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幸せはどこに


 どうして?


 どうして、洋一郎さんはこんな表情をしているのでしょう。

 どうして、笑顔でお祝いをしてくれないのでしょう。


「嘘だろう?」


「いいえ、嘘じゃないわ。何度も検査し直したもの」


 重苦しい溜め息が、洋一郎さんの口から吐かれます。頭を掻きむしった洋一郎さんは、私を虚ろな目で眺めました。


「その子は、誰の子なんだ?」


「なっ、……洋一郎さんの子に決まっているでしょ!?」


 涙が滲みます。

 私は、この子は、どうしてこんなことを言われなければならないのでしょう。


「それはない」


「そんなはず……」


「それはないんだ、耀子」


 今まで黙っていて、済まない。


 洋一郎さんの口から吐かれる言葉が、未知の言語のように感じます。


 私に何を黙っていたと言うのでしょう。

 どうしてこんなことになってしまったのでしょう。


「冗談、でしょう?」


「本当なんだ」


 必死に上げようとしていた口角が、引き吊ります。


「本当なんだよ、耀子。俺は、耀子に話さなきゃいけないことがたくさんある。もっと早く話しておけば良かった」


 台所にいては聞こえにくい程の小さな声で、洋一郎さんは話し始めました。

 洋一郎さんの向かいの席に戻ろうと思っても、足が動きません。


「無精子症なんだよ、俺。子どもが出来る訳がないんだ」


「え?」


 元々、私が原因じゃなかったということでしょうか?


 ――すまなかったな、俺のせいで。本当に、すまない。お前の夢も叶えられずに。


 洋一郎さんが以前放った言葉が蘇ります。

 そういう、ことだったのですね。


「でも、治ったかも知れないじゃない」


「それはないんだ。自分で、時々検査してたから」


「検査……?」


「俺、医者なんだ」


 次々と話して……いえ、ただ呟きを漏らしている洋一郎さんの言葉に、理解がついて行きません。

 洋一郎さんは、何を言っているのでしょう?


「無精子症だとか、医者だとか、もうたくさんなんだ。だから、耀子には俺だけを見て欲しかった」


「だから……隠していたの?」


「隠したんじゃない。話すタイミングが見付からなかっただけだ」


 いつの間にか、カセットコンロの火が消えていました。

 無機質な空気がただ、そこら中を埋め尽くしています。


「でも、お前は言ったじゃないか」


 洋一郎さんがいれば、他には何もいらない――。


 私が、洋一郎さんを傷付けてしまっていたのでしょうか?

 意図的でないとは言え、私が、こんなにも深く――。


「それなのに、結婚したら子どもの話。挙げ句の果てにはそれが小さい頃からの夢だったと。そんな話聞いてないって、目の前が真っ暗になってさ。里子の話も出したけど、断られるし」


 幸せなんて、一体どこにあるのでしょう。

 私たちは、どうして幸せになれないのでしょう。


 私は、どうすれば幸せになれるのでしょう。


 私は、母を殺した医者と結婚してしまっていたのです。もちろん、洋一郎さんが私の母に直接手を下した訳ではありませんが、洋一郎さんもあの手で、私に触れたあの手で、たくさんの人を殺して来たのです。


 洋一郎さんの虚ろな目はもう、私を捉えようとはしません。


「お前まで、俺を裏切るのか」


 裏切る?

 裏切ったのは、どっちでしょう。

 私は、自分の病気について話していたのに。私は、自分の考えていることを、隠さずに話していたのに。


 裏切り者は、どっち――?


 私の夢を壊したのは、


「お前まで、俺の幸せを奪うのか」


「洋一郎さん、」


 自分の声が、こんなに低く汚く聞こえたのは初めてです。

 声を掛けても私を見向きもしない洋一郎さんを、見据えました。


「洋一郎さん、あなたさえいなければ」


 結局、この人も自分のことしか考えていなかったのです。

 早く話してくれていれば、里子のことだって前向きに考えたのに。私に原因があると思っていたから、あんなふうに振る舞ったのに。

 叶うわけのない夢を追いかけていたなんて、私はさぞ滑稽に見えたことでしょう。


 どうすれば幸せになれるのか、なんて、考えても無駄です。今まで、散々考えて来た結果がこれですから。


 私は、まな板の上に乗った鈍く光る包丁を手に取りました。


「耀子、俺、」


 私の方を振り向きもしない洋一郎さんの方へ歩き、思いきり目を瞑って、包丁を振り上げました。


「さようなら」


◇◇◇


 激痛が走ったのは分かったが、どこが痛いのかは分からなかった。ただ、全身が酷く傷み、椅子から転げ落ちた。


 妻の小さな悲鳴が聞こえる。


 あぁ、俺は、確かにこの妻を愛していたのに。

 どこをどう間違えたのだろう。


 子どもが出来ないと分かると、付き合っていた女は誰でも逃げて行った。そんな中、妻は初めて――元妻は初めて、俺を受け入れてくれた。忘れるわけもない。敬子という名前だった。俺は敬子を愛していた。でも、敬子は違った。あいつは、他に男がいた。俺はただの金づるに成り下がっていた。


 不良品の俺を必要としてくれる人など、いない――。


 絶望していた。

 でも、そんな俺を、耀子が救ってくれた。


 可憐な笑顔。

 なめらかな声。


 俺は、本当に耀子を愛していた。


 麻痺してきたのか、痛みを感じなくなってきた。

 案外、傷は浅かったのかも知れない。


「――ういちろうさん」


 ぼんやりと見える景色に、愛しい妻の顔が見えた。


「耀子」


 声が出ているのかいないのか、最早分からなかった。


「ごめんなさい」


 目の前で妻は、涙を流しているようだった。


 泣かなくていい。

 俺が悪かったんだ。

 黙っていて、本当にすまなかった。

 耀子には、俺自身だけを見て欲しかったんだ。


「洋一郎さん、私……」


 自由のきかない右手を必死で動かし、耀子の頬を流れる涙を掬った。


 幸せに出来なくて、すまない。

 でも、俺は、幸せだった。

 2人での何でもない日々が、幸せだったんだよ。


 視界が悪くなってくる。

 あぁ、もう終わりなのかも知れないな。


 誰の子か分からないけど、耀子の子なのに間違いはないのだから、2人で大切にしてやれば良かった。


「洋一郎さん、」


 遠くから、サイレンの音が聞こえる。

 聞き慣れた、救急車の音――。


「お願い、頑張って。洋一郎さん。お願い、」


 耀子、もし俺が助かったら……次は絶対に、幸せになろうな。約束する。


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