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第5話 真っ赤な林檎がプレゼントです

 窓から見える月は細く、夜空を切り裂いた傷跡のように見えます。光を受けて鈍く光る果物ナイフの刃先がえぐるように(くう)をなぞりました。

 ゆらゆらと滑らかに泳ぐ果物ナイフが、突然勢いよく降り下ろされると、赤く艶やかな林檎の中心にその身を突き立てました。


「……白雪姫? あの小娘がまだ生きているって言うのかい!」


 細く、やや節くれ立った手が、果物ナイフの柄を握りしめてわなわなと震えます。


「はい、白雪姫は生きています」

「あの男、狩人はなにをやっているの! 金貨を与え、これだけの猶予さえ与えたというのに。あの耳は飾りだったようね」


 ヒステリックに叫び歯ぎしりするのは、この国の王妃であり、また白雪姫の継母です。


 ろうそくの灯りに照らされた美しい横顔は、重い黒の中に縁取られてくっきりと浮かび上がっています。長く豊かな髪はゆるやかな波を描いて、黒のようにも金のようにも見えます。黒いレース地のドレスから気だるげに投げ出された脚は細くもほどよく柔らかな質感を纏っており、小ぶりで模範的な形をしたつま先へと続いています。

 しなやかに伸びる腕が、突き立てた果物ナイフをそのまま振り下ろします。スパン、と鮮やかな音を立てて、林檎が切り裂かれました。そして続いて真っ二つに割られてしまいました。

 切り口からじわりと、蜜が浮いてきます。爽やかで甘美で、どこか青さの残る芳香が鼻に届くと、王妃はその美しい顔に色濃い憎悪を滲ませて、林檎にかぶりつきました。

 咀嚼の音だけが、静寂な時の中に足跡を刻みつけるように響きます。何度も、何度も、林檎に噛みついては噛み砕いて飲み込んで、あっという間に半分が無くなってしまいました。


 残された半分が、ろうそくの火で煌めきます。血のような赤が、雪のような白が、黒檀の窓枠のような黒の中で、眩しいほどの光を放っています。

 王妃の瞳の中で、それは最も嫌悪すべき者の姿と重なりました。


「忌々しい、小娘が」


 吐いた言葉はほんの小さな声でしたが、刃物のように鋭く尖っていました。


「もういいわ。どうせあの男も幼稚な小娘に惑わされたんでしょう、被害者と思って今回は見逃してあげる。……見つけたらただじゃおかないけど」


 他に方法はないか、と王妃は考えます。使えそうな人物はいないこともありませんが、また同じように時間を浪費しては堪りません。もっと信頼の置ける人物が、確実に命を奪える仕方をもって出て行く必要があります。

 そこではたと思い付きます。


「あたしが行こうじゃないの」


 美しくもおぞましくも見える笑みを浮かべて、不思議な鏡に向き直ります。


「ねえ、あたしが行けば確実にあの小娘を仕留められるかしら」

「行かなければ成功しません。行けば成功する見込みはあるでしょう」

「ふん、もったいつけて。あんたも所詮は応用の利かない鏡よね」


 中性的で伸びやかな声が、王妃に返答します。その答えに王妃は不満でしたが、もう自ら手を下すことは決めているようです。


「どんな手でいこうかしら」


 果物ナイフで遊ぶように半身の林檎を突きながら、彼女は考えます。そして降り注いだ名案に、甘い感嘆の声を上げました。


「ああ、そうね、それがいいわ。あの子にぴったりの、この青臭い林檎をプレゼントしようじゃないの。思わず息が止まって永遠の眠りに就きたくなるような、極上の蜜が滴る林檎を」


 そう呟くと、残りの林檎に歯を立てます。シャリ、と軽い音を立てて欠片がその口に落ちていきます。唇の端を甘い蜜が伝い、赤い舌がそれを器用に舐め取りました。

 そんなことを繰り返し、やがて林檎は綺麗に喰い尽くされました。芯も、種も、へたまで丸ごと喰い尽くされた林檎は跡形もなく、ただ淡い残り香だけがわずかに漂っています。


「待っていなさい。素敵な夢を見せてあげる」


 夜空をこじ開ける細い月は、王妃の真っ赤な唇のように笑って見えました。


**********



 翌朝、マントを頭からすっぽりかぶった老婆が、森の入り口へと歩いてきます。

 右に左にと体を大きく揺らしながら、背中を丸めて進みます。薄曇りの空からかろうじて射す光を受けて、森の中を歩いています。

 よいしょ、と重そうに持ち直したのは、蔓で編まれたかごです。ビロードの端切れがかけられていますが、端から林檎が覗いています。時おり端切れで磨くように撫でながら、深く皺の刻まれた頬を上げてくつくつ笑い声を漏らしました。


 この老婆は、王妃が変装した姿です。マントから覗く鷲鼻や体を屈めて歩く姿には王妃の面影は微塵もなく、マンダリが揶揄する「魔女」のようにも見えます。

 王妃は森の奥、かつて城で働いていた七人の小人の家へと向かっています。


 自分の手で白雪姫を永遠の眠りに就かせることを決めた王妃は、まず居場所を突き止めようと鏡に問いかけましたが、分かりませんと返すばかり。どこに隠れているの、誰にかくまわれているのと何度訊ねても一向に答えを引き出せませんでした。

 そんな王妃がなぜ小人たちの家に向かっているのかというと、鏡が唯一明確に答えることができたからです。王妃の問いは、狩人は最後にどこに行ったのか、でした。


「あの鏡、一体どうなっているのかしら。小娘の居場所が分からないなんて。真実しか答えない鏡、信用しているけど勘繰ってしまいたくもなるわ」


 森の中に落ちる老婆の枯れた声。

 もしも魔法の鏡に感情があるなら、真実を知りながら隠すこともあるかもしれません。なにせ鏡の答える「世界で一番美しい人」は白雪姫なのですから。

 そんな無用な勘繰りが新たな苛立ちの種となって胸の内に蒔かれた頃、一軒の家を見つけました。七人の小人の家です。


 小人の家は閉め切られているのに、賑やかな声が漏れ聞こえてきます。

 できれば白雪姫が一人の時を狙いたいところですが、こんな見た目とはいえ中身は高飛車な王妃です。森の陰にひっそりと隠れて様子を窺ったり、計画に時間をかけることなどできません。彼女は自分の動きに合わせて世界が回ることだけを良しとしているのです。


 だから王妃は、小人たちの家の扉を叩きました。

 中から応じる声があります。


「なんで僕が……だれ?」


 出てきたのはエメラッドです。どうやら兄たちに命じられて渋々対応に出てきたようです。

 王妃は家に踏み込む勢いで進み出ると、一層老婆らしい声で言いました。


「ここに娘がおるじゃろ?」

「は? 突然なに?」

「だから、この家におる娘に会いたいと言うておるんじゃが」


 老婆の突然の訪問に、エメラッドは不信感を露わにした表情を浮かべます。


「ここに女の子がいたからって、お前みたいな怪しい奴には会わせないよ」


 小人の物言いを受けて、生意気な、と唇の端を噛む王妃でしたが、ここで下がっては意味がないため前もって考えていた内容を続けます。


「しかし、今日国の娘たちは林檎を食べないと災いが起きると出ておるんじゃが……」


 いかにも意味深、といった風に告げます。白雪姫をかくまっている男たちなら白雪姫の身に危険が及ぶと聞けば、慌ててその話を知りたがるだろうと踏んでいました。

 マントの端から妖しく光る瞳を覗かせ、小人が自分の思い通りに動き始める瞬間をじっくり観察しようとほくそ笑みます。

 ですが、そうはいきません。エメラッドは冷めた目を向けて言います。


「そんな魔女みたいな恰好してるのに占い師なの? っていうか、林檎を食べたら災いが食い止められるってそれ、どういう状況? もし林檎を食べたら病気になりにくいっていう話だったらお断りだけど」

「え、あ、うぅ……」


 変装に関しては頭のてっぺんからつま先まで過剰なほどに準備をしてきた王妃でしたが、まさか小人にこんな風に詰め寄られるとは思ってもいなかったため、なにも答えられませんでした。


「それに」

「……今度はなんだ」

「こんな穏やかな森の中で災いなんて起きようもない。誰かが運んで来さえしなければね」


 気付かれている、そう王妃は思います。王妃自身であることに気が付いているかは別にして、災いをもたらそうとしていることははっきりと伝わってしまっているようです。

 王妃は体の向きを変えて、災いの元を小人から見えないように隠しました。そしてそそくさと退散の意を伝えます。


「そうかい、確かにここは安全そうだ。くれぐれも気を付けてやっておやり」

「言われなくても」



 扉が閉じられると、王妃は歯噛みしながら足早に小人の家から離れていきます。

 計画を練り直さなければ、あんな厄介者だったなんて記憶にない、と老婆の姿であることも忘れて大きな足音を立てて地面を踏み固めます。

 するとどこからともなく、楽しげなハミングが聞こえてきます。


「この私が苛立っている時に、随分楽しそうじゃない。あら、この声は」


 少し道を外れると、歌声は大きくなりました。背の高い草の間からそっと覗いてみると、そこには黄色のとんがり帽をかぶった小人がいました。シトリーです。

 彼は朝食を終えてから仕事に向かうまでのわずかな時間を、森のどこかで過ごすことを日課としていました。 

 これは好都合だと王妃は急いで老婆の変装を解き、マントを裏返して身に着けます。黒いマントから赤いマントに代わると、まるで少女のような姿へと変化しました。彼女は魔女ではありませんが、この程度のことはお手の物なのです。

 そうして草を掻き分けて、小人の元へ向かいます。災いとなる真っ赤な林檎を携えて。


  

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