2:「生きる理由がなかったんだ」
ほんの一瞬の間に見知らぬ場所にいたと思ったら、そこは異世界で、既に勇者として召喚された元クラスメイトの命を繋げてほしいと頼まれた。
なんだかたった数時間のうちに起こったとは思えないあらすじだけれど、どうやらこれは現実らしい。
アドルフさんが去ったあと、私は椎名くんに促されるままソファに着席した。ほしいものはないかと尋ねられたので、遠慮なく喉が渇きましたと希望しておく。
「アドルフさんが出してくれたんだけど、流石に飲んでいいのかなぁって……」
私の言葉を聞いて、椎名くんは「僕もそうだった」とにこっと笑った。
さて。
私と向かい合わせに着席した椎名くんの両者のもとに、椎名くんが手ずからいれてくれた紅茶が用意されたところで、椎名くんは「まず謝らせてほしい」と話を切り出した。
「本当にごめん、美結さん。全部僕のせいなんだ。恨むなら、僕を恨んでほしい」
「えっ?! し、椎名くん? あの、私、まだよくわかってないんだけど……」
「…説明されてないの? どこまで聞いてる?」
「えーっと」
私は少し迷った。この世界でただひとり信用できる椎名くんに嘘をつくつもりはもちろんなかったけど、かと言って「あなたを生かすために呼ばれたようです」なんて言うのはなんとなく躊躇ってしまう。
けど、まあ、結局、私の知る限りの教えられたことはすべて話してしまった。それが一番だと思ったからだ。
「予想はしていたけど……やっぱり僕のせいだね。本当にごめん……って、謝って済むことでもないけど」
「えっと……いま話した通り、私は詳しいことは全然わかってないんだけど、聞いてもいい?」
「いいよ。なんでも聞いて」
椎名くんは話し始めてから少しも笑ってくれないので、なんだか落ち着かなかった。向こうでの椎名くんはいつも穏やかで、私に優しく笑ってくれていたから、慣れていないのだ。
だから余計に訊くのは勇気が必要だったけど、こればっかりは訊いておかなければならない。
「……帰れないの?」
「…うん。向こうからこちらへ、……わかりにくいな。地球からこちらへ、連れてくる方法はあるんだけど。こちらから地球へ行く方法は見つかってない」
「……そっか」
椎名くんはそれから、詳しく説明してくれた。
人を呼び寄せる古の魔法は、落とし穴のようなものらしい。地球から落ちてくるのは簡単だけれど、重力を無視して上へ押し上げるのは難しい、と。そういうことらしい。穴だらけの魔法なんだな。落とし穴だけに、じゃなくて。
「椎名くんを生かすために呼んだ、って言われた時点でなんとなくわかってたんだけどね。だって椎名くんを地球に帰すのがいちばん手っ取り早い方法じゃない? それができなくて、私を呼ぶってことは、そうなのかなあって」
「美結さん…」
「あと、まだ聞きたいことあるんだけど……あのね、三年前にこっちに来たって言ったよね? でも私、今日も椎名くんに会ったんだけど…」
「ああ、それは、多分僕が三年前召喚された時間とほぼ同じ時間の美結さんを連れてきてるんだと思う」
「な、なるほど…そんなこともできるんだ……」
それから、私のこれからの生活はどうなるのかとか、そういうことを細かく聞いておいた。この世界での“勇者”さまはものすごい絶対権力を持っているらしく(当たり前? 世界を救ったわけだもんね)、大抵のことは望むようにしてあげられると言っていた。衣食住を保証するとアドルフさんが言っていたなら城に住むことになるだろうと言うので、迷子になりそうだから椎名くんの近くがいいとちゃっかり希望しておいた。椎名くんは、苦笑いをしてから頷いた。
「ほんと、美結さんだね。……懐かしいや」
「え? あ、そか、三年ぶりなんだっけ」
「うん。だから、制服も懐かしい。」
椎名くんは眩しそうに目を細め、私は椎名くんの三年間に思いを馳せて胸を痛めた。私には椎名くんがいたけど、椎名くんには誰もいなかった。たぶん、突然連れてこられて、もう帰れないと言われたに違いない。
「美結さん、その、お願いがあるんだけど……」
「うん? なに? 私にできることなら」
「……この世界でもなんでもそうやって安請け合いしちゃだめだよ?」
「えと、うん。わかった」
この世界のことはまったくわからないに近いので、椎名くんの言うことを聞いておくのがいちばん良いだろう。たぶん。そう思って神妙に頷くと、椎名くんは「…それで、」と視線を伏せた。ん? なになに?
