「どうやらこの期に及んでもまだ自分が何に苦しんでいるのか分かっておらぬようだな。この際だから言っておこう。この家に嫁いで来てもうすぐ六年になるが、ようやくこの須賀川で長い間感じていた歪さの正体が分かってきた。皆が過剰な程に貴方に期待し過ぎているのがそれよ。亡き須田主膳正を始め、家来衆や一門衆の全員が貴方に頼りきっている、いや甘え過ぎていると言っても良い。亡くなられた義父殿もその例に漏れぬ」


 憤然と立ち上がった南の方は、文箱から一通の手紙を取り出して来た。


「これは?」


「そのままにしてあった義父殿の書斎を先日整理したら出てきた文になる。宮森城に赴く前に一夜逗留した時、義父殿がしたためられたものだ」


 遺書、遺言状という事になるのだろうか。

 呆然としたまま南の方から文を受け取り、文を開ける前に気付いてしまう。

 この文が須賀川の書斎の隠されて残されていたという意味に。


 そして暗い目をした我が妻が告げてくる。


「気付いたか。そう。栗ノ須の変事。畠山義国が義父殿を嵌めたのでは無い。逆よ。義父殿が畠山義国を嵌めたのだ。二階堂家にとって邪魔な口出しをしてくる牧野久仲ごとな」


 そうか。

 牧野久仲が戦場にまで駆けつけて詮議詮議と騒ぎ立てていた理由が今やっとわかった。

 彼も彼なりに和議当日の各々の振る舞いに違和感を感じていたのだろう。

 それ故に経緯を(つまびら)かに調べたがっていたのだ。


 これが須賀川の戦国大名二階堂輝行の文字通り命賭けの最期の策か。

 敵も味方も俺も皆、見事に騙されたというわけだ。






 父上の残した遺言はシンプルなものであった。


 母上が亡くなった時から俺の存在が如何に救いであったか。

 元服の儀式での頼もしく自信に溢れた俺の姿を見てどれほど誇らしかったか。

 戦さ場で轡を並べた折に己が息子に名将の片鱗と天下を感じ、どれだけ心が震い立ったか。

 その時々に感じた嬉しさと、俺への感謝の気持ちが切々と綴られている。


 そして須賀川、奥州は俺には狭すぎるので是非にも南を目指して名を挙げるべきである、としていた。

 俺が関東に打って出る戦さに同道出来ないのは寂しくも口惜しいが、せめて自分はその為の捨て石になる。

 虚しく果てるはずであった己の命の使いどころが見つかって安堵した旨と、後事を託す言葉でその文は結ばれていた。


「能天気な遺言状であろう。天下だ関東だ。威勢が良すぎる。さぞ心楽しく筆を走らせたのであろうな。後を託された貴方がどれほど苦しもうと、貴方なら容易くやってのけてみせると信じ切っている」


 スッーと涙を零しながらも、怒りの声を上げる南の方。


「須賀川の皆は誰も彼も勝手が過ぎだ。勝手に重荷を貴方に押し付けて、挙句にその荷を一人で引かせようとする。それなのに貴方は文句も言わず、しかもそれが常人では決して引けぬ程の重さである事に気付いていない。私はそれが不憫でならないのだ」


