1548 覚醒
<現代>
「やっと着いたな。ここが須賀川か」
秋晴れの下、俺は福島県の須賀川駅に初めて降り立つ。
ちょっと長めの休暇が取れたので、念願だった東北一周の一人旅を企画し、その旅の途中で立ち寄った街。
それが須賀川市だった。
この街は今は亡き日本の特撮界の大御所の出身地で、その大御所の作品や資料を集めたミュージアムがあるらしい。
「さて行くか」
駅前で電動自転車を借りて走り出す。
快晴で風が気持ち良かった。
大通りのあちこちに配置された特撮キャラのオブジェを楽しみ、目当てのミュージアムを見て、近くの老舗鰻屋で鰻重を満喫。
「宿のチェックインまでまだ時間があるな・・・」
少し悩み、近くの翠ヶ丘公園に脚を伸ばす。
公園の入り口横に市立博物館の看板があった。
「良い機会だ」
中に入って、ここ須賀川の歴史に触れてみることにする。
須賀川。
陸奥の岩瀬郡に位置し、戦国末期まで二階堂氏の一族が治めていた土地だ。
二階堂氏は鎌倉以来の名門である。
源頼朝に仕えた工藤行政が鎌倉の二階堂村を治めたことから、二階堂氏を名乗るようになる。
源頼家を補佐する為に設置された十三人の合議制の一人に、初代の二階堂行政はその名を連ねている。
その後も鎌倉幕府の政所執事を代々勤め上げ、室町時代にも幕府評定衆として活躍していた家であった。
そして1444年に一族の一人である二階堂盛重が自領である岩瀬郡に下向。
横領していた代官を討って土着化し、須賀川二階堂氏が成立した。
奥州の鄙びた田舎に珍しく、中央とのしっかりとしたパイプを持っていた由緒正しい武家と言えるだろう。
そのプライドが邪魔をしたのかもしれない。
須賀川二階堂氏は奥州の隻眼DQN、遅れて来た暴れん坊こと伊達政宗と激しくやり合う羽目になる。
人取橋や摺上原の激闘を経て、最終的に本拠の須賀川城を攻め潰される憂き目を見た。
須賀川二階堂氏が滅亡に至った原因は、いったい何だったのだろうか。
書籍を調べて見ると、岩瀬郡の北の要衝であった今泉城の失陥が凋落の切っ掛けだったようだ。
また、その後の大事な時期に当主が立て続けに亡くなったことも大きな一因だろう。
六代目当主の二階堂輝行は、伊達家の盛大な内輪揉めである天文の大乱をなんとか乗り切った。
そこまでは良かったが、その後の隣国の会津の蘆名氏と三春の田村氏の争いに巻き込まれ、須賀川二階堂氏は徐々に弱体化していく。
決定的だったのは1559年に田村月斎に今泉城を攻め取られたことで、その後わずか五十余郷を治める程度にまで勢力を失う。
そんな中、1564年に二階堂輝行が今泉城を回復出来ないまま亡くなってしまう。
そして輝行の跡を継いで七代目当主となったのが、二階堂盛義である。
二階堂盛義の母は伊達稙宗の娘だ。
そして妻は伊達晴宗の娘の阿南姫。
ほぼ伊達家の一門に準ずる人物と言えよう。
その盛義も隣国の蘆名盛氏の圧迫に耐え切れなかった。
伊達家の援護も虚しく、1566年に須賀川西方の横田城を奪われてしまう。
結果、会津へ長男盛隆を人質に出さざるを得なくなる。
蘆名の従属国となったわけだ。
しかしながら1575年に蘆名盛氏の後継の蘆名盛興が酒毒で若死。
人質に出したはずの盛隆が、養子縁組で大国である蘆名氏を継ぐという幸運に見舞われる。
この盛隆、敵の武将にも惚れられるほどの美貌の少年で、蘆名家中でも皆からかなり愛されていたらしい。
