何も知らない二人
ある集落の外れに『小さな橋』が架けられていた。
冷たい水が、岩にぶつかり、そして大小様々な色形の石ころの間を、縫うように流れる渓流にこじんまりと架けられていた。
その橋は何の変てつもない、欄外は赤くペンキで塗られいる、コンクリート製の短い橋だ。子供の足で歩いても、渡り切るのに時間はかからない。
橋の周囲は、秘境と呼ばれるのに相応しい深山で、町の観光名所である。きちんと整備され、町の主宰の催し物の時には、それなりに観光客も多い。
春の真白いこぶしの花、赤い葉の山桜、夏の緑、川面の涼やかさ舞い飛ぶ小さなホタル、秋の燃え立つ紅葉、冬の全てが凍てつく墨絵の世界。そんな場所に架かる『小さな橋』
小さな町の、小さな集落にある、普段は静かな小さな橋………
―――「ねぇ、これなあに?」
助手席の彼女がそれを手に取り、運転席の彼氏に問いかける。
ん?ああ、それか?彼女の問いかけに、少し考え、思い出すとおろすの忘れとった、と彼氏は手を差し出しながら答えていた。
斎場で頂いたんだっけ、忘れていたなと思いながら………
×××××
『小さな橋』の近くは、普段は自由に車が停めれる様になっている。そこに軽自動車が一台、車内には二十代位の男と女。二人のお気に入りの音楽が流れる中で、楽しい時を過ごしていた。
夜になるとライトアップこそは無いが、道路端に点在している外灯で、漆黒の闇の世界ではなくそれなりに明るい、
そしてそこは、周囲に民家もなく、少々奥まった地理的環境も手伝い、催し物の時以外は、観光客も地元の住民でさえ、ただ橋を渡るためにわざわざ訪れる酔狂な者はいない場所。
となると、夜の時間帯のその場は、甘く囁く恋人達の語らいに相応しい、隠れた名所になっていた。
助手席で若い女性がコンビニスイーツを口にしながら、運転席の彼にダッシュボードの上に置かれていた、極小さなペタンとした白い袋を手にし問いかける。
ああ、それな、おろすの忘れとったわ、塩だよ、塩と受け取り、無造作にズボンのポケットへと押し込む若い男性。
「おばあちゃんが、な、その時貰ったんだけど、その日は実家に帰ったから、使わんかったんだよ」
あ、そうやったね、ごめんと謝る彼女に、ええよ、そういや参列してくれてありがとうな、と笑う彼。
「あんた所のおばあちゃんには、可愛がって貰ってたもん」
しんみりとしながら答えた後、変なクスリとかやったら、張り倒そうと思ったわぁ、と笑う彼女
二人は、しばらく他愛の無い会話を、交わしていたが、やがて彼女がふと気が付いた事を話し出す。
「ねぇ、ここの『橋』って私ら、街に出るまで『つり橋』やったね、その時渡るの怖いって言ってなかった?」
いつ、新しいなったんかな、とフロントガラス越しに、しげしげと観察する彼女。そして、前の方がよかったのにぃ、と残念そうに話す。
そして、長年の付き合いの間柄から、彼が少々怖がりなところがあるのを知る彼女は、からかうかの様な視線を向ける。
「えー?ああ、そんな事あったっけか?」
カフェラテを飲みながら、彼は何とも無い風を装いつつ、子供の時に、ぞくりとしながら渡った感覚を思い出した。
「あれって、お前らが揺らすから、怖かっただけやで、俺を見ながら、わざとでやるんだもんな。ひどいやっちゃな!」
そうそう、見てておもろかったもん、揺らさんといてーって!半泣きでさぁ!