 義父である父輝行の思いを汲み取って涙しつつも、俺の為を思って怒ってくれている南の方をそっと抱き締める。

 昼間の城門でのやり取りは、少しでも自分の権威を高めて俺の負担を減らそうとした、南の方なりの策であったようだ。


 父上の希望も、須田の諫言も、そして南の方の嘆きも。

 全て俺を思っての真心から出て来たものであり、等しくありがたかった。






 これまで無意識に避けてしまっていた自分と二階堂家の問題点に、南の方のお陰もあって向き合う事が出来た。

 須賀川という大きな荷を一緒に引いてくれていた父が急にいなくなった今、確かに早急な手当てが必要だ。


「今のままでは貴方に何かあったら直ぐに二階堂家は崩壊するぞ」


 この南の方の懸念は正しい。

 二階堂家の領土は三倍以上に増えたが人材が圧倒的に足りない。

 過積載の一輪のリヤカーを一人で押しているようなもので、安定性に問題がある。


 家中において中央の武将と遜色ない能力があるのは須田盛秀と保土原行藤くらいだろう。

 守谷俊重は軽薄過ぎて単独では怖くて出せない為、サポートユニット扱いか。

 他は見所があるとすれば大内定綱あたりになるが、忠誠がまだまだ低い為に全幅の信頼を置くにはまだ早かった。

 悲しい事だが、他の者たちはユニット化もされずにモブ武将にもなれない有象無象のレベルにある。


 武具を揃え、一般兵の練度を上げ、全体の軍事力の底上げを図ったとしても、やはり優秀な指揮官がいない国は弱い。

 朝倉宗滴亡き後の越前朝倉家が良い例だろう。


 国を豊かにして識字率を上げ、市井から人材を募れるレベルにまで至るには、相当な時間を費やす必要がある。

 一番簡単な方法は、やはり他家を離れて仕官先を探している武将をフリーエージェントで引っ張ってくる方法だ。

 幸いな事に我が二階堂家には京の将軍家の近くに仕える本家という伝手がある。


 四十九日法要を終えた後、俺は本格的に人的資源の確保に乗り出し始めた。






<1562年 11月下旬>


 永禄五年十月。

 ついに蘆名氏方が討たれ、会津は再び蘆名盛氏と盛興父子の手に収まった。

 庶兄である蘆名氏方を討った蘆名盛氏は出家し、今は止々斎を名乗っていると聞く。


 この夏、奥会津の只見の山内舜通が単独で蘆名盛氏と和睦してしまう。

 蘆名盛氏は和睦の条件として山内舜通に岩谷城の割譲を申し出たそうである。

 蘆名氏方にとっては大きな痛手となる。

 この和睦が一昨年から続く会津の内戦のターニングポイントであった。


 会津方面の調略と蘆名氏方支援を任せていた守谷俊重。

 彼を二本松統治の為に仙道に呼び戻していた為、我が二階堂家はこの和睦を事前に察知出来なかった。

 それからはもう全て後の祭りである。

 南会津の長沼盛秀は蘆名盛氏に各個撃破されて屈服。

 河原田盛光は山内家を通して降伏を申し出て、蘆名家への臣従を表明してしまう。


 我が二階堂家は人取橋合戦で大きく兵を損耗しており、かつ二本松の占領統治には兵が必要である。

 とてもの事だが会津まで兵を出す余力は無い。

 孤立無援となった蘆名氏方は、東と南から蘆名盛氏と山内舜通に攻められて新宮城を保持出来なくなり、越後に逃亡しようとしたところを捕捉されて斬首となる。


 既に蘆名氏方の背後に我が二階堂家の存在があった事は、蘆名止々斎も蘆名盛興も重々承知しているだろう。

 昨年には長沼城で直接干戈を交えており、両家の関係は見事に冷え切っている。


 再び蘆名家が仙道に軍を進める日が近づいていた。






<年表>

1562年 二階堂行盛 18歳


01月

◆越後の上杉政虎(31歳)、関東出征二回目。生野山の戦い。北条氏康(46歳)が包囲中の松山城を救出。

◆第二次関東出征中の上杉政虎(31歳)、北条方に降った佐野昌綱(32歳)の唐沢山城を攻撃。

◆第二次関東出征中の上杉政虎(32歳)、上杉輝虎に改名。

▽豊後の大友義鎮(32歳)、出家し休庵宗麟と改名。戸次鑑連(49歳)、剃髪して戸次道雪を名乗る。


02月

☆三河の松平元康(19歳)、上ノ郷城を攻略し、人質交換で今川家より瀬名姫(19歳)と嫡男竹千代(3歳)、長女亀姫(2歳)を奪還。

☆尾張の織田信長(28歳)と三河の松平元康(19歳)、清洲同盟締結。

◆第二次関東出征中の上杉輝虎(32歳)、上州館林城を攻めて赤井文六を追い落とす。

◆安房上総の里見義堯(55歳)、家督を嫡男義舜(32歳)に譲る。義舜、義弘に改名。


03月

▼羽後檜山の安東愛季(23歳)、比内の浅利則祐(39歳)を討って比内を勢力下に置く。