やがて1580年に後見の蘆名盛氏が亡くなると、会津一円を統べる蘆名氏の実権は盛隆の手に渡った。
蘆名の後ろ盾を得てここから勢力拡大!と行きたかったところだったが・・・。
二階堂盛義が1581年に三十八歳で急死。
翌1582年、盛義の次男で八代目当主となっていた二階堂盛行が僅か十四歳で病死。
さらに1584年に蘆名盛隆が痴情の縺れで寵臣に刺され、二十四歳の若さで死亡。
盛隆・盛行の母の阿南姫が須賀川城主として立たなければいけない事態に陥る。
折悪く北の大勢力である伊達家でちょうど代替わりが発生する。
家督を継いだ若年の伊達政宗は、舐められてたまるかとばかりに周辺の小大名たちへ喧嘩を吹っかけまくった。
そして二本松の畠山氏を滅ぼす折、事もあろうに己の父親の伊達輝宗を道連れにしてしまう。
二階堂家を率いていた阿南姫としては、頼りにしていた弟を甥の不手際で殺されたわけで当然反発する。
阿南姫と伊達政宗はとことん相性が悪かったようで、叔母と甥の間での骨肉の争いに発展。
当主を立て続けに亡くして弱体化していた二階堂家は、常陸の佐竹氏を頼っての徹底抗戦の道を選ぶも、その果ての滅亡であった。
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<須賀川二階堂家系図>
二階堂輝行(行秀。六代目当主。田村氏に負けて勢力減衰。1508-1564)
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├★二階堂盛義(行盛。七代目当主。蘆名氏に負けて従属。1544-1581)
│ │ │
│ │ ├ 蘆名盛隆(蘆名氏十八代目当主。寵臣に刺されて死亡。1561-1584)
│ │ │ │
│ │ │ [正室:彦姫(伊達晴宗娘。元・蘆名盛興正室。1555-1588)]
│ │ │
│ │ ├ 二階堂盛行(行親。八代目当主。家督継承直後に病死。1570-1582)
│ │ │
│ │ ├ 岩城御前(岩城常隆正室→伊達成実継室。???-???)
│ │ │
│ │ [正室:阿南姫(伊達晴宗娘。伊達政宗から須賀川を守れず。1541-1602)]
│ │
│ ├ 二階堂行久(???-???)
│ │
│ ├ 二階堂行栄(聖護院の修験者。故郷に戻って徳善院を建立。1581-???)
│ │
│ [側室:???]
│
├大久保資近(???-???)
│
[正室:伊達稙宗娘(???-???)]
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須賀川落城は天正十七年十月二十六日、1589年12月3日の夜と伝わる。
伊達家との繋がりの深かった盛義・盛隆・盛行の誰かが生き残っていれば、また結果は違っていたかもしれない。
「中々面白かったな」
博物館の中の書庫で岩瀬郡の歴史書を読み漁って、一通り二階堂家の興亡に関する知識欲を満たすことが出来た。
その土地土地の資料を読めるのは、地方の博物館を訪れる醍醐味の一つだ。
「・・・ふぁああああ」
しかし良い陽気だ。
思わずあくびが出てしまう。
そろそろチェックインも可能な頃合いだ。
今夜の宿に向かおうか。
夕飯までまだ少し時間があるな。
先に温泉に浸かろうかな。
