一章(3)
今日は生徒会がないというのに、小夜子が教室まで迎にきた。周囲が囃したてるのをものともせず、一緒に帰ることになった。やはり、あんなことがあったからなのだろうか。いつもの強気な態度ではあるが、いつもほどの元気はないように見えた。
小夜子も女の子であるし、やはり少しは怖いのだろうか。
そんなことを考えながら、まだ明るい帰路を歩く。学校からはかなり歩き、川の近くに差し掛かったとき、小夜子が土手を指差した。
「ね、あれ。二年の見上じゃない?」
指し示すほうへ目を向けると、見上がいた。彼は放送部の二年生で、昨日担当していたということもあって、朝、マスコミ部から話を聞かれていた。
それにしても、こんな学校から離れた場所でなにをしているのだろうか。遠くて良く見えないが、なにかを持っているのが見えた、
「てかさ、なにしてんの、あれ?」
小夜子は不思議そうに目を凝らす。伊織も、目を細めて凝視するが、やはりよくわからなかった。
「さぁ?」
首を傾げながらそう答えたときだった。猫の鳴き声がした。見上のほうからだ。
思わず目を逸らす。見ない方が良いということを、本能が察知していた。
「ね、そういえばさ、昨日は血文字なかったじゃん。でも猫はいた」
小夜子は少し後ずさりながら呟いた。
昨日のことや、目の前の光景のことを考えれば当然なのかもしれないが、少し足が震えている。
「そうでしたね」
伊織も返事をしながら後ずさる。見たくはないが、好奇心でふと目を向けると、見上の手には、刃物のようなキラリと光るものが握られていた。
「あのとき帰ってよかったかも」
小夜子が言うと同時に、見上が顔をあげた。こちらに顔を向ける。目が合ったような気がして、ドキりとする。
「今日もそうしよう」
そう言って、くるりと方向を変えると、見上に背を向け、走り出した。
だいぶ走り、もう見上が見えなくなるところまできた。少し走る速度を落とし、肩で息をする。
小夜子は鞄から取り出した飲み物を飲んで、一息ついている。呼吸を整えると、口を開いた。
「にしてもさ、和泉が第一容疑者だとして、見上も怪しくなってきたよね」
そう言いながら、後ろを振り返る。もう見えていない距離のはずなのに、心配そうな表情を浮かべている。しかしすぐに、笑顔をつくった。
伊織も、あまりそのことは気にせず、言葉を返す。
「もしくは二人が協力してるとか」
小夜子はしばらく何か考えているように、真剣な顔をして、息を吐いた。
「まぁそれもありえるよね」
そう言いながらも、なにか釈然としないようだ。
それもそうだ。和泉と見上が協力しているかどうかはわからないが、あんなことをするなんて、ちょっと常軌を逸している。
それにあの二人は、学年も違うし面識もないように思える。ただあの日たまたま残っていたというだけだ。怪しすぎる状況なのはその通りだが、まだ仮説の段階を出ない。
「なにはともあれ、電車賃よね!」
小夜子も同じことを思ったのか、一刻も早い裏付けが必要と思っての発言だろう。
明るい声で言う小夜子のほうを見る。拳を握って、少し口角を上げているが、不安が見え隠れしていた。
「あれ、伊織。今帰り?」
聞き慣れた声がして振り返る。自分を呼んでいた声は、兄の糸杉久美のものだった。
長身でおだやかな雰囲気を持つ久美は、伊織とは似ているようで、似ていない。似ているところといえば頭の良し悪しくらいだろう。学生時代は平均点付近をうろついていたらしい。
「あ、兄さん」
伊織がそう言うと、小夜子は驚いた様子で久美を見た。
「お兄さん!?」
瞬きを繰り返して、久美を見る。
久美のほうは、困ったように苦笑して、伊織に訊ねた。
「あれ? 伊織のお友達?」
そう言って小夜子をまじまじと見る。小夜子は少し照れた様子で下を向いた。早口で、簡単に説明する。いつもの小夜子からは想像できない豹変ぶりだ。
「えっと、三年生の空蝉小夜子です。伊織君とは、まぁお友達というか」
そんな小夜子の様子をなにを勘違いしたのか、久美はとんでもないことを言い出した。
「あ、彼女? すごいね。かわいい」
にっこりと微笑むと、伊織の背中を強く叩く。なんだか盛大な勘違いをされてしまったようだ。
「いえ、先輩は、そういうんじゃ……」
弁明しようと口を開くが、もう手遅れだった。久美は小夜子のほうを向き直ると、笑顔を浮かべた。
「あ、俺は伊織の兄の久美。よろしくね」
挨拶をして、眩しいほどの営業スマイルを見せた。
小夜子はしばらく固まって、久美を見ていたが、すぐに我に返ったのか、久美に会釈をすると、小声で伊織に耳打ちした。
「ねぇ、キミのお兄さんめっちゃかっこいいね。ほんとにロリコンなの?」
どうやら、久美のことが気に入ったようだ。髪の毛を耳にかけ、なんだかそわそわしている。
「あの、僕、兄がロリコンなんて一言も言ってないんですけど」
以前言ったのは、久美の好みが貧乳でショートカットだということだ。捉え方はそれぞれだが、勝手にロリコンとまで曲解していたのは小夜子のほうである。
「まじか。髪の毛切ろうかな」
小夜子は自身の長い髪を指でいじりながら呟いた。
まぁ小夜子は比較的貧乳の部類であるし、望みはあるんじゃないだろうか。
伊織は久美を見て、思い出したことを話す。
「そうだ。今度隣の市に行く用事があるんですけど、電車賃がなくて」
あまり会うことのない兄だ。こういうことは、直接言うものだし、今が都合が良いだろう。仕事の都合で帰ってきたのだろうし、いつまでこっちにいるのかわからない。
伊織の言葉に、久美はすぐに納得したように頷いた。
「あ、そう。デートね。わかったわかった。これでいいかな?」
そう答えて、財布から五千円札を取り出す。なんの躊躇いもなく、伊織に手渡した。
小夜子はそんな様子に、目を白黒させている。もはやデートと間違えられたことは耳に入っていないようだ。
「あ、ありがとうございます」
デートと言われたことは否定しないでおく。無難に答えて、札を自分の財布にしまった。
「ありがとうございます!」
小夜子もお礼を言い、軽く頭を下げる。
「じゃ」
久美は軽く手を挙げて、そそくさとその場を離れていった。気を利かせたつもりなのかもしれないが、勘違いもいいところなので、心苦しい。
久美が去ると、小夜子はその場でぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。
「なに、キミのお兄さん、めちゃめちゃかっこいいし、五千円くれるし。すごいね。やっぱ本物だよね」
偽札を渡してどうするんだと言いたかったがぐっとこらえる。
「あの、これ電車賃ですからね」
一応、念を押しておく。遊ぶ金としてくれたわけではないのだ。いや、デート代と思われている可能性は高いのだが、そういう問題ではない。
「二往復してもお釣りくるレベルだよ!」
伊織の意思とはおかまいなく、小夜子はテンションが上がっているようだ。おつりをどうするつもりなのだろうか。まさか、着服する気ではあるまい。
「勘違いされましたけどね」
ため息をつく。この誤解を解くのは、苦労しそうだ。
「ふふ、そこはそれ。私のテクで落としてみせる」
小夜子は誤解されたことはあまり気にしていないようだ。もっとこう……嫌がるというか、余裕がなくなると思っていたのだがそんなことはないらしい。
それにしてもやはり、久美のことを気に入ったようだ。本気なのかどうかわからないが、少なくともマイナスの感情は抱いていないらしい。
「ちなみに、余ったお金は兄に返しますよ」
あらためて念を押しておく。小夜子のこのはしゃぎようを見るに、おつりを着服しようとしてもおかしくはない。
「なに言ってんの!? 貰ったものは貰ったものだよ。気持ちを踏みにじるのは良くないよ!」
そう言って、必死に言葉を荒げる。
気持ちを踏みにじるというが、そもそも電車賃という名目で貰ったお金だ。他のことに使うほうが気持ちを踏みにじっているのではないだろうか。いや、久美はデート代と思っているから初めから色々と間違っているのだが。
「兄も大変なんですよ。今は東京のほうで忙しくしてるし」
そうだ。いつもは久美は仕事で東京にいる。普段あまり会えないのも、そのためだ。
「東京! 玉の輿のレベルが桁違いだよ」
小夜子は何を聞いてもお金のことにしか頭にないようだ。本気で玉の輿に乗るつもりなのだろうか。
「あ、そうだ。今日は先輩がキミを家まで送ってあげよう」
突然に小夜子がそんなことを言い出した。本当に、久美のことを気に入ったらしい。帰りながら久美の話を自分から聞く魂胆が見え透いている。
「あからさますぎて逆に尊敬します」
さすがにそれを拒否するわけにもいかず、すっかりいつもの調子の戻った小夜子と共に、自宅へと向かう。小夜子は、その最中もウキウキ気分を隠しきれていない。軽くスキップすらしている。
道中久美のことをあれこれ聞かれたが、歳も離れているし、そこまで伊織も久美のことを知っているわけではない。適当に相槌を打って質問を受け流していた。
「ただいまー」
玄関の扉を開けると、久美が出迎えた。まだ帰ったばかりなのか、部屋着になっていない。
「あ、おかえり。早かったね」
久美がそう答えると同時に、小夜子が外から玄関へ入る。
「こんにちは」
にっこりと笑って、わざとらしく首を傾げる。久美は戸惑った様子で、それでも接客用の笑顔を作った。
「あれ、小夜子……ちゃん。えっと、とりあえずあがって」
そう言って、伊織に客間に通すよう目配せをする。台所のほうでバタバタとせわしない音がしている。
突然の小夜子の訪問に戸惑っているのだろう。
「お邪魔します」
客間に小夜子を案内し、座布団に座る。小夜子はきょろきょろと辺りを見渡していたが、やがて大人しく座った。
お手伝いさんがお茶を出しに、部屋に来てはすぐに立ち去る。久美に言われて急いで淹れたのだろう。
「キミの家、お手伝いさんとかいるの? すごいね」
小声で小夜子がそう囁く。
「あぁ、父も母も亡くなったので。兄は東京ですし。だから雇っただけですよ」
「へぇ……」
再び辺りを見渡しながら、何度か頷いている。
「あの、顔にやけてますよ」
そんなやり取りをしているうちに、久美が客間に入ってきた。手にはなにやら皿を持っている。
「なんか、金平糖しかなかったんだけど。ごめんね、こういうことなら用意しておいたんだけど」
そう言いながら机に皿を置く。
「いえいえ、お構いなく」
小夜子はそう答えながらも、すぐにそれに手を伸ばす。
一粒手に取り口に入れる。
「おいし。なにこれ、かわいいし甘いし。私これ初めて食べたかも」
声はいつもより抑えているが、おいしさに感動しているのが丸わかりだ。テンションが上がっているのが嫌でも伝わってくる。
「金平糖知らない?」
久美は、感動で目をキラキラさせている小夜子に、怪訝な視線を向ける。
「いや、噂には聞いていたんですけど、実際口にするのは初めてといいますか」
小夜子はハッとして口ごもる。やはり家が貧乏ということは伏せておきたいことなのだろう。気にいった相手なら尚更だ。
「面白い子だね」
久美は苦笑いをしながら小夜子を見て、それから伊織のほうに視線を移す。
「二人は付き合ってどれくらいなの?」
飲んでいるお茶が気管に入るところだった。小夜子も動揺を隠しきれないようで、咳き込んでいる。
「あの、兄さん。本当に先輩とはそういうんじゃなくて――」
「そうです! それに私、年上が好きなんで」
ここぞとばかりに上目遣いをして久美を見つめている。
二人で必至に否定したので逆に勘違いされそうなほどだ。しかし久美は言葉を変に曲解しない。一応は、付き合っていないという風に理解してくれただろう。
「へぇ、そうなんだ」
久美はあまり興味なさげに答え、小夜子の顔にちらりと目を向けた。
「でも三年生だと年上いなくて大変だね。あ、でも彼氏はいるのかな?」
久美のその言葉に小夜子は、勢いよく首を横に振った。
「いえいえ、絶賛彼氏募集中ですよ!」
そう言いながら、ぱっちりとした二重の目をさらに丸くして久美のほうを見る。
「へぇ。かわいいのにね」
小夜子の小さなアピールに気付いているのかいないのか、久美はお茶をすすった。
かわいい、と言われたことが嬉しかったのか、小夜子は少し顔を赤らめた。
普段学校で噂されているときは、当然のように照れることなどないのに、意外な反応だ。
「えー、そうですか。嬉しいです」
小夜子はそう答え、今度は久美に質問をした。
「久美さんは、東京でなにをなさってるんですか?」
東京、という言葉に変に反応していたから、聞くのかもしれないとは思っていた。もっとうまく訊けばいいのに、いつもの小夜子とは違うような、少し緊張しているのかもしれない。
「え、なにそんなことも知ってるの? だめだよ伊織余計なこと言っちゃ」
伊織の方を見て冗談っぽく笑う。
「えっと、東京ではただ雇われてるだけで。普通にサラリーマンだよ」
久美は高校卒業後、東京の大学に進学したが、どういうわけか、今は休学して営業職に就いている。
伊織も詳しい話は聞いていないので知らない。
「東京の、サラリーマン」
小夜子はうっとりとした様子で空中を見つめている。なにを妄想しているのやら。
「東京って、やっぱり色々あるんですよね!」
すぐに視線を久美に戻し、かわいらしい笑顔を向ける。
都会に憧れでもあるのだろうか。たしかにこの辺では、流行りのものは都会に行かなければ手に入らないことも多い。
「色々って、まぁ、そうだけど。女の子だったらたしかに興味あるよね。洋服とかの店もあるし、金平糖もそうだけど、ケーキの専門店とかもあるよ」
「ケーキ……」
また空中を見つめ始めた。どんな妄想をしているのかわからない。どうせ、ケーキをたらふく食べているとか、そんなものだろう。
「先輩、ケーキはここでも買えますよ」
「本当に面白い子だね」
そう言いながら久美は笑う。
それから、そんな話の延長でとりとめのない話を少しばかりする。伊織は自分が場違いな存在である気がしてならなかったが、それもこれも小夜子の態度の豹変が問題だ、と自分を納得させた。
「じゃあ私はそろそろ」
小夜子は立ち上がって、頭を下げる。
「あ、帰れる? 送ってこうか?」
久美の言葉に、小夜子は今まで見たことがないくらい狼狽していた。目を泳がせ、なにか考えているようだ。
「え、あぁ。嬉しいんですけど。すぐなんで大丈夫です」
一瞬だけ迷ったようだが、すぐに答えを出したのか、早口でそう答える。
玄関まで送り出す。靴を履いた小夜子が鞄を持ち直し、にっこりと久美のほうに笑顔を向けた。
「ありがとうございました。ごちそうさまでしたー」
そう言いながら、玄関の戸を閉めて行く。まだ明るい時間だから大丈夫だろう。スキップでもしかねないほど楽しげなオーラを放っていた。
「あの子面白いね」
久美は、くすくすと笑いながら閉められた玄関の戸を見つめている。
「先輩のこと、気に入ったんですか?」
そう訊ねると、困ったように久美は笑った。
「え、うーん、美人だし、髪の毛切ったら似合うのにね」
人の性癖はそう簡単に変わらないらしい。