「少しだけ、抱きしめてもいい?」
「いいよ」
椎名くんの孤独は、想像するだけで指先が冷たくなる。
私たちの暮らしていた地球は、日本は、魔物なんて出ないし古の魔法なんてないし勇者なんて夢物語だ。そんな夢物語のなかにいきなり連れてこられて、誰ひとり知る人のいない世界を守るために魔王を倒せと言う。死ぬかもしれなかったはずだ、怪我なんてきっと数え切れないほどにしたはずだ。
椎名くんの背中に手を回して、ぎゅうっと力を込めて抱きしめる。なんだかよくわからないお花みたいないい匂いがする。多分、地球にはないものだろうな。
私が最初に見て王子さまみたいと称したよくわかんないかっこいいお洋服も似合っているけれど、やっぱり制服の椎名くんがいいなあと思った。もう見れないんだろうけど。
もちろん、キスやハグが挨拶な国で生まれ育ったわけじゃないので、男の子とこうやって密着しているのははずかしいのだけど。でも、それ以上に、椎名くんの孤独が悲しかった。
「あのね、今日は野田センセが…数学のおじいちゃん先生ね、覚えてる?」
「うん」
「野田センセが、ずっと孫娘が産まれたって自慢してたの。おかげで数学全然進まなかったよ、ラッキーだね」
「うん」
「あとは、ミカちゃんが彼氏ができたって言ってた。社会人なんだって、すごいよね」
「それは…すごいね」
「ね。だよね。……あと、椎名くんが……日曜日、暇なら遊びにいかない? って誘ってくれたよ」
「…うん」
「楽しみにしてたんだけど……ふたりとも、こっちに来ちゃったね?」
もしかして、椎名くんが泣いてくれるのではないかな、と思っていた。だけど、それにはまだ足りないみたいだ。きっとひとりで悲しみを誤魔化してきた椎名くんが、泣ける場所になれたらいいと思ったのだけど。
「…ねえ、椎名くん。向こうはどうなるのかな。私たち、行方不明者?」
「ううん。……美結さん、あのね。僕たちの存在は、なかったことになる」
「…なかった、こと?」
「そう。最初から存在しなかったように、記憶もなにもかもが修正されるんだ」
思わず、押し黙る。家族も友達もみんな、私のことを忘れてしまうということ?
……いいや、たぶん、もう忘れているのだ。
「じゃあ、私のことを知ってる人、もう椎名くんしかいないんだ」
「……逆も、そうだよ。美結さんが三年後の地球から来なかったのは、不幸中の幸いってやつかも」
一人っ子だったから、お父さんとお母さんには子供がいないことになるのかな。それとも、妹か弟が産まれるのかなぁ。現実的な家族を思い描いてしまったからか、どっと寂しさが押し寄せてくる。考えないようにしていた、考えられずにいた、私たちの世界。
もう家族にも、友達にも会えない。
帰れないどころか、帰ったって誰も私のことを覚えてない。
「……美結さん」
ささやく声。
椎名くんだ。椎名くんだけだ、もう本当に、椎名くんだけになってしまったんだ。
椎名くんがいてくれたことは間違いなく幸運なのに、悲しくて仕方がない。だって、だって、もう会えなくなるなんて思いもしなかったんだ。
「美結さん、いいよ。泣いていいんだよ」
「…っふ、」
「ううん、泣いて」
ぎゅうっと抱きしめていたはずの腕にさらに力を入れて、唇を噛む。いつの間にか、私が抱きとめられるような形になっていたことに気が付いたけど、もうどうでもよかった。
椎名くんが背を撫でてくれるのを感じながら、私は声を殺して泣き続けた。
泣いたってどうにもならないと思うのに、哀しみを消化する方法が泣く以外に思いつかなかった。
◇
目が覚めたら、また知らない部屋にいた。記憶を探ってどうやら泣き疲れてそのまま寝てしまったらしいことを思い出し、思わず頭を抱える。子供か。泣き疲れて眠るって、子供か!