04月

◎須賀川の二階堂行盛、高田原で二階堂輝行(55歳)諸共に畠山義国(41歳)を殺害。栗ノ須の変事。

★河内の畠山高政(35歳)、久米田の戦いで根来衆の力を借りて三好長慶(40歳)の弟の三好義賢(35歳)を討ち取る。

▼二本松の畠山義継(10歳)、元服して畠山家の家督を継承する。

◎須賀川の二階堂行盛、畠山義継(10歳)の籠城する二本松城を攻撃。

▼行方の相馬盛胤(33歳)、三春の田村隆顕(73歳)と共に安積郡へ侵攻。松峯城を攻める。援兵の須田永秀(77歳)討死。

◎須賀川の二階堂行盛、田村隆顕(73歳)と相馬盛胤(33歳)を人取橋で撃退。鬼生田城を奪取。人取橋合戦。


05月

◎須賀川の二階堂行盛、二本松城攻めを再開。畠山義継(10歳)、伊達晴宗の斡旋により会津に退去。

◎須賀川の二階堂行盛、安達郡全域を占領。須賀川に戻って父輝行の四十九日法要を営む。

◆常陸の佐竹義昭(31歳)隠居。佐竹義重(15歳)が家督を継ぐ。

▽日向の伊東義祐(50歳)、飫肥を制圧するも島津貴久(48歳)と相良頼房(18歳)の策動により北原領を失う。


06月

▽肥前の龍造寺隆信(33歳)、東肥前の神代勝利(51歳)と和平。

▷安芸の毛利元就(65歳)、石見攻略。山吹城の本城常光(49歳)降伏。刺鹿城の多胡辰敬(65歳)討死。毛利家、石見銀山確保。

★摂津の三好長慶(40歳)、教興寺の戦いで軍勢六万にて畠山軍四万を蹴散らす。河内の畠山高政(35歳)、紀伊に逃げ込む。

◆鹿沼の壬生綱雄(45歳)、叔父の徳雪斎周長に天満宮で暗殺される。息子の壬生義雄(10歳)、壬生城に逃れる。


07月

★岩清水八幡宮の足利義輝(26歳)、京都に復帰。畠山六角方に寝返った政所執事の伊勢貞孝・貞良父子を追放。

☆尾張の木下秀吉(25歳)、墨俣一夜城で武名を挙げる。

◆筑波の小田氏治(28歳)、密かに北条方に鞍替え。

▷安芸の毛利元就(65歳)、出雲経略開始。


08月

▽豊後の大友宗麟(32歳)、出雲の尼子義久(22歳)の求めに応じ、豊前各地で毛利軍と激突。第五次門司合戦開始。

☆越後の上杉輝虎(32歳)、越中に二回目の出征。神保長職(57歳)を下す。

▼会津の蘆名盛氏(42歳)、奥会津三家の山内氏を調略。


09月

☆越中の神保長職(57歳)、再び挙兵。上杉輝虎(32歳)に対抗。

▽薩摩の島津貴久(48歳)、日向の伊東義祐(50歳)から飫肥を奪い返す。

▽大隅の肝付兼続(51歳)、新納忠茂から日向志布志城を攻め取る。肝付家最大版図形成。

◆関東下向中の近衛前久(26歳)、上杉輝虎(32歳)の関東平定は難しいと判断して失意の中で帰洛。

▼会津の蘆名盛氏(42歳)、奥会津三家の長沼氏を攻撃して下す。


10月

★山城の船岡山で伊勢貞孝・貞良父子が挙兵。松永久秀(54歳)に討たれる。

☆越後の上杉輝虎(32歳)、越中に三回目の出征。神保長職(47歳)を再び下す。

▷備前の浦上宗景(36歳)と松田元輝、宇喜多直家(33歳)の仲介で和睦。

▶︎土佐の長宗我部元親(23歳)、本山茂辰(37歳)の朝倉城を攻撃するも甥の本山貞茂(17歳)の活躍で痛み分け。

▼会津の蘆名盛氏(42歳)、奥会津三家の河原田氏の降伏を受け入れる。


11月

▷山城の足利義輝(26歳)、毛利隆元(39歳)を備中・備後・長門の守護に任じる。

▼会津の蘆名盛氏(42歳)、新宮城の蘆名氏方(47歳)を攻め滅ぼす。止々斎を名乗る。

■陸奥守護代の石母田光頼(43歳)、米沢で病死。


12月

▷安芸の毛利元就(65歳)、降将の本城常光(49歳)を誅殺。出雲の元尼子方が動揺。尼子に返り忠する国人が続出。

◆相模の北条氏康(47歳)と甲斐の武田晴信(41歳)、協力して上杉方の松山城を攻める。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[南奥 1562年末]>

- 伊達晴宗・二階堂行盛

- 蘆名盛氏・結城晴綱・山内舜通・河原田盛次・長沼実国

- 田村隆顕・相馬盛胤

- 佐竹義重・大関高増・岩城重隆


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 17万7千石

・奥州 岩瀬郡 5万1千石

・奥州 安積郡 3万5千石

・奥州 安達郡 3万5千石 + 3万5千石 (NEW!)

・奥州 伊達郡 1万5千石

・奥州 白河郡 4千石

・奥州 田村郡 2千石 (NEW!)

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