此方も昔を思い出して、クスクス笑いながら、隣から身をのりだし、そして彼に甘える様に寄り添う彼女。
「残念ながら『コンクリート製』だからな、お前の悪戯はもう出来へんわ」
彼女肩に手を置き引き寄せると、彼は耳元へ、そうさらりと囁く。それを受けてクスクスと笑う彼女。そしてお互いを優しく見つめ合う恋人達。
……二人の甘い沈黙の後で彼女が、ねえ、新しい橋渡ってみいへん?と言い出す。
何で?向こう側に行っても何もないやん、と言いながらも彼自身、少々懐かしくもあり、なのでその提案に同意をする。
そして、二人は車を降り外へと出た。
チッチと、気の早い秋の虫の音が、辺りの藪から聞こえる。ひやとした風、さらさらと聞こえる渓流。
涼しくなったよな、と辺りを見渡しつつ、何気に、対岸へと目を向ける。
そこは、此方とは違い、薄暗い外灯がポツリと一つある山へと上がる道。
周囲は暗闇に覆われて、道を挟んで両側に生い茂る木立が、ポッカリと口を開けた様な、山道の入り口。
不気味な気配が背筋を通り、思わず身震いをする。そして我ながら情けないと思いつつも、急に緊張感が高まるのは、あがらえない生理的現象。
そして、傍らの彼女に悟られぬ様に、しらと隠そうといている彼だったが、その何時もとは明らかに違う様子を、彼女は目にすると、クスクス笑いながら近づく。
ほんまやわ、で『コンクリート製』でも怖いん?と聞きながらするりと腕に絡み付く様に、身を寄せ顔を覗き込む。
「こ、怖く無い!大丈夫、うん大丈夫」
彼の慌てた様な顔を見ながら、止めて帰ってもええよと言葉をかける。
そして、川の水って少ないんやね、と川を見下ろし、岩がゴロゴロと転がる川底を、水がするすると間を縫って流れ行く様子を、面白そうに見る。
「最近雨が少ないせいやな、橋渡らんでも下に降りて、川を渡ってあっちに行けるぞ、この辺り小さい時から遊んだから、浅瀬ばかりや」
「川を渡るって、新しい橋を渡るのよ、何で意味も無く向こう側に行かなあかんねん。で、やっぱり、橋渡るの怖いんやわ。向こう側、暗いもんね」
おどけた様に笑顔を向ける彼女、あ、あほか、怖くなんかないわ!と強がる彼氏。そんな様子に対して、
アハハ、と若い女性らしい華やいだ明るい笑い声が上がる。ひどいやっちゃなっと、少しむくれて彼は彼女に文句を言う。
×××××
しばらく二人はそこにしゃがんで、川面を眺めながら子供の頃に、ここで遊んだ夏の思い出話で盛り上がる。
「自転車で来たよな、俺達。今思えば家から遠い、ようやっとったわ」
ほんまやわーと同意をする彼女。冷たい風が気紛れに川面を通りすぎる。
「夜やからか、風が冷たいわ」
仲睦まじい二人に、川面の風が、若い恋人達の放つ熱を冷ますかの様に、ひゅると吹き上げてきた。
………『小さい橋』に二人は目を向ける。そこは、此方と、彼方にも一つある外灯の照明のおかげで、夜目にも明るく浮かび上がり、若い者達を誘う様に見えた。
し、んと静かに、そしてどこか不可思議な空間、そこだけポッカリと違う世界の気配を漂わせている『小さな橋』
「そろそろ渡ってみようか」
ポツリと彼が漏らす。うん、と彼女が答え、彼等達は立ち上がると『そこ』へと向かう。
何故だか『それ』を渡らなければいけない、そんな思いに囚われている彼氏と彼女。
知らぬ内に『何か』に魅せられている二人、その『何か』は、二人は知らない。
………地元で、密かに流れている『橋』に関する不吉な噂『見た』者はいるのか、いないのかは定かではない。
ただ、夜に川辺に降りて、下から橋を見上げてはいけない、と言われている。
何かと『出逢う』らしいのだが、彼等達は、今は集落を出て少し離れた街で暮らしているので、最近の噂話など知るはずも無い。
風が二人に知らせる。ざわざわと木の葉を揺らし、音を立て、警告をおくるかの様にざわめく。
『渡ってはいけないよ』と、何も知らぬ二人に『それ』の存在を、知らせるかの様に……
―――まだ新しい『小さな橋』人里から離れた場所にひっそりと架けられている。