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幸せって


 「幸せって、何だと思う?」


 私は、俊介くんに質問をぶつけてみました。何から話せば良いのか、見当も付かなかったのです。


 お店での再会の後、ゆっくりお話ししたいのは山々でしたが、洋一郎さんが帰って来てしまうので、ほとんど時間を取ることが出来ませんでした。私がいつもの時間に家にいなければ、洋一郎さんは心配するに違いありません。


 そして今日、あれからすぐの日曜日――今日は、洋一郎さんは特別な取材があるとかで留守なのです――に、私は、俊介くんとの再会を果たしていました。

 初めてお邪魔する男性のひとり暮らしの部屋に、入る前は少し緊張していましたが、話を始めると、俊介くんは、いつもの俊介くんでした。


 彼は、地べたに座って、ソファの脚部分に寄りかかりました。テーブルが低いから、この方が落ち着くのだそうです。それに倣って、私も彼の隣に座りました。


「幸せ、ねぇ……」


 似合わない、小難しい顔で、俊介くんなりに何やら考えてくれているみたいです。……こういうところも好きでした。私の質問に、真剣に向き合ってくれるところ。


「人によって違うんじゃないか?」


 しかし、俊介くんの出した答えは、予想も出来なかったものでした。


「え?」


「だからさ、んー……、じゃあ、好きなものを目の前にすると、人は幸せになるだろ?」


「ええ」


「返事な」


「……うん」


 つい、いつもの癖が出てしまいました。俊介くんは私を叱ってはいますが、その声色は、まるで、いたずらをやめない子どもを叱るような、可愛らしい子猫を叱るような、そんな雰囲気です。なんだかくすぐったくなってしまいます。


「ん。でだな、好きなものは、人それぞれに違うわけだろ?」


「、あー……」


 なるほど、と思いました。

 好きなものは、人それぞれに違う。だから、幸せも人それぞれ――。確かにそうかも知れません。

 でも、それなら。


「じゃあ、誰にでも共通な幸せは……」


 出産、とか。

 その言葉は、言えませんでした。

 あまりにたくさんの意味を含んでしまいそうで、怖かったのです。


「そりゃあ、あるだろうな……でも、大抵の物事が、両方の側面を持ってるんじゃないか? だから、なかなか世界も平和にならないんだろ」


「そっか……」


 なるほど。

 幸せの裏側には、必ず、誰かの「幸せでない何か」がある……そんなこと、考えたこともありませんでした。


「幸せじゃないのか?」


「…………」


 つい、黙り込んでしまいます。さっきまでは気にならなかった小さな置き時計の秒針が、妙に大きな音を立てて時を刻んでいました。どれだけ時間が過ぎたか分かりません。彼が息を吐きました。


「お前にとっての幸せって、何だ?」


 私にとっての幸せ……それは、悩まなくて良いことです。昔から変わっていません。


「愛する夫と子どもたちが……リビングで、遊んでいるの。お風呂には夫が入れてくれて、それで……たまに、テレビに、夫と子どもたちがおんなじ表情で見入るのよ。私は台所に立っていて、『ご飯、出来たわよ~』って、食卓におかずを次々に並べるの。みんなが嬉しそうに食卓について、私がご飯をよそうのを待ちきれないみたいに見て、っ……ごめんなさい」


 気持ち悪いと思われたかも知れません。どう考えても喋り過ぎですし、私が夢見るこの光景は、ただの夢でしかないのですから。現実にあり得る訳がないのです。


「……その夢、叶えるか」


「え?」


 彼は、下を向いていた顔を上げ、私を見ました。


「昔から言ってたろ。幸せな家庭を築きたい、って」


「……ええ」


「だったら、もういい加減、その夢は叶って良いんじゃないか?」


「でも、」


 子どもが出来ないのは、私のせいなのです。


「まぁもちろん、嫌なら無理強いはしねぇし、俺じゃなくても選択肢は大量に……」


「……じゃない」


「え?」


「嫌じゃないよ」


 私は、彼の胸に飛び込みました。

 どうせ子どもなんか出来ないのだから、せめて、もっと愛されたい――愛されても、バチは当たらないはずです。


「俺で、良いのか?」


「構わないわ。……もう聞かないで」


 一瞬、洋一郎さんの顔が過ぎりましたが、その過ぎった顔は、図書館からの帰りに見たあの表情でした。

 私が悪いのは分かっています。分かっているのに、どうしてあんな表情をするのでしょう。


 ぎこちなく動く彼の手が、そっと私の髪を梳きました。

 今日、私がこの部屋に来てから、私の目を避けるように逸らし続けていた俊介くんが、初めて私の瞳を見詰めました。

 学生の頃のように、心臓が大きく鳴るのが分かります。――彼に伝わっていないと良いのですが。

 真っ赤な顔を見られたくなくて、私は彼に、より近付きました。そっと目を瞑ると、ゆっくりと口づけられます。


 忘れたい。その一心で、俊介くんに身を任せました。


 私は、子どもの頃からの夢を諦めるのですから、バチは当たらないはずです。

 そうですよね、洋一郎さん。


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