<1548年 10月某日>
秋晴れの良い天気の昼日中。
壮年の殿様とかなり年老いた武人が縁側に座って語らっている。
殿様の方が我が父の二階堂行秀。
武人の方は二階堂家に仕える四天王筆頭格須田家の長老、須田主膳正永秀。
「伊達家の内紛もやっと収まりましたな。稙宗殿は丸森に隠居なさるそうで。晴宗殿はなんでも米沢に伊達家の本拠を移すとか」
「ああ。これでやっと幾分か平穏な日々も戻って来よう。京の宗家に高い金を払って将軍家を動かした甲斐があったわ」
しみじみと語る父上。
「今年は豊作のようだ。牛庭原で散っていった者共のお陰だ。彼らのお陰で岩瀬の田畑を荒らされずに済んだ。主膳、感謝する」
俺は部屋の中で木で出来た玩具の馬で遊びながら、そんなやり取りをぼんやりと見ていた。
自分が産まれる二年前、今から六年前に北の大勢力である伊達家で内紛が勃発する。
隠居ながらも先の当主として絶大なる影響力を行使する伊達家十四代稙宗と、伊達家現当主の十五代晴宗の争いである。
発端は越後守護の上杉定実の養子問題であった。
越後まで伊達家の影響力を広げたかった稙宗が、次男の時宗丸を定実の養子に送り出すことを画策。
そして伊達家中から選りすぐりの武者百名を時宗丸に随伴させようとする。
これに現当主の晴宗が反発。
強兵を引き抜かれた伊達家はセミの抜け殻になる、として稙宗を強引に居城の西山城に軟禁。
側近の助けで西山城を脱出した稙宗は、懸田俊宗・相馬顕胤・田村隆顕などの娘婿たちの力を借りて晴宗に対抗する。
結果、稙宗が婚姻外交で奥羽一円に巨大な洞を築いていたことが影響し、奥羽の諸豪族を二分する争いにまで発展してしまう。
世に言う天文の大乱である。
我が二階堂家は現当主の父行秀が伊達稙宗の娘を娶っていたこともあり、当初は稙宗方として参戦していた。
しかしながら、隣国の蘆名家が稙宗方を裏切ったタイミングで情勢を見極め、二階堂家も晴宗方に鞍替えをする。
そのため今年の春先に伊達稙宗が二千騎で岩瀬郡に襲来。
牛庭原で激闘に及ぶ。
須田永秀の一族の須田備中が五百騎の精兵を率いて奇襲を敢行。
初戦は勝利を収めるも数の差は如何ともし難く、多くの武者を討たれてしまう。
何とか伊達稙宗の南進を食い止めることは出来たが、二階堂家の被害は大きかった。
次に稙宗方の侵攻があったら防ぐのは難しかっただろう。
そこに京の将軍家より稙宗方、晴宗方の双方に停戦命令が届く。
牛庭原の合戦に先立って、父上は一つの策を実行していた。
これ以上伊達家の内紛に付き合っていられないと決意し、京の将軍足利義藤の側近二階堂晴泰を同族の伝手で頼っていたのである。
領内から掻き集めたなけなしの金を京に送り、奥羽の大乱を治めるように将軍家に働きかけていた父上。
その成果がやっと出たようだ。
って、何だこれ!
「ひゃっ!」
急に意識が明確になった。
視界がクリアになる。
思わず悲鳴を挙げてしまった。
女子のような声が出てしまい更に驚く。
小さな木の馬の玩具を引いていた己の手を見る。
やたら小さい。
己の纏っている衣服を見る。
時代劇みたいだ。
えっとどう言うことだ!?
俺は須賀川の旅館に泊まって、温泉に浸かって、たらふく懐石料理を食って、ふかふかの布団に包まって眠りについたはず。
それが気付けば何でこんなに体が小さくなってんだ?
そして此処は何処だ?
「どうした竜王丸?」
「なんぞ虫でもおりましたかな?」
俺の悲鳴に気付いた父上と須田永秀がこちらに顔を向けてくる。
そこでまたあり得ない事態が起きていることに気付いた。
何で彼らが二階堂行秀と須田永秀であることを自分が知っているのか。
簡単なことだった。
彼らの顔の斜め上の何もない空間に、彼らの名前が書かれていたから。
その名前の下には緑色のゲージ、太いバーが描かれている。
あれは一体何なんだ。
そして視界の左下には透明な四角い窓が。
窓の中心には小さな矢印が描かれており、矢印の上に青い点が二つ。
顔を左右に振るとその矢印の向きは上に固定されたままで、視界の中の父上と須田永秀の位置に合わせて青い点も左右にずれる。
何だこれ・・・。
とにかく焦ってアワアワしてると、父上と須田永秀にこちらの異変が伝わったらしい。
「おいっ竜王丸、如何した!」
「若君の様子がおかしいっ。源次郎、薬師を呼べっ」
ざざっと音がして庭先に若い侍が現れる。
左下のレーダーにも青い点が一つ増える。
源次郎と呼ばれたその侍。
右上の名前を見ると須田盛秀とある。
ああ、あれが自分が亡き後、阿南姫を支えて須賀川城代として最後まで伊達政宗に対抗したスーパー爺ちゃんか。
まだ全然若いなぁ。あはっははは。
父上がガクガクと自分の小さな体を揺さぶってくる。
「しっかりせい!竜王丸!」
「ち、ちちうえ」
「なんじゃ!竜王丸!」
「今は、、、結局何年でごじゃりますか?」
幼児の唐突な質問に、目を白黒する父上。
「なんじゃいきなり。何年?今は天文十七年じゃ!」
天文十七年かー。
天文の大乱が終わった年だよねー。
そしてここは二階堂家。
父上は二階堂行秀、後の二階堂輝行。
つまり自分は、二階堂盛義。
戦国時代のド田舎の弱小マイナー武将に転生でファイナルアンサー?
白目を剥いてぶっ倒れてみた。
<年表>
1548年 二階堂竜王丸 4歳
01月
◎須賀川の二階堂行秀(41歳)、宗家の将軍家腹心二階堂晴泰経由で足利義藤(12歳)に天文の大乱の調停を要請。
03月
◆甲斐の武田晴信(27歳)、上田原の戦いで村上義清(47歳)に破れる。武田家宿老の板垣信方(59歳)、甘利虎泰(50歳)討死。
04月
☆三河で第二次小豆坂の戦い。今川義元(31歳)と松平広忠(22歳)の連合軍、太原雪斎(52歳)の指揮で織田信秀(37歳)の軍に勝利。
☆越前の朝倉孝景(55歳)死去。朝倉延景(15歳)が家督を継ぐ。朝倉宗滴(71歳)が執政を務める。
▽肥前の龍造寺胤栄(24歳)病死。
◎須賀川の二階堂家重臣の須田備中、牛庭原の戦いで伊達稙宗(60歳)を撃退。
■京の足利義藤(12歳)、奥州の伊達稙宗(60歳)と伊達晴宗(29歳)に停戦命令。
05月
★京の細川晴元(34歳)、細川氏綱(35歳)側に寝返った池田信正(55歳)を切腹に追い込む。池田長正(29歳)、三好範長(26歳)に従属。
06月
▽肥前の龍造寺分家の胤信(19歳)、先主の胤栄の未亡人を娶り龍造寺本家を継ぐ。
■米沢で伊達晴宗の正室の久保姫(27歳)が懐妊。
07月
★摂津の三好範長(26歳)、三好長慶に改名。従五位下筑前守叙任。
08月
◆甲斐の武田晴信(27歳)、塩尻峠の戦いで信濃守護職の小笠原長時(34歳)の軍を撃破。
09月
★摂津の三好長慶(26歳)、父元長殺害に関わっていた三好政長(40歳)の排除を細川晴元(34歳)に申し出るも黙殺される。
10月
■福島の伊達稙宗(60歳)、引退して丸森に隠居。家督を継いだ伊達晴宗(29歳)、伊達家の本拠を米沢城に移す。天文の大乱終結。
◎須賀川の二階堂行秀の嫡子竜王丸。転生に気付いてぶっ倒れる。
11月
★摂津の三好長慶(26歳)、細川晴元(34歳)に叛旗を翻し、細川氏綱(35歳)側に寝返る。河内に兵を入れて三好政勝(20歳)を攻める。
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▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
<同盟情報[南奥 1548年末]>
- 無し
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 5万1千石
・奥州 岩瀬郡 5万1千石
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