幸せの始まり
私たちの始まりは、1冊の小説でした。……なんて言うと、ロマンチックに聞こえてしまうかも知れませんが、私たちには昔から、浪漫の欠片もないのです。洋一郎さんがプロポーズをしてくれた時でさえ、私たちは笑っていました。
と、話が脱線してしまいましたね。始まりは、……そうです。お料理教室に行こうと、なかなか来ないバスを待っていたのです。今でも大好きな、あの小説を読みながら。
その時、私が、手を滑らせて小説を落としてしまったのです。確か、「ひゃっ」だったか、そんな声が出てしまい、洋一郎さんはその声に驚いて、「大丈夫ですかっ!」なんて……私は本を落としただけなのに。
そして、事態を把握した洋一郎さんは、真っ赤な顔で本を拾ってくれて……。人気のない田舎町のバス停ですので、それから話が弾んでしまい……え? やっぱりロマンチックじゃないか、って? そんなことありません。ふふふっ。そうだとするなら、これが唯一です。
今はお昼の2時過ぎ、洋一郎さんはお仕事です。雑誌の編集のお仕事をしている洋一郎さんは、あまり家にいません。とはいえ、きちんとお勤めを済ませて帰って来るのですから、多少の寂しさは我慢出来ます。
洗濯をして、掃除をして、洋一郎さんのカッターシャツにアイロンをかけて……色々な雑用を済ませて、メールが来ていたことを思い出しました。
『訊くの忘れてた。元気?』
携帯電話を開くと、その文が私の目に飛び込んで来ました。この間の人です。中学時代のクラスメイトで、クラスでも1、2を争う人気者でした。それなのに、私にちょっかいを出す……意味が分かりません。しかし、返信して訊くのは気が引けます。疚しいことは無いのに、なんだか、悪いことをしている気分になります。
携帯電話を閉じて、ベランダに出ます。狭いマンション暮らしですが、憧れのベランダです。ここから見る夕焼けは、涙が出る程に美しいのですが……まだお昼の2時過ぎ、それも真夏ですから、夕焼けを拝むには早すぎます。
さすが真夏、乾くのが早いです。干してからまだそんなにたっていないのにも関わらず、すっかり乾いています。全て取り込んで、それらをひとつひとつ畳みます。タオルは歪みを直しつつ、洋服は要所をきちんと合わせつつ。
私が洋一郎さんと結婚したのは、5年前。30歳の時です。29歳の時に出会って、1年と経たずに結婚したのですから、かなりのスピード婚だと思います。私は、洋一郎さんの落ち着いた雰囲気が好きでした。……また過去形になってしまいました。好きなのです。そして、寡黙なところも。洋一郎さんが私のどこに惹かれたのかは、訊いても決して答えてくれないので存じ得ませんが、でも、洋一郎さんは確かに私を愛してくれています。そういう行為ばかりに走るのではなく、静かに語り合うのを好む、その姿勢も好きです。
私は、その行為――所謂、性交、なるものがあまり好きではありません。「自分が楽しくなると、相手は楽しく感じない」というのが世の常と考えてしまうものですから、行為中に限って頭が冴え渡ってしまうのです。相手が楽しんでいるなら、自分は犠牲になっても良い。昔から、そう考えてしまうのが私です。
勿論、身体は反応します。触れられればそれ相応に濡れますし、微かな快感も無い訳ではありません。ですが、そこまでです。誰かと行為に及んで、達したことは全くありません。下腹を鈍い痛みが襲うだけです。そういう欲は、全て自分で処理して来ました。きっと、これからもそうです。
残念な女だと言われるでしょうか。女としての悦びを知らない寂しい女だと言われるでしょうか。……でも、私は、相手に喜んで貰えればそれで満足なのです。洋一郎さんが、私の上で達してくれるなら――私は、それが一番嬉しいのです。
5年も共に結婚生活を送れば、言わずもがな、そういう雰囲気になることは多々あります。ですが、私には子どもがいません。私の夢は、未だ叶っていません。
携帯電話が鳴ります。これは……メールの着信音です。
『大丈夫?』
メールへの返信は、しません。見なかったふりをして、携帯電話を閉じます。
立って、畳み終えた洗濯物を片付けます。少し急がないと、もう3時を過ぎています。そろそろ、夕飯の買い物に出なければなりません。今日の夕飯は何にしましょう……真夏とは言え、夏らしいものは、体に良くないと聞きました。何なら、ホワイトシチューにでもするのはどうでしょう。極端でしょうか。……お腹が空いて来ました。洋一郎さんに黙ってゼリーを食べてしまいましょうか……。姿見の前に立って、最近少しずつお肉の付いてきたお腹をつまみます。……我慢するのが得策のようです。
さて、早く買い物に出て、お野菜の皮剥きをしなければなりません。大好物のホワイトシチューを少し多めに食べることを楽しみに、あと何時間かを辛抱することにします。