幸せへの入り口
事件です。
いえ、事件というのは相応しくないでしょうか……でも、私にとっては大事件と言っても過言ではない出来事です。
早く洋一郎さんに知らせなければなりません。知らせたいのです。ええ、間違いかと思って何度も検査し直しました。でも、何度やっても結果は変わらないのです。私のお腹に、赤ちゃんがいるのです!
あの夜、洋一郎さんと久しぶりに交わった時……あの時に違いありません。だって私、初めて人と達することが出来て……ごほん。ええ、そうです。間違いありません。
私は、赤ちゃんが出来ないのではなくて、出来にくかっただけなのです。
ああ、洋一郎さん……早く帰って来ないかしら。
今夜は洋一郎さんの大好きなお鍋です。気温もずいぶん下がって来ましたし、美味しく頂けると思います。
お野菜や豆腐を切っていると、自然と笑みが零れます。もうすぐ、夢が叶うのです! 何度も夢見たあの光景が、とうとう現実になるのです!
その間に、どんなに苦しいことが待ち受けていたとしても、耐えられる気がします。だって、私はお母さんなのですから。そうです、母親です。きっとこれからは、洋一郎さんも私を「お母さん」と呼ぶのです。
お鍋がぐつぐつと音を立て、中のお野菜もくたっと美味しそうになってきた頃、玄関を開ける音がしました。
相変わらずのタイミングの良さです。余程鼻が良いのでしょうか。
「ただいまー」
「洋一郎さん! お帰りなさい! 私、」
勢い込んで話そうとして、慌てて口をつぐみました。
この温かいお鍋を食べながら、ゆっくりと喜びを噛みしめるのも悪くありません。
「……どうした?」
「ええと、今日はお鍋ですから、早く着替えて来てくださいね」
「……あぁ」
洋一郎さんは変な顔をしていましたが、自室に着替えに行ってくれました。
やれやれ、私も困ったものです。もう子どもじゃないのですから、演出くらい考えられるはずです。おっちょこちょいが出ないように、今日は特に気を付けなければいけません。
テーブルにお皿やお箸、カセットコンロを並べた頃、洋一郎さんが戻って来ました。
男の人というのは、みんなこうなのでしょうか。本当にタイミングが良いです。それとも、計算しているのかも知れません。あれとあれとあれをやるだろうから、あと何分くらいだな……なんて。
「出来ましたよ」
ミトンを着けて、お鍋を慎重に運びます。
蓋をしたお鍋は、何度見てもわくわくさせられます。お鍋自身が、開けて開けて、と言っているみたいです。
そっとコンロの上に置き、火を着けます。蓋を開けると、真っ白な湯気がのぼります。その背後で、ぷるぷると小刻みに震えるお野菜や豆腐たちも見逃してはいけません。……あぁ、お腹が空いて来ました。
そうです。お話しするのは、お腹が落ち着いてからの方が良いかも知れません。その方が上手に、この喜ばしい出来事を報告出来ると思います。
「いただきますか」
台所に蓋とミトンを置いて、テーブルにつきました。
洋一郎さんは、不思議そうな、でも、お鍋と私の表情で、何か楽しいことがあったのだろうと分かっている顔で、私を見ています。
「あぁ」
私は、満面の笑みで手を合わせます。洋一郎さんもそれに倣って、そっと手を合わせました。
「いただきます」
さて、私の報告に洋一郎さんは、どんな反応をするでしょうか。驚くでしょうか、涙を流すでしょうか。……いえ、洋一郎さんのことですから、きっと、少し驚いた後に、笑顔でお祝いしてくれるに違いありません。今から、洋一郎さんの笑顔が目に見えるようです。
あぁ、早く洋一郎さんを驚かせたい。
期待と焦燥の入り雑じった気持ちでお鍋から具材をつぎ分け、再び椅子に座ります。
洋一郎さんは、とても美味しそうに白菜を口に運んでいます。……そうです、先に少し食べてからお話しすると決めたのですから、私もいただかなくてはなりません。
豆腐をお箸で割り、ひとかけら口に入れました。
「あふ……っ?!」
慌てて台所に水を汲みに立ち、それを飲みほします。
あぁ……やってしまいました。それにしても、洋一郎さんはどうしてあんなに平然と食べていられるのでしょう? 私はこんなに死にそうになってしまうのに。
……この子はどっちに似るのでしょう?
思わず口角が上がってしまいます。
私たちのようにおっちょこちょいでなければ良いのですが。
「大丈夫か?」
心配そうな顔で、洋一郎さんが私を見ていました。
そうでした。
舌を火傷したはずなのにニヤニヤしているなんて……まるで変人です。
「大丈夫です。ごめんなさい」
「良いんだが……猫舌なんだから気を付けろよ? それから、その……何かあったのか?」
洋一郎さんが、私を見詰めています。
……もう、言ってしまっても良いかも知れません。私も、気もそぞろで落ち着いてご飯を食べられませんし、何より、早く洋一郎さんと喜びをかみしめたいのです。
「落ち着いて聞いてくださいね?」
「あ、あぁ」
「私、……」
手に持ったままのグラスをそっと両手で包み、洋一郎さんを見詰めます。
台所に立つ私と、ダイニングテーブルにつく洋一郎さん。緊張感のある時間が流れます。
意を決して、息を吸い、口を開きます。
「私、赤ちゃんが出来たみたいです」