あー、椎名くん呆れたかなぁ。
ていうか、ここどこだ。
恐る恐るベッドから出て、部屋を見回す。広いな。多分城の中だよね? この広さがデフォルトなの? お、おちつかない。
立っては見たもののどうしていいやらわからずとりあえず観察していると、扉からノックの音が響いて思わず飛び上がった。
しばらく待っても何も変わらないことに首をかしげたところ、この部屋にいるのが私だけだということに気付く。あ、私が許可出さないとだめなんだね!?
「ど、どぉぞー……」
「失礼致します」
緊張で声が若干ひっくり返ったが、スルーしてもらえたようだ。椎名くんかと思ったんだけど、流石に違ったみたい。お姫さまとは違う、女性の声だった。
「お目覚めでしたか、ミユ様」
「あ、は、はい。えと……」
現れたのは紺のワンピースに白いエプロンを合わせたメイドさんのような女性だ。亜麻色の髪を三つ編みにしている、可愛らしいお姉さん。ミユ様呼びは落ち着かないんだけど、おそらくは仕事だろうから困らせるわけにもいかない。私の立場は……えーと、お姫さまの客人か、椎名くんの客人か? そのあたりだろうか?
わたわたとおちつかない私に気が付き、メイドさんはくすっと微笑をうかべて綺麗に礼をした。
「アンネリーゼと申します、ミユ様。呼びにくいかと思いますので、どうぞリゼと」
「リゼさん?」
「ミユ様、失礼ですが御年をお聞きしても?」
「あ、えとっ、17です!」
「でしたら、同い年です。加えて、私はお仕えする身分ですから、どうぞそのままリゼと」
「あ……わ、わかりました。リゼ」
使用人? に敬称をつけるのもだめなのか。アドルフさんはよかったのかな? もうわからないけど今度椎名くんに全部聞こう。
私が慌てて頷くと、リゼさ……じゃなくて……リゼは、にこっと笑った。
「普段はミコト様付きの侍女なのですが、ミユ様のお世話を頼まれたのです。慣れないうちは侍女の数は最低限でとの言い付けですので、なんでも私に仰ってくださいね」
「あ…椎名くんの」
「はい。ミユ様は世話をされることに慣れていないだろうから、とのことでした。歳が近いことから私が選ばれたようですね」
椎名くんの心遣いにほっとする。侍女さんにどこまでお世話されるのかわからないけど、実際、私は一般家庭出身の日本人なので、やっぱり自分のことは自分でやっちゃうと思う。もしかして、椎名くんもそのことで苦労したりしたのかな?
「お食事を用意しましょうか?」
「あ、えと…今は何時ですか?」
聞いたところ、22時くらいのようだ。おそらく晩御飯の時間はすぎている……けど、お腹はすいた。
お願いしても大丈夫なんでしょうかと訊ねると、笑顔で頷いてくれた。
「では、お運びします。その前にお部屋の説明を」
「あ、は、はいっ」
ここは私が宛てがわれた部屋のようだ。
なんていうか、高級ホテルの一室、みたいなイメージ。いや、高級ホテルなんかよりよほど高級なのだけども。王国の城だもんね。
私が寝ていた寝室、それからあと二室あり、トイレやお風呂、簡易キッチンまで完備だそうな。あと、侍女さんが使う控え室のようなお部屋もあるらしい。私は椎名くんの気遣いで侍女さんはあんまりいないけど、普通は少なくても三人以上はいるらしい。お姫さまともなれば数十人単位。ひええ。
リゼが苦笑いしながら、本当は椎名くんにもそれくらいつくはずだったのだと教えてくれた。だけどいらないと言って、今はリゼを含め五人。リゼはいまここにいるので、現在は四人らしい。
庶民からすると四人どころか一人でも恐れ多いけど、やっぱりこの世界では異常なんだろう。なかなか馴染めるか不安なところだった。
この世界を、受け入れられるか。今はまだ正直、わからない。だけどもう帰る場所がない以上、受け入れるしかないのだと思う。寂しいだろうと思うし、今もうすでに寂しいけど、耐えるしかないのだ。椎名くんがいなかったら、そんなふうに思えたかはわからないけど。
リゼが運んでくれたご飯を食べながら、明日からはなにをすればいいんだろうなぁと考える。働く……とかは無理だよね。この世界のことは、椎名くんやリゼにきいて勉強できるだろうし……。
あれ? 私もしかして、すごい暇人になるのかな?
「ミユ様」
「あ、はいっ」
「ミコト様が、よければ話をしたいと。明日でも構わないそうです」
「私も話したいです」
「では、そうお伝えします。それと……よろしければ、お着替えをご用意しております」
言われて、自分の姿を見下ろす。見慣れたただの制服だけど(足元はリゼが用意してくれたスリッパ)、この世界ではきっと目立つだろう。
でも、この世界の普段着ってどんなのなんだろう……。よぎる不安を隠せないまま頷けば、リゼがクローゼットのほうまで案内してくれた。
「あ、思ったよりおとなしい……!」
ワンピースの形で、フレアが多かったりはするものの、今日のお姫さまの装いを見たあとなら全然許容範囲だ。まあ、コスプレ感は否めないけど……。どちらかといえば、民族衣装なんかに近いかも?
「どちらに致しますか?」
でも、なんというか、あの……。
「……多くない?」
「少ないほうかと思われます。残りはミユ様の好みに合わせてまた足すそうですので」
「す、少ないっ? て、ていうかこれ、誰が……?」
経費とかで落ちるのだろうか。勝手に呼んだのはこの城の人なのだから衣食住の負担くらいはしばらく面倒見てもらうつもりでいたけど、やっぱり日本人としてはこうも目の当たりにすると気が引ける。
リゼはずっと苦笑いを浮かべたままだ。なんかもうすみません。
「ミユ様の身の回りのためのものは、すべてミコト様がご用意しております。もちろん我が国から出すという話だったのですが、ミコト様が許可を出さなかったので」
「……え!? 椎名くん!?」
思わず後ずさると、リゼは笑みを深くした。どうも、椎名くんにはこの城を建てられるくらいの財産があり、むしろ城でも建てないと減らないくらいなので、本当に遠慮せず受け取ってほしいとのことだ。いやいやいや……だとしてもやっぱり、申し訳ないのだけども。
でもこの世界で私が一文無しなのは確かなので、とりあえずあとでよくよくお礼を言おう、と思った。
「じゃあ、これ、椎名くんが選んだんですか?」
「ええ。あまりこの国の貴族らしいドレスだと絶対に着ないだろうからと」
椎名くんの気遣いにはただただ感謝するばかりだ。どこまで気が回るのか……。椎名くんには足を向けて眠れない。部屋の方角もわからないけど。
「正確には、ミコト様がある程度から選別したものをすべて侍女が買って参りました」
ひ、ひぃ! 金銭感覚が狂う!!
あ、でもそれじゃあ下着などは侍女さんが選んでくれた……ってことかな? まあお金を出してくれたのは椎名くんだろうけど。うう。
結局、とても選べなかったのでいちばん近くにあったものを選んで、着替えを手伝ってもらった。はずかしいといえばはずかしかったけど、着れないものを手伝ってもらったからか羞恥心はまだマシだ。振り付けを着付けしてもらうような感覚である。
それから、リゼに案内されて部屋を出た。
さあ覚えなきゃと意気込むと、「ミユ様のお部屋はミコト様のお隣になります」というリゼの声。
……方向感覚のない異世界人に優しい!!
「どうぞ、ノックを」
「あ、うん……」
リゼは斜め後ろについていてくれた。慣れないから隣にいてほしいんだけど、がまんがまん。
ノックをすると、すぐに椎名くんの「どうぞ」という返事があったので、遠慮なく入らせてもらう。
椎名くんは、昼より寛いだ格好だった。
「こんばんは……いや、おはよう、かな? 気分は悪くない?」
「うん……あの、色々ありがとう、椎名くん」
「これくらいしか出来ないから」
椎名くんは、ふっと自嘲するみたいに笑った。それからすぐにその表情を消し、私を招き入れてくれる。リゼは、外に控えていますのでとにっこり笑って私を送り出した。
つい先程の椎名くんの表情に、なんだか疑問を覚えた。ぜんぜん、“これくらい”なんかじゃないのに。椎名くんは過小評価しすぎだ。思えば昼間の“勇者”についても、どこか含みがあるような言い方だったし。
「美結さん? どうかした?」
「え! あ、ううんっ。なんでもないよ。えーと」
「……そう?」
「うん! そう!」
誤魔化しにもならないとは思ったが、椎名くんはごまかされてくれるようだ。申し訳ないなと思ったけど、こればっかりはいくらなんでもずかずか踏み込んでいいことでもないはずだ。
「えっと、あのね。私、もしかしなくても、することない……よね?」
「そうだね。まさか城で働かせるわけにはいかないし、何かしてもらうために呼ばれたわけでもないし」
呼ばれた役目なら、一応、あるにはあったけど……。下から伺うように覗き見ると、椎名くんはにこっと笑った。
「“それ”は、美結さんがいるだけでいいことだから」
……ううん。
やっぱり、私はお姫さまやアドルフさんの目論見通り、椎名くんの枷になるらしい。でも、なんだかそれって、もやもやする。表情を曇らせる私を見て、椎名くんも首を傾げる。
「……あのね、うまくまとまらないんだけど……私、邪魔だよね?」
「…えっ? 邪魔?」
「椎名くんって、死にたかったの?」
あ、間違えた、と思った。でも、一度口に出してしまった言葉を消すことはできない。さっき誤魔化した意味がなくなっちゃう。
椎名くんはふっと息を吐くと、「そうかもしれない」と言った。
「……でも、そうじゃないかもしれない」
「ええっと…?」
「心底死にたかったわけじゃないんだよ。どう聞かされてるかわからないけど……死にたいと思ってたわけじゃない。生きる理由がなかったんだ」
ごくんと唾を飲んだ私に、椎名くんは目を合わせないままとつとつと語る。
気付いたらこの城にいたこと。
魔物に脅かされた世界だと説明を受けたこと。
そして、その魔王を討ち滅ぼすために選ばれた勇者が自分だと伝えられたこと。
魔法の使えるお姫さま、剣を使えるアドルフさん、それから“勇者さま”の三人で旅に出たこと。
そして……魔王を倒し、世界は平和を取り戻したこと。
旅の間のことは、ほとんど教えてくれなかった。だけどその表情で、私にはわかる。ごくごく平和な現代日本で生きてきた私たちには、想像も出来ないくらい過酷な旅だったんだ。そんなことくらい、考えなくてもわかる。
「世界が平和になって、この国に帰ってきて、働かなくても衣食住が保証される生活が与えられた。望んで手に入らないものはきっとほとんどないと思う。……あるのかな? 思いつかないんだ」
「……うん」
「平和になったから、やることがなくなった。働かなくても、なんでも手に入る。元の世界には帰れないし、この世界に家族はいない。友達もいない。好きなことはきっとなんだってできただろうけど、したいことだって見つからなかった」
王族って、勝手だ。
この国だけのことではないのかもしれない。地球だってそうなのかもしれない。それでも、理不尽を感じずにはいられない。
そりゃあ、国民のことを考えなければいけないのはわかる。世界に平和を取り戻さなければいけないこともわかる。“必要な犠牲”だったことも、わかる。
わかるけど、納得はできない。
だって、椎名くんはこの世界の人じゃない。この世界を救う理由も、義理もないのに、義務だけを押し付けた。選ばれたなんて、そんなこと私たちにとっては知ったことじゃないのに。知る人が誰もいない世界を救えだなんて、そんなの重すぎる。
その上、この世界を救って真実“勇者さま”になった椎名くんから、死ぬことすら奪おうとするのだ。
……ううん。奪っている。他でもないこの私が。
「椎名くんは…どう、したいの? 私、椎名くんの邪魔になってないかな。私、これ以上、椎名くんに“勇者さま”でいてほしいなんて思わない。やめたいなら、私も一緒に死ねるから」
「ま…待って待って、美結さん、早いよ! もう少し、聞いて?」
「えと……うん」
ヒートアップした私が立ち上がったせいか、椎名くんが両手を掴んでもう一度座らせてくれた。
それから、なぜか手は繋いだまま、話の続きを聞く。
「生きる理由は、確かになかったんだけど、美結さんが僕のせいでここに呼ばれたことで……色々、考えたんだ。僕のせいで、美結さんは家族や生活を奪われたのに、こういうことを言うのはどうかと思うんだけど…」
「いいよ。いいから」
「…うん。それで……美結さんがきて、初めて考えられたんだ。これからの生活のこと。あれをしようかな、とか、こういうのはどうだろう、とか、そんなふうに考えられたのはこの世界に来て初めてだったんだよ」
「……うん」
この世界に来るかどうかをもし選べるなら、私は多分、選ばなかったと思う。ここに来てよかった! なんて、言える日が来るのかも自信がない。だけど、それはもう考えても仕方のないことになってしまった。
帰る望みはもうなくて、ここで生きていくしかない。だとしたら多分、ここで魔物と戦う必要もなくて、同じ世界にいた同じ境遇の人がいて、生きていくにも困ることがないのは、とんでもなく幸運なことだろう。心底ではないけれど……そう、思うことが出来る。
出来る、けど。
「椎名くん、私……」
「うん、なに?」
「私ね……帰りたいな」
私がそう漏らすと、椎名くんは私の両手を解放して、ぎゅうっと抱きしめてくれた。びっくりして思わず固まったけど、じんわり伝わる体温にゆっくりと力がほどけていく。
「…言ってくれてよかった。美結さん、ずっと、笑っててくれたから。……ごめんね、それも僕のせいだよね」
「椎名くんのせいなんかじゃないよ。ぜんぶそう。でも……帰れないんだよね?」
「……うん」
「じゃあ……その。帰れないなら、せめて、椎名くんが…傍にいてくれる?」
この世界で私がひとりで生きていくのは、無理だと思う。
きっととかじゃなくて、絶対だ。生きる術がないのもそうだし、家族がいないのもそう。死ぬ気になれば、どうにかなるのかもしれないけど……椎名くんじゃないけれど、生きる理由がない。
進んで死のうとこそ思わないけれど、迫る死を拒もうとも思えない。
だけど、そこに。もしもそこに、椎名くんがいてくれるなら。私はきっと、この世界に慣れようとがんばれると思う。椎名くんが私の存在に意味を見出してくれるなら、それが理由になると思う。
だから、傍にいてほしい。
恐る恐る顔を上げ、椎名くんを見上げると……。
椎名くんは、笑っていた。泣きそうな顔で、微笑んでくれた。
「それは、僕の台詞だよ。……ごめんね、美結さんをここに呼んでしまったこと。謝って許されるレベルじゃないって思うけど……それでも、守るから。傍に、いてくれる?」
私は、「元勇者さまに守ってもらえるなら、怖いものなしだね!」と言ってどうにか笑い返した。また泣いてそのまま寝落ちるのは勘弁したい。
椎名くんはきょとんとしたあと、「そっか、元勇者か」と苦笑した。だけどその表情はなんだか晴れているように思えたから、私は今度こそにっこり